高岡
Takaoka, Japan








高岡は、富山県の北西部に位置する富山県第二の都市です。

古来、この辺りには国府が置かれていましたが、
現在の高岡の街が形成される事になったのは
江戸時代が始まった直後の1609年(慶長14年)に
高岡城の築城が開始された以降です。

高岡城の登城記はこちらです。

高岡城は築城して僅か6年後の1615年に発令された
一国一城令によって廃城となってしまいました。

しかし、高岡の町には、その後も加賀藩の
米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ
銅器や漆器などの工芸品によって
高岡の町は栄えて行ったそうです。





市内には、重要伝統的建造物保存地区や
前田利長墓所、国宝になっている前田家
菩提寺の瑞龍寺などの見どころがあります。

2010年2月に、高岡の街を散策しました。
その際の様子を紹介しようと思います。




山町筋通り
(Yamacho Suji)
Mar. 03, '15

金屋町
(Kanayamachi)
Mar. 06, '15

高岡大仏
(Takaoka Daibutsu)
Mar. 07, '15

高岡城
(Takaoka Castle)
Oct. 15, '06

加賀藩主前田利長墓所
(Grave of Maeda Toshinaga)
Mar. 09, '15

瑞龍寺
(ZuiryuJi Temple)
NEW ! Mar. 11, '15




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山町筋通り
(Yamacho Suji)







高岡駅のほぼ真北600m程の所に山町筋という
古い土蔵の建物が残る町並みがあります。

2010年2月11日の朝、前日の夜に東京の上野から
寝台特急「北陸」で金沢に向かい、すぐの普通電車で
高岡まで引き返し、この山町筋に向かいました。

寝台特急「北陸」の乗車記は
こちらです。


7:31に金沢からの電車が高岡に到着すると
駅前から万葉線の路面電車に乗車し、
片原町の停留所で下車し、山町筋に向かいました。

万葉線の乗車記はこちらです。


片原町の交差点を北に向かい、二つ目の木船町の
交差点の角に古い趣のある建物がありました。



この交差点の東西夫々300m程が山町筋と
呼ばれ、古い建物が残っている地区です。





高岡城を築いた際、城の西に広がる一段低い土地に
町人を住まわせる為に計画的に町割りをしたそうです。

高岡城が廃城になった後には1620年(元和6年)に
第3代藩主・前田利常が、町外転出禁止を命じ、
藩の米、塩の蔵を建て、流通拠点として
住民の生業が立つ様にしたそうです。



