日光市内・神橋
日光観光の玄関口は東武鉄道
日光線の終着駅、東武日光駅です。
東武日光線の乗車記はこちらです。
立派な三角屋根の東武日光駅前から
バスに乗って東照宮を目指しました。
JR日光駅や東武日光駅からは、清滝や
中禅寺湖へ向かうバスが頻繁に発着していて
待つほども無く、バスに乗ることが出来ます。
日光の市街を通り、5分程で
神橋のバス停に到着しました。
バス停の傍らにあった、
立派なお土産物屋さんです。
明治時代に創業した日光物産商会の本店で、
登録有形文化財に指定されている建物です。
道路を隔てた反対側には
天海大僧正の像もありました。
この像の写真は、帰りの
バスの中から撮ったものです。
天界大僧正は家康公の信任の厚かった人で
家康公の遺言に従い、久能山から日光に
家康公の亡骸を改葬しています。
天海大僧正のお墓は、日光二荒山や
滋賀県大津市の坂本にあります。
そして、「日光二社一寺」巡りの
スタートを神橋から始めました。
入り口で入場料を支払い、神橋に向かいます。
赤い鳥居の奥に、朱塗りの神橋が見えています。
神橋は、日光東照宮を造った際に
参道への架け橋として架けられたものと
思い込んでいましたが、奈良時代の末に
日光開山の折に架けられたそうです。
この神橋には、日光を開山した勝道上人が
この地に差し掛かり、大谷川の流れに
行く手を遮られ困っていたところ、
川の北側に深沙大王が姿を現し、
手にした二匹の蛇を放ち、
橋を架けたとの言い伝えがありそうです。
鳥居の脇には朱塗りの文字で
「下乗」と書かれた石碑もあり、
さすがに格式を感じました。
橋に向かう途中に
小さな祠を見つけました。
「橋姫神」という女神様が
祀られていました。
対岸には、勝道上人に橋を架けた
深沙大王が祀られ、男女一対の神様が
橋の恒久的な安泰と橋を渡る人の
安全を祈っているそうです。
そして、いよいよ神橋に差し掛かります。
1997年(平成9年)から8年にわたって
改修工事が行われており、
朱色の漆塗りが鮮やかでした。
神橋は江戸時代初期に現在の形となり、
それ以来、約20年毎に修復工事が行われたようです。
乳の木と呼ばれる橋桁を川の両側の岩盤に差込み、
鳥居の形をした石の橋脚でそれを支えています。
橋桁の上に橋板を渡し、橋の左右には高欄が作られ
擬宝珠や飾り金具で装飾されています。
川を渡り終えた対岸で柵があり、
再び入り口に引き返すことになります。
橋の向こうにある社が
深沙大王を祀ったものでしょうか。
近くを走る国道の橋から眺めた
神橋と大谷川の渓谷の様子です。
大谷川の清流が流れ、新緑も綺麗で
赤い神橋が綺麗に映えていました。
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日光輪王寺
世界遺産になっている日光の社寺は
「二社一寺」と呼ばれる東照宮、日光二荒山
そして、この日光輪王寺の事です。
日光二荒山やこの輪王寺は
奈良時代からの歴史を誇り、
長らく山岳信仰の聖地でした。
江戸時代に東照宮が建てられた後は、
日光山内のすべての堂宇を「日光山」または
「日光三所権現」と呼び、神仏を区別せずに
信仰の対象となっていたそうです。
そんな経緯もあり、輪王寺の建物は
日光の各地に広く分散しているようですが、
ここでは、三仏堂の辺りを中心に紹介しようと思います。
山の上の二荒山の近くにある、
徳川家光公を祀る日光廟大猷院も
輪王寺に属していますが、
その様子はこちらで紹介しています。
神橋を渡り、日光山への入り口に
世界遺産に認定された事を示す
石碑が建てられていました。
この石碑の脇を抜け、階段を上って
輪王寺を目指しました。
輪王寺へ至る途中、石垣で囲まれた
参道が続いています。
石垣がいつ築かれたのかは判らなかったのですが、
折れ曲がった参道は、お城の枡形のようにも思えます。
坂道の途中には御旅所がありました。
この御旅所は日光東照宮に属しています。
春と秋に行われる神輿渡御祭の際に
神輿がここに遷るそうです。
この御旅所の前の坂道は
石畳の脇に芝の部分がありました。
家康公を久能山から日光へ改葬した際の
行列を模した百物揃千人武者行列の際に
