京都・洛中
DownTown in Kyoto, Japan




古都・京都も街の中心部にはビルが立ち並んでいます。
京都御所や二条城、東西の本願寺の大きな伽藍が
さすがに京都であることを知らしめています。

人通りの多い街中を歩いていると伽藍も目に入らず、
他の大都市と変わらないように思えるのですが、
道端に古の出来事を伝える碑を見つける度に、
京都の街の奥深さを思い知らされます。



四条河原町界隈
(Shijyo Kawaramachi)
Dec. 29, '10

先斗町
(Pontocho)
NEW ! Apr. 28, '21

本能寺跡・四条烏丸界隈
(The Site of Honnouji)
Sep. 18, '08

高瀬川
(Takasegawa)
Jan. 05, '11

三条河原町界隈
(Sanjyo Kawaramachi)
Dec. 13, '14

京都御苑・御所
(Gosho, The Palace)
Mar. 04, '12

相国寺
(Shokokuji Temple)

西陣
(Nishijin)

上七軒
(Kamihichiken)

北野天満宮
(Kitano-Tenmangu Shrine)
Aug. 05, '01

二条城
(Nijyo Castle.)
Feb. 25, '07

壬生
(Mibu)




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四条河原町


四条通り


京都で一番の繁華街は四条通りだと思います。

多くの歩行者が行きかい、通りに沿って
ずっと商店が続いています。



この四条通りを四条烏丸から
東に向かうと四条河原町交差点の手前、
寺町通りの一つ東側の通りが新京極です。



京極とは京の端という意味で、平安京時代には
京の東西に京極通りがあったそうです。

安土桃山時代の天正年間(1573〜1592年)、
秀吉は東京極通りに沿って寺を集め、
これが今の寺町通りになったそうです。

明治に入り寺町通りの一本東の通りを
新京極と名付け新しい繁華街にしたそうです。

この近くには老舗の織物商、
永楽屋伊兵衛のお店もありました。



街中で、こうした老舗のお店が
出会えるのが京都の魅力の一つでしょう。

この先の四条河原町の交差点です。



阪急河原町駅もあり、京都一の繁華街です。

この四条河原町交差点には阪急百貨店もあったのですが
2010年8月に閉店になってしまいました。
最近は、人の流れが変わってしまったのでしょうか・・・

四条河原町から更に東に進むと
高瀬川を過ぎ、鴨川に架かる
四条大橋を渡ります。



夏、この鴨川沿いには川床と呼ばれる
高床式の"床"が川原に並びます。
鴨川を渡る風を浴び、夕涼みしながら
京料理を食べるのは味わい深いひと時でしょう。

四条大橋の辺には出雲阿国の像がありました。



出雲大社の巫女だった阿国は
出雲大社勧進の為の舞を行い、
これが後の歌舞伎に繋がったそうです。

出雲大社の様子は
こちらです。


四条大橋の南東には京都・南座もありました。

鴨川の川床も、出雲阿国が鴨川沿いで
歌舞伎踊りをした際に茶店が
出来たのが由来だそうです。




近江屋跡


この四条河原町のすぐ近くに
坂本龍馬が暗殺された近江屋跡があります。

薩長同盟を成し遂げ、新しい日本の魁を開いた龍馬は
さらに土佐藩を通じ、大政奉還を画策し、ついには
1867年(慶応3年)10月14日(旧暦)に実現します。

将軍・徳川慶喜が大政奉還を
上奏した二条城は
こちらです。


龍馬はその後も、新しい日本の将来を模索し、
幕府若年寄格・永井尚志と会う為、
京に上り、酢屋に投宿しました。

1867年(慶応3年) 11月9日のことです。

酢屋の様子はこちらです。


京は幕府の支配を外れたものの、
新撰組や見廻組の活動は尚さかんで、
京は龍馬にとって危険な街でした。

酢屋に5日ほど逗留した後、
龍馬は河原町四条上ルにあった
醤油商近江屋新助の家に移りました。

その翌日、十津川藩士を名乗る者が、
この近江屋に龍馬を訪れました。
そして、龍馬とたまたま居合わせた
陸援隊隊長・中岡慎太郎が
暗殺されてしまったのです。

11月15日、龍馬33回目の誕生日の夜でした。


この近江屋は今は残っておらず、
