下関・長府
Shimonoseki, Japan
山口県下関市
ふぐ料理で知られている本州最西端の街です。
下関というと、九州に向かう夜行寝台特急が
関門トンネルの手前で機関車交換の為に長い時間
停車する駅という事で親しみを持っていました。
実際、寝台列車に乗り下関駅のホームに降り立って
機関車交換の様子をカメラに収めた事も何度もあります。
その下関は古くは赤間関、そして幕末の頃は馬関(ばかん)と
呼ばれており、日本史に何度も登場する歴史ある街です。
特に、幕末の頃、長州藩の倒幕活動の中心になった
高杉晋作が本拠地のように活躍した街がこの下関でした。
幕末の歴史小説をいくつか読むうち、いつかは
この下関に行ってみたいとの思いが募っていましたが、
2004年の7月にその機会が訪れました。
新下関で山陽新幹線を下り、下関駅に向かいました。
下関駅のホームに下りたのは、ほぼ20年ぶりのことだと思います。
下関駅を出て、先ず向かったのは白石正一郎邸跡です。
白石正一郎は高杉晋作をはじめ多くの幕末の志士の協力者で
高杉が藩主から下関防衛を命じられた際、この白石邸を訪れ、
この家で、当時の階級制度を根底から崩した奇兵隊を創設したそうです。
白石正一郎も協力を惜しまず、自らも入隊したそうです。
炎天下のなか、駅を出て国道沿いに歩くと
白石正一郎邸跡の史跡がありました。
白石正一郎は、長州藩の支藩の清末藩の
御用商人だった人だそうですが、
尊王倒幕運動に傾倒したあまり
財産を失ってしまったそうです。
かつては家の前まで海が迫っていたそうですが、
今はその面影もありません。
しかし、この地で後の徳川幕府倒幕の主力となった
奇兵隊が創設されたと思うと、感慨深いものがありました。
ここからしばらく裏道を歩いていくと、
「高杉東行終焉の地」の碑があります。
高杉晋作が僅か27歳と8ヶ月の短い生涯を
終えたのは1867年4月14日のことです。
奇兵隊を創設し、幕府の第一次長州征伐以降
恭順派が政権を握っていた長州政府に対し
僅か80名の兵を率いて決起し、藩内を倒幕に統一し、
第二次長州征伐では小倉藩との戦いを指揮し
これに勝利した、高杉晋作。
"面白き こともなき世に おもしろく"
これが高杉晋作の辞世です。
激動の時代をまさに駆け抜けたと言った感じがします。
裏寂れた街角の古びた建物の裏にある終焉の地の碑。
生前、華々しい活躍をした高杉晋作からは
想像出来ないような寂しい場所にありました。
通りの端には、神社がありました。厳島神社です。
ここには、その昔、長州藩(萩藩)の
新地会所という役所の置かれたところで、
恭順派政府を倒そうと決起した晋作が
最初に襲った所だそうです。
これで、下関駅の近くの高杉晋作ゆかりの地の
散策を終え、バスで関門海峡の方に向かいました。
先ずは、赤間神社です。
この神社は、壇ノ浦の戦いで平家が破れ、
入水した安徳天皇を祀ったところです。
奇兵隊創設にも力を貸した白石正一郎は倒幕活動に
資金をかけ過ぎたため、ついには破産してしまい、
明治維新後はこの赤間神社の宮司となったそうです。
参道の階段を登り、竜宮城のような外見の拝殿に向かうと、
その左手に耳なし芳一のお堂がありました。
全く、うっかりしていましたが、平家滅亡と
耳なし芳一の話は切っても切り離せません。
お堂のすぐそばには平家七卿のお墓があり、
そのお墓はとても陰気な感じです。
夜な夜な芳一を呼び出して琵琶の音色で
平家物語を聞かせた平家の武士の怨念が
今も残っているような感じでした。
赤間神社のすぐ目の前には
関門海峡が広がっていました。
対岸の門司の街が手に取るように見えます。
左手には高速道路の大きな吊り橋が
海峡を一跨ぎしていて雄大な景色です。
しばらくこの関門海峡を眺め、火の山公園に向かいました。
