Hagi, Yamaguchi

萩は山口県の日本海側にある街です。
著名度の高さに比べ、人口は5万人と
意外なほど少なく、小さな街ですが、
萩は近代日本の歴史を作った街です。

この小さな街から、ほんのごく短い期間に、
綺羅星のように何人もの人々が輩出し、
日本の歴史を変えました。

幕末から明治維新にかけての歴史が好きなので、
いつかはこの萩に来て見たいと思っていました。
その願いが叶ったのは、1995年8月のことです。

この萩には2017年7月に再訪しています。
その際の様子も含め紹介しようと思います。

松下村塾とその周辺
(Shokason-Jyuku, Private School)
July 22, 2019

浜崎重伝建地区
(Hamasaki Historical District)
Mar. 31, 2019

江戸屋横丁〜菊屋横丁
(Edo Avenue to Kikuya Avenue)
Apr. 17, 2019

堀内重伝建地区
(Horiuchi Historical District)
Apr. 30, 2019

萩城
(Hagi Castle)
May 31, 2019

平安古重伝建地区
(Hiyako Historical District)
June 23, 2019

明倫館
(Former Meirinkan School)
Aug.19, 2019

藍場川(川島)
(Aiba River)
Aug.31, 2019

萩反射炉・恵美須ヶ鼻
(Hagi Reverberatory Furnace)
Aug.09, 2019

萩八景遊覧船
(Hagi-Hakkei Sightseeing Boat)
June 12, 2019

佐々並市重伝建地区
(Sasanamiichi Historical District)
NEW! Sep. 18, '19

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松下村塾とその周辺
(The area of Shokason-Jyuku, Private School)

萩では、何をおいても松下村塾です。

松下村塾は1842年(天保13年)に玉木文之進が開いた私塾です。
玉木文之進の甥・吉田松陰が引き継いだ事で知られています。


撮影: 2017年7月

松下村塾がある場所は、萩城のあった指月山からは
遠く離れ、松本川を越えた丘陵地帯の麓にありました。

この地域一帯の史跡を紹介します。



松陰神社と松下村塾
(Shoin Shrine and "Shokason-Jyuku", Private School)

幕末、萩を政治の表舞台に導いたのは、いや、大げさに言うと
今の日本があるのは、海外渡航を企て蟄居の刑を受けていた
28歳の青年が、ここで塾を開いたことに始まる
といっても過言ではないと思います。

その青年の名は、吉田松陰 (1830-1859)
1857年のことです。

松下村塾は、名前こそ塾とついていますが、
実態は村の寺子屋に気が生えた様な
ものだったらしく、建物も粗末なものです。

萩市の表玄関、というには寂れてしまったJR東萩駅の東、
丘陵地が始まる境目の辺りに松陰神社があり、
この境内の一角に松下村塾が残っています。


撮影: 2017年7月

松陰神社はその名のごとく、幕末に松下村塾で
教えていた吉田松陰を祀る神社です。
この神社の一角に松下村塾が残っています。


撮影: 2017年7月

この粗末な掘っ立て小屋が松下村塾です。

幕末に倒幕運動の中心になったのは薩摩藩と長州藩ですが、
小松帯刀、大久保利通や西郷隆盛など、藩の要職にいた人達が
政治を動かした薩摩藩とは異なり、長州ではこの松下村塾で
学んでいた若者たちが、政治を動かしていました。

高杉晋作は上士階級の出身ですが、多くは下級武士の出で、
伊藤博文などは中間の子供でした。


撮影: 2017年7月

松下村塾の建物は八畳と十畳半のわずか二間で、
十畳半の部屋は塾生たちが自ら建て増したものです。

当時は、お城から離れるほど、住んでいる者の身分が低いと
言われた時代で、松下村塾の塾生の一人・高杉晋作などは、
長州藩の名士の出で、萩城に近い菊屋横丁に屋敷があり、
親からは松下村塾に通う事を止められていたと言う事ですが、
この粗末な建物を見ると、それもわからないことではありません。


撮影: 2017年7月

松下村塾には、吉田松陰の肖像画や木像、
それに塾生らの写真が展示されていました。


撮影: 2017年7月

松陰が教えた塾生の中から、多くの人物が倒幕に関わり、
その後の明治政府の要人となりましたが、驚く事に
松陰がここで教えていた期間は僅か2年半との事です。

松陰は、塾生たちと一緒に自分も学ぶという姿勢で接し、
塾生の良い点を引き出すようにしていたそうですが、
実際どのような教育を施せば、多くの若者が急に
成長していったのか、知りたいものです。

松下村塾の隣に松陰が幽閉されていた家があります。
ここは吉田松陰の父・杉百合之介の家でした。


撮影: 2017年7月

吉田松陰は、1854年(嘉永7年)に日米和親条約
締結の為にペリー提督が再来日した際に、
海外渡航を企て失敗し、国許蟄居となります。
当初は野山獄に入れられますが、1855年(安政2年)に
ここに移され、幽閉されたのでした。


撮影: 2017年7月

三畳半のこの部屋が吉田松陰が
幽閉されていた部屋だそうです。

吉田松陰は幽閉されていた1858年(安政5年)に
老中首座・間部 詮勝暗殺計画を企て、
それが幕府に知られるところとなり、
1859年(安政6年)に江戸・伝馬町の
牢屋敷で処刑されています。

江戸伝馬町の牢屋敷跡の様子は
東京・神田のページで紹介しています。
東京。神田のページはこちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Kanda.html

吉田松陰のお墓のあった千住・
小塚原回向院の様子はこちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Senjyu.html

吉田松陰の遺骸が改葬された
世田谷の松陰神社の様子は、こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Setagaya.html

このすぐ奥に松陰神社の社殿がありました。


撮影: 2017年7月

神主さんが、鳥居や社殿の周囲を掃き清めて
いる光景は、とても清々しいものでした。


松下村塾から東の山を上ったところに、
吉田松陰の生誕地や墓所があります。
高台から萩の町が遠く眺める事が出来ました。


撮影: 1995年8月



松下村塾から松陰生誕地へ
(To the birth place of YOSHIDA Shoin)

松下村塾のある松陰神社を辞し、
のどかな集落を東に向かいました。


撮影: 2017年7月

のどかな集落を歩いていくと、
吉田稔麿
(1841-1864) 生誕の地がありました。


撮影: 2017年7月

吉田稔麿も下級武士の子供で、松下村塾の塾生です。
高杉晋作、久坂玄瑞とともに評価が高く、
松下村塾の三秀と言われていました。

若くして、新選組の京都・池田屋襲撃事件で
命を落としています。
享年23。

その先の角を左に折れると伊藤博文 (1841-1909)
旧宅がありました。

伊藤博文は周防国熊毛郡(現在の山口県光市)出身で、
元は農家に生まれていますが、8歳の時に萩に移っています。
12歳の頃に中間の養子となり、伊藤に姓を変えています。