碑が残っているだけだそうです。

酢屋を訪ねた後、この碑を探しに
河原町に行ってみました。

碑はなかなか見つからず、
河原町を何度も行き来して、
やっと見つけることが出来ました。



以前、ここを訪れた時は旅行代理店の前に
石碑があるだけでしたが、2011年8月に訪れると
旅行代理店はコンビニエンス・ストアーに代わっており、
案内板も整備されていました。



地図が見られない場合は
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龍馬暗殺の地の碑の建つ河原町通りは
繁華街で、大勢の人が行き来していましたが、
誰もこの碑を気にとめることもなく、
旅行代理店に向けて、カメラを構えている
僕をいぶかしそうに見ている人もいました。


龍馬を暗殺したのは新撰組とも
見廻組とも言われているそうです。
暗殺現場に残された下駄や鞘が、
新撰組に絡んだものだとも言われています。

でも本当にそうだったんでしょうか?

暗殺犯は、龍馬と中岡慎太郎を、
見事な剣さばきで切りつけ、
現場を悠々と立ち去ったし、
龍馬は前日に居場所を変えたのに、
何故幕府が正確に掴めたか、疑問です。

何より疑問なのは薩長同盟を成立させた後、
龍馬は武力倒幕を目指さず、
公武合体に近い考えを持っていました。
それ故、幕府上層部の永井尚志とも会っており、
幕府としては危険人物では無かった筈です。

一方、武力倒幕を目指していた薩摩藩には、
龍馬の考えは危険思想以外の
何物でも無かった筈です。

寺田屋で龍馬が襲われた時、
藩をあげて守った龍馬を、
僅か一年半後に、その薩摩藩が
暗殺したとしたら。。。

龍馬暗殺の碑を眺めながら
そんな事に思いを馳せていました。

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先斗町
(Pontocho)

先斗町は鴨川の西側、四条から
三条までの区間の地名です。

1670年(寛文10年)に、鴨川の護岸工事が
行われ、それによって出来た街です。

四条大橋の西側から細い路地が続いていました。

先斗町は京都の花街・歓楽街として知られています。
先斗町通りに入ると、ネオンの看板を掲げた
飲み屋さんが続いています。


撮影: 2011年8月

お店のなかには、狭い通りに面しておらず、
狭い通路を通って入って行く所もありました。

江戸時代の京都では、間口の広さに応じて
税金を取られていた為、このようなお店も
多く存在していた事と思います。

先斗町通りには赤い提灯を掲げたお店が連なっています。
この提灯は「鴨川ちどり」が描かれたものです。


撮影: 2018年5月

狭い路地を奥に進むと、竹矢来が置かれ
京都の料亭と言ったお店もありました。


撮影: 2011年8月

この先では、路地の幅は更に狭くなって行きました。


撮影: 2011年8月

先斗町では、1712年(正徳2年)に茶屋や旅籠に
給仕の女性を置くことが許され、その後
京都でも有数の花街として発達したようです。

ちなみに先斗町は、ポルトガル語の"Pont"
から付いたという説もあるようです。

先斗町は四条通の北側の一角を言いますが、
四条通の南側も京都らしい町屋の
景色が続いていました。


撮影: 2018年5月

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本能寺跡・四条烏丸界隈



四条烏丸も河原町から続く、京都の繁華街です。
この四条烏丸から西に入ったところに
明智光秀が織田信長を襲った本能寺跡が
あるというので出掛けてみました。


四条通りから一歩入ると、
表通りの賑わいもひと段落です。

夜になってからの散策でしたが
民家の壁際に案内板を見つけました。

茶屋四郎次郎の屋敷跡です。



茶屋四郎次郎は戦国末期の豪商です。
三河の出身で、その縁かどうか、
徳川家康の御用達を勤めていたそうです。

本能寺の変の際に、たまたま堺見物の為に
上京していた家康に、急変を告げ、
家康が命からがら岡崎に逃げ帰った際の
道案内をした事で知られています。

本能寺に向かう際に不意に茶屋四郎次郎の
屋敷跡をみつけて嬉しくなってきました。
この辺りは中京区新町通蛸薬師下ル百足屋町で
本能寺があったところから100m程のところです。

