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京都タワー
(Kyoto Tower)
近くからでは全容が見渡せない程、大きな京都駅ビル。
その駅ビルの前に、京都タワーが建っています。
新しい京都駅もその大きさとデザインから
賛否の議論が沸き起こったようですが、
1964年にこの京都タワーが出来た時は
古都京都のイメージに似つかわしいこのタワーには
もっと激しい議論が沸き起こったのではないかと思います。
その京都タワーも、今では京都のシンボルとして
すっかり定着しているようです。
ロウソクになぞらえたその形状は
独特の雰囲気を醸し出しています。
その京都タワーに久しぶりに上ってみました。
この日は朝から雲ひとつ無い天気で、
梅雨明け宣言が出され、一日ずっと快晴でした。
駅前のビルの11階までエレベーターに上り、
そこで展望券を買って、さらにエレベーターに乗り換えます。
京都タワーの高さは131m、展望室の高さは丁度100mです。
エレベーターが展望室に着き、ドアが開くと
京都の街の様子が眼下に広がっていました。
上の写真は京都タワーから北の方角を眺めた様子です。
すぐ手前が東本願寺です。
本堂の修繕工事をしているのか大きな覆いが見られます。
目の前を南北に走る大通りが
烏丸通でその先には御所の杜も見えていました。
その右手には京都の街を見下ろす
様に比叡山が聳えています。
手前の緑は、東本願寺の渉成園です。
そして、その更に右手には、八坂の塔や
建仁寺、清水寺といった東山の杜が見えています。
街中はすっかりビルが広がっている京都の街中ですが、
東山の麓には、大きな寺院の甍があちらこちらに見られ
古都の様子を保っているのが判ります。
そして、こちらは嵐山の方向です。
西に傾いた陽に逆光になって霞んでしまっています。
渡月橋はどのあたりなのでしょうか。
こうして、京都タワーに上って街並みを見ていると
東山や嵐山にまた行きたくなってしまいます。
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油小路通界隈
(Aburakoji-Douri Alley)
油小路通は京都駅の西側を南北に
連なる通りです。
一本西側には大通りの堀川通りがあり、
この油小路通りは、数ある京都の
小路の一つに過ぎない通りです。
そんな油小路通ですが、2010年10月に
関西を訪れた際、帰路に京都に立寄り
この小路を訪れてみました。
京都駅を出て西に向かい、狭い路地に
入ると、不動堂明王院がありました。
撮影: 2010年10月
823年(弘仁14年)に弘法大師が東寺を
開いた際に、鬼門にあたるこの地に
不動明王を祀ったのが起源との事です。
幕末には西本願寺を追われた新選組が
屯所を開いたとも言われているようです。
不動堂明王院の隣にあった道祖神社です。
撮影: 2010年10月
鳥居の袂には微笑ましい道祖神もありました。
撮影: 2010年10月
神社には洛中・七名水の一つとされた
芹根水の碑がありました。
撮影: 2010年10月
この碑を揮毫したのが烏石葛辰で、彼の
書とされる文房四神之碑もありました。
ここから油小路通を北に進みました。
撮影: 2010年10月
建物が密集した地域で、京都といっても
古い町屋の建物は少ない地域です。
東西に走る大通りの塩小路通を越え、
北に進むと木津屋橋通との四つ角に
差し掛かりました。
ここでは日本史の中でも極めて
凄惨な事件が起きています。
1867年旧暦の11月13日、新選組を離脱し、
高台寺を屯所とする御陵衛士の伊東甲子太郎が
新選組隊長・近藤勇の妾宅で開かれた酒宴に
招かれ、帰宅途中にこの地に差し掛かりました。
高台寺の散策記は
こちらです。
伊東甲子太郎は、ここで待ち伏せしていた
40〜50名もの新選組隊士に襲撃され、
落命しています。
撮影: 2010年10月
この事件が凄惨なのは、それだけではありません。
新選組は伊東甲子太郎の遺骸をそのまま路上に放置し
遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せの上襲撃し、
他に3名を殺害しています。
こうした新選組の行動はテロ集団そのもので
新選組があっという間に歴史の藻屑と
消えていったのも、宜なるかなと思います。
伊東甲子太郎殉難の地から更に北に向かいました。