撮影: 2017年7月

伊藤博文や吉田稔麿は、城下を離れた長閑な農村で、
身分の低い子として暮らし、たまたま近くにあった
寺子屋に通ったものと思いますが、そうした人物を
多く世の中に輩出した松下村塾はやはり偉業と思います。

集落を歩いた先には玉木文之進旧宅がありました。


撮影: 2017年7月

玉木文之進は、吉田松陰の叔父にあたり、
松下村塾の創始者です。
玉木文之進の吉田松陰に対する教育は
非常に厳しかったと伝わっています。

玉木文之進の旧宅の前の三叉路を南に向かうと
坂道となり、暫く歩くと視界が広がりました。


撮影: 2017年7月

高台から萩の街が遠く見渡せ、萩城のある
指月山がその向こうに見えています。

吉田松陰はこの地で生まれました。
1830年(文政13年)8月4日、新暦で9月20日の事です。


撮影: 2017年7月

生誕の地には立派な碑と、松陰が生まれた当時の
家の間取りが地面に復元されていました。

吉田松陰の生家があった場所は、木陰の
ジメジメした感じの場所で、家も玄関の他には
三間の母屋と、二間の離れという小さな家でした。


撮影: 2017年7月

産湯をつかった井戸も残っていました。
そして、生家の近くにあった吉田松陰の銅像です。


撮影: 2017年7月

従者のように松陰の傍らで
膝まずいているのは金子重之輔です。

金子重之輔は士分ではなく、海外渡航の罪で
幕府に捕まり長州藩に送られた際には庶民用の
岩倉獄に入れられ、そこで獄死しています。

吉田松陰の生誕地から一段高いところに
松陰やその一族らの墓地がありました。


撮影: 2017年7月

江戸・伝馬町の牢屋敷で刑死した松陰の亡骸は
世田谷の松陰神社に高杉晋作らにより
改葬されています。

世田谷の松陰神社の様子は、こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Setagaya.html

そして、この墓地には松陰一族の他にも
高杉晋作や久坂玄瑞らのお墓もありました。


撮影: 2017年7月

ここから北東に向かうと毛利家の
菩提寺・東光寺があります。



東光寺
(Tokoji Temple)

東光寺は萩藩主・第三代藩主毛利吉就が
1691年(元禄4年)に建立した黄檗宗のお寺です。
開山は江戸・白金瑞聖寺主だった慧極禅師です。

東光寺は総門がお寺の北西側にあって、
松陰の生誕地に近い南側の門は裏門になります。


撮影: 2017年7月

位牌堂の北側の通路を抜け、本堂にあたる
大雄宝殿に向かう途中、右手に大方丈がありました。


撮影: 2017年7月

大雄宝殿の手前で、毛利家墓所があるというので
まずはそちらに向かう事にしました。

毛利家墓所の手前に、四大夫十一烈士の墓がありました。


撮影: 2017年7月

1864年(元治元年)に起きた禁門の変と、攘夷の実行として
イギリス・アメリカ・フランスそしてオランダ商船への
砲撃とその報復による下関の一部占領された(馬関戦争)為、
長州藩は攘夷派が失脚し、幕府恭順派が実権を握ります。

幕府からは長州征伐軍を送られますが(第一次長州征伐)、
藩政府は、攘夷派政権の重臣4名を自刃に追い込み、
11名を野山獄で切腹させました。

ここには彼ら15名のお墓があります。
首都の京都からは追放され、海外との戦争に負け、
幕府からは討伐軍を送られ、窮地に陥った長州藩。

1864年のその窮地の状況から、4年後には討幕を
果たすという大激変の歴史の過程で、数多くの
命が失われていた事を改めて実感します。


撮影: 2017年7月

四太夫の墓には、1864年に禁門の変の責任を
感じ、自刃した周布正之助のお墓もありました。

この奥に長州藩主・毛利家墓所があります。


撮影: 2017年7月

この門を抜けると、整然と並ぶ石塔と
その奥の立派な廟の様子に圧倒されました。


撮影: 2017年7月

3つに分かれた参道の両側に石塔が並び、
鳥居をくぐった先に藩主のお墓があります。


撮影: 2017年7月

いままで多くの藩主墓所を訪れてきましたが
ここ程、気品が高く、威厳ある墓所は
他にはなかったと思います。


撮影: 2017年7月

祀られているのは三代・吉就、五代・吉元、
七代・重就、九代・斉房、十一代・斉元と
夫々の正室の計10名です。

毛利家墓所の威厳ある佇まいに、
身体が痺れるようにも感じました。

その後、東光寺の伽藍に戻りました。

まずは大雄宝殿を訪れました。
お釈迦様がいらっしゃる場所という意味で、
黄檗宗では本堂をこの名で呼ぶそうです。


撮影: 2017年7月

1698年(元禄11年)に建てられています。
歴史を感じながらも堂々とした建物です。

大雄宝殿からの眺めです。


撮影: 2017年7月

立派な大方丈や大雄宝殿の残る東光寺ですが
廻廊など、多くの建物は失われています。
境内も木々が多く生えていました。

東光寺の伽藍は、丘陵地の傾斜地に建てられ、
大雄宝殿が最も高い位置にあります。
坂道になっている伽藍を下っていくと
右手に鐘楼が見えてきました。


撮影: 2017年7月

鐘楼は鐘と共に1694年(元禄7年)に建てられました。

その位置から振り返って眺める大雄宝殿です。
当時は鐘楼は廻廊に繋がっていて、廻廊上の
大雄宝殿の対となる位置には天王殿がありました。

ここから更に下ると三門がありました。
堂々とした建物です。


撮影: 2017年7月

三門は年代が下り1812年(文化9年)の再建です。
東光寺の大雄宝殿、鐘楼そしてこの山門は
国の重要文化財にしてされています。

そして更に下り坂の境内を進むと、 朱塗りの総門がありました。


撮影: 2017年7月

この朱塗りの総門を眺めた時、40年近く前、
初めて萩を訪れた際にこの東光寺を訪れた
時の記憶が鮮やかに蘇りました。

この総門は東光寺が創建された翌年の
1693年(元禄6年)に建てられました。
この総門も国の重要文化財です。

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浜崎重伝建地区
(Hamasaki Historical District)


撮影: 2017年7月

萩市の東北部に位置する浜崎地区は港町で、
江戸時代には日本海の物資輸送ルートだった
北前船の寄港地になり、萩藩の浜崎宰判代官所や
藩重臣の蔵屋敷が建ち並んでいたそうです。