家康が懇意にしていた茶屋四郎次郎が、
信長の京での拠点だった本能寺の
すぐ近くに住んでいたとは意外でした。

裏通りを歩いていくと、数分で本能寺跡です。
本能寺の変の際には、本能寺は現在の場所より
600m程南西、堀川高校の東側辺りにありました。
所在地は中京区油小路通蛸薬師山田町ということです。



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夜だったので見つからないかもと心配でしたが
老人ホームの建築現場の塀の脇に
建っている碑をみつけてホッとしました。



1536年(天正10年)6月2日未明、桔梗の旗指物の
明智光秀の軍勢が、この地を襲撃したのです。

今では周囲は住宅地となっていて、
夜は人通りも少なくひっそりとしています。



1415年(応永22年)に創建され、
1536年(天文5年)に復興された
本能寺の堂宇は、本能寺の変の
戦火で焼失してしまいました。

その7年後、本能寺をこの地に再建しようと、
棟上式を行おうとしたところ、
秀吉の命で今の京都市中京区寺町御池下るに
移転させられたそうです。

何故、秀吉は本能寺を移転させたのか、
とても気にかかります。


本能寺跡の碑を見つけ、
満足した気持ちでホテルへと戻りました。

その途中で木下順庵邸跡の碑を見つけました。



木下順庵は江戸時代初期の儒学者で、
加賀前田家に招聘され、その後、
五代将軍・綱吉の侍講となったそうです。

こうした碑があちこちに見られるのは
さすが京都と思いました。



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高瀬川



高瀬川は1611年(慶長16年)に角倉了以によって
京都と伏見を結ぶ為に開削された運河です。

鴨川の水を引き入れ、かつては十条通りあたりで
鴨川を横断していたそうですが、今は鴨川で分断され、
ここより南は東高瀬川と呼ばれているようです。




上図は左が北です


この高瀬川のうち、二条通から四条通りにかけては
木屋町通りが寄り添う歓楽街となっていて、
幕末には、この辺りで尊皇攘夷派の志士が
活躍していたようで、数々の碑が残っています。

