醍醐寺界隈
Daigoji Temple in Kyoto, Japan








醍醐寺は京都の南東部、山科から
南に4km程下ったところにあります。

比叡山から南に連なる逢坂山、音羽山の
山々の南の醍醐山の麓から山頂にかけて
境内が広がる大寺です。

醍醐寺は874年(貞観16年)、
空海の孫弟子にあたる
理源大師が醍醐山の山頂に草庵を
結んだのが始まりとされています。

その後、朝廷の庇護を受け、堂宇が整えられ、
951年(天暦5年)には五重塔が築かれたそうです。

1994年(平成6年)には世界遺産に指定されています。


この醍醐寺は2005年2月に訪れました。
当時の南海・貴志川線に乗車した後、
近鉄・長野線に乗り、柏原からJR関西線、
奈良線で六地蔵に向かいました。

醍醐へは、六地蔵から京都市営地下鉄の
東西線で行く事が出来ます。
醍醐駅の東500m程のところに
醍醐寺はありました。



この総門をくぐると、左手に三宝院があります。
三宝院は1115年(永久3年)に創建され、
堂宇の大半が重要文化財に指定されているそうです。

下の写真は、大玄関の様子です。



早咲きの紅梅が綺麗でした。

この三宝院の庭園は、1598年(慶長3年)に
豊臣秀吉が「醍醐花見」を催した時に
自ら設計した庭園という事です。

広大な庭園に面して、国宝の表書院、
茅葺屋根の純浄観と建物が続いています。

縁側からは庭園をゆったりと眺める事が出来ます。
2月半ばで訪れる人も少なかったのですが、
桜の時期は、さぞ見事な景観でしょう。


三宝院の庭園を訪れた後、下醍醐と呼ばれる
醍醐山の麓の境内を歩きました。

まずは、三宝院の西側にある国宝・唐門です。


撮影: 2019年4月

黒ずんだ門から近寄りがたい威厳を感じます。
下乗の表示もありました。

唐門の先に、仁王門がありました。



豊臣秀頼が1605年(慶長10年)に
再建したものだそうです。
ここから先が下醍醐の伽藍です。

木々の向こうに国宝の五重の塔が見えてきました。



五重塔の向かいに、国宝・金堂を訪れました。



醍醐寺金堂は、醍醐天皇により
904年(延喜四年)に創建されています。

当時のお堂は1295年に焼失していますが、
豊臣秀吉が「醍醐の花見」の宴を開いた際に
再興を命じ、秀頼がその遺志を継いで、紀州・
湯浅の満願寺の本堂を移築したものだそうです。

堂々とした金堂の建物は、京都のお寺というよりも
法隆寺や奈良の大寺を彷彿とする雰囲気でした。

金堂に立ち寄った後に五重塔に向かいました。



醍醐天皇のご冥福を祈る為に、朱雀天皇が起工し、
951年(天歴5年)に完成したそうです。
金堂といい五重塔といい、さすがに
醍醐天皇所縁の建物が多いです。

ちなみにこの五重塔は京都府下で
最も古い建物という事です。

この奥にも伽藍が並んでいます。
ひっそりとした雰囲気のこの建物は旧伝法院です。



その奥には、大講堂があり、そのすぐ山手には
林泉という池の畔に弁天堂が建っていました。

下の写真は、林泉から眺めた大講堂の様子です。



冬の夕陽も傾きかけた頃で、
身体がひんやりとしてきました。


醍醐寺は、ここから醍醐山の山頂まで
ずっと堂宇が立ち並んでいるのですが、
夕暮れも近づき、ここで引き返すことにしました。

短い冬の日が暮れきってしまわないうちに
もう一箇所、是非行って見たいところがあったのです。
それは、明智光秀の胴塚です。

1582年(天正10年)、本能寺の変で天下を取った光秀は
その僅か11日後に天王山の戦いで秀吉に敗れ、
領地、坂本を目指して落ち延びようとした際、
小栗栖(おぐりす)で落ち武者狩りの土民に
槍で突かれ、殺されたといわれています。

坂本の町の様子はこちらです。


その小栗栖は、京都地下鉄の醍醐駅から
醍醐寺とは反対の方向に
直線で200mのところにあります。

直線では駅から目と鼻の距離なのですが
その間に山科川が流れていて、
橋の架かっているところまで、
ぐるっと大回りしなければなりません。



この写真は、醍醐駅側から
山科川の川上を眺めた様子です。

対岸に渡って、丘陵の端に沿って走る交通量の多い
狭い通りをしばらく南に歩いたのですが、
それらしい碑は見当たりませんでした。

竹林が生い茂り、心細くなるような道ですが、
諦めて引き返し、途中で人に尋ねながら歩いていくと
駐車場だったか、何かの自販機の置いてある
片隅にやっと明智光秀の胴塚を見つけました。



暗くなりきらないうちに、胴塚を
見つけられて良かったです。


それにしても、秀吉が大々的な花見の
宴を催した醍醐寺と、光秀の胴塚が
これ程近いところにあるというのは驚きでした。

花見の宴を開いた時、きっと秀吉には
その16年前、彼の人生の転機となった山崎の合戦で
破れた光秀がすぐ近くで命を落とした事など
露にも、思いもかけなかったように思います。


「心しらぬ人は何とも言はばいへ
身をも惜まじ名をも惜まじ」

明智光秀の辞世の詩です。



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