京都 / 東山
Higashiyama in Kyoto, Japan


京都、東山

比叡山から続く山の麓には、清水寺や
南禅寺、その北には慈照寺銀閣と
京都を代表する寺院が続いています。

その寺院から街中に足を踏み入れると
二寧坂、産寧坂、寧々の道、そして祇園と
古い京都の佇まいを残す小路が続いています。

小学生の頃に家族旅行以来、
何度も訪れた東山。
今でも京都というといつも
東山の様子を思い描きます。

その東山を紹介します。

清水寺
(Kiyomizu Temple)
Dec. 28, '10

産寧坂から二寧坂
(from Sannei Zaka to Ninei Zaka)
Dec. 31, '10

霊山
(Ryozen)
Jan. 07, '11

法願寺(八坂の塔)
(Hoganji Temple, Yasaka Tower)
Oct. 22, '22

高台寺
(Kodaiji Temple)
Oct. 18, '22

八坂神社
(Yasaka Shurine)
NEW ! Nov. 02, '22

祇園
(Gion Area)
Apr. 25, '21

建仁寺
(Kenninji Temple)

インクライン
(Incline)
Mar. 14, '12

南禅寺
(Nanzenji Temple)
Apr. 05, '12

禅林寺 (永観堂)
(Zenrinji Temple)

慈照寺銀閣
(Jishoji Temple, Silver Pavilion)

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清水寺
(Kiyomizu Temple)


清水寺は京都を代表するお寺です。

特に、山の斜面に競りだした舞台造りの本堂は
日本を代表する建築物と言っても過言ではないでしょう。

清水は東山の南端に近いあたりに位置しています。
京都駅からも程近く、簡単に行く事が出来ます。


地図が見られない場合は
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清水寺は小さい頃から何度も訪れています。
あまりに有名なのですが、お寺の起源はよく理解していなく、
調べてみると、778年(宝亀9年)に興福寺の僧・賢心(後の延鎮)が
音羽山の麓の滝で修行をしていた行叡居士という
修行僧に出会ったのが始まりとされているようです。

その2年後に坂上田村麻呂が修行中の賢心に山中で偶然に出会い
東国の蝦夷征伐の後に本堂や仏像を寄進したそうです。

今の伽藍が整備されたのは、江戸時代に入り
3代目将軍・徳川家光公の寄進によるものだそうです。

2008年12月、久しぶりに清水寺を訪れてみました。
京都駅からバスで向かいました。

清水道のバス停から坂道を登っていくと
通りに軒を連ねる家々の向こうに
清水寺の三重塔が見えてきました。

この坂道は茶わん坂と呼ばれています。
この道は新しく作られた参道で、
当初は八坂塔から産寧坂を上る
ルートが参道だったようです。

茶わん坂を上りきると、
仁王門のすぐ下に辿り着きました。

三重塔が赤門の後ろに聳えています。
仁王門は応仁の乱の後に再建されたもので
重要文化財に指定されています。

仁王門を過ぎ、石段を登ると西門があります。

1631年(寛永8年)に再建され、
これも重要文化財に指定されています。

そして西門を抜けると三重塔です。

この三重塔は嵯峨天皇の皇子誕生に
清水寺のご加護があったとのことで、
847年(承和14年)に建立されたそうです。

復元されたのは1632年(寛永9年)の事のようです。

三重塔の北側にはいくつかのお堂が建っています。
その一つ、随求堂です。

塔頭慈心院の本堂で、1718年
(享保3年)に再興されたものだそうです。

この周辺には随求堂以外にも経堂や
坂上田村麻呂にちなむ田村堂などがありますが
先を急いで、じっくり見ずに通り過ぎてしまいました。

訪れた日はあいにくの雨でしたが
さすがに清水寺を訪れる観光客は多く
本堂に近づくにつれ、人混みになってきました。

本堂の手前にある轟門です。

1631年(寛永8年)から1633年(寛永11年)に
かけて再建された需要文化財の門で、
東大寺の転害門を模しているそうです。

轟門をくぐるといよいよ本堂です。
本堂には本尊の千手観音が祀られており、
3基の国宝の厨子も本堂内にあるそうです。

本堂の前には、有名な舞台が広がっています。

舞楽を奉納する為の舞台だそうです。

舞台から眺める京都の街並み。

京都の西の山々に雲がかかっています。
雨模様の天気でしたが、広々とした景色で、
京都タワーがよく見えていました。

こちらは奥の院の様子です。

この奥の院も舞台造りになっています。

本堂の前に深く切れ込んでいる
錦雲渓の紅葉が綺麗です。

こちらは奥の院から眺めた本堂の様子です。

舞台や桧皮葺の屋根から突き出た
入母屋造りの翼廊が特徴的です。

本堂から三重塔へとお堂が
連なる様子も素晴らしい眺めです。

奥の院から錦雲渓へと降りていきました。

12月の初めの丁度京都の紅葉の見頃の時期で、
晴れていれば燃えるような紅葉だったと思います。

錦雲渓へと降りると音羽の滝が見えてきました。

清水寺開山の歴史に関わる由緒ある滝です。
清めの水として知られ、この滝の水を
口にする観光客でいつも賑わっています。
この滝には不動明王が祀られているそうです。

錦雲渓の南側にも子安の塔や泰産寺がありますが、
音羽の滝で清水寺の散策を終えました。

参道へと戻る途中に下から見上げる清水の舞台です。

139本もの欅の柱が建てられているそうです。
柱はもっとも長いもので12m。

このアングルで眺めると想像を超える
舞台の規模を実感する事が出来ました。

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産寧坂から二寧坂
(from Sanneizaka to Nineizaka)