撮影: 2017年7月

この浜崎地区にも江戸時代の古い家が
数多く残り、2001年に国の重要伝統的
建造物群保存地区に指定されています。

2017年7月15日、東萩駅からレンタサイクルで
浜崎地区に向かいました。

駅前の松本川を渡り、西に進むと萩の市街です。
少し行った所に立派な亨徳寺の山門が現れました。


撮影: 2017年7月

亨徳寺は1452年(亨徳元年)に創建された古刹で
山門は1695年(元禄8年)に建立されたものです。
高杉家の菩提寺で、高杉晋作も訪れていたようです。

亨徳寺から少し戻り、路地に入ったところには
野山獄・岩倉獄跡があります。


撮影: 2017年7月

上の写真左が野山獄跡、右が岩倉獄跡です。
1645年(正保2年)9月17日の夜、藩士・
岩倉孫兵衛が道を隔てた野山六右衛門に
切り込み、殺傷事件を起こしました。

この事件後に両家は取り潰され、
萩藩の獄になっていました。
野山藩が士分用、岩倉獄が
庶民用として使われていました。

幕末には討幕派、佐幕派が目まぐるしく主導権を
奪い合った萩藩では、政権が変わる度に、
それに反する多くの藩士が捉えられ、
ここに入獄され、処刑されています。

伊豆の下田で海外渡航を企てた吉田松陰は
この野山獄に投獄されています。
従者の金子重之助は士分ではなかった為、
岩倉獄に投獄され、獄死しています。

また高杉晋作も1864年(元治元年)、禁門の変
の際に野山獄に投獄されています。

この野山獄・岩倉獄跡を北に向かうと
急に古い町並みとなりました。
ここが浜崎地区です。


撮影: 2017年7月

この町並みの中に泉福寺がありました。


撮影: 2017年7月

吉田松陰の菩提寺で、有名な「松陰二十一回猛士」
の位牌がここに安置されているそうです。

近くには梅屋七兵衛の旧宅が残っていました。


撮影: 2017年7月

梅屋七兵衛は幕末の商人で、萩藩に
鉄砲の買い付けなどを行っていたそうです。

ここから北に向かうと住吉神社がありました。


撮影: 2017年7月

住吉神社は1659年(万治2年)に創建されています。
毛利元就が1555年(弘治元年)に陶晴賢を滅ぼした際の
戦勝歌とされる「お船謡」が、江戸時代から
この神社で演じられてきたそうです。

今は7月下旬の夏大祭で演じられているそうです。

住吉神社から浜崎本町筋に戻ると、
火除け地のような広い巾着町の通り
との角に古い立派な家がありました。


撮影: 2017年7月

この建物は旧山村家住宅です。
江戸時代、町年寄りを務めた浜崎地区の
有力町人がここで暮らしていたようです。


撮影: 2017年7月

現在の建物は江戸後期に建てられたもので、
明治に入って山村家が購入しています。


撮影: 2017年7月

屋敷の裏には立派な蔵もありました。

この旧山村邸で熱心にお話を伺ううちに、
案内をして頂いた方が近くの旧萩藩・
御船倉を案内して下さる事になりました。

東西の広い通りを東に向かうと
すぐに旧萩藩・御船倉です。


撮影: 2017年7月

この御船倉は萩藩主の御座船を格納した
船倉で、1608年(慶長13年)の萩城築城の
直後に築かれたそうです。

江戸末期には4つの船倉があったそうですが、
1962年(昭和37年)に南側の船倉が取り壊され
現在は、この一棟が残るのみです。

普段、船倉の前の柵の鍵が掛かり、内部は
見られませんが、案内して頂いた方が鍵を
開けて頂いたので、内部を見学出来ました。


撮影: 2017年7月

両脇と奥の壁の下側は玄武岩の石垣を積み、
上部に屋根瓦を敷いています。
奥行26.8m、梁間8.8m、高さ8.8mの大きさです。

江戸時代には多くの藩がこうした船倉を持って
いたかと思いますが、現存している例は
殆ど無い様に思います。

この後、旧小池屋土蔵にも連れて行って頂きました。


撮影: 2017年7月

この土蔵は江戸時代後期に建てられたものです。
内部には住吉神社の例祭で使われる山車や
大きな天狗のお面などが展示されていました。


撮影: 2017年7月

御船倉と旧小池屋の土蔵と普段は見られない
ところを見学出来たお礼を述べて、
再び、浜崎地区の散策を続けました。

先ほど訪れた旧小池屋土蔵の反対側の通りからの眺めです。


撮影: 2017年7月

下の写真は浜崎地区の北端に近い
貫抜町筋の様子です。


撮影: 2017年7月

上の写真左手の住宅が斎藤家邸宅です。
1856年(安政3年)に建てられています。

その先のT字路を右に曲がると
藤井家主屋がありました。


撮影: 2017年7月

1820年代に建てられた海産物問屋です。
浜崎地区は古い建物が数多く残っているのですが、
訪れる観光客の姿はなく、ひっそりとしていました。

浜崎地区の東には松本川が流れています。
河口に近い松本川は港のような感じでした。


撮影: 2017年7月

ここには今も渡しが残っています。
竿で船を操る昔ながらの渡し船ですが
訪れた時間帯はお昼休みで、残念ながら
乗る事は出来ませんでした。

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江戸屋横丁〜菊屋横丁
(Edo Avenue to Kikuya Avenue)

萩は、江戸時代の当時の様子が今も色濃く残る街です。

他の多くの都市で、区画整理や大規模な開発が行われ
当時の区画も大きく変わってしまっていますが、
萩では江戸時代の区割りがそのまま残っていて、
当時の地図が今でもそのまま使えるそうです。


撮影: 2017年7月

浜崎地区から南西に向かうと、生垣や
白壁の通りが目に付くようになりました。

この一角は、萩城下町の東側に位置し、
江戸時代は中級武士が住んでいました。
幕末から明治維新の頃活躍した人たちの
旧宅もこの辺りに点在しています。

まず、萩城への大手道にあたる萩城址線と
いう道から江戸屋横丁へと向かいました。

江戸屋横丁は道の両脇に生垣が続き、
城下町の佇まいが残っています。


撮影: 2017年7月

江戸屋横丁に入って間もなく
木戸孝允の旧宅がありました。


撮影: 2017年7月

木戸孝允は、若い頃の名を桂小五郎といいます。

幕末の長州藩にあって討幕派のリーダー的な存在で、
1863年(文久3年)に長州藩が八月十八日の政変で
京都を追われると、長州藩の地位回復の為に京都で
孤軍奮闘の活躍をしますが、それが叶わず、1864年
(元治元年)の蛤御門の変の後は長州藩が朝敵となると
桂小五郎は地下に潜伏し、行方は全く分からなくなりました。

蛤御門の変の後は、長州藩でも佐幕派が中枢を握り、
討幕派に対する粛清を行っている状態でした。


撮影: 2017年7月

木戸孝允旧宅の様子です。

高杉晋作が、1865年(元治元年)に下関の功山寺で挙兵し、
長州藩の実権を討幕派が握ると、出石に潜伏していた
桂小五郎は萩に戻り、以降、明治維新に
至るまでの間、長州藩を率いてきました。