騎馬が通る為だそうです。
その千人武者行列が上る坂道を振り返った様子です。
杉でしょうか、木々が深く生い茂り
日に照らされた新緑との組み合わせが綺麗でした。
坂道を登ると、再び、
立派な石垣が現れました。
やはり素人目ながら長い年月に
晒された石垣のように思えます。
家康が、縁もゆかりもなかった日光に埋葬するようにと
遺言に残したことは、長い間疑問だったのですが、
万が一の際に、この日光の山を砦に戦う事を
想定していたのであれば、それも肯けるなと、
この石垣を見て初めて思いました。
この先に、日光を開山した
勝道上人の像がありました。
勝道上人が日光を開山したのは
766年(天平神護2年)と伝えられています。
大谷川の北側に、千手観音を安置する
お堂を建てたのが日光の歴史の始まりです。
平安時代に入り、天台宗の高僧・円仁が
848年(嘉祥元年)に来山し、三仏堂や
常行堂、法華堂を建てたそうです。
戦国時代末期には豊臣秀吉公の小田原征伐の際に
北条氏に加担したとされ寺領を没収されますが
江戸時代に入ると家康の信頼の篤い、
天界大僧正が貫主となり、復興が進んだそうです。
日光といえば徳川家康公を祀る東照宮が
最も知られていると思っていたので、
はるか昔から、この地に立派な堂宇を持つ
お寺があったとは驚きでした。
勝道上人像から、道なりに進んだ左手には
輪王寺本堂にあたる三仏堂があるのですが、
そこを通り過ぎ、まずは黒門を目指しました。
黒門は輪王寺表門にあたり、1871年(明治4年)の
輪王寺に発生した火災で焼け残った唯一の建物で、
重要文化財に指定されています。
黒門を眺めたあと、三仏堂に向かいました。
階段の上に聳える三仏堂は実に大きな建物です。
輪王寺は、男体山、女峰山、
太郎山の三山を神体としており、
三仏堂には、男体山の千手観音、
女峰山の阿弥陀如来そして太郎山の馬頭観音と
これら三体の本尊が安置されています。
一番外側の柱から柱の距離が34メートルもあり、
日光で最も大きな建物ですが、中世には
もっと大きな建物だったそうです。
三仏堂から眺める黒門の様子です。
三仏堂の三体の仏様を拝んだ後、
その裏にある大護摩堂と呼ばれる
祈祷所に向かいました。
三仏堂が国家安泰を祈願するお堂で、
大護摩堂は庶民が護摩を焚いて
祈願する場所という位置づけです。
この大護摩堂は1988年(平成10年)に
完成した新しい建物で、その東側には
護法大堂と呼ばれる古い建物が建っていました。
下の写真は確か、大護摩堂の
傍らにあった小さな祠です。
新緑に照らされ趣のあるお堂ですが
どんな謂れがあるのか、分かりませんでした。
こちらは三仏堂と大護摩堂の
間に建つ相輪とうです。
この塔は比叡山延暦寺にある
塔を模して建てられたものです。
比叡山延暦寺の様子はこちらです。
三代将軍・徳川家光公の発案で、
天海大僧正が建造したもので、
高さは13.2メートルあるそうです。
この相輪とうの下を通る表参道を
奥へと進み、日光東照宮を目指しました。
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日光東照宮
日光東照宮は、江戸幕府を開いた
徳川家康公の廟所です。
徳川家康公の生地、岡崎の様子はこちらです。
岡崎城の様子はこちらです。
家康公がこの世を去ったのが1616年(元和2年)、
大阪夏の陣の翌年で、豊臣家の滅亡を
見届けてからの死でした。
一旦、久能山に葬られた家康公の亡骸は
翌1617年(元和3年)に日光に改葬されています。
家康公は、小さなお堂に祀るようにと遺言したそうですが、
三代将軍・徳川家光公は1634年(寛永11年)に
日光参拝し、社殿の大造営を着手したそうです。
こうして、日光東照宮には陽明門を初めとして
豪華絢爛な建物が今に残されています。
日光東照宮には、8棟の国宝、34棟もの
重要文化財の建物があるそうです。
一の鳥居 〜 陽明門
輪王寺相倫とうを眺めた後、
表参道を歩いて東照宮に向かいました。
表参道の先には、石の大きな鳥居が現れ、
金色の三つ葉葵の紋に「東照宮」と書かれた
大きな石碑が建ち、厳かな雰囲気となります。
