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Shane旅日記
鉄道旅行へのいざない



特急「しらさぎ」
(名古屋 - 富山)
Limited Express "Shirasagi"
(Nagoya - Toyama)







「しらさぎ」は名古屋と北陸3県を結び、
富山へと至る特急列車です。

「しらさぎ」が登場したのは 1964年(昭和39年)10月です。
この時、東京 - 新大阪間に新幹線が開業に合わせ
北陸への接続列車として誕生しました。

この時は、車両のやりくりが間に合わず、
その年の12月25日に走り出したそうです。


その後、次第に運転歩数を増やし、現在では
名古屋 - 富山間に6往復が走っています。
そのうち、一往復は金沢で編成を分割し、
七尾線に乗り入れ、和倉温泉にも発着しています。

また、以前は「加越」という名称だった
米原と金沢の間の特急列車も
いまでは「しらさぎ」と名乗っていて、
5往復が走っています。





2003年から、特急「しらさぎ」には
JR西日本の新鋭特急用車両、
683系が使われています。



5両の基本編成に付属の3両が
併結された8両編成です。

名古屋 - 富山間を走る特急「しらさぎ」の
走行距離は315.9kmです。
これを3時間37分の所要時間で走り
評定速度は87.3km/hに達しています。

「しらさぎ」は、いつも金沢や富山に
向かう際に愛用している列車です。

この「しらさぎ」の乗車記をいくつかの
区間に分けて紹介しようと思います。



名古屋 - 米原
(Nagoya - Maibara)
Mar. 28, '10

米原 - 福井
(Maibara - Fukui)
Mar. 30, '10

福井 - 金沢
(Fukui - Kanazawa)
Apr. 02, '10

金沢 - 富山
(Kanazawa - Toyama)
NEW ! Jun. 16, '10




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名古屋 - 米原
(Nagoya - Maibara)






特急「しらさぎ」は名古屋駅の
4番線ホームから発車します。

7:50発の「しらさぎ1号」は、大垣からの
「ホームライナー大垣2号」が到着すると
そのまま折り返しますが、それ以外は
名古屋から3駅東京寄りの熱田駅の
留置線から回送されてきます。

JR西日本ご自慢の683系です。



写真左の流線型の車両が1号車のグリーン車、
写真右は名古屋 - 米原間で先頭となる8号車です。


名古屋駅を発車して、右手後方に
JRセントラルタワーズやルーセントタワーの
名古屋駅付近の高層ビルが見えています。



発車してしばらく名鉄名古屋本線と併走し、
名鉄が右手に分かれていくと、枇杷島で
JR中央本線の勝川駅に向かう
東海交通事業の城北線の高架線と
多くの線路が交錯しています。