この高瀬川に沿って散策してみました。


四条通を河原町の交差点から
東へ向かうと高瀬川を渡ります。



高瀬川に沿って木屋町通りが南北に通っていますが、
この木屋町通りには飲み屋さんや料理店が
入居している雑居ビルが続いています。

日が暮れると、ネオンの灯りも眩しい程です。

木屋町通りに入ってすぐに本間精一郎遭難の地の
碑があったようですが、それは見落としてしまいました。

本間精一郎は越後出身の尊皇攘夷派の志士ですが、
彼の暗殺犯は薩摩や土佐の志士と言われています。


高瀬川に沿って歩いていくと
角倉了以の顕彰碑がありました。



元立誠小学校の玄関脇に建つこの碑は
1985年(昭和60年)に高瀬川開削
375年記念として作られたそうです。


この近くに立つ土佐藩邸跡の碑です。



1690年(元禄3年)に初めて京都の
土佐藩邸が置かれています。

当初は京都における連絡事務所が
この京都・土佐藩邸の役割だったそうですが、
幕末には土佐藩の活動の拠点になっていました。

実は、この土佐藩邸跡から1ブロック西に行くと
坂本龍馬が暗殺された河原町の近江屋跡です。

龍馬は治外法権だった土佐藩邸に居れば、
襲撃される事もなかった筈ですが、
それが出来ない何か理由でもあったのでしょうか。

近江屋跡の様子はこちらです。


柳の木が並ぶ高瀬川に沿って上がっていくと、
やがて高瀬川の両側に道が通るようになります。

そこに立つ彦根藩邸の碑です。



彦根藩邸跡近くには古びた
地蔵菩薩がありました。

このすぐ隣には瑞泉寺があります。
この瑞泉寺は三条大橋のすぐ西南に位置しており
高瀬川もこの先で三条大通りと交わります。

三条通の高瀬川に架かる橋の袂に
大村益次郎と佐久間象山遭難の碑がありました。



二人が襲撃された地は、ここから200m程北、
御池通りを越えたところにあります。


三条通を渡り、さらに北に向かうと
武市半平太(写真左)と吉村寅太郎(写真右)の
寓居跡がありました。



二人とも土佐出身の幕末の志士。
武市半平太が結成した土佐勤王党に
吉村寅太郎も参加しています。

武力による攘夷実行を目指す吉村は
天誅組を結成し1863年(文久3年)に挙兵しますが、
その挙兵は失敗し、討たれてしまいます。

武市半平太も京や江戸で活躍しますが
1963年(文久3年)に土佐に戻され
その後、罪を得て切腹しています。

武市半平太の寓居跡は
料亭になっていました。



間口の狭い京都の町屋の造り。
その入り口へと続く通路です。
武市半平太もこの光景を
眺めていた事のでしょうか。


高瀬川に沿って更に遡ります。
木屋町通りにはビルがずっと並んでいます。

御池通りの橋の袂には
加賀藩邸跡の石碑がありました。



この加賀藩邸も土佐藩邸と同じく
江戸初期に置かれたそうです。


道幅の広い御池通りを渡り更に北に向かうと
木戸孝允(桂小五郎)の寓居跡がありました。

1864年(元治元年)7月に起きた蛤御門の変で
朝敵となった長州藩は京を終われますが
その後、桂小五郎は京に潜伏します。

その桂を、愛人だった芸妓の
幾松が匿ったと言われています。



この寓居跡はその頃のものでしょうか。
今はその名も「幾松」という料亭になっています。

桂小五郎は明治以降、木戸孝允と
名を改め明治政府の要人となりますが、
1877年(明治10年)に京で亡くなります。

木戸孝允終焉の地もこの近くだそうです。

木戸孝允の生誕地・萩の様子は
こちらです。


この木戸孝允(桂小五郎)寓居跡の向かいに
高瀬川の対岸に村益次郎と佐久間象山の
遭難地の碑がありました。



左が大村益次郎遭難地の碑、
右が佐久間象山遭難地の碑です。

大村益次郎が学んだ適塾の様子はこちらです。
大村益次郎の銅像のある靖国神社の様子はこちらです。
佐久間象山の生誕地・松代の様子はこちらです。
佐久間象山の砲術塾の様子はこちらです。

佐久間象山が襲われたのは1864年(元治元年)、
大村益次郎が襲われたのは1869年(明治2年)です。
こうして高瀬川を歩くだけで、幕末に
いかに多くの命が失われたのかがわかります。