清水寺から参道にあたる清水坂を下ると
右手に狭い階段が続く小路があります。

この小路が産寧坂で、この道が
元々の清水寺の参道だったそうです。



この道を辿っていくと、京の町屋が続き
八坂塔や、その先の二寧坂を抜けると
高台寺や南禅寺へと行くことが出来ます。


京都の雰囲気が色濃く残る産寧坂と二寧坂は、
重要伝統的建造物保存地区に指定されています。




清水寺から産寧坂


清水寺から表参道の
清水坂を下りました。



清水寺の仁王門を出て
振り返って撮った写真です。

この先が清水坂です。



狭い通りの両側にお土産物屋さんが建ち並び、
道一杯に観光客が溢れていました。

この通りを下っていくと、左手に五条坂が別れ、
右手に狭い石段の下り坂へと繋がる道との
交差点があります。



五条坂から清水寺に向かって建つ
古びた道標には「右 清水寺 清閑寺方面」
「左 護国神社 高臺寺方面」と記されていました。

清水寺から下って、この門を右に折れ
小さな坂道を下っていきました。



坂道には京都の町屋が連なり、
歴史を感じさせる街並みです。



この坂が産寧坂(三年坂)です。

この産寧坂を抜けると八坂塔や
高台寺、南禅寺に行くことが出来る為か
多くの観光客で賑わっていました。


産寧坂の途中に明保野亭
という料亭がありました。

この明保野亭は坂本龍馬の
京の常宿の一つと言われており、
1864年(元治元年)には新撰組が
土佐藩士を襲撃するという事件も起こりました。



但し、当時の明保野亭はこの地よりも
北東に位置していたとも伝わっています。

産寧坂を下ったところから続く小路は
この先で、霊山への参道と交わりますが
その先に進むと、道の両側には
再び京の町屋が続くようになりました。



この建物は青龍苑です。
戦国末期、北政所の甥の木下長囃子の
隠居所だったところだそうです。

先ほどの明保野亭は、江戸末期には
この近くにあったそうです。




産寧坂から二寧坂


産寧坂から続く小路は、この先で
いよいよ細くなっていきました。



お店の前を掃き清めるお店の方。



京の雰囲気に触れたように思いました。

この小路をまっすぐに歩いていくと
八坂塔(法観寺)に行き当たりますが、
この先の三叉路を右手に進むと、
再び狭い石段の道があります。



二寧坂です。

この坂が作られたのは江戸時代の
1758年(宝暦8年)のことです。
枡屋喜兵衛という人が官の許可を得て
この坂を作ったそうです。

当時はこの辺りを枡屋町と呼んでいたそうですが
産寧坂の手前の坂ということで二寧坂と
呼ばれることになったそうです。


二寧坂の上から眺めた様子です。



二寧坂を過ぎると石畳の道が続き
その両側に古い町屋が続いていました。

振り返って二寧坂を眺めた様子です。



二寧坂から続く石畳の道。
その両側の町屋の様子は
いかにも京都らしい佇まいです。

意外なことにこの景観が作られたのは
大正時代のことのようです。

二寧坂の先に、趣のある料亭がありました。



この二寧坂界隈を歩いていると
丁度舞妓さんが通りかかりました。



この情景は、とても心に残っています。



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霊山
(Ryozen)



二寧坂を下り、石畳の道を歩いていくと
霊山護国神社の大きな鳥居が見え、
参道が右手に見えてきます。



鳥居の脇に翠紅館跡がありました。
ここは幕末に頃、西本願寺の別邸でした。



1863年(文久3年)1月には土佐の武市半平太や
長州の久坂玄瑞、井上聞多らが、6月には
長州の桂小五郎や久留米藩の真木和泉守らが
会合し、攘夷の機運も高まったそうです。

ちなみに、この攘夷の運動は
同年8月18日の政変で挫折してしまいます。


ここから、「維新の道」と呼ばれた参道を歩き
霊山護国神社を目指しました。



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霊山護国神社は幕末に、明治維新を目指しながらも
その達成を見ることなく倒れた志士たちを祀る神社です。

1868年(慶応4年)に明治天皇からの詔によって
建立され当初は霊山官祭招魂社と呼ばれていたそうです。

霊山護国神社の拝殿の様子です。



この霊山護国神社の裏山に、維新で命を落とした
1,365柱の志士たちのお墓があります。

落ち葉で赤く染まる石段を上り、
彼らのお墓を目指しました。



まず向かったのは坂本龍馬と
中岡慎太郎のお墓です。

二人が襲われたのは1867年(慶応3年)11月15日。
京都河原町通四条上ルの近江屋に
滞在していた坂本龍馬を中岡慎太郎が訪れ、
会談中を刺客が襲ったのでした。

近江屋跡の様子はこちらです。



二人の墓前には多くの品々が
お供えされていて人気の高さが伺えます。

この龍馬暗殺の黒幕が誰だったかは
まだ解明されていないミステリーになっています。

龍馬が近江屋に移ったのは事件の10日前。
犯行現場の近江屋は土佐藩邸と目と鼻の先で、
何故、龍馬は安全な土佐藩邸に入らなかったのか、
近江屋に滞在していた龍馬の居場所を
実行犯がどう知りえたか、が鍵となるように思います。