下関・功山寺の様子はこちら です。


撮影: 2017年7月

桂小五郎も使った座敷の様子です。
質素な中級武士の屋敷の佇まいがよく残っていました。


撮影: 2017年7月

木戸孝允の旧宅跡から再び江戸屋横丁を南に歩きます。


撮影: 2017年7月

静かな佇まいの江戸屋横丁です。

生垣や白壁で囲われた武家屋敷では、
みかんの木が植えられています。
これは明治維新後、困窮した士族の
生活を支える為に広がったそうです。

今度は、青木周弼の旧宅がありました。


撮影: 2017年7月

青木周弼は、幕末の医者で、蘭学者でもあった人物です。
藩主・毛利敬親の侍医を務め、後の日本陸軍の創設者と
なった大村益次郎の後ろ盾にもなったそうです。

床の間には花が綺麗に活けられていました。


撮影: 2017年7月

この床の間を眺めていると、青木周弼の旧宅を
大切にしているだけでなく、明治維新に繋がる
萩の歴史も大切にしている萩の人の
気持ちを感じる事が出来ました。

江戸屋横丁の一筋西側の伊勢屋横丁には
円政寺がありました。


撮影: 2017年7月

この円政寺には、大きな天狗のお面があります。

幼い頃、泣き虫だった高杉晋作は親に
この円政寺に連れられ、天狗のお面を見て、
物おじしない子に育てられたという話です。

伊勢屋横丁の西側の通りは菊屋横丁です。
この通りも、古い佇まいが残っています。
高杉晋作の旧宅もこの菊屋横丁にあります。


撮影: 2017年7月

上左の写真が高杉晋作旧宅の入り口です。
高杉晋作は、上級武士の家柄で唯ひとり
松下村塾の門を叩いた人です。

彼は、渡航した上海で清王朝の悲劇的な情況を知り、
海外の列強に伍すために、当時の階級制度を覆す
奇兵隊を創設し、馬関の外国船襲撃の報復で窮地に
立たされた長州藩を救うとともに、長州藩を倒幕の
一大勢力にのし上げた立役者の一人です。


撮影: 2017年7月

司馬遼太郎の「世に棲む日々」で高杉晋作の生涯を
知ったのですが、長州藩が禁門の変で幕府から制裁を
受けた後、幕府恭順派が主流となった長州藩で、
僅かな人数で挙兵した、「功山寺の変」をはじめ
「発すれば雷光の如し」と称えられた行動力は、
誰も真似できなかった様です。

その将来を期待されながら、慶応三年(1869年)
僅か29歳の若さでこの世を去りました。


撮影: 2017年7月

高杉家に代々伝わる鎮守堂です。
晋作、遺愛の品との案内がありました。

高杉晋作旧宅から菊屋通りを北に向かいます。
菊屋通りは生垣が無く白壁が続いていました。


撮影: 2017年7月

この辺りの路地の雰囲気は、刀を差した侍と
すれ違っても、それほど違和感を感じない
のではないか、と思える程でした。

途中には田中義一生誕地もありました。
田中義一は陸軍の軍人で、後に総理大臣になっています。

明治政府では、陸軍に強力な長州派閥があり、
多くの陸軍関係者が元長州藩から出ていました。


撮影: 2017年7月

菊屋横丁が萩城への大手道にあたる萩城址線との
交差点に突き当たる手前には海鼠壁の大きな蔵が
建ち並ぶようになりました。


撮影: 2017年7月

この大きな蔵は、路地の名前になっている、
長州藩の御用商人で豪商の菊屋家住宅のものです。

萩城址線側に菊屋の表があります。
堂々とした長屋門の店構えでした。


撮影: 2017年7月

長屋門を抜けると、左手に御成門、
正面に書院がありました。

御成門は、藩主がお忍びで訪れた際に、直接
この門から庭園に入るようになっていたそうです。


撮影: 2017年7月

書院に入ると、江戸時代の裃が展示されていました。


撮影: 2017年7月

これ以外にも陣笠やほら貝、日常の食器類など
江戸時代にものが数多く展示されていました。

書院から眺める庭の様子です。
この優雅な眺めは、菊屋の裕福さが
醸し出す文化の香りがします。


撮影: 2017年7月

菊屋に借金を願いに訪れた藩主は
この庭から直接書院に入ったそうです。

こちらは通りに面した主屋の帳場の様子です。


撮影: 2017年7月

この主屋は現存する建物の中では最も古く、
江戸時代の初期に建てられたもので、現存の
商家としては、最も古いものの一つだそうです。

この菊屋では、主屋と本蔵、金蔵、米蔵そして
釜場の五棟が国の重要文化財に指定されています。
更に驚いたことに、公開されているのは2000坪ある
敷地の約3分の一で、奥には立派な庭園があるそうです。

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堀内重伝建地区
(Horiuchi Historical District)

菊屋横丁から萩の街を東西に走る萩城址線を
西に向かうと掘にぶつかり、堀に沿って
北に行くと土塁が整備されていました。


撮影: 2017年7月

ここは北の総門跡です。

堀は萩城の外堀で、この西側が堀内です。
江戸時代、萩城には北、中そして
平安古の3つの総門がありました。

北の総門には船着き場と桝形門が築かれていました。


撮影: 2017年7月

門は2004年、船着き場や土塁などは
2011年に復元整備されています。


撮影: 2017年7月

堂々とした北の総門の様子からは、
当時の萩の町の堅い守りが伺えます。

北の総門を通り過ぎると、堀内と呼ばれ
江戸時代の萩城三の丸になります。

これから紹介する堀内地区は、江戸時代の
武家屋敷の門や土塀などが数多く残っています。
城下町の佇まいが色濃く残る堀内地区は、
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