写真は、名鉄名古屋本線・西枇杷島駅を
オーバークロスする様子です。


やがて、車窓右手に清洲城の
模擬天守が見えてきました。



清洲城の登城記は
こちらです。

その昔、織田信長がこの城から桶狭間の合戦に出陣し、
また織田信長亡き後の後継者をめぐる会議が開かれ
豊臣秀吉が実質的な後継者の地位を得た場所です。

その清洲城をあっという間に通り過ぎしばらくすると
JR貨物の稲沢貨物ターミナルが見えてきます。

その貨物ターミナルを通り過ぎると高架となり、
最初の停車駅、尾張一宮に停車しました。


車窓に色々な見所が目まぐるしく
駆け抜けていきますが、
尾張一宮を過ぎると、住宅地の合間に
田んぼも見られるようになりました。

そして、木曽川を渡りました。



木曽川を渡り、しばらく走ると
岐阜の市街地が広がり、
線路も高架になります。

車窓右手には山が連なるようになりました。
その連なる山の一つが稲葉山です。



斎藤道三や織田信長も城主となり
「国取り物語」の舞台となった
岐阜城が山頂にある山です。

岐阜城の登城記はこちらです。

信長が1555年(弘治元年)に清洲城主になってから
1567年(永禄10年)岐阜城主となるまで、12年。
「しらさぎ」はこの距離を15分程で駆け抜けました。

駅前に高層ビルも建つ岐阜を発車し、
今度は長良川を渡りました。



木曽三川の集まるこの辺りは
肥沃な穀倉地帯です。

春にはあちこちに菜の花が咲き
車窓風景を楽しませてくれます。

長良川を渡ってしばらくすると
揖斐川鉄橋を渡りました。



車窓右手に、東海道本線の鉄橋に並走して
もう一つ鉄橋が架かっています。
この鉄橋は、大垣から樽見を目指す
営業キロ34.5kmの樽見鉄道の鉄橋です。

この鉄橋は明治時代に造られ、元々は
御殿場線で使われていたそうです。


揖斐川を渡り終えると樽見鉄道の線路が寄り添い
東大垣駅のホームが見えてきました。



すぐ隣を走るJR東海道本線には、
駅はなく、大垣へと辿り着きました。

名古屋から44.0kmを30分で到着です。



大垣駅のホームは上屋を支える
古びた鉄製の柱が並び、
独特の雰囲気を醸し出しています。


名古屋からの快速電車の多くが
この大垣が終着となっていて、
ここからは関が原の峠越えになります。

名古屋地区の東海道本線に使用されている
313系電車が留置されている大垣電車区を過ぎ、
右手に美濃赤坂へ向かう線路が分岐していくと
東海道本線の下り線は山間を走るようになります。



大垣から関が原の間は25‰の急勾配になる為、
蒸気機関車が走っていた時代に、
この勾配区間の迂回線が作られました。

関が原から大垣への上り線は25‰の勾配を下り
垂井の集落を通り真っ直ぐに大垣に至っています。
近郊列車に電車が使用されるようになると
上り線に「垂井線」が併設され、快速電車や
普通電車は迂回線を通らず、
垂井経由で運転されています。



集落から離れた山間を右へ左へと
カーブを曲がりながら走るうちに
関が原の隘路が車窓左手、
前方に見えてきました。
左手に徳川家康が布陣した
桃配山が見えるようになると
大きな築堤を走るようになり、
東海道本線の上り線や
国道22号線をオーバークロスします。



その時、車窓右手遠くに石田三成が
布陣した笹尾山も遠くに見えます。


関ヶ原駅を通過すると、しばらく左手に
旧中仙道が併走するようになります。
右手には山が迫り、その山を抜けると、
新幹線をオーバークロスしました。



丁度この写真の左側には、
源義経の母、常盤御前のお墓があります。

常盤御前のお墓の様子はこちらです。

ここからはしばらく山間のカーブを
スピードを抑えながらゆっくりと走ります。

山間を抜けると柏原の駅で、
車窓右手に伊吹山が見えてきます。

線路は柏原を過ぎると大きく右に曲がり、
伊吹山を目指すように走ります。

車窓右手に伊吹山が大きく
見えるようになってきました。



冬から春先にかけては雪を抱いた
伊吹山が間近に見えるようになります。

伊吹山の手前を東海道新幹線が走り
東海道本線の中でも見所の一つだと思います。

この景色を眺めるうちに
米原到着のアナウンスが入ってきました。



米原到着前の特急「しらさぎ」の車内です。
名古屋から米原までは5割程度の
乗車率の事が多いでしょうか。


車窓右手に新幹線の線路が近づき、
留置線が見えてくると米原です。
名古屋からの79.9kmを
約1時間かけて到着しました。



この米原から北陸本線に入るため
進行方向が変わります。
特急「しらさぎ」は8分ほど停車し、
北陸本線の旅に備えます。


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米原 - 福井
(Maibara - Fukui)