大村益次郎が襲われた実際の場所は
この碑から、少し北に行ったところです。



その場所は京料理屋になっていますが、その店先に
「大村益次郎公遺址」という石碑が立っていました。


大村益次郎公遺址の石碑から北に向かうと
高瀬川の狭い流れに酒樽を積んだ
高瀬船が置かれていました。



高瀬川一之舟入跡です。

舟入は、高瀬川を行き来する高瀬舟から
荷物を出し入れしたところで、当時は
9箇所程、設けられたそうです。

この一之舟入のすぐ前に
「がんこ」という料亭がありました。



高瀬川源流の地の石碑が立っていました。
ここは国の史跡になっていて、
高瀬川の取水口も見られるそうです。

この「がんこ」は、二条通のすぐ南にあります。
二条通りを越えた北側には善導寺がありました。



永禄年間(1558〜1569年)に創建され、
1788年(天明8年)に六角堂あたりから
この地に移築されたそうです。

真っ暗なこの山門の写真を撮っている時、
不思議な胸騒ぎを感じたのですが、後で調べてみると
幕末に島田左近が暗殺された地だったようです。

島田左近は、安政の大獄の際に
尊皇攘夷派の志士を多数検挙した人物で、
彼の暗殺以降、京では「天誅」という
佐幕派に対する暗殺が横行したそうです。



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三条河原町界隈



瑞泉寺


京阪三条駅の近くに架かる三条大橋。



この三条大橋の袂に瑞泉寺があります。



この瑞泉寺は安土桃山時代、秀吉の
甥だった豊臣秀次、所縁のお寺です。

豊臣秀次は子の出来なかった秀吉の
養子となり関白職まで昇りつめますが、
秀吉に嫡子・秀頼が生まれると疎んじられ
1595年(文禄4年)に高野山で自害させられます。

高野山の様子は こちらです。

秀次の妻子ら39人は三条大橋西畔の河原で惨殺され、
その遺骸はその場で葬られていたそうです。
その後荒れ果て、高瀬川の開削中に角倉了以が
その塚を発掘し、堂宇を建てたそうです。



これが今の瑞泉寺でしょうか。

この境内の片隅に、秀次のお墓がありました。



秀吉にその人生を弄ばれた秀次ですが
角倉了以によって、その魂は
慰められているのでしょうか。




酢屋・坂本龍馬寓居跡


三条河原町通り界隈には
幕末にゆかりの史跡がいくつかあります。

鴨川に架かる三条大橋から西に向かい
高瀬川を渡り、小路に入ったあたりに
古びた建物がありました。



この店は酢屋という屋号で、
幕末の頃、材木商中川喜兵衛の
家だったところです。

昔の京都はこんな感じのお店が
軒を連ねていたんでしょうか。


酢屋の場所はこちらです:


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この酢屋は幕末に坂本龍馬が隠れていたところです。



京都における海援隊の拠点にもなっていて
1867年(慶応3年)10月の大政奉還の後も、
新しい日本の将来を模索し奔走していた竜馬は、
幕府若年寄格・永井尚志と会う為、
京に上り、この酢屋に投宿しました。

慶応3年(1867) 11月9日のことです。

その後、河原町の近江屋に移った龍馬は
11月15日に暗殺されてしまうのでした。

近江屋の様子は
こちらです。





池田屋跡


この酢屋から道一本離れた三条通り沿いには
池田屋事件で知られる池田屋跡がありました。



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池田屋事件は、龍馬の暗殺から
遡る事、4年前の1864年(元治元年)6月、
長州藩、土佐藩や肥後藩を中心とする
尊王攘夷派志士が、京都の焼き討ちについて
協議のために集合する事を突き止めた
新撰組がこれを急襲した事件です。



現在は近代的な雑居ビルとなった池田屋跡。
石碑がなければ、かつてここで、凄惨な
事件が起きたとは想像も出来ません。




三条大橋の擬宝珠の一つには
この池田屋騒動の際の刀傷と
言われる傷跡が付いていました。




長州藩邸跡


この池田屋跡から、更に北に向かうと
京都市役所があります。



1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)にかけて
建てられた趣のある洋風建築物です。

この京都市役所東側に建つ
京都ホテルオークラのビルが
江戸時代に長州藩邸だったところです。



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このホテルオークラのビルの一角に
木戸孝充(桂小五郎)の像がありました。



明治維新の立役者の一人の木戸孝允。

幕末期には桂小五郎という名で
活躍した木戸孝允。

一時、京都で勢力を跋扈した長州藩も
1863年(文久3年)8月18日の政変で
京都を追われた長州藩。
その翌年の1864年(元治元年)の蛤御門の変で
薩摩・会津両藩との戦いに敗れ
木戸孝允も京の市中に潜伏します。

木戸孝允・潜伏先の様子は
こちらです。


その後、高杉晋作の挙兵で
開国論に統一された長州藩から
指導者として迎えられた木戸孝允は
坂本龍馬の仲介で薩長同盟を成し遂げ
倒幕、明治維新へと大きな役割を果たします。