北の総門跡を過ぎると路はT字路に突き当たり、
そこを右に折れると再びT字路に突き当たります。


撮影: 2017年7月

もちろんこのような複雑な路の構造は
城内への外敵の侵入を防ぐ為のものです。

二つ目のT字路の所に建っているのは、
旧益田家物見矢倉です。

益田家は萩藩の永代家老の格式を持つ家柄で、
12,000石もの家禄があったそうです。


撮影: 2017年7月

丁度、T字の角にあるこの物見矢倉は外敵を
迎え撃つ役割を持っていたものと思います。

ちなみに、この益田家の江戸時代末期の当主・
益田親施は1864年(元治元年)の禁門の変の
責任者として、切腹させられています。

旧益田家物見矢倉の先には繁沢家長屋門があります。
繁沢家も7,391石の家禄があった重臣の家柄です。


撮影: 2017年7月

この長屋門は規模の大きなもので、
繁沢家の格式の高さがわかります。

更に西に向かって歩いていくと、
今度は旧周布家長屋門がありました。


撮影: 2017年7月

周布家は永代家臣だった益田家の庶流の家柄でした。
全国に城下町はいくつもありますが、重臣の物が
こうして残っている町は少ない様に思います。


撮影: 2017年7月

屋敷側から眺めた長屋門の様子です。
この周布家からは、幕末に討幕派として
藩政を率いた周布正之助が出ています。

周布家長屋門から先には土壁が残り
城下町の佇まいが色濃く残っています。


撮影: 2017年7月

この先で交差点を左に折れると、
問田益田氏旧宅土塀がありました。


撮影: 2017年7月

この白壁の土塀は長さ230m以上もあり、萩に
残る当時の土塀としては最も長いものです。

問田益田家は永代家老・益田家の
分家で、4,000石程の家禄がありました。
萩藩の重臣たちは多くの家禄があり、
城下に広大な屋敷を構えていました。

今度は、萩城址線を西に進み、萩城を目指しました。
この萩城址線に沿っても白壁の土塀が続いています。


撮影: 2017年7月

萩の堀内地区はどこもこのような佇まいで、
歴史好きには堪えられない雰囲気です。


撮影: 2017年7月

こちらは旧毛利家別邸表門です。
萩藩最後の藩主・毛利元徳
(1839-1896)
別邸にあった表門を1974年(昭和49年)に
現在地に移築したそうです。

旧毛利家別邸表門から、道を隔てて
西側に毛利輝元の墓所がありました。

毛利輝元 (1553-1625) は毛利隆元の長男で、
毛利元就の孫にあたります。

10歳で毛利家の家督を継ぎ、関ヶ原の戦いを経て、
1600年(慶長5年)に、毛利家が周防・長門二国に
減封された際に、隠居しています。


撮影: 2017年7月

墓所の立派な表門です。


撮影: 2017年7月

木々の生い茂る中参道が続き、その向こうに
毛利輝元のお墓がありました。


撮影: 2017年7月

ここには毛利輝元と正室そして殉死した
長井治郎左衛門のお墓があります。

正直なところ、毛利輝元は広島で亡くなったと
ばかり思っていたので、この地に毛利輝元の
お墓があったのは意外な感じがしました。

毛利輝元のお墓のある天樹院跡の
すぐ西側には萩城の中掘がありました。


撮影: 2017年7月

この後中掘を渡り、萩城を訪れています。
萩城を訪れた後に再び堀内地区の散策をしました。

萩城の登城記はこちら です。

萩城の散策を終えた後、先ほどの
毛利輝元墓所から南に向かいました。

この朱塗りの立派な門は旧福原家萩屋敷門です。


撮影: 2017年7月

福原家も萩藩の永代家老と務めた由緒ある家柄で、
他にも中屋敷や下屋敷も構えていたそうです。

更に南に向かうと白壁の土塀が続くようになりました。


撮影: 2017年7月

こちらは旧二宮家長屋門です。


撮影: 2017年7月

堅牢な門の構えが印象的でした。


撮影: 2017年7月

旧二宮家長屋門から南に向かうと口羽家住宅がありました。
なまこ壁の立派な長屋門で、江戸藩邸の門を
移築したと伝えられているそうです。


撮影: 2017年7月

口羽家は萩藩寄組士で、これは永代家老に次ぐ家柄です。
上級武士の屋敷として江戸時代から残る建物は珍しく、
表門と主屋が国の重要文化財に指定されています。


撮影: 2017年7月

この口羽氏屋敷は公開され、9:00から
17:00が開館時間になっています。

この口羽氏住宅に着いたときは17:00までまだ時間が
ありましたが、係りの人は既に門を閉め始めていた
のですが、時間を確認して中に入れてもらいました。

口羽氏住宅の敷地は広く、敷地内からは
橋本川の景色も眺める事が出来ました。


撮影: 2017年7月

公開されている主屋の様子です。


撮影: 2017年7月

開館の終了時間が迫っていたので、
少々慌ただしい散策になってしまいました。

口羽氏住宅から西に向かいました。
この路も古い土塀が続き、江戸時代の
城下町の佇まいが色濃く残ります。


撮影: 2017年7月

夏の長い日も暮れかかり、人通りも少なく
時の流れに取り残されてしまった様な
不思議な感覚になります。

この先に鍵曲がありました。


撮影: 2017年7月

鍵曲は、防衛上の目的で、通りを
鍵状に折り曲げて配置したものです。
萩では、この堀内と平安古、そして
大児玉横丁にあったそうです。


撮影: 2017年7月

鍵曲の近くは土塀も高く、視界が
効かない状態になっています。
当時の城下町が城郭都市のように
なっていた事がわかります。

堀内鍵曲の先には萩藩の藩校だった
明倫館跡があります。


撮影: 2017年7月

明倫館は、萩藩第五代藩主・毛利吉元が
1718年(享保3年)に創建しました。
江戸時代の藩校の中でも初期の時代に
創建されたそうです。

幕末の1849年(嘉永2年)に、ここから
約1.3km程東の江向に移されたそうです。

吉田松陰が9歳で教鞭をとったのは、
この地の明倫館ですが、高杉晋作が学んだ
明倫館は、江向に移されてからの事になります。

また、堀内の北側には日本海が広がっています。
萩城跡から疎水を渡ると海岸に出ました。
菊ヶ浜です。


撮影: 2017年7月

青い空に綿雲が浮かび、砂浜が白く輝いていました。
子供達が海に入ってはしゃいでいます。
蝉の声と、子供達の声だけが聞こえてきます。

ずーっと昔にどこかに置き忘れてしまった、
日本の夏がそこにあったような気がしました。

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平安古重伝建地区
(Hiyako Historicl District)

萩・堀内地区の南側、橋本川沿いの口羽家住宅から
古い小路を西に向かい、鍵曲や旧明倫館跡を
過ぎると、小川に架かる小橋がありました。


撮影: 2017年7月

この小橋は萩城下町の東側を南北に流れる
萩城外堀に架かる平安古(ひやこ)橋です。

平安古橋から眺める萩城外堀です。


撮影: 2017年7月

ここから東は萩城の城外の平安古地区となりますが、
平安古地区にも武家屋敷が広がっていたようで、
古い立派な建物が見受けられます。


撮影: 2017年7月

この小路を真っ直ぐ進むと次第に普通の住宅地に
変わっていきましたが、国道192号線を横切ると、
その先に久坂玄瑞・生誕地がありました。


撮影: 2017年7月

久坂玄瑞は吉田松陰の松下村塾で、高杉晋作と共に
「村塾の双璧」と呼ばれ、久坂玄瑞は
師・吉田松陰の妹を娶っています。

尊王攘夷に傾倒し、倒幕の活動に奔走していましたが
1864年(元治元年)、蛤御門の戦いで命を落としています。
享年25歳でした。

蛤御門のある京都御所の様子はこちら です。

この後、国道192号線まで戻り、国道を南西に向かいました。
橋本川に架かる玉江橋の袂で、左手に曲がる道があります。


撮影: 2017年7月

この小路に古い武家屋敷が残っています。
まず、小路に入って程なく坪井久右衛門旧宅がありました。


撮影: 2017年7月

坪井久右衛門 (1800-1863) は村田清風と共に藩政改革を行いますが、
俗論派の椋梨藤太の台頭で藩政改革は頓挫してしまいます。
しかし、その後椋梨藤太の失脚で藩政に参与しますが、
佐幕派寄りの政治を行ったために尊王攘夷派によって
1863年(文久3年)に野山獄で処刑されています。