油小路通沿いで見かけた油屋さんです。
撮影: 2010年10月
油粕やごま油などを売っているようですが、
お店の構えからみると歴史あるお店でしょうか。
油小路通を北に向かい正面通で左折し、
西本願寺に向かいました。
撮影: 2010年10月
正面通という名前は西本願寺の正面に
繋がる道なのでこの名がついたのでしょうか。
この界隈には仏具屋さんや数珠屋さんが
何軒もありました。
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西本願寺
(Nishi-HongwanJi Temple)
京都駅から油小路通を正面通りで左に
折れると、西本願寺に辿り着きます。
浄土真宗本願寺派の本山です。
西本願寺の名前は通称で、正式名は
「龍谷山 本願寺」だそうです。
ちなみに東本願寺は真宗大谷派の本山で
正式名称は「真宗本廟」です。
撮影: 2010年10月
西本願寺の正門にあたる
重要文化財の御影堂門です。
"本願寺"は親鸞の墓所の大谷廟堂が基になっています。
親鸞は1262年(弘長2年)に亡くなっていますが、
死の50年後に大谷廟堂が本願寺となっています。
当時、新興宗教だった真言宗は他の宗派から
迫害も受けたようで、寺勢は衰え、青蓮寺の
末寺という位置づけだったようです。
この状況を一変させたのが1415年(応永22年)に
生まれた蓮如で、1471年(文明6年)に北陸の
吉崎に移り勢力を蓄え、1483年(文明15年)に
山科本願寺を建立します。
これ以降、本願寺は門徒を増やし、特に16世紀の
戦国時代には民衆の支持を得て寺勢を増し、
近畿周辺の大名をも攻め滅ぼす程の
力を備えるようになっていきました。
特に大坂の石山に本拠を移して以降の勢いは
信長をも恐れさせ、石山からの退去を求めた事から
信長との間で10年に及ぶ戦が始まりました。
この経緯の中で、講和派の顕如と抗戦派の教如とが
分かれ、後に教如が現在の東本願寺を開き、
本願寺は分裂することとなったようです。
西本願寺は京都駅の西北約800m程の
位置にあります。
堀川通に面し、一辺が350m程もの
敷地を有しています。
撮影: 2010年10月
堀川通りに沿って続く築地塀です。
堀もあり、お寺とはいいながら
要塞の様になっていたと思います。
西本願寺に隣接して興正寺もあり、
築地塀は400m程続いています。
撮影: 2010年10月
西本願寺の南東の角にある北小路門です。
この門の南側に続く堂宇は興正寺のものです。
興正寺はかつて西本願寺の脇門跡だった為でしょうか
外見では一つの寺が続いているように見えます。
ここを訪れた際は、興正寺の堂宇を
西本願寺のものと思い込んでいました。
御影堂門の北にある阿弥陀堂門です。
撮影: 2010年10月
この門も重要文化財となっています。
この阿弥陀堂門から西本願寺の境内に入り、
境内の東北の角に向かいました。
ここに太鼓楼がありました。
撮影: 2010年10月
この太鼓楼は江戸時代に建立されたそうです。
望楼型の造りで、太鼓により時を告げていました。
この太鼓楼は幕末に新選組が屯所として
使った事で知られています。
1865年(慶応元年)3月10日の事だったそうです。
隊員の数が増え、それまでの屯所だった壬生が
手狭になり、ここ西本願寺に移ったと言われています。
新選組は太鼓楼だけではなく、北集会所も
屯所として利用していたようです。
北集会所は現存しませんが、この
ブックセンターのあたりでしょうか。
撮影: 2010年10月
西本願寺は長州藩との関係が深かったようで、
その頃京を追われていた長州藩の浪士の
動きを監視するのに、この西本願寺に居を
構えるのは好都合だったかもしれません。
この近くには経蔵がありました。
撮影: 2010年10月
この経蔵は1678年(延宝6年)に建てられ、
一切経、6,323巻が納められているそうです。
この経蔵は太鼓楼と共に国の
重要文化財に指定されています。
経蔵の南側には、阿弥陀堂と
御影堂がありました。
撮影: 2010年10月
阿弥陀堂は本堂にあたる建物で、
1760年(宝暦10年)に再建されています。
東西42m、南北45mもある大きな建物で
国宝に指定されています。
この阿弥陀堂の左には更に大きな
御影堂がありました。
1636年(寛永13年)に再建され
こちらも国宝に指定されています。