坂本龍馬と中岡慎太郎の墓の前の案内板には
土佐藩士・堀内慶助の"気遣い"で近江屋に
移ったと記されていました。

お墓の脇にある二人の像です。



龍馬の脇で跪いている中岡慎太郎は
まるで家来のように見えてしまいますが
武力衝突を避けた新しい日本の幕開けを
目指した龍馬に対し、中岡慎太郎は
あくまで武力倒幕を目指しており、
二人の向かう道は異なっていました。

二人のお墓から眺める京都の街の様子です。



彼らの死後140年あまりが経ち、
ビルで埋め尽くされた京の街。
彼らの目にはどう映っているのでしょうか。


坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓の次に
向かったのは池田屋事変の犠牲者の墓です。

池田屋事変では尊皇攘夷派の志士が
新撰組に襲われ、は13人程が闘死
または自刃しています。

池田屋跡の様子はこちらです。



この池田屋事変で命を落とした若い志士達の、
いくつものお墓が整然と、そして静かに並ぶ様に
圧倒されてしまいました。

この寺田屋事変で命を落とした長州藩士・
吉田稔麿の辞世が記されていました。

"むすびても 又むすびても黒髪の
みだれそめにし 世をいかせむ"


この事変がきっかけとなり長州藩は挙兵し、
蛤御門の変へと突き進んでいきます。


禁門の変で命を落とした長州藩士達と
高杉晋作の墓がありました。



松下村塾一の人物と謂われた久坂玄瑞、
来島又兵衛、寺島忠三郎、入江九一
そして有吉熊次郎のお墓が並びます。

長州藩も激動の時代に多くの人を失いました。

そして、一番右端に立つのは
高杉晋作のお墓です。



1864年(元治元年)の第一次長州征伐の後、
長州藩は幕府恭順派が政権を握りますが
下関・功山寺で挙兵した高杉晋作は
長州藩の実権を握ると、一気に倒幕へと
流れを変えていきました。

高杉晋作が挙兵した下関の
功山寺の様子はこちらです。


この先にあった天誅組の墓です。



いくつものお墓が並ぶ様には
圧倒されてしまいました。

天誅組は19歳の公卿・中山忠光を主将に
土佐藩浪士18人、久留米藩浪士8人を中心に
結成された攘夷実行を目指したグループです。

1863年(文久3年)、大和行幸の詔が発せられると
天誅組は大和・五条の代官所を襲撃し、挙兵します。
しかし、この企ては幕府軍に鎮圧されてしまいます。

激動の幕末、多くの血なまぐさい事件がありましたが、
この天誅組の挙兵は、いま振り返ってみると
単なる暴挙としか思えません。


坂を登っていくと山口藩招魂社がありました。



幕末に命を落とした長州藩士らが祀られています。

ここの更に上には木戸孝允(桂小五郎)と
その妻・松子(幾松)のお墓がありました。



木戸孝允は明治維新の際の功績により
贈従一位勲一等を授けられ、
妻の松子も従四位を賜っています。
そんな二人に相応しい立派なお墓でした。

桂小五郎の寓居跡はこちらです。


この下に、ひっそりと佇む
品川弥次郎のお墓です。



品川弥次郎も長州藩士です。
彼は幕末を生きながらえ
1900年(明治33年)に亡くなっています。


南に向かっていくと、墓地の外れに
水戸藩招魂社がありました。



明治維新で斃れた水戸藩士
1785柱が祀られています。

水戸藩が1700人も超える死者を
出していたのかと驚くばかりですが、
このうち1074名が"元治甲子の変"で
亡くなっています。

"元治甲子の変"は1863年(文久3年)に
長州藩が挙兵した禁門の変の事ですが、
この事変で水戸藩士にこれだけの
犠牲者があったとは知りませんでした。



その元治甲子の変の戦死者の
遺骨を埋蔵した地の碑も立っています。


こうして、霊山を歩いていると、
本当に多くの人の犠牲の上に今の
世の中があるという事を痛切に感じます。

墓所を巡り、戻る途中、石段の脇に
天誅組の吉村寅太郎のお墓がありました。



周囲が赤く染まる程の落ち葉に囲まれ
ひっそりとした空間にある吉村寅太郎のお墓。

天誅組の挙兵は、虚しい敗北に終わっていますが
この綺麗な地に眠る吉村寅太郎は幸せだな、
と思いながら、この霊山の地を去りました。

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法願寺 (八坂の塔)
(Hoganji Temple, Yasaka Tower)