坪井久右衛門旧宅の先に鍵曲がありました。


撮影: 2017年7月

狭い路地が折れ曲がり、軽自動車でも
行き来するのに骨が折れそうです。


撮影: 2017年7月

日本では、全国でこうした鍵曲の道が壊されたり、
拡幅の為に周囲の屋敷が取り払われたりしていますが、
萩では何箇所も当時のままの姿で残っています。


撮影: 2017年7月

鍵曲を過ぎると古い土塀が続くようになりました。
この景色も江戸時代そのままの景色の様です。


撮影: 2017年7月

この先にも鍵曲がありました。

この鍵曲は平安古鍵曲と呼ばれています。
江戸時代の面影が強く残る萩にあっても
この鍵曲の情景は最も印象に残りました。


撮影: 2017年7月

平安古鍵曲の向こうには面影山が見えていました。
平安古鍵曲を過ぎたところにも土塀と
武家屋敷の門が残っています。


撮影: 2017年7月

平安古鍵曲から更に東に向かうと、土塀の向こうに
夏ミカンの木が見えるようになりました。


撮影: 2017年7月

かんきつ公園です。
萩では明治維新後に、生活が困窮していた士族を
救うため、夏ミカンの栽培が広まったそうです。

このかんきつ公園の東側に旧田中別邸があります。


撮影: 2017年7月

長州陸軍閥出身の総理大臣・田中義一の別宅だった所です。
邸内には陸軍大将の制服などが展示されていますが
室内は明るく、心地よい風も吹きこんでいました。


撮影: 2017年7月

2階からはすぐ近くを流れる橋本川の様子や
かんきつ公園越しに指月山も眺める事が出来ました。


撮影: 2017年7月

写真を整理するまで気が付きませんでしたが、
遠くに櫓のような建物も見えていました。

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明倫館
(Former Meirinkan School)

明倫館は長州藩の藩校でした。
元々は第五代藩主・毛利吉元が
1718年(享保3年)に創建しています。

その時の明倫館は、堀内地区にありましたが、
その後、1846年(弘化3年)に、第13代藩主・
毛利敬親が現在地に移転させています。

萩・堀内地区の散策記はこちら です。

明倫館の入り口の様子です。


撮影: 2017年7月

この手前に観徳門がありました。


撮影: 2017年7月

当時は正門にあたる南門と、孔子を祀る聖廟との
間に建てられ、聖廟への入り口の門でした。

当時は東塾・西塾という二つの建物に挟まれていましたが、
その建物の遺構が明倫館跡の北西に残っています。

明倫館の跡地に入ってすぐ左手に有備館があります。


撮影: 2017年7月

有備館は剣術・槍術の道場です。
南側半分は、東側が畳敷き、西側が土間になっています。
畳敷きは城主上覧の席、土間は槍術場でした。


撮影: 2017年7月

土間には幕末に造られたのでしょうか、
大筒も置かれていました。

明倫館の当時の絵図も掲げられていました。


撮影: 2017年7月

1853年に現在地に移築された明倫館は、
以前に比べ16倍もの敷地があったようです。
数多くの校舎と共に孔子を祀る聖廟もあり、
儒教が重んじられた江戸時代の様子が伺えます。

南北に長い有備館の真ん中には出入り口がありました。
藩主上覧の場合はここから中に入ったようです。


撮影: 2017年7月

有備館の北側の様子です。
こちらは板張りになっており、剣術場だったようです。


撮影: 2017年7月

有備館という名前が付いたのは大正時代の事で、
江戸時代には剣槍稽古場と言われていたようです。

明倫館が元の位置にあった時には、剣道場と槍道場が
別々の建物だったようですが、それを現在地に移築した
際に二つの建物を併せて一つの長い建物にしたようです。

有備館の後、明倫館跡に向かいました。
長州藩の藩校・明倫館は1867年(慶応3年)に廃校となり、
その跡地に1885年(明治18年)に明倫小学校が開校しています。


撮影: 2017年7月

その明倫小学校も2014年に隣接地に引っ越し、
1935年(昭和10年)に建てられた小学校の校舎は
国の有形文化財に指定され、保存されています。

校舎の二階から眺める隣の校舎の様子です。
明倫館跡には4棟の旧校舎が残り、このうち2棟が
公開され、明倫館や幕末や明治期の萩を紹介しています。


撮影: 2017年7月

昔、小学校の校舎もこうした
木造校舎で懐かしい眺めでした。

明倫小学校の校舎の前には明倫館碑と
南門が残されていました。


撮影: 2017年7月

明倫館碑は二つあり、一つは第六代の長州藩主・毛利宗弘が
明倫館創立の由来を期したもので、もう一つは第13代藩主・
毛利敬親が新しい明倫館を記念して建てたものです。

明倫館跡の西側には聖賢堂があります。
南門の両側に建っていた建物です。


撮影: 2017年7月

聖賢堂の北側には水練池が残されています。


撮影: 2017年7月

江戸時代、遊泳術や水中騎馬がここで行われたそうです。
日本の藩校の水練池としては唯一残る意向だそうです。

吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞なども
ここで、泳いだのでしょうか。

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藍場川(川島)
(Aiba River)

2017年7月に萩を訪れた際、明倫館を訪れ、最後の
目的地、佐々並の重要伝統的建造物群保存地区に
向かう予定だったのですが、バスの時間までに
余裕があったので、藍場川の集落に行ってみました。

藍場川は、萩の街に流れ込む阿武川が、松本川と
橋本川の二つに分流する地点から、流れる疎水です。

明倫館跡から平安古の重要伝統的建造物群保存地区に
立ち寄り、橋本川の堤防に沿って東に向かいました。


撮影: 2017年7月

自動車学校の脇を過ぎ、しばらく行くと
立派なお屋敷がありました。
渡辺蒿蔵旧宅です。


撮影: 2017年7月

渡辺蒿蔵は松下村塾の塾生で、禁門の変の後、
西洋兵学を学び、後にアメリカ・イギリスに
留学し、官営長崎造船局(後の三菱重工
長崎造船所)の初代局長になった人物です。

このお屋敷の母屋は明治中期に建てられたそうです。

この先で、橋本川に架かる橋本橋の袂に出ます。
そこには懐かしい建物がありました。


撮影: 2017年7月

20年以上前に萩を訪れた際に宿泊した民宿です。
この橋本橋を渡って南に向かうと萩駅があり、
萩駅から歩いてこの民宿まで来たのでした。

そんな思い出のある建物ですが、生憎
民宿はもうやっていないようでした。

しばらく行くと、堤防から少し離れた所に
山形有朋の生誕地跡がありました。

山形有朋も松下村塾の塾生でした。
その後、頭角を現し、幕末に高杉晋作が
創設した奇兵隊の二代総督に就いています。


撮影: 2017年7月

明治維新後は明治政府で陸軍大臣を経て
内閣総理大臣となり、第二次大戦で日本を
破滅の一歩手前まで陥れた長州陸軍閥の
創始者のような人物です。

幕末の激動期に、身分にとらわれず、数多くの
人材を輩出した事は松下村塾の功績ですが、
優秀な人材の多くは明治までに戦乱で斃れ、
残った人物が閥を作り、特権的に軍事や政治を
支配していったのは大きな負の側面です。