実際にこの二つのお堂の前に立った時、
その大きさに圧倒されてしまいました。
またお堂は綺麗な状態に保たれていて、
正直なところ、国宝になるほどの
歴史があるとは思えませんでした。
御影堂から南に向かうと書院があります。
撮影: 2010年10月
対面所や白書院、黒書院そして南北二つの
能舞台などがあり、書院のいくつかの部屋を含め、
7つの建物が国宝に指定されています。
撮影: 2010年10月
建てられたのは江戸時代との事ですが、大きな屋根が
幾つも折り重なる様子は伝統と格式を感じます。
書院の南東側には塀に囲まれた一角があります。
撮影: 2010年10月
この一角には滴翠園(てきすいえん)という庭園に
聚楽第を移築したと伝わる飛雲閣があります。
飛雲閣も国宝に指定され、書院とともに
非公開となっていますが、前日までに
予約すれば拝願も可能とという事です。
そして、書院の南側にはとても豪華な門がありました。
撮影: 2010年10月
この門は伏見城の遺構と伝わる唐門です。
豪華な装飾が施され、如何にも秀吉の
栄華を今に伝えていると思えます。
撮影: 2010年10月
この門は慶長期(1596〜1615)以降に
築かれた事ははっきりしてるそうですが、
どのような経緯でこの場に建っているのか
明確な事は判っていないそうです。
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東寺(教王護国寺)
(Toji Temple)
東寺は、新幹線に乗って京都駅を出ると
車窓左手に見える大きな五重塔で知られたお寺です。
僕も東寺の五重塔を何度車窓から眺めた事でしょうか。
しかし、京都には何度も訪れているのですが、
東寺には今まで行く機会が有りませんでした。
2007年7月に京都出張の機会があり、その時
出張先となった会議場が東寺に近かったので、
昼休みの時間に東寺を訪れてみました。
九条通りを西に向かうと、東寺の五重塔が
ビルの向こうに姿を現してきました。
九条通りと大宮通の角に
東寺の境内がありました。
築地塀の向こうに新幹線の車窓から眺めた
五重塔が目の前に聳えていました。
どっしりと堂々とした五重塔です。
東寺は東西が250m、南北が400m程の
広い境内となっています。
まず、東大門に向かいました。
この東大門は鎌倉時代に建てられ、
重要文化財に指定されています。
1198年(建武3年)、新田義貞が東寺に籠もる
足利尊氏を攻めた際、尊氏はこの東大門を閉め、
難を逃れた事から不開門(あかずのもん)と
言われているそうです。
再び、九条通りと大宮通りの交差点に戻り、
南大門を目指しました。
築地塀に沿って狭いながらも堀もあり、
城郭の様な印象も受けます。
そして、南大門に至りました。
東寺と書かれた提灯が飾られ、
大寺の威厳を感じます。
この東寺は、794年(延暦13年)に
桓武天皇が京都に遷都された際に、
796年(延暦15年)に羅生門の東側に東国の
鎮護の為に建てられたのが起こりと言う事です。
その後、823年(弘仁14年)に空海に
東寺が下賜され、本格的な造営が始まったそうです。
寺の名前も教王護国寺とされ、
真言宗の根本道場となったそうです。
南大門から境内に入ると、正面に
金堂の堂々としたお堂が現れ、
左手には築地塀が続いています。
築地塀の奥にはいくつかの宿坊があります。
一番南にあるのが潅頂院です。
東寺の二代目の師、実恵大徳の代に建立され、
1634年(寛永11年)に徳川家光が再建したそうです。
築地塀が続いている様子がなんとも言えません。
右手には、金堂や講堂の堂々とした
建物が続いているのですが、
そこは後で行く事になるので、
塀にそって北に向かいます。
そして、総檜皮葺の屋根を持つ
このお堂は、大師堂です。
空海の念持仏の不動明王像が
安置されていたお堂で、
1379年(康暦元年)に消失したものを
1390年(明徳元年)に再建され、
国宝に指定されています。
大師堂を眺めた後、拝顔料を払い、
いよいよ講堂、金堂を巡り、五重塔を目指します。
実のところ、東寺というと五重塔のイメージが強く
これほどの伽藍が残っているとは思ってもみませんでした。
講堂の北側の様子です。
この一画は木々が生い茂り、
夏の太陽が芝生に木々の影を刻み
眩しいような光景でした。
この講堂は825年(天長2年)、空海によって
着工され、835年(承和2年)頃に完成したそうです。