このまま真っ直ぐに鳥居をくぐろうと思っていましたが
ふと左手を見ると御仮殿が特別公開中だったので
まずはそちらに向かいました。
御仮殿は、本社を修理する際に
御祭神を一時的に安置する建物で、
1639年(寛永16年)に建立されたそうです。
多くの観光客が行き来していた表参道から
一歩入った御仮殿を訪れる人も少なく、
静かな佇まいでした。
この御仮殿は、仮とはいうものの、
東照宮では本社の修理が頻繁だったので
常設の建物が造られたそうです。
御仮殿から表参道に戻り、いよいよ
大鳥居をくぐって東照宮に向かいます。
この大鳥居は福岡藩主・黒田長政公が
1618年(元和4年)に奉納したもので、
高さ9mもあるそうです。
福岡城の様子はこちらです。
大鳥居をくぐって左手には
立派な五重塔が聳えていました。
この五重塔は、元々は小浜藩主・酒井忠勝公が
1650年(慶安3年)に寄進したものです。
1815年(文化12年)に焼失してしまったので、
3年後に再び小浜藩によって再建されています。
東照宮の造営とその維持には、各藩の多大な
出費の上に成り立っている事がわかります。
五重塔の反対側には東照宮の
社務所へと続く道が延びていました。
苔むした石垣とその上の赤い柵、
そして通路の両側に生い茂った
高い杉並木の様子が印象的でした。
階段を上り、総朱塗りの表門に向かいます。
門の左右の仁王像は高さが4mもあるそうです。
気がつかなかったのですが、表門の背後には
狛犬の像があるそうで、仏教の仁王像と
神道の狛犬が一緒にある門は珍しく、
この日光表門と東大寺だけだそうです。
表門を抜けて、真っ先に目に付くのは
鉤状に並ぶ下神庫、中神庫と
上神庫の三つの建物です。
上の写真左が上神庫と中神庫、右の写真が下神庫です。
東大寺正倉院の校倉造りを模した建物で、
春と秋に行われる百物揃千人行列や
流鏑馬の道具が収納されているそうです。
この三神庫と向かい合うように
杉木立の中に建っているのが神厩舎です。
神厩舎には神馬が居て、
多くの観光客がカメラを向けていました。
神馬は、雄の白馬というのが条件だそうで、
こうして白い神馬を実際に見たのは
伊勢神宮に次いで2度目の事でした。
伊勢神宮の様子はこちらです。
この神厩舎には、有名な三猿の彫刻があります。
見ザル、言わザル、聞かザル」の彫刻です。
猿は馬を病気から守るとされているそうで
室町時代までは、実際に
厩で猿が飼われていたそうです。
多くの人で賑わう神厩舎の奥には
三代将軍・家光公が寄進した
青銅製の唐銅鳥居があり、これをくぐると
左手に一切経を収める輪蔵が建っていました。
この輪蔵の先の階段を上ると
いよいよ陽明門が見えてきますが、
その手前左手に、鳴竜で知られる
本地堂がありました。
この本地堂の内陣の天井に描かれた
竜の頭の下で拍子木を打つと、
ピーンと張り詰めたような音が鳴り響きます。
本地堂の手前、鼓楼の脇には
廻燈籠ばありました。
1643年(寛永20年)にオランダから贈られたそうですが、
燈籠の上部の葵の御紋が全部逆さになっています。
確か、陽明門を挟んで反対側には
伊達政宗が奉納した南蛮鉄燈籠も
あった筈ですが見逃してしまいました。
陽明門 〜 奥社
唐銅鳥居をくぐったところから見えていた
石段の上に聳えていた絢爛豪華な門、
陽明門にいよいよ差し掛かります。
日光東照宮の象徴とも言えるこの門は
もちろん、国宝に指定されています。
門には煌びやかな装飾がなされ、
一日中眺めていても飽きず、
日が暮れるのも忘れてしまう事から
「日暮門」とも言われるそうですが
この豪華な門を見ているとそれも頷けます。
この陽明門には500を超える
彫刻がなされているそうです。
後水尾天皇の筆による東照大権現の勅額と
陽明門の脇にある随身の坐像です。
煌びやかな門に目を奪われてしまい、
「魔除けの逆柱」や通路の天井に書かれた
狩野探幽による「昇竜」と「降竜」など
全く気が付かずに通り過ぎてしまいました。
陽明門の左右に延びる廻廊です。
一枚板の透かし彫りが極彩色に彩られていて
この廻廊も国宝に指定されています。
陽明門をくぐり、更に進むと
正面に唐門があります。
陽明門ほどの煌びやかさはありませんが、