火の山公園からは、関門海峡の眺めが一望出来るそうです。
一時間に一本の割合で、下関駅から赤間神社を通り、
火の山公園に向かうバスが走っています。
赤間神社のすぐ先が壇ノ浦、そこで左にハンドルを切り
高台の火の山公園に行って急坂を登って行きます。
以前はロープウェーが運行していたのですが、
今は廃止されていて、このバスが唯一の公共の足です。
山頂でバスを下り、早速展望台に向かいました。
ガイドブックで、この火の山公園からの雄大な写真を見て、
楽しみにしていたのですが、生憎この日は靄がかかっていました。
第二次長州征伐(四境戦争)の時には、
小倉藩を攻める高杉晋作の戦いぶりを、
ここから坂本竜馬が観察していたそうです。
靄にかすむ関門海峡を眺め、今度は長府に向かいました。
先ほど乗ってきたバスはすぐに折り返してしまったので、
売店で呼んでもらったタクシーで向かいました。
山を下り、崖の下を海岸に沿って北東に進みます。
途中、古びた石垣の下を通ったのですが、
運転手さんに、ここが前田砲台の跡だと教えて頂きました。
幕末、攘夷を掲げる長州藩は、関門海峡を通る外国船に
砲撃を加え、諸外国の連合軍に占領されてしまったのです。
その外国船に砲撃を加え、占領されたのがこの前田砲台です。
前田砲台を過ぎ、集落が現れるとそこが長府の町並みです。
古くは仲哀天皇・神巧皇后・応神天皇ゆかりの
西暦193年建立の忌宮神社が歴史に登場し、
その後7世紀には長門の国府が置かれたそうです。
その後、江戸時代には長府は
長州藩の支藩の城下町でした。
往来の激しい国道からそれて左折すると、
古い町並みになりました。
まずは
功山寺
に向かいました。
旧山陽道に面して立つ総門をくぐり、
階段を登っていくと、山門に出ます。
寺の歴史を物語るような大きな樹木の間から
日が差し込み印象的な眺めです。
下の写真は、山門から境内を眺めたところです。
功山寺の本堂は、国宝に指定されています。
鎌倉時代末期に建立されたこの功山寺も
幕末の頃、歴史の舞台に登場します。
第一次長州征伐後、恭順派が政権を握っていた
長州藩に対し、高杉晋作は80名ほどの
兵を率いクーデターを起こしたのですが、
高杉は挙兵にあたり、この功山寺を訪れ、
当時この功山寺に匿われていた三条実美を
初めとする5名の攘夷派の公卿に、
「ただいまより長州人の肝っ玉をお目にかけ申す」と
挙兵の決意を述べたといわれています。
その挙兵の時の高杉晋作の様子を
表した銅像が境内にありました。
馬上颯爽とした高杉ですが、挙兵の時には
その胸にどんな思いがよぎっていたのでしょうか?
安政の大獄で非業の死を遂げた師・吉田松陰からの
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」
との教えが高杉に大きな影響を与えたそうです。
それまでの高杉は、狂気に走る長州藩にあって、
重要な場面からは逃げるような行動も多かったのですが、
この挙兵を不朽の見込みありと捉えていたのでしょうか。
この高杉の挙兵により、倒幕へと歴史は一気に動いていきました。
高杉の挙兵の当時のことを思いながら
功山寺の境内を散策した後、
長府の町並みを歩いてみました。
国宝の本殿の功山寺もさることながら
長府の町並みもとてもいい雰囲気でした。
当時の面影を残す路地があちこちにあるようですが、
その中でも古江小路と横枕小路がもっとも
当時の景観を残しているそうです。
これは、古江小路の菅家長屋門です。
古江小路は、比較的道幅が広く明るい感じです。
こちらは横枕小路
細い裏通りと言った感じです。
白壁や土壁の残る小道。
そこに竹刀を持って歩いている
白袴の若い女の人に出合いました。
時代が何百年も遡ったみたいでした。
一日だけの小旅行でしたが、平安時代から
明治までの歴史に触れて帰ってきました