現在の建物は1491年(延徳3年)の
再建ですが、国宝に指定されています。
講堂の内部は大日如来を中心にして
多くの仏像が安置されています。
古い仏像ですが、その姿は今にも動きだしそうな感じで、
暗い堂内で見ていると圧倒されてしまいます。
この講堂の仏像の多くが国宝に指定されています。
さすがに古都・京都の大寺だけの事はあります。
そして、講堂の南にある建物が金堂です。
796年(延暦15年)の創建ですが1486年(文明18年)に焼失し、
豊臣秀頼が1603年(慶長8年)に再建しています。
この金堂も国宝に指定されています。
金堂の仏さまは日光菩薩、月光菩薩を
左右に従えた薬師如来です。
この金堂を出ると、五重塔が目の前に迫っていました。
東寺のシンボルの五重塔です。
空海が東寺を創建した時から
五重塔は建てられていたようですが、
何度も火災にあり、現存するこの五重塔は
1644年(寛永21年)、徳川家光の
寄進によるものだそうです。
高さ55m。
現存する五重塔では最も高い塔です。
太い柱や梁と屋根を支える細工の
繊細さがよくマッチしていました。
五重塔の北側に庭園が広がっています。
庭園越しに眺めた五重塔。
堂々としたイメージの東寺の五重塔が
柔らかな女性的な姿に見えました。
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東福寺
(Tofukuji Temple)
東福寺は東山の東南端に位置するお寺です。
藤原道家が1256年(建長7年)に建立しています。
東大寺、興福寺に並ぶ大寺を祈願し、名前も
その二つの寺から一字ずつとっています。
1319年(元応元年)に火災で伽藍が全焼しますが、
その後再建され、京都五山の一つになっています。
その後も何度も火災に遭っていますが、その都度
復興し、今でも中世の大寺の佇まいを残しています。
北大門から塔頭を抜けて
京阪電鉄の東福寺駅から京阪本線に沿って
東側を南北に走る奈良街道を南に進むと
東福寺の北大門がありました。
撮影: 2011年8月
民家の建ち並ぶ通りに忽然と現れた
北大門の奥には仁王門もありました。
仁王門は、元々は三聖寺の仁王門として
1597年(慶長2年)に建てられた門です。
三聖寺が廃寺になった後は東福寺塔頭の
一つ万寿寺の仁王門となり、その後
東福寺の門となっています。
北大門を抜け、仁王門の前を東に進むと
東福寺の塔頭が幾つも建ち並んでいました。
こちらは退耕庵です。
撮影: 2011年8月
退耕庵は1346年(貞和二年)に創建されています。
応仁の乱の戦火によって荒廃しましたが、1599年
(慶長14年)に安国寺恵瓊によって再興されています。
退耕庵の茶室では、関ヶ原の戦いの前に、安国寺恵瓊、
石田三成、宇喜多秀家らが密談を行ったとされています。
また鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣地が
置かれた為、この退耕庵は殉難者の菩提所になっています。
道の両側に塔頭が並ぶ道を進み、何度か角を曲がるうちに、
同聚院(下左写真)と一華院(下右写真)の前を通りました。
撮影: 2011年8月
この界隈は平安時代の中頃、藤原氏が
建立した法性寺が建っていたそうです。
藤原道長の40歳の慶賀にあたり、道長は
五大堂を立てていますが、同聚院は
その跡地に位置しているそうです。
この先に、東福寺月下門がありました。
撮影: 2011年8月
1268年(文永5年)に一条実経が常楽庵を建立した際に、
亀山天皇より下賜された京都御所の門だそうです。
国の重要文化財に指定されています。
臥雲橋から方丈へ
月下門の先は、車の通行止めがされており、
道幅も狭くなった木橋が架かっていました。
撮影: 2011年8月
この木橋は臥雲橋と言い、洗玉澗という渓谷に架かっています。
塔頭が建ち並ぶそれまでの景色とはうって変わり、渓谷は
楓の木々で埋まり、その奥にも木橋が見えていました。
奥の木橋は通天橋と言い、1380年(天授6年)に
架けられ、国の重要文化財に指定されています。
1959年(昭和34年)に台風で倒壊しましたが、
1961年(昭和36年)に再建されています。
撮影: 2011年8月
洗玉澗には通天橋の奥にも偃月橋が架かっています。
偃月橋は1603年(慶長8年)に架けられ、こちらも
国の重要文化財に指定されています。