特急「しらさぎ」は米原で進行方向を変え、
北陸本線に入り、富山を目指します。

停車時間中に座席の向きを変えて
発車を待ちます。

米原では、新幹線からの乗り換え客が
いつも大勢乗って来て、車内は
ほぼ満席の状態になります。


米原を発車し、新幹線をアンダークロスすると
やがて左手遠くに琵琶湖が見えてきました。



周囲には田圃が広がり、
車窓右手には伊吹山も見えています。

長浜を過ぎると、織田信長と
浅井・朝倉連合軍との合戦が行われた
姉川を渡り、しばらくすると車窓右手に
小谷城が築かれていた小谷山が見えてきます。

この辺りも歴史の香り豊かな地域です。



小谷山を過ぎた辺りの車窓風景です。
のどなか光景が広がっています。

この辺りは十一面観音を祀るお寺も多く、
一度、この辺りをゆっくり散策してみたいです。

車窓左手には賤ヶ岳が見えています。
豊臣秀吉が柴田勝家を破り
天下を手中に収めた所です。

賤ヶ岳の北側を回り込むようにカーブを切ると
余呉湖の静かな湖面が見えてきました。




この余呉湖の景色を過ぎると、
北陸本線は、日本海岸の敦賀へと
抜ける隘路を行くようになります。

蒸気機関車の時代には、余呉湖の
北にある柳ヶ瀬を超えていましたが、
今は長いトンネルでこの山間を抜けていきます。

まずは、余呉トンネルを越え、
近江塩津に抜けます。

余呉トンネルを抜けると車窓左手に
湖西線が寄り添ってきました。



湖西線の線路はのどかな車窓風景に
不釣合いな程立派な高架橋でした。

山間の近江塩津の駅を高速で通過しました。



この先で、5,170mの深坂トンネルを
抜けると新疋田駅を通過します。

新疋田駅の標高は約90m程で、
6.8km先の日本海に面した敦賀迄、
特急「しらさぎ」は勾配を下っていきます。

この勾配が急なので、上り線は
ループ線で標高差を稼いでいます。



上の図の右下の新疋田駅を出ると、
上り線が下り線の左手に移ります。



富山へ向かう「しらさぎ」の車窓左手に
高い築堤の上り線が見えています。
進むにつれ、見る見るうちに
高低差が付いていきます。

下り線は、山間の下り勾配を
単調に下っていきます。



一方上り線は、西側に聳える
衣掛山の山腹にその姿を消し、
衣掛山の周囲を一回りしています。

敦賀から北陸本線の上り列車に乗ると
この衣掛山のループ線を走っている時に
敦賀の街を高い位置から見下ろす事が出来、
いつも楽しみにしています。



この写真は、敦賀を出た上り列車が
下り線をオーバークロスし、
衣掛山のループ線に向かう様子です。


このループ線を過ぎると、敦賀に到着しました。



米原から僅か30分程で到着です。

以前は、北陸本線を走る普通列車は
本数も少なく不便でしたが、
直流電化区間が敦賀まで延長され、
今では京阪神を結ぶ新快速電車が
1時間に一本の頻度で敦賀まで走っています。

敦賀湾に浮かぶ水島の様子はこちらです。


敦賀を出ると、敦賀港へ向かう線路が左手に別れ、
直流電化から交流電化へのデッドセクションを過ぎ
全長13,870mの北陸トンネルに入りました。

北陸トンネルが開通したのは1962年(昭和37年)です。



敦賀から武生の間には海抜762mの鉢伏山がそびえ、
北陸本線は敦賀湾を見下ろす杉津駅を通り、
山中峠を越えて今庄へと達していました。
25‰の急勾配とスイッチバック駅が
4つもあり難所の一つでした。

北陸トンネルは、その難所を
ショートカットする画期的なものでした。

ところが、1972年(昭和47年)にこの北陸トンネルで
悲劇が起こってしまいます。
寝台車も連結した夜行急行「きたぐに」が
この北陸トンネルに差し掛かったところで
火災が発生し、列車がトンネル内で停車した事もあり
死者30名に達する大惨事となってしまいました。

北陸トンネルの入り口には
慰霊碑が建てられています。
(上の写真に慰霊碑が写っています)


長い北陸トンネルを抜けると
今庄の集落を抜けて行きます。



この北陸トンネルで天候が変わるのか
2010年3月に「しらさぎ」に乗った際には
トンネルを抜けると雪景色になっていました。

今庄付近は山間の小さな集落があり、
農家の裏庭の野菜畑で農作業する
農夫の姿が車窓から見えたりしています。



日野川に沿って谷を下り、
谷が次第に広がると武生です。

武生を発車してすぐ車窓左手に
福井鉄道の越前武生駅
(旧・武生新駅)が見えてきます。



武生を出て、日野川を渡ると
平地が広がります。

鯖江を過ぎると、田圃が広がり
肥沃な越前平野の光景となります。



この辺りは、春には田圃に水が張られ
秋、蕎麦の花が咲いていたりと、
日本の農村の風景がまだ残っています。


越前花堂を出て、いくつもの線路が並ぶ
南福井貨物駅を過ぎると足羽川を渡りました。



福井の街並みが広がり、
高架化された福井駅に到着しました。



名古屋から179.8km。
2時間10分ほどで到着しました。

米原から福井の間は「しらさぎ」の車窓で
最も変化に富んだ車窓風景だと思います。

この福井で、富山までの道のりの
半ばを少し過ぎたところです。

福井の様子はこちらです。
福井城の登城記はこちらです。
北ノ庄城の様子はこちらです。


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福井 - 金沢
(Fukui - Kanazawa)