2012年以降、その負の側面が日本を第二次大戦
以前の全体主義国家に状況に引き戻そうと
している事は憂えうる状況です。

この先、国道262号線を渡ると川島地区になります。
藍場川の清流が道の脇を流れる静かな集落です。


撮影: 2017年7月

40年ほど前初めて萩を訪れた際に、ここを訪れています。
萩行を検討している時に偶然手にした旅行雑誌で、
この疎水の街並みの様子が紹介され、旅行客もいたと
記憶していますが、いまは歩く人も見かけない
静かな集落になっていました。


撮影: 2017年7月

藍場川の清らかな流れの向こうに続く
板塀の景色は心落ち着くものでした。


撮影: 2017年7月

藍場川には大きな鯉が何尾も泳いでいました。

藍場川に沿って遡ると桂太郎の旧宅がありました。


撮影: 2017年7月

桂太郎も幕末に萩に生まれ、明治維新後に
陸軍大臣から総理大臣になった人物です。
この旧宅は桂太郎が晩年の1909年(明治42年)に、
少年期を過ごした地に建てた家の様です。

桂太郎の旧宅から更に進むと旧湯川家屋敷があります。


撮影: 2017年7月

幕末の安政年間に建てられた屋敷です。
この藍場川の集落も古い萩の様子が
今も残っていました。

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反射炉・恵美須ヶ鼻
(Hagi Reverberatory Furnace)

2017年7月、早朝に東萩駅前のホテルを出て、
松下村塾から吉田松陰生誕の地、そして
東光寺と巡り、東萩駅に戻りました。

東萩駅でレンタサイクルし、次の目的地に向かいました。
次の目的地は「明治日本の産業革命遺産」として
2015年に世界遺産に認定された萩の反射炉と
恵美須ヶ鼻です。

東萩駅から1km弱ほど北に向かい国道191号線の
東側の高台のところに反射炉がありました。
何度も萩に来たことがあるのですが、
この反射炉を訪れたのは初めてです。


撮影: 2017年7月

東萩駅からかなり遠いというイメージを
持っていましたが、レンタサイクルでは
暑い夏の日でも気軽にやって来られました。

萩の反射炉は、長州藩が1856年(安政3年)に
建設した試験炉です。

幕末の反射炉としては、韮山にある反射炉が
有名で、そちらにも訪れた事がありますが、
韮山の反射炉のほうが大きく立派でした。


上の写真が韮山の反射炉です。
韮山では実際に鉄の鋳造に用いられたそうですが、
萩の反射炉ではそこまでは至らなかったようです。

反射炉のある高台からは入り江が見えています。
この入り江にも世界遺産に認定されている所があります。


撮影: 2017年7月

恵美須ヶ鼻造船所跡です。
国道から一本海よりの道に入り、少し寂れた感じの
港を通り、入り江の反対側の突堤まで向かいました。


撮影: 2017年7月

静かな入り江の様子です。
ここに幕末、長州藩が造船所を造ったそうです。

時は1856年(安政3年)、伊豆の戸田村でロシアの造船技術を学んだ
船大工の棟梁・尾崎小右衛門によって2隻の洋式船が建造されています。


撮影: 2017年7月

恵美須ヶ鼻造船所跡から眺める日本海の様子です。


撮影: 2017年7月

恵美須ヶ鼻造船所は江戸時代、日本で
唯一の木造洋式帆船の造船所だったそうです。

突堤の根元にドックがあり、その内陸側に鍛冶場や
大工場などがあったそうですが、今は何も残っていません。


撮影: 2017年7月

突堤の根元の木陰に碑がありましたが、それが
恵美須ヶ鼻造船所があった事の唯一の証です。

この造船所が造られたのは反射炉と同じ年で、
その時、長州藩が西洋化に力を注いでいた事は
判りますが、世界遺産に認定されるのを目的に
無理やり史跡に制定した感が拭えませんでした。

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萩八景遊覧船
(Hagi-Hakkei Sightseeing Boat)


撮影: 2017年7月

萩城址の散策を終え、三の丸を東に向かうと
萩八景遊覧船乗り場があります。

萩城の登城記はこちら です。

遊覧船の運航時間は午後4時までなのですが、
丁度、この日の最終便に間に合いました。


撮影: 2017年7月

萩八景遊覧船は、毛利輝元墓所近くの乗り場から、
菊が浜と橋本川を結ぶ、萩城三の丸を横切る運河を
遡り、橋本川に出て、玉江橋の先で折り返し、
その後は菊が浜の先の日本海まで運航しています。

船乗り場を出た遊覧船は、運河を南に向かいました。
この運河は明治以降に築かれたものと思うのですが、
船の中からは白壁も眺められ、萩の城下町の
雰囲気を味わうことも出来ます。


撮影: 2017年7月

川面を渡る風は涼しく、船頭さんのお話を
聞きながらの遊覧船の旅もいいものです。

やがて船は橋本川に出ました。

橋本川は、山口県北部を流れる阿武川が萩市街で
二つに分かれ三角州を形成していますが、
その二つの川のうちの一つになります。


撮影: 2017年7月

橋本川に入っても遡っていきます。
右岸(遊覧船の左舷側)は邸宅が続いています。
萩城堀之内地区の旧三の丸界隈です。

上右の写真は口羽邸跡の様子です。

この先で、橋本川の中洲が無くなり、
川幅の広くなった橋本川を遡りました。


撮影: 2017年7月

橋本川左岸の面影山も大きく見えました。
面影山の麓が玉江の集落で、萩八景の一つ、
「玉江の秋月」はこの辺りでしょうか。

江戸時代に萩城の堀だった小川が合流すると、
橋本川右岸は平安古地区となります。


撮影: 2017年7月

橋本川沿いに白壁が続くようになりました。

橋本川の様子です。
水量も豊富で、滔々とした流れは大河の様でした。


撮影: 2017年7月

玉江橋をくぐると、左手に明治時代の
総理大臣だった田中義一の別邸が見えてきました。


撮影: 2017年7月

萩八景遊覧船はこの辺りで引き返しました。
船が向きを変え川下に舳先を向けると
萩の街並みの向こうに指月山が聳えていました。


撮影: 2017年7月

指月山は標高143mしかありませんが、萩市内の
どこからも目にすることが出来、江戸時代から
ずっと萩のシンボルだったことでしょう。


撮影: 2017年7月

常盤橋をくぐり、再び橋本川と菊が浜を
結ぶ運河に入って行きました。


撮影: 2017年7月

乗船した船着き場を過ぎ、更に奥に入って行きます。
すると遊覧船の屋根を支えていた支柱が折れ、
屋根の位置が低くなってきました。


撮影: 2017年7月

この先、萩城二の丸と堀内地区を結ぶ橋が、
水面ギリギリの高さで、こうして屋根を
折り畳んでもギリギリの状態で通り抜けました。


撮影: 2017年7月

橋を抜けると周囲の景色が広がり、菊ヶ浜に出ました。
夏の青空が広がり、波も静かで気持ちの良い船旅です。


撮影: 2017年7月

左手には指月山が近くに聳えていました。


撮影: 2017年7月

指月山の麓には萩城の石垣がずっと続いています。
石垣の上の白壁が目に付きます。


撮影: 2017年7月

石垣が、指月山の反対側まで築かれており、
想像していた以上に指月山の周囲は
堅牢な守りになっていたようです。

爽やかな風が吹き、海も空も綺麗な青色で、
本当に心地よい船の旅を楽しむ事が出来ました。


撮影: 2017年7月

菊ヶ浜の正面にはテーブル状の低い島影が見えています。
この島影は、火山によってできた「萩六島」だそうです。


撮影: 2017年7月

気が付くと、菊ヶ浜の海岸が小さく
見える程も沖合に出ていました。

萩までの山陰本線の旅は こちらです。

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佐々並市重伝建地区
(Sasanamiichi Historical District)