臥雲橋からの眺めに満足していましたが、通天橋や
偃月橋からの紅葉は特に名高く、人気のスポットです。
臥雲橋を渡った先に、日下門がありました。
撮影: 2011年8月
夕暮れが近づいていましたが、日下門は
開いており、ここから境内に入りました。
通常、16:30に門は閉められるようです。
日下門から真っすぐ進むと、右手には
本堂が見え、北に廻廊が伸びていました。
撮影: 2011年8月
廻廊の北側を眺めた様子です。
この先に通天橋がある筈です。
撮影: 2011年8月
拝願締め切りは16:00までとの事で、
通天橋に行くことは叶いませんでした。
廻廊を通り過ぎると左手に方丈が見えて来ます。
下の写真は方丈唐門です。
撮影: 2011年8月
方丈唐門は、1909年(明治42年)に建てられ、
昭憲皇太后から下賜されたものだそうです。
方丈の奥には庫裡があります。
庫裡には、方丈の拝願受付がありますが、
ここも既に受付時間は終了していました。
撮影: 2011年8月
夕暮れが迫っていますが、ここから本堂の
周囲を時計方向に一回りしてみました。
本堂周辺の伽藍
本堂の東側に向かうと、
最勝金剛院への参道が続いていました。
撮影: 2011年8月
最勝金剛院は、1148年(久安4年)に
藤原宗子によって建立されました。
一直線に伸びる参道の両脇に鬱蒼と茂る
並木が続き、その並木の向こうに、何か
吸い付けられるような感じになりました。
その一本南には五社成就宮への参道がありました。
撮影: 2011年8月
五社成就宮は小高い丘の上に建っていましたが、
その麓には鳥居が並び、鳥居の先からは
急な石段が続いていました。
1594年(文禄3年)に建立された五社成就宮の本殿です。
撮影: 2011年8月
五社成就宮は、石清水八幡宮、賀茂、稲荷、
春日そして日吉の5つの社を祀っています。
五社成就宮も、元は925年(延長3年)に摂政・
藤原忠道が建立した法性寺の社だったようです。
五社成就宮の本殿の脇には鐘楼もありました。
この鐘楼は1672年(寛文11年)に建てられています。
撮影: 2011年8月
五社成就宮への参道の南には
重要文化財の浴室が建っています。
撮影: 2011年8月
1459年(長禄3年)に建てられた浴室で、
禅宗伽藍としては現存最古の浴室だそうです。
上記で温める「サウナ風呂」形式で、当時
貴重だった水の使用量を抑えていたようです。
浴室の目の前には、思慮池に面し、
堂々とした三門が建っていました。
撮影: 2011年8月
1405年(応永12年)に室町幕府四代将軍・足利義持に
よって建立され、国宝に指定されています。
三門は三解脱門の意味で、涅槃に辿り着く迄に通る
空門、無相門、無左門の3つの門をいうそうです。
撮影: 2011年8月
東福寺三門は高さが22メートルもあるそうで、
見上げる三門の様子に圧倒されていました。
思慮池の周囲を巡り、三門の西側に出ると、
東司(下左写真)と禅堂(下右写真)があります。
撮影: 2011年8月
東司は、禅宗ではトイレを意味します。
室町時代に建てられ、禅宗では最大の便所
建造物で重要文化財に指定されています。
東司の北側の禅堂は、修行僧が禅を行う
禅宗のお寺にとっては重要な場所です。
禅堂は、1347年(貞和3年)に建てられ、
重要文化財に指定されています。
夕暮れに近く、急ぎ足でしたが、本堂周辺の
見所を見て回り、再び本堂を見上げてみました。
撮影: 2011年8月
1881年(明治14年)の大火で法殿と法堂が
焼失し、1917年(大正6年)から1934年
(昭和9年)にかけて再建されたものです。
高さは25.5メートルもあり、昭和に建てられた
木造建造物としては最大規模との事です。
芬陀院
本堂から日下門に戻り、東福寺を出た後に、
真っすぐ西に進すむと塔頭の一つ、
芬陀院が左手にありました。
撮影: 2011年8月
遅い時間でしたが、まだ拝願出来たので、
中に入ってみる事にしました。
芬陀院の庭は雪舟作と伝わっています。
人気のない庭を静かに眺めるひと時は
心豊かな時間になりました。
撮影: 2011年8月
図南亭の丸い窓からの眺めです。
撮影: 2011年8月
障子越しに仄かに室内に入り込む灯りが
とても儚く、心を奪われる光景でした。
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