福井
Fukui, Japan







福井県の県庁所在地、福井市。
朝倉氏が滅亡した後、1573年(天正3年)に越前八郡を
信長から授かった柴田勝家が北ノ庄城を築いた時から
今の福井の町並み造りが始まったようです。

1601年(慶長6年)から結城秀康が今の福井城を築き、
その城下町を形成し、福井の街は発展していきました。


2007年11月21日に北ノ庄城、福井城を訪れた際に、
福井の街の史跡も短い時間ながら立ち寄りました。

その時の様子を紹介します。


北ノ庄城の登城記は こちら です:
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/KoshinetsuHokuriku/KitanoshouJyo.html

福井城の登城記は こちら です:
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/KoshinetsuHokuriku/FukuiJyo.html

北ノ庄城から福井城
(from Kitanosho Castle to Fukui Castle)

北ノ庄城址公園のある柴田神社から
福井駅前を通り、福井城本丸跡に向かいました。

福井駅西口の福井鉄道福井駅の停留場です。
武生と福井を結ぶ福井鉄道は途中から道路との
併用軌道を走り、福井駅前まで乗り入れています。


撮影: 2018年3月

福井鉄道の乗車記はこちらです。

2016年3月に福井駅まで100m程延長されました。
上の写真は2018年3月に訪れた際のものです。

福井駅の西口は立派に整備されていました。
近い将来の北陸新幹線の延長開業に
備えて整備されたようです。


撮影: 2011年8月

駅前広場には、福井県で数多く発掘されている
恐竜にちなんだモニュメントも造られていました。


撮影: 2018年3月



福井駅を過ぎ、現在は県庁と警察署のある
福井城址は、駅から目と鼻の先です。


福井城本丸跡を囲む内堀の西側に
中央公園がありました。



この公園内には福井ゆかりの人の
銅像がいくつか立っていました。

上の写真の銅像は岡倉天心です。

美術の事は詳しくないのですが、
福井藩士を父に持つかれは、
現在の東京芸術大学の創立に貢献し、
日本美術院の創設者だったそうです。

そしてもう一つの銅像は由利公正公です。



由利公正は、幕末の頃の福井藩士です。
横井小楠の影響を受け、藩政改革に手腕を発揮し、
藩主・松平慶永(春嶽)に重用されています。

明治新政府でも参与として登用され
五箇条のご誓文の原案作成にも
携わった人ととして知られています。

坂本竜馬も2度ほど福井を訪れ、
由利公正と交流を行ったそうです。

舎人門
(Tonerimon Gate)

福井城を訪れた後に、
福井市立郷土博物館に向かいました。
この福井市立郷土博物館に隣接して
福井城の舎人門と堀や
石垣が復元されています。



舎人門は福井城外堀に
設けられた門の一つです。
木造瓦葺の高麗門形式で
復元されています。

門の脇には復元された
外堀が続いていました。



門の脇の石垣があり、
その先には土居が続いていました。

郷土歴史博物館前には、
松平慶永(春嶽)公の銅像がありました。



幕末の頃の福井藩は、開明派として知られ、
幕末の四賢侯とされた藩主・松平慶永(春嶽)の
影響で多くの人物を輩出し、「智藩」として
知られていたようです。

そのうちの一人に、橋本左内がいます。
大阪・適塾で医学を学び、福井藩医となった傍ら、
藤田東吾や西郷隆盛との交流もあり、
開明派として知られていたのですが、
安政の大獄で斬首に処せられてしまいました。

橋本左内のお墓のある、
東京・回向院の様子はこちらです。


松平慶永も政事総裁職として幕政に参画し
幕政改革に取り組む傍ら、坂本龍馬とも
繋がりがあり、龍馬が勝海舟と出会った
きっかけを作ったり、脱藩した龍馬が
土佐藩に復帰する際は松平慶永の後押しが
あったという話もあるそうです。

養浩館
(Yokoenn Garden)