高架の福井を発車すると、左手に
えちぜん鉄道の車両基地が見えてきます。

三国港へと向かう、えちぜん鉄道の
三国芦原線がオーバークロスしていくと
田圃が開けてきます。

その眺めのなか、九頭竜川を渡りました。



水量の多い流れです。

九頭竜川を渡ると、
広大な田圃が広がる平野を
まっすぐ北上していきます。

丸岡の駅を通過しました。



北陸本線の2kmほど東には
丸岡の町があるのですが、
線路は集落とは離れたところにあります。

この丸岡には2007年11月に降り立ち
丸岡城を訪れた事があります。

丸岡城の登城記はこちらです。

丸岡を過ぎても車窓には田圃が広がります。



短冊形に綺麗に区画された田圃の向こうに
白山連峰へと繋がる山々が聳え、
素晴らしい景色が広がっていました。

この景色が続くうちに芦原温泉に到着です。



有名な温泉地の最寄り駅ですが
温泉は駅から西2km程離れていて
いつもひっそりとした雰囲気です。

以前はここから三国線の線路が分岐していましたが
1972年(昭和47年)に廃止になってしまいました。


見渡す限りの田圃が広がっていた越前平野も
芦原温泉で尽き、ここからは福井・石川県境の
牛ノ谷峠を越える山間となります。



のどかな山間の風景です。

この牛ノ谷峠はそれ程険しい地形とは
思っていなかったのですが、
2010年3月に「しらさぎ」に乗った際には
この区間でも積雪があり、
予想以上に山が深いようです。



峠を越えると大聖寺です。
県境を超え、石川県に入りました。

大聖寺の町並みを過ぎ、
大聖寺川を渡りました。



のどかな雰囲気の小さな川でした。

大聖寺を過ぎると、再び
のどかな田園風景が広がりました。



この辺りは片山津温泉、山中温泉や
粟津温泉と、石川県の有名な
温泉地が散在しています。

車窓に田圃の風景が続くうちに家並みが迫り、
高架橋を走るようになると小松です。



写真は、小松の市街地の様子です。
遥か遠くに白山連峰が見えています。

小松を出ると再び田園風景となり、
やがて手取川を渡ります。



遠くに見えていた白山連峰が次第に
近くに見えるようになってきました。



2010年3月に「しらさぎ」に乗った際には
白山連峰は雪化粧していました。

田園風景に住宅地が増えてきました。



金沢に近づいてきたのを感じます。
北陸鉄道石川線との接続駅、
西金沢を過ぎ、犀川を渡る頃には
金沢市街のビル街も見えてきました。



北陸鉄道石川線の乗車記はこちらです。

名古屋から256.5kmの距離を
3時間掛けて金沢に到着しました。



金沢駅は北陸新幹線の乗り入れを控え
1990年に高架化され、中心街へと繋がる東口も
2005年に新しく整備されていました。



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金沢 - 富山
(Kanazawa - Toyama)






北陸新幹線の開業に備えて
新装なった金沢駅前の様子です。



網状の鉄骨構造の先に鳥居のような門があり、
斬新なデザインになっていました。


「しらさぎ」を金沢で下車する事も多いので、
金沢から富山の区間は、普通電車に乗った際の
写真も織り交ぜて紹介しようと思います。

金沢を発車すると右手に金沢の街並みを
眺めながら高架で走って行きます。



新幹線の高架橋も既に完成していて
しばらくすると車窓の右手の一段高い位置に
その姿を見る事が出来ました。

浅野川を渡り、新幹線の高架橋との間の
車両基地を過ぎると車窓右手に
丘陵地が近づいてきました。

しばらく走ると七尾線との
分岐駅の津幡を通過します。



この写真は普通電車の
車窓から撮ったものです。

津幡を過ぎると列車は
山間へと分け入っていきます。



木曽義仲の戦いで知られる
倶利伽羅峠越えです。

倶利伽羅峠の戦いは木曽義仲が
牛の角に松明を掲げて平家軍を急襲し、
平家軍は断崖から谷底に落ちて
壊滅したと伝えられていますが、
それ程までに急峻な崖は見当たりません。

峠の途中にある倶利伽羅駅です。



特急「しらさぎ」は一瞬のうちに走り去り
なかなかこの倶利伽羅駅の駅名標をしっかりと
見る機会は無かったのですが、2007年秋に
黒部峡谷鉄道の帰路に乗った普通電車の
車窓から、しかと眺めました。

黒部峡谷鉄道の乗車記は
こちらです。

倶利伽羅トンネルを抜けて眺める車窓風景です。



静かな農村が続いていました。
石動を過ぎると砺波平野が広がってきました。



この砺波平野は、屋敷を木々で囲った農家が
点在する散居村として知られています。
車窓からもそうした点在する農村の様子を
眺める事が出来ます。

氷見線と城端線との接続駅の
高岡を過ぎると、富山平野が広がります。

富山駅前から出ている
万葉線の乗車記はこちらです。
高岡の街の様子はこちらです。

住宅が増え、富山のビルが
見えてくると神通川を渡りました。



高山本線の線路と並走し
神通川を渡ると富山に到着です。

名古屋から315.9km、3時間50分程の旅でした。


ビルの立ち並ぶ富山駅前の様子です。



この富山からは富山地方鉄道や
富山ライトレールが接続しています。

富山地方鉄道の乗車記はこちらです。
富山ライトレールの乗車記はこちらです。

富山はこれから鉄道を中心とした
街づくりが続けられるので楽しみな街です。



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