現在、この地には96棟もの古い建物が残り、
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。


まずは木船町の交差点から東に向かいました。



この立派な土蔵の家は、富山県文化財に
指定されている筏井家住宅です。

通りの片隅には高岡郵便発祥の地の碑もありました。



明治時代以降もこの周辺が高岡の
中心地として栄えていた証でしょう。

通りに沿って、いくつも古い家が並んでいます。
下の写真右側は国の重要文化財・菅野家住宅です。



菅野家は高岡を代表する商家で、
高岡銀行を創設するなど、明治以降も
高岡の中心となって活躍した家柄の様です。

この母家は1900年(明治22年)の
高岡大火の後に再建されたようです。

高岡の町にはこの年の大火の後に
防火対策を施した家を建てるようにお達しが出され、
それ故にこの様な土蔵造りの家が多いそうです。



こちらは昭和20年まで綿布の
卸売業を営んでいた旧室崎家住宅です。
高岡市の土蔵造りの町資料館になっています。

高岡の町の絵図や模型もあるそうで
入って見たかったのですが、時間も早すぎ
中に入る事は出来ませんでした。


木船町の交差点に戻り、今度は
西側の通りに向かってみました。

この赤煉瓦の建物は富山銀行本店です。



なんでも富山県唯一の近代的西洋建築との事で、
東京駅を設計した辰野金吾氏の監修の下に
1914年(大正3年)に建てられたそうです。

その先にも、古い土蔵の家が連なっていました。



高岡郵便局の角まで来ると、重伝建地区も終わりです。
この先のNTT局の角には本陣跡の碑が立っていました。



元々は高岡城に近い宿が本陣だったようですが
1711年(正徳元年)以降、ここにあった天野屋が
本陣として使われたそうです。

またこの近くの家と家の間に石碑がありました。
津幡屋與四兵衛の碑です。



津幡屋與四兵衛は、江戸中期の18世紀後半の人です。
山町では藩から特別に許されていた曳山の
山車を各町内で持っていたようです。

與四兵衛は1775年(安永4年)、今の新湊にあった
放生津の祭りに出掛けた際、ご禁制の曳山祭りが
行われていた事で、騒動を起こし、その罪を
問われて牢獄に入れられてしまったのですが
その獄中で病を得て亡くなっています。

それ以降、高岡では、曳山の伝統を守ろうとした
英雄として、與四兵衛の霊を慰めたそうです。



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金屋町
(Kanayamachi)







山町筋から北に向かって進む事にしました。
冷たい雨が降りだしています。

高峰公園を過ぎるとお寺や
神社の多い一画になりました。



大法寺と川巴良諏訪神社です。
川巴良諏訪神社は1608年(慶長13年)に創建された神社です。

この先で千保川を渡ります。



この川を渡ったところが金屋町です。





金屋町は前田利長が奨励した鋳物造りで栄えた町です。



1609年(慶長14年)に開かれたこの街は、
高岡でも最も古い街とされ、今も千本格子の
古い町並みが残っています。

金屋町の西の外れにあったポケットパークです。



この近くには宗泉寺がありました。
この東側に、千本格子の古い家並みが続いています。



この金屋町の町並みも重要伝統的
建造物群保存地区に指定されています。



江戸時代の産業振興策として始まった高岡の
鋳物産業ですが、今でも高岡の鋳物の名は高く
銅器に至っては90%のシェアを誇るそうです。



幾度も大火の被害を受けた山町筋に比べ
この金屋町は江戸時代からの古い
家が数多く残っているとの事です。



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高岡大仏
(Takaoka Daibutsu)




金屋町の散策を終え、高岡城に向かう
途中で高岡大仏に立ち寄りました。





高岡大仏は大佛寺にある阿弥陀如来坐像です。



元々、高岡の地には1221年(承久3年)に
高さ5mの木造の仏像が造られたそうです。

高岡と氷見との間の二上山に置かれていた
その仏像を前田利家が高岡に運んだそうです。

その後、この仏像を含め、
何体もの大仏像が大火で焼失し、
その都度造り換えられてきました。



現在の大仏は1932年に完成したそうです。



高岡大仏は、日本三大仏として知られていますが
実際に見てみると、奈良や鎌倉の大仏に比べると
随分小ぶりで、お寺の境内も狭く、
あれっという感じでした。



しかし、この高岡大仏は高岡の
銅鋳造技術の粋を集めたものです。


大仏寺の鐘楼です。



この鐘は、江戸時代に時鐘として使われていたもので、
1806年(文化3年)に造られたものです。



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加賀藩主前田利長墓所
(Grave of Maeda Toshinaga)







2010年2月、高岡大仏から高岡城を巡り、
加賀藩主前田利長墓所に向かいました。





この墓所は駅の南側の住宅街の一角にありました。



鬱蒼とした杜の周囲が朽ちかけたような木の柵で覆われ、
その更に外側には小さいながら堀も築かれていました。

この景色からも威厳ある雰囲気が伝わってきます。
この堀と塀は前田利長墓所の四方すべてを囲っていました。

南側は堀幅が広くなり、墓所へ橋が架かっていました。



墓所の正面の様子です。



前田利長は、前田利家の長子で加賀藩の初代藩主です。
利家が亡くなった後、家康によって前田家滅亡の
画策があったようですが、それを回避して
加賀百万石の礎を築いています。