高杉晋作が挙兵した
下関・功山寺の様子はこちらです。


明治の世になってからは日本の行く末を案じ、
憂鬱な日々を送っていたという木戸孝允。

彼の目に映る幕末・明治維新は
何だったのでしょうか。



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京都御苑・御所



碁盤の目の様に区画され
多くのビルが建ち並ぶ京都の中心街。

その東北、鴨川の少し西側に東西700m、
南北1kmもの広大な公園が広がっています。




ここが京都御苑で、ここには、京都御所や
大宮御所、仙洞御所など歴代天皇の宮殿や政庁、
退位した天皇や皇后などの宮殿があります。

平安京が造営された際、天皇の在所である内裏は
今の御所の西、約2km程の所にありました。

平安京の街並みでは、京の東の端が鴨川、
西の端が桂川になっていて、丁度その
中心に内裏は位置していました。

平安時代に入り、戦乱により内裏が焼失した為、
内裏を離れて里内裏と呼ばれる天皇の外戚の
屋敷に皇居を移す事が度々あったそうです。

里内裏の一つの土御門東洞院殿が
鎌倉中期には天皇の在所として定着したようで、
ここが現在の京都御所にあたります。



江戸時代に、御所は現在の規模となり、
周囲には公家の屋敷などが建ち並んでいましたが
明治維新で東京に遷都されると、公家屋敷が
荒廃したため、整備され現在の姿になっています。




京都御苑(1)
堺町御門から大宮御所正門へ
Mar. 02, '12

京都御苑(2)
御所建春門から乾門へ
NEW ! Mar. 04, '12

京都御所

大宮御所

仙洞御所






京都御苑(1)
堺町御門から大宮御所正門へ


2009年6月、少々時間があったので、
京都御苑に立ち寄ってみました。

京都駅から京都市営地下鉄烏丸線に乗車し
丸太町で下車し、丸太町通りを東に向かうと
通りに沿って京都御苑の石垣と樹木が続き、
その先に堺町御門がありました。



堂々とした歴史を感じさせる立派な門です。

幕末の頃、この堺町御門を挟んで、
東側に鷹司邸、西に九条邸が建っており、
長州藩がこの門の警護にあたっていました。


1863年(文久3年)8月18日、当時尊王攘夷を
旗頭に活発な活動をしていた長州藩を、
孝明天皇、公武合体派の公家そして
会津藩と薩摩藩らは政変をお越し、
長州藩を京から追放してしまいました。

長州藩が堺町御門に駆け付けた際、
会津藩と薩摩藩が門を固めていたそうです。


堺町御門から入った京都御苑の様子です。



砂利の広い通路が苑内に配置されています。

堺町御門の左手には九條家にあった庭園の遺構である
九條池と拾翠亭があったのですが、見逃してしまいました。

そして、堺町御門のほぼ正面には
鷹司邸跡がありました。

鷹司家は五摂家の一つで、幕末には
30年の長きにわたって関白を務めた名家だそうです。



1863年(文久3年)の8月18日の政変で京を追われた
長州藩は、翌1864年(元治元年)に、禁門の変を起こします。

この時、蛤御門で敗れた長州軍は、この鷹司邸に立て籠もり、
松下村塾一の逸材と言われた久坂玄瑞は、
太政大臣だった鷹司政通に御所への参内を訴えますが
これを拒まれ、この鷹司邸で自害したそうです。