清水寺から産寧坂を下り、
その先の小路をまっすぐ歩いて行くと
右手に二寧坂の石段が下っていきます。

二寧坂を曲がらずに
真っ直ぐ進むと八坂の塔です。

やがて町屋の間から八坂の塔が見えてきました。
丁度、人力車を曳いた人が坂道を上ってきました。


しっとりとした京都の町屋の景色に
ゆっくりと坂道を上る人力車の情景が
似合っていました。

八坂の塔で知られるこの五重塔は
臨済宗・法観寺の堂宇という事です。

2011年にも、この八坂の塔に向かいました。
特徴的な八坂の塔は人気のスポットで、
この時も多くの観光客で賑わっていました。


撮影: 2011年11月

若い綺麗な女の人が和服姿で歩いていました。
さすがに絵になる光景でした。
結婚式の前撮りらしいカップルも目にしました。


撮影: 2011年11月

法観寺は聖徳太子が夢のお告げにより建立した
と伝わる古刹で、創建は592(崇峻天皇5年)です。

往時は興隆を極めたそうですが、今残るのはこの
五重塔の他には太子堂、薬師堂だけだそうです。


撮影: 2011年11月

法願寺は何度も火災に遭ったそうですが、
今の塔は1440年(永享12年)に足利義教が
再建したものだそうです。

八坂の塔の高さは46mです。
舞妓さんの姿がよく似合う八坂の塔。
白鳳時代の様子を今に伝えています。

八坂の塔を過ぎ、八坂通りを西に下っていきます。
道の両側に京料理のお店がありました。

八坂通りを下り、振り向いて眺めた八坂の塔です。


撮影: 2011年11月

夕暮れの八坂の塔の景観も心に残る景色でした。

八坂の塔は、高台寺に向かう坂からもよく見えていました。


撮影: 2011年11月

今から10年も前の写真ですが、
今でも心に残る光景です。

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高台寺
(Kodaiji Temple)

円山公園の南側には
立派なお屋敷造りの料亭が
いくつも建ち並んでいる一角があります。


撮影: 2004年8月

趣のある路がこの界隈を結んでいます。
この小路が"ねねの道"と呼ばれています。


撮影: 2011年11月

立派な門構えの料亭が続いています。
一見さんには、敷居が高そうな感じです。

夕暮れ時、観光客の姿もまばらでした。

この"ねねの道"を南に歩いていくと、
圓徳院があります。


撮影: 2011年11月

圓徳院は、高台寺の塔頭で、江戸時代初期に
秀吉の正室・北政所が、1606年(慶応11年)から
亡くなる1624年(寛永元年)まで余生を送った場所です。

元々この場所には岩栖院というお寺があったそうですが、
そのお寺を南禅寺の塔頭として移転させ、その跡地に
高台寺と北政所の屋敷を造営したそうです。

この先に、塔頭の月真院がありました。


撮影: 2011年11月

ここも高台寺の塔頭です。
1616年(元和2年)に北政所の従弟・久林玄昌が
建立した宿坊で幕末の1867年(慶応3年)6月に
新選組の伊東甲子太郎をはじめとする15名が、
この月真院を屯所としています。

伊東甲子太郎らと近藤勇は意見の対立があったようですが、
近藤勇や土方歳三らは、1867年(慶応3年)11月18日に
伊東甲子太郎を酒席に誘い、その宴が終わった帰りの
伊東甲子太郎を襲い、謀殺しています。

更にその遺骸を晒し、引き取りに来た伊東甲子太郎の
同士も皆殺しにしたと伝わっています。

伊東甲子太郎が謀殺された
油小路通の散策記は こちらです。

新選組はテロ集団そのもので、このような集団が
早晩、歴史から消えたのは宜なるかなと思います。

こうして高台寺にたどり着きました。

方丈や秀吉や北政所が祀られている
霊屋などのある高台寺の主要な伽藍へは、
この先の台所坂を上ってきます。

思いがけず急な坂道を登っていくと、
周囲の視界が開け、法願寺の八坂塔が
夕暮れの空に聳えていました。


撮影: 2011年11月

坂道を登り、辿り着いた高台寺の庫裡です。


撮影: 2011年11月

受付を済ませ、拝願順路に従って、
庫裡の裏にある遺芳庵に向かいました。


撮影: 2011年11月

江戸時代初期の近江商人・灰屋紹益が夫人の
吉野太夫を偲んで建てたもの伝わります。
しかし、建物の年代がそこまで遡らず、
後世に建てられたものだそうです。

遺芳庵から次は方丈に向かいます。


撮影: 2011年11月

その途中、偃月池越しに開山堂を眺めました。
この開山堂は、後ほど訪れます。

次に訪れたのは、方丈です。
高台寺の創建当時の方丈は伏見城の遺構でした。
方丈はその後焼失してしまい、現在の建物は
1912年(大正元年)に再建されています。

この方丈での見どころは方丈前庭園です。
龍が舞うように造形された石庭でした。


撮影: 2011年11月

この後、方丈から開山堂に向かいました。
まず、中門をくぐりました。


撮影: 2011年11月

中門をくぐった奥に開山堂があります。
1605年(慶長10年)に高台院が建立しています。


撮影: 2011年11月

何度も火災に遭った高台寺ですが、
この開山堂は創建当時のまま残り、
国の重要文化財に指定されています。
赤く色づいた楓とよくマッチしていました。

高台寺の東側は一段高くなっています。
その高台に建つ霊屋に向かって、高台への
傾斜に合わせて廻廊が設けられています。


撮影: 2011年11月

傾斜に沿った形が龍に見える事から、
この廻廊は臥龍廊と呼ばれています。

臥龍廊の先には霊屋があります。


撮影: 2011年11月

霊屋は、北政所(高台院)の廟所です。
霊屋には、秀吉と高台院の像が安置されていますが、
高台院の像の下に、高台院の遺骸が眠っているそうです。

霊屋の更に奥には、傘亭と時雨亭という
二つの茶室が建っています。


撮影: 2011年11月

二つの茶室とも、伏見城に建てられていたものを
移築したもので、重要文化財に指定されています。

時雨亭は珍しく2階建ての茶室です。
大坂の陣で大坂城が落城した際、高台院は、
この時雨亭から燃える大坂城を眺めていたそうです。

豊臣家の滅亡をどのような思いで眺めていた事でしょうか。

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八坂神社
(Yasaka Shrine)