郷土博物館の先には土塀が続いていました。



当時、この土塀の向こう側には
武家屋敷が並んでいたそうです。

この土塀の続く一角の先に
養浩館の庭園があります。



江戸時代には藩主・松平家の別邸庭園があった
ところで、国の名勝に指定されています。

生憎庭園の池や建物は工事中でした。



でも、照明に照らされて暗くなりかけたなか、
庭園の紅葉が浮かび上がるようでした。



新田塚
(Nitta-Tsuka Mound)

えちぜん鉄道三国芦原線の新田塚駅から1km程の
所に、駅名になっている新田塚があります。

えちぜん鉄道の乗車記はこちらです。

この新田塚が、室町時代初期の武将、
新田義貞終焉の地と伝わります。

新田義貞は、鎌倉幕府討幕の立役者で、
その後後醍醐天皇による建武新政を
足利尊氏と共に支えています。

しかしその後、足利尊氏が建武の新政に逆らうと
足利尊氏との間で争いとなり、最期は越前の
藤島の戦いで命を落としています。

その場所は長らく判っていなかったようですが、
江戸時代に入り、この地で鉄製の甲冑が
地中から発見されたそうです。


撮影: 2011年3月

その甲冑には元応元年(1319年)の元号が記され、
1660年(万治3年)に福井藩第四代藩主・松平光通公が
塚を作り、石碑を立てました。


撮影: 2011年3月

新田塚の謂れを記した碑などが立っていました。
新田義貞の遺骸は丸岡に運ばれ、
称念寺にお墓があるそうです。

西光寺
(Saikoji Temple)

福井市内から南に向かい足羽川を越えた
最初の停留所が「足羽山公園口」です。


撮影: 2011年3月

福井鉄道の乗車記はこちらです。

ここで下車し、足羽山の方に向かった
街中に西光寺がありました。


撮影: 2011年3月

西光寺は1489年(延徳元年)に創建された天台真盛宗のお寺です。
室町時代後期に一乗谷で栄華を築いた朝倉氏の第九代当主・
朝倉貞景が家臣・上田兵衛尉盛忠に命じて開山したそうです。
開山は、近江・坂本の西教寺の真盛上人です。

滋賀県大津市坂本の西教寺の様子はこちらです。
一乗谷の朝倉氏館の様子はこちらです。

柴田勝家が福井の地に北ノ庄城を築くと、西光寺も
移転しましたが、その頃は大きなお寺だったと
思うのですが、現在は区画整理されてしまった
為か、境内はこじんまりとしていました。


撮影: 2011年3月

この西光寺の境内に、北ノ庄城の城主だった
柴田勝家とお市の方のお墓がありました。


撮影: 2011年3月

柴田勝家は、織田信長の筆頭家老として信長亡き後、
覇権を秀吉と争い、賤ケ岳の戦いで敗れた後、居城の
北ノ庄城を枕に、お市の方と共に亡くなった戦国武将です。

柴田勝家の居城だった北ノ庄城の登城記はこちらです。

西光寺の境内には資料館があり、そこに
柴田勝家とお市の方の像がありました。


撮影: 2011年3月

信長の後に天下を獲るチャンスがあった勝家。
秀吉と雌雄を賭けて戦った賤ケ岳の戦いでは
前田利家の裏切りで敗れた勝家とお市の方。


撮影: 2011年3月

自刃の直前に3人の娘を秀吉に差し出したのは
さぞ無念の事だったと思います。

この像を見て、そんな思いが
伝わって来たように感じました。

境内には、柴田勝家が愛でたという梅もありました。
第二次大戦で一度は焼けてしまったそうですが、
その後また発芽したそうです。


撮影: 2011年3月

ふと足元を見ると北ノ庄城の礎石もありました。


撮影: 2011年3月

1874年(明治7年)に北ノ庄城の内堀跡を
整地した際に発掘されたものだそうです。

足羽川
(Asuwa River)

この他、福井では市街の南を
流れる足羽川の堤防に沿って
桜の並木が続いています。

写真は、北陸本線を走る
列車の車窓からの足羽川です。



日本桜100選にもなっている桜の名所だそうです。
2004年の洪水で、足羽川の堤防が決壊し、
その原因が堤防の桜並木にあるとのことで、
桜並木は堤防の片側のみとなってしまうそうです。



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