鷹司邸から東北に向かって歩いて行くと
紀貫之邸があったとされる一角がありました。



当時は桜が植えられ、綺麗な庭園だったという
桜町屋敷もこの辺りにあったようです。

この北側には綺麗な築地塀に
囲まれた一角が現れました。



この築地塀の向こうが仙洞御所と大宮御所です。

仙洞御所は江戸時代初期の後水尾上皇の
御所として建てられたそうです。

大宮御所は、後水尾天皇の
皇后・東福門院和子の御所でした。

仙洞御所には建物は残っておらず、
庭園だけだそうですが、どちらの御所も
事前に申請すれば参観可能だそうです。


築地塀に沿って北に向かって歩いて行くと
趣のある門が建っていました。



仙洞御所正門です。

そして、延々と続く築地塀に沿って北に歩くと
今度は大宮御所の正門が現れました。



仙洞御所や大宮御所を訪れる際には
この大宮御所正門から中に入れるそうです。

大宮御所の北側の築地塀です。



東側には大文字山が見えていました。





京都御苑(2)
御所建春門から乾門へ


大宮御所の西北側には、広い砂利の
通路を隔てて御所の築地塀が続いていました。

長く続く築地塀の南端に近いところに
立派な門がありました。



建春門です。

檜皮葺きの屋根は向唐破風というそうです。
以前は勅使が御所への出入りに用いたそうですが
明治以降は皇后、皇太子や海外の国賓が
用いられているそうです。

築地塀に沿って、御所の南を西に向かいました。
広い砂利の通路に沿って築地塀が続く景色は、
日本離れした光景で、中国の影響を受けて築かれた
平安京の面影が残っているように感じます。

御所の南中央にも立派な門がありました。



御所の正門にあたる建礼門です。
天皇だけが出入りできた門です。

檜皮葺の屋根に装飾された門には
気品と威厳を感じました。

先ほどの建春門もそうでしたが、
もっと近づいて写真を撮りたかったのですが、
その威厳ゆえに、ためらわれました。

建礼門から南には、広い通りが伸びています。



この通りは建礼門前大通りと呼ばれ、5月の葵祭り、
10月の時代祭の際には建礼門院からの行列が
この通りを通って京都の市中へと繰り出すそうです。

この通りの左右は木々が生い茂っていますが
江戸時代まではここに公家屋敷が連なっていました。


御所の南西角の様子です。
通路の真ん中に椋の木が生えていました。



この辺りにはあった屋敷にちなみ、
清水谷家の椋と呼ばれています。

1864年(元治元年)の禁門の変の際、
長州藩遊撃隊の総督だった来島又兵衛は
この椋の木の近くで討死したと伝わっています。

この近くの御苑の様子です。



当時は暑かったのですが、緑溢れる
木々の様子は高原の様にも思えます。


御所の西側の築地塀に沿って北に向かいました。



強い日差しの中、広い京都御苑を歩くのは
かなりの体力を必要としますが、所々にある
門がアクセントになりました。

上の写真左は宜秋門、右は清所御門です。
宜秋門は摂家や親王が用いた門、
清所御門は台所口にあたる門です。


御所の周囲を半周し、京都御苑の
西側にある門を幾つか訪ねました。

まず訪れたのは蛤御門です。




1864年(元治元年)、前年の八月十八日の政変で
京を追われた長州藩は、この年、京での復権と、
会津藩主・松平容保の排除を目指し京に攻め上ります。



長州藩と、御所を警護する会津藩、
薩摩藩との間で武力衝突が生じました。
この戦いは「禁門の変」と呼ばれています。

会津藩が守る蛤御門周辺での戦いが最も激しく
禁門の変は別名、蛤御門の変と呼ばれています。



蛤御門には当時の銃弾の跡が残っていました。

この時の戦火は京の町も襲い、
3万もの家が焼かれたそうです。

この禁門の変で敗れた長州藩に対し
幕府は第一次長州征伐を行い、
激動の流れは更に加速されたのでした。


蛤御門の北にあるのが中立売御門です。



当時、筑前藩がこの門を守っていましたが、
長州藩はこの門から御所に迫ったそうです。

中立売御門から一条邸跡を
隔てて北側には乾門がありました。



禁門の変の際、薩摩藩が警護していた門です。
京都御所の周囲を固めるこれらの門は
いずれも格式があり、見事な門でした。

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北野天満宮


再び京福電鉄に乗り、今度は北野線の終点
北野白梅町で下車し、北野天満宮に向かいました。

北野天満宮は学問の菅原道真を祀る神社で、
梅が綺麗な事で知られています。

僕が訪れたのは4月2日で、
梅にはもう遅い時期だったのですが、
遅咲きの紅梅が境内に咲いていました。



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