八坂神社は、四条通を東に向かい、南座を過ぎ600m程
更に東に行った所にある丘陵地の端にある神社です。

神社の前を通る東大路に面して建つ西楼門の様子です。
応仁の乱の後、1497年(明応6年)に再建されています。


撮影: 2011年11月

八坂神社は明治の神仏別離の折に今の名称になって
いますが、それ以前は祇園神社と呼ばれていました。

創建は古く、876年(貞観18年)に南都の僧・円如が
当地にお堂を建立した事が始まりとする説や、
656年(斉明天皇2年)に高句麗から渡来した
調進副使・伊利之使主の創建とも伝わります。

西楼門をくぐり境内に入ると、中央に舞殿があり、
その左手(北側)に本殿があります。
本殿には牛頭天王が祀られているそうです。


撮影: 2011年11月

左手の舞殿は1903年(明治36年)に建立されています。
右手の本殿は1654年(承応3年)に徳川家綱によって
再建されており、国宝に指定されています。

本殿以外の建物もほぼすべての建物が
重要文化財に指定されています。


撮影: 2011年11月

明治も半ば以降に建てられた舞殿ですが、
これも重要文化財に指定されています。

舞殿の南、南楼門の脇にあった斎殿です。


撮影: 2011年11月

こちらは神社の事務所のような役割の
建物のようで、文化財ではありません。

八坂神社の境内には重要文化財に指定された
摂社がいくつもあるのですが、それらは
見落としてしまっています。

舞殿の南、斎殿の隣には南楼門があります。
八坂神社の正門にあたり、1879年(明治12年)に
再建され、国の重要文化財に指定されています。


撮影: 2011年11月

南楼門から更に南に石鳥居があります。


撮影: 2011年11月

八坂神社の境内は比較的コンパクトでした。
このそれ程広くはない境内に、いつも
多くの観光客が訪れ、賑わっています。

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祇園
(Gion)

祇園は広く知られた京都の歓楽街です。

元々は鴨川まで八坂神社の境内で、江戸時代には
八坂神社が祇園社と呼ばれていた事から、八坂神社の
西側の地域は祇園と呼ばれるようになったようです。

この祇園には、四条通を隔てて北側に祇園新橋、
南側に西花見小路と、当時の面影を残す
二つの町並みが残っています。

祇園新橋

京阪電鉄の祇園四条駅から北に向かうと
直ぐに北座跡がありました。


撮影: 2011年8月

1670年(寛文10年)に鴨川の両岸に堤が築かれ、
それによって生まれた新しい造成地に
芝居街と茶屋町が出来たそうです。

最盛期の元禄時代には7軒の芝居小屋が出来た
そうですが、度重なる大火で明治に入った
19世紀後半には北側に一軒、南側に一軒が
残るのみとなり、北側の一軒も1894年
(明治26年)に廃止になったそうです。

北座跡から更に北に進むと、白川が流れてます。
白川に沿って東に向かうと古い町並みになりました。


撮影: 2011年8月

白川の畔には柳の木が並び、風情のある景色です。

白川に沿う道の両側に料亭が並んでいます。
白川の向こう側にあるお店には、
橋が架かっています。


撮影: 2011年8月

白川に沿って建つ町屋造りの建物の様子です。


撮影: 2011年8月

この辺りは、こうした建物ばかりで、
時が戻ったかのように感じました。

しばらく歩いて行くと、白川に架かる
祇園巽橋の畔に辿り着きました。


撮影: 2011年8月

辰巳大明神のすぐ近くで、道の脇にも
朱色の柵が並んでいます。

祇園巽橋から眺める白川の様子は、とても
大都市の街中とは思えないものでした。
川にはアオサギも佇んでいました。


撮影: 2011年8月

祇園巽橋を渡り、細い路地を少し歩いてみました。
竹矢来が続き、いかにも京都といった佇まいです。


撮影: 2011年8月

狭い路地を途中で引き返し、祇園巽橋の
先にある祇園新橋からの眺めです。


撮影: 2011年8月

祇園新橋の先も、白川に沿って
町屋の建物が続いていました。
祇園新橋から、西に引き返します。

祇園新橋と祇園巽橋の近くにある
辰巳大明神の神社です。


撮影: 2011年8月

御所の辰巳の方角(東南)を護る神社で、
祇園の芸妓や舞妓が芸事の上達を
願う神として崇めているそうです。

辰巳大明神の北側を通る新橋筋に
沿っても古い町屋が続いていました。


撮影: 2011年8月

上右の写真の一番手前の建物は、元々は井筒屋という
お茶屋で、幕末には長州藩の高杉晋作が訪れ、贔屓に
していた芸妓の小梨花と遊んだと伝わっています。

高杉晋作の生家のある萩の様子はこちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Chugoku/Hagi.html

この祇園新橋を訪れたのは、夕方の5時半頃でした。
お店の前に灯りがともされ、その光が輝きを増し
始める頃でしたが、観光客の姿も少なく、
料亭を訪れる人の姿も見かけませんでした。


撮影: 2011年8月

白川沿いの白川筋と、この新橋筋は、当時の祇園の様子を
今に残している為、1976年(昭和51年)に重要伝統的建造物
群保存地区に指定され、1989年(平成元年)には京都市から
第一回京都市都市景観賞を受賞しているそうです。