1614年(慶長19年)に高岡城で亡くなっています。

この墓所は利長の33回忌にあたる1646年
(正保3年)に前田利常が造営しています。

墓所には鳥居が設けられ、
利長は神として葬られています。



お墓の石塔は地表面から高さ11.9mあり、
その基壇の側面には狩野探幽下絵の
蓮華図が彫刻されているそうです。

この墓所は、とても威厳があり、また
加賀藩の当時の反映ぶりを示していました。


普段、この墓所は立ち入りが出来ないのですが
前田利長が高岡に入城した9月13日は
一般公開されるそうです。


墓所の南側の参道の先は右に折れ、
西に真っ直ぐ伸びていました。



この1km程先に、前田家菩提寺の瑞龍寺があります。



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瑞龍寺
(ZuiryuJi Temple)







前田利長墓所から西に続く道を歩いて行きました。
この道は墓所と、菩提寺だった瑞龍寺を結ぶ
長さ八丁(約870m)の道です。



当時は鬱蒼とした並木道だったようですが
今は綺麗に整備されています。

道の長さから八丁道と名前が付き石碑もありました。



また道端には前田利長の銅像もありました。



高岡の町を開き発展させた利長は
今でも高岡の人に慕われているようです。

この先に、瑞龍寺の総門が見えてきました。



住宅地となっている八丁道の景色から
瑞龍寺の参道に入ると、趣が一変します。





瑞龍寺は曹洞宗の大伽藍のお寺で、
前田利長が1594年(文禄3年)に金沢に
建立した宝円寺(後の法円寺)がその前身だそうです。

利長が、金沢から富山、更に高岡に居住地を移した為
法円寺も、高岡に移されたそうです。

加賀藩二代藩主・前田利常は利長没後に法円寺を
利長の菩提寺とし、名を瑞龍寺と改めたそうです。



総門をくぐると、広々とした境内が現れました。

利常は1640年頃の正保年間から伽藍整備に取り掛かり、
山門、仏殿、法堂などの壮大な七堂伽藍が完成したのは
着工から約20年後の1663年(寛文3年)だったようです。

目の前に迫るのは堂々とした山門です。



1746年(延享3年)の火災で焼失し、
1820年(文政3年)に再建されたものです。

山門の前から振り返って眺める総門の様子です。



境内に残雪が残り、しっとりとした佇まいです。

山門の両脇からは回廊が伸びています。
山門を背に右側に大庫裏、左側に禅堂が位置しています。



大庫裏の奥には鐘楼が建っていました。

山門の正面には仏殿が建っています。



1659年(万治2年)に竣工した総欅造りの建物です。
仏殿には釈迦、文殊、普賢の三尊が安置されています。



その姿を拝んだのですが、
それはとても神秘的でした。

仏殿の後ろには法堂が建っています。
1655年(明暦元年)に建立されています。

こちらは総檜造りです。



山門、仏殿そして法堂が一直線に並び、
回廊がぐるりと囲む伽藍配置は
中国の径山万寿寺にならったものだそうです。

瑞龍寺の建物のうち、山門と仏殿そして法堂が
1997年(平成9年)に国宝に指定されています。

この瑞龍寺も荘厳なお寺で、加賀100万石
前田家の威光を改めて実感しました。


この時は、少々急いでいたので法堂を眺めて
引き返してしまったのですが、回廊の
左奥に、実はいくつかの石廟があったのです。

5基の石廟があり、祀られているのは
前田利家、利長父子の他に、織田信長、
信長の側室そして信長の長男・信忠です。

前田家と言えば、元々利家は信長の家来でしたが
信長亡き後、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切って以来
秀吉に仕え、五大老の筆頭にまで上り詰めています。

それ故、秀吉への思いが強いのでは、と思って
いましたが、秀吉の"ひ"の字もありません。

利長の正室が信長の娘だった事もあるのでしょうが
前田家の主君は、主君を貶めた成り上がり者の
秀吉ではなく、あくまで信長であったのでしょうか。



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