2017年7月の一泊二日の萩の旅、二日目のお昼にかけ
明倫館跡から相場川の畔を訪れ、再び明倫館跡に戻り、
この旅最後の目的地、佐々並市の集落に向かいました。

萩から佐々並の宿場を通り、山口市方面へと向かうバスは
以前は東萩駅が萩側のターミナルでしたが、2017年当時は
すべてのバスの発着が明倫館跡になっていたのでした。

当時の市長の施策でこのような事になったようですが、
明倫館は街中には近いものの、鉄道駅を発着しないのは
不便極まりなく、多くの苦情が寄せられたそうで、
今は東萩駅発着に戻っています。

萩から40分程もバスに乗り、佐々並のバス停に着きました。
佐々並は合併で今は萩市になっていますが、萩市街から
山口中心部までの約2/3まで来ています。


撮影: 2017年7月

佐々並は、萩と三田尻(今の防府市)を結ぶ萩往還の宿場町です。
萩往還は日本海側の萩と瀬戸内海の主要な港である三田尻を結ぶ
街道で、1604年(慶長9年)に毛利輝元によって整備されました。

山口を通っているため、幕末に長州藩が藩庁を実質的に山口に
移してからは、志士たちもこの道を足繁く通った事でしょう。

どこに宿場が残っているのか判らなかったのですが、
バス停から見えた集落の方向を目指して行くと、
古い佇まいになってきました。

この先の三叉路を真っ直ぐ行くと
右手に村役場の跡がありました。


撮影: 2017年7月

ここは御客屋跡だったそうです。
佐々並には藩主が泊まる御茶屋と
家老や役人達が泊まる御客屋がありました。

御客屋は、お茶屋の予備として設けられ、
木村家。井本家のニ家が選定されていたそうです。
普請代は藩から支出され瓦葺が許されたそうです。

ここに佐々並の案内板がありました。
地図は南北が逆さまになっています。


撮影: 2017年7月

丁度、この役場跡が佐々並の中心にあたり、
萩往還は、役場前の三叉路で北から
東へと曲がっています。

東に向かうと御茶屋跡があるので、
まずはそちらに向かってみました。

御客屋跡を過ぎると、道の脇に
古い佇まいの家々が続いていました。


撮影: 2017年7月

この先、通りの突き当りに御茶屋がありました。
萩往還は、長州藩主の参勤交代にも使われ、
その際に藩主の宿泊所だったところです。


撮影: 2017年7月

門を抜けると広大な敷地が広がっていました。
御茶屋跡は明治に入って小学校となり、その後
製材所として利用されていたようです。


撮影: 2017年7月

敷地を入ったところに溝がありましたが、
これは当時の堀の跡でしょうか。

現地の案内板によると、この地に三つの棟の
大きな屋敷が建てられていたようです。
茅葺の149坪もの広さだった様です。


撮影: 2017年7月

この建物は残念ながら1886年(明治19年)に
解体されてしまったそうです。

萩往還は、御茶屋で右に折れ、
山間へと入っていきます。


撮影: 2017年7月

坂道を上りだしてすぐに一里塚跡がありました。
上の写真の道の左手の石垣の所がその跡です。
今では山の木々に覆われて良く分かりませんが、
昔は旅人の目印として整備されていたのでしょうか。

坂道を上ったところに貴布禰神社がありました。


撮影: 2017年7月

京都の貴船神社を勧進して創建されたそうです。
以前は、坂の下の御茶屋の場所にあったようですが、
御茶屋が設けられる際に、現在地に移されたそうです。

京都の貴船神社の様子は こちらです。

萩往還はこの先は山の中の道となります。
この時は、貴布禰神社にも立ち寄らずに引き返して
しまいましたが、後で地図で確認すると、この先を
右に進むと、佐々並の集落を一望できる高台があり、
そこに行けばよかったと後悔しました。

以前、役場のあった御客屋跡まで戻り、
萩往還に沿って今度は北に向かいました。

御茶屋跡から眺める佐々並の集落です。


撮影: 2017年7月

佐々並の集落は、集落の中ほどを流れる佐々並川によって
二つに分けられ、南側を市地区、北側を久年地区といい、
両地区とも重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

但し、名称は「佐々並市重要伝統的保存地区」とされ、
久年地区の名前が入っていないのが、少々疑問です。


撮影: 2017年7月

静かな佐々並・市の集落です。
上右の写真は、江戸時代に目代所だった建物で、
当時から宿屋としても営業したいたそうです。
幕末の志士たちもここに宿泊したそうです。

この先に高札場がありました。


撮影: 2017年7月

高札場跡のすぐ横には佐々並川が流れています。


撮影: 2017年7月

街道の周辺以外は、田畑や山が広がり、
とてものどかな景色でした。

佐々並川を渡ると久年地区です。
久年地区の町並みは市地区よりも
比較的新しく民家が多い印象です。


撮影: 2017年7月


久年の集落に入ってすぐにお寺がありました。 西岸寺です。


撮影: 2017年7月

江戸時代初期に佐々並の集落が整備された時に
現在地に移転し、本堂は1738年(元文3年)に
再建されたものだそうです。

萩往還は、西岸寺の先で左に折れ、坂道となります。


撮影: 2017年7月

暫くは民家が道の脇に続いていましたが、
やがて山の斜面となり景色も開けました。


撮影: 2017年7月

道の脇に大きな「萩往還」の看板もありました。
ここからは山間の峠道となりました。

道の両脇に大きな杉の木が立ち並び、
周囲は鬱蒼とした感じになりました。
藪蚊も急に何匹も襲ってきました。


撮影: 2017年7月

江戸時代は、この道を通って萩まで歩いていた
かと思うと、当時の人の不便さが身に沁みます。
当時の石畳も残っていました。

萩往還を佐々並市の集落まで戻りました。
江戸時代に目代所だった旧小林家に向かいました。


撮影: 2017年7月

ここは今では萩往還おもてなし館
として公開されています。

帰りのバスの時間まで暫くあったので
中に入ってみました。


撮影: 2017年7月

質素ですが、広々とした室内は心落ち着く空間でした。
この日は早朝から散策し詰めで汗も掻いていましたが
部屋を渡る風も心地よく疲れも癒されました。

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