この祇園新橋を訪れた日の夜、参加していた
学会のパーティがあり、その席で芸妓さんと
舞子さんの踊りが行われました。


撮影: 2011年8月

芸子さんと舞子さんの姿やその所作は
さすがに美しく、日本の美を感じました。

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インクライン
(Incline)



京都地下鉄東西線の蹴上駅で下車し、
南禅寺へと向かう小路へと向かいました。

京都地下鉄東西線に乗り入れる
京阪電鉄京津線の乗車記はこちらです。



地図が見られない場合は
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山科へと向かう国道の脇に
煉瓦造りの小さなトンネルがありました。



人が通れるように造られた小さなトンネルは
国道に沿った築堤に掘られたもので、
トンネルの向こうには宅地が続いています。



トンネルの上に続く急勾配の築堤にインクライン
(傾斜鉄道)と呼ばれる鉄道の跡がありました。



築堤に上ると、複線の広い軌道が敷かれていました。

この鉄道は、1894年(明治27年)に琵琶湖疏水が通じた際、
船を台車に載せて昇降させる目的で作られました。


まずは築堤の勾配を上ってみました。



勾配を上ると、琵琶湖疏水が流れていました。

2,400mものトンネルを堀り、
琵琶湖の水を京都に運んでいます。


琵琶湖からの水は、ここで2つに分けられ
一つは導水管で山の斜面を下り鴨川へ、
もう一つは山を北側に向かいます。

麓へと続く導水管です。



この導水管の水で発電した電力を
インクラインを上り下りする台車の
動力源にしたそうです。


水路を眺めた後、線路に
沿って斜面を下ってみました。

斜面の途中には当時の台車が置かれていました。



この台車に船を載せて、勾配を上下していたのです。
丁度、ケーブルカーと同じような仕組みだったようです。

インクラインの線路は勾配を下り、
南禅寺前の交差点で道路の下をくぐり、
その先の京都動物園のところで
運河に辿り着いていました。



このインクラインは船による物資の
輸送だけでなく人も行き来したそうです。

最盛期の1911年(明治44年)には
計13万人もの人を輸送したそうです。



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南禅寺
(Nanzenji Temple)







南禅寺は臨済宗南禅寺派大本山の寺院です。
京都五山や鎌倉五山の別格とされ、日本の禅寺で
最も高い格式を有するお寺とされています。



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南禅寺は、亀山天皇が1264年(文永元年)に
禅林寺殿という離宮を造営し、1291年(正応4年)に、
この離宮を龍安山禅林禅寺とした事に始まっています。

無関普門が南禅寺の開山とされていますが、
程なく亡くなったので、二世住職の規庵祖円が
伽藍を整え、太平興国南禅禅寺と寺号を改めたそうです。

境内には国宝の大方丈・小方丈を初め、
多くの建物が並び、また周囲には
多くの塔頭が残っています。


この南禅寺の様子を紹介します。



勅使門〜三門
Mar. 22, '12

本坊〜方丈
NEW ! Apr. 05, '12

南禅寺水路閣
Mar. 28, '12

金地院
Mar. 18, '12

天授庵
Mar. 24, '12

南禅院
Mar. 31, '12




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勅使門〜三門


蹴上から情緒ある集落を抜け、
塔頭の一つである金地院を過ぎると
南禅寺中門の前に出ました。

金地院の様子はこちらです。



1601年(慶長6年)に伏見城松井邸の門が
勅使門として寄進されたものです。

南禅寺は、境内の伽藍配置が
東西方向になっており、この中門は、
南禅寺の主要な伽藍である七堂伽藍の
西の入り口になっています。

中門の西側にはいくつかの塔頭が
ありますが、中門を抜けると
広大な境内が広がっていました。

中門のすぐ北隣にあるのが勅使門です。



檜皮葺きの重厚なこの門は
1641年(寛永18年)に明正天皇が
御所の日の御門を下賜されたものです。

それまでの勅使門が南側に移され、
今の中門となっています。

勅使門から東に幅の広い参道が伸び
その先に三門、法堂が配置されています。


広い参道を歩いて行くと、見上げるような
堂々とした三門がその姿を見せていました。



"三門"は、三解脱門を略した呼び方ですが、
これは悟りに至る為に透過しなければならない
空、無相、無作という三つの関門を表しているそうです。

高校生の時に、初めて南禅寺を訪れ、
この三門に圧倒されて以来、
ここには何度も足を運んでいます。

改めて眺める三門にもやはり
圧倒的な存在感を感じました。



三門越しに眺める境内の様子です。

南禅寺の三門は、1295年(永仁3年)に西園寺実兼の
寄進で創建され、1370年頃に改築されています。

その新しい三門も1444年(文永4年)に焼失してしまい、
現在の三門は1628年(寛永5年)に藤堂高虎が再建しています。



この三門は「天下竜門」とも呼ばれ、
国の重要文化財に指定されています。

歌舞伎では、石川五右衛門がこの三門に上り
「絶景かな」と大見得を切る場面があるそうですが、
先ほどの通り、石川五右衛門が生きていた時代には
この三門は存在していなかった事になります。


三門を抜け、更に東に向かうと
一際大きな法堂が見えてきました。

法式行事や公式の法要が行われる
南禅寺の中心となる建物です。



法堂は応仁・文明の乱の後に復興された
法堂は惜しくも1893年(明治26年)に焼失し、
1909年(明治42年)に再建されています。



この法堂も圧倒的な存在感でした。



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本坊〜方丈


勅使門から三門、そして法堂と進み、
更に南禅寺の奥に向かいます。



緩やかな坂道を、小さな石段をいくつか
挟み東山の山懐へといざなう参道です。

夕暮れ、この参道は他に人もおらず、
ひっそりとしていました。

この参道の先に、南禅寺本坊がありました。



上の写真、右は庫裡、左は本坊の大玄関の様子です。
白壁に木組みの庫裡は禅寺の趣が伝わりますが、
大玄関は唐風で宮殿建築の佇まいです。


この本坊の左手に南禅寺方丈があります。
南禅寺方丈は大方丈と小方丈からなっています。




大方丈は1611年(慶長16年)に御所内裏の
清涼殿を移築したものと伝わり、
国宝に指定されています。

京都御所の様子はこちらです。


その北隣の小方丈は、伏見城の遺構と云われ、
こちらも国宝に指定されています。

塀越しに眺める国宝・南禅寺大方丈の様子です。



この左隣に小方丈がある筈ですが、
ここを訪れた際には、その位置関係が良く
判っておらず写真が残っていませんでした。

またの機会にその様子をカメラに
収めてみたいと思います。


本坊の庫裡から中に入り、方丈を目指しました。



大方丈の手前に清楚な庭園がありました。
小堀遠州と伝わる方丈前庭園です。



江戸時代初期の代表的な枯山水庭園です。

方丈に沿って東西に細長く造られた庭園ですが
本坊やその向こうの東山を借景に造られ
奥行きを感じます。

この方丈前庭園の奥にも小さな
枯山水の庭園がありました。



こちらは小方丈庭園です。

この庭園は、解脱した心を著すかのように
白砂に"心"の字に石が配置されているそうですが、
残念ながら、それは見ていてもわかりませんでした。


小方丈庭園からは、杉苔が生い
茂る六道庭へと続いていました。



仏教の六道輪廻の教えに基ずく
世界観が表現されているという事です。

杉苔の緑が印象的な庭でした。

方丈から龍渕閣へと至る廊下が続いていました。



そこから眺める柿噴きの建物が伏見城の
移築建造物と伝わる小方丈でしょうか。

庭園の傍らに大きな硯石が置かれていました。



微かに紅を帯びたこの石は紅縞石と
呼ばれ、とても貴重な石だそうです。

龍渕閣へと続く渡り廊下を歩いて行きました。



廊下の周囲には落ち着いた
庭園が続いています。

南禅寺垣で囲われたこの庭園は
華厳の庭と呼ばれています。



夕暮れ近い方丈では静かに
庭園の佇まいを味わう事が出来ました。



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南禅寺水路閣


南禅寺法堂からさらに東に向かうと
右側の木々の向こうに煉瓦の
アーチ橋が見えてきます。



このアーチ橋が水路閣です。

水路閣は琵琶湖疏水が流れる水路橋です。
延長93.17mもの、このアーチ橋は
1890年(明治23年)に完成しています。



洋風のアーチ橋ですが、南禅寺の
佇まいに上手くマッチしているようです。



間近で眺める水路閣は堂々としていました。

水路閣を抜けたところに
あった最勝院の石碑です。



最勝院は水路閣の奥にあり、
南禅寺の塔頭の一つです。

この時には訪れなかったので、
いつか行ってみたいものです。


この水路閣には、脇から上る事が出来ます。



琵琶湖からの水が勢いよく流れていました。
120年以上続く琵琶湖疏水の流れです。



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金地院


金地院は南禅寺の塔頭の一つです。
開山は1400年頃の応永年間と伝わります。

元々は洛北の鷹ケ峯にあったそうですが、
1605年(慶長10年)に以心崇伝がこの地に
移して再興したそうです。

以心崇伝は、大坂冬の陣の契機と
なった方広寺梵鐘事件に関わったり、
徳川家康、秀忠、家光の三代に亘り仕え、
黒衣の宰相と呼ばれています。


蹴上駅からインクライン下の煉瓦のトンネルをくぐり、
北に向かうと通りに面して金地院がありました。




大門から境内に入りました。



門をくぐると正面に大きな
庫裡が見えていました。



この庫裡の左手に明智門がありました。

明智門は1582年(天正10年)に
明智光秀が大徳寺に建立したものですが、
1868年(明治元年)に移築されたものだそうです。



確か、明智光秀は天王山の戦いの後に死なずに
金地院崇伝のライバルだった南光坊天海だったという
異説があるそうですが、ライバルと目された崇伝が
再興したお寺に移築されるとは何かの縁なのでしょうか。

明智光秀が落ち武者狩りの土民に
斃されたとされる小栗栖はこちらです。


明智門をくぐると、弁天池が見えてきました。



盛りを過ぎていますが、いくつか
咲いたツツジが綺麗でした。

池の奥に架かる石橋は岡山藩
2代藩主の池田忠雄公寄進だそうです。


弁天池を眺めながら進んでいくと
方丈が現れました。



この方丈は、伏見城の殿舎を
1611年(慶長16年)に移築したと伝わります。

その方丈には、小堀遠州作の「鶴亀の庭」がありました。
白砂を海に、背景の丘を蓬莱連山に見立て、
鶴島と亀島を配しています。



小堀遠州作と伝わる庭園はいくつかあるようですが
はっきり確認されたものは、この庭だけだそうです。

方丈の中から開け放たれた障子越しに眺める庭園は
額縁に入った一幅の絵のような佇まいでした。




方丈庭園をしばらく眺めた後に
境内にある東照宮にお参りに行きました。
東照宮へと向かう途中の境内の様子です。



苔が生い茂り、静かな境内の佇まいでした。

まず、通りに面して建つ神門を眺めました。



この写真は通りから写したものです。
堂々とした立派な構えの門です。

この楼門から石畳の道を進み、
東照宮へと向かいました。



東照宮への参道です。
ひっそりとした小路でした。

御成門を抜け、東照宮の
拝殿に辿り着きました。



豪華絢爛な日光東照宮に比べると
控えめな建物ですが、それでも
十分に威厳を感じます。

日光東照宮の様子はこちらです。


拝殿内には土佐光起が描いた
三十六歌仙の模写図が飾られていました。



しっかり見なかったのですが、天井には
狩野探幽作の天龍図が描かれているそうです。


東照宮から、階段を下り方丈へと戻ります。
その途中に開山堂がありました。



崇伝の塔所で、後水尾天皇の勅額も
掲げられていたようです。


境内を一巡りして戻って眺める
方丈と「鶴亀の庭」の白砂です。



訪れた日は、長谷川等伯筆「猿猴捉月図」と
茶室の「八窓席」が特別公開されていました。

どちらも国の重要文化財に指定され
写真撮影が禁止されています。
下の写真は、現地案内板を写したものです。



猿猴捉月図は水面の月を捉えようとする
猿の姿を表しているそうです。

月明かりに照らし出された背景の金色が
妖しい輝きを発し、猿の体毛の描写に
思わず惹きつけらる絵でした。

そして、八窓席は、小堀遠州作の茶室で
京都の三名席随一と言われているそうです。
猿猴捉月図は八席窓に付随した
小書院の襖絵に描かれていました。



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天授庵


天授庵は南禅寺の塔頭の一つです。
中門から南禅寺境内に入って右手にあります。




南禅寺を開いた無関普門を祀る墓所として
1339年(歴応2年)に建立されたそうです。

南禅寺の前身だった禅林寺殿も
この地にあったそうです。



この門をくぐり天授庵の境内に入りました。

門の正面に見えている大きな建物は庫裡です。



庫裡は非公開となっており、その手前を
左に曲がり、柿皮葺の本堂へと向かいました。



この本堂の前に清楚な
枯山水の庭園がありました。



ここは訪れる人も少なく、落ち着いて
この庭園の雰囲気を味わっていました。

この庭園は鎌倉時代に造られたそうです。

また、この庭園の左手奥に見えている門は
天授庵の正門で慶長年間(1596年-1615年)に
建てられたものだそうです。


この本堂前庭の静けさを堪能した後に、
もう一つの庭園を訪れてみました。



本堂から、庫裡の奥にある
書院の南庭へと向かいました。



竹林や石を置いた園路が
京都の庭園らしい佇まいです。

この書院南庭は池泉回遊式で、
本堂前庭とは異なる趣です。



江戸時代の大名庭園も同じ池泉回遊式ですが、
この庭園は侘び寂に通じる雰囲気があり、
大名庭園とも異なる趣です。



この庭園を巡った後、天授庵から立ち去る際、
庫裡の入り口の光景に気が付きました。



庫裡から書院越しに眺める庭園の様子です。

額縁で切り取られたようなこの眺めが
最も印象的な光景でした。



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南禅院


南禅院は、南禅寺の塔頭の一つです。
亀山天皇が1264年(文永元年)に築いた
離宮・禅林寺殿跡と言われています。

亀山天皇は1289年(正応2年)に法皇となり、
その際にこの離宮を寄進し、これが
南禅寺の始まりとされています。




南禅院は水路閣を越えたところにありました。
南禅院の方丈の周囲を巡り、庭園へと向かいます。



方丈の内部の暗い空間の向こうに
鮮やかな、庭園の緑が映えていました。

南禅院は、15世紀半ばの応仁の乱により
被災し、その後は荒廃していたようですが
徳川幕府第五代将軍綱吉公の生母・桂昌院が
1703年(元禄16年)にこの方丈を寄進したそうです。

方丈前の庭園です。



金地院天授庵などでは方丈前の庭園は
白砂が敷き詰められた枯山水庭園でしたが、
ここは苔が一面に生え、緑豊かでした。



この南禅院は、訪れる人も少なく静かな
空間を心行くまで愉しめる事が出来ます。

庭園は池泉回遊式で、亀山天皇によって
鎌倉時代前半に築かれたそうです。

国の特別史跡や名勝に指定され、
また京都の三名勝史跡庭園の
一つに指定されているそうです。



庭園から眺める方丈と表門です。



係の方が熱心に庭の手入れを
されている姿が印象的でした。


南禅院の奥に亀山法皇の廟所がありました。



亀山法皇の遺言で分骨が
納められているそうです。

この地にも葬られることを亀山法皇が
願った事は、法皇がこの南禅院を
愛していた事の証と思います。


静かな南禅院でしばらく佇み、帰路に就く際に
再び、方丈越しに庭を眺めてみました。



鮮やかな緑が暗い空間から
浮かび上がる様が心に沁みました。



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