全体が白く塗られ、唐木の寄木細工で
作られた昇竜や降竜の彫刻が施されています。
この唐門は、東照宮本社の正門にあたり
国宝に指定されています。
唐門の奥には拝殿、
そして本殿と続いています。
唐門の右手にある祈祷殿です。
江戸時代にはここで日光門主が
護摩を炊いて天下泰平を祈願したそうです。
この祈祷殿の前を通り、右手に進むと
奥社へと続く東回廊があります。
その入り口で再び入場料を払うと
三猿と共に名高い「眠り猫」の彫刻があります。
回廊の柱の装飾の一つなので、
大きな注意書きが無ければ、
それとは気が付かないような程
さりげない彫刻です。
この眠り猫の彫刻の回廊を抜けると
徳川家康が眠る奥社へと至る
参道に坂下門が建っています。
江戸時代では将軍以外は、ここから先には
立ち入る事が出来なかったそうです。
坂下門から奥宮へと続く長い石段です。
石段は一段毎に一枚岩を用いているそうで、
石の柵は一本岩からくりぬいて作られているそうです。
石段の脇には杉の並木が続き、
多くの参拝客が石段を上り下りしていますが
深閑とした雰囲気を醸し出しています。
石段の途中からは東照宮の
煌びやかな拝殿や本殿の建物を
杉の木々の間から眺める事が出来ました。
長い石段を上り詰めると奥社です。
唐銅鳥居がその入り口に建っていました。
従来の石の鳥居から1683年(天和3年)に
建て替えられたものだそうです。
鳥居をくぐると奥社拝殿がありました。
陽明門の煌びやかさに比べると
思いもかけぬ質素な造りで、
色彩も黒一色と、正直なところ、
少々拍子抜けした感じもしたのですが、
後日、調べてみると内部は金箔の柱や
極彩色の鳳凰などで飾られているそうです。
奥社拝殿の奥にある鋳抜門です。
拝殿から鋳抜門、そして家康の眠る奥社宝塔と
一列に配置されていますが、今は観光客用に
その周囲を半時計方向にぐるりと巡る事が出来ます。
八角九段の石の上に立つ奥社宝塔です。
この宝塔の下に徳川家康公が眠っています。
当時は、将軍でさえも、この宝塔の裏側には
来られなかったと思うのですが、
こうして何事もないように
家康が葬られている場所の周囲を
巡っているのは不思議な感じがします。
長く続いた戦乱の世の、最後に
天下を取り、戦を終結させた家康。
1543年(天文11年)に三河の地、岡崎に生まれ、
75歳の人生を1616年(元和2年)に
駿府(今の静岡)で終えています。
岡崎の様子はこちらです。
静岡の様子はこちらです。
家康は、いつ天下を狙い始めたのか、
いつ自分が天下を狙える立場に
いる事を自覚し始めたのか、
家康が天下を狙ったのは、
戦の無い世を実現する為だったのか、
それとも、天下を我が物にしたかったのか、
この宝塔を眺めていると、
そんな疑問が色々と錯綜していました。
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日光二荒山
日光二荒山神社は、男体山(2486m)、女峯山(2464m)、
そして太郎山(2368m)の三山をご神体として祀る神社です。
ちなみに二荒山は男体山の別称だそうです。
二荒山神社は、勝道上人が、790年(延暦9年)に
本宮神社を建てたのが始まりです。
782年(天応2年)に男体山山頂に奥宮を祀り
784年(延暦3年)に中禅寺湖畔に日光山権現を祀り
いまの二荒山神社の姿が整ったそうです。
東照宮を参拝し、大鳥居を出て、
左手の上新道を通って二荒山に向かいました。
上新道の両側には杉の巨木が並び
壮観な眺めです。
上新道の左側には、
石垣が続いていました。
「切込みはぎ」と呼ばれる積み方と思います。
江戸時代以降に出来た積み方です。
いつの時代に積まれたものでしょうか。
上新道を進んでいくと
重厚な楼門が見えてきました。
この楼門が出来たのは1987年(昭和62年)と
比較的新しいのですが、堂々とした
入母屋造りの楼門の姿は歴史ある日光に
すっかり溶け込んでいました。
楼門の先の鳥居をくぐり
上新道を振り返って見た様子です。
鳥居の先の境内の様子です。
左側の拝殿の奥に本殿が見えています。
本殿は1619年(元和5年)に、
徳川秀忠公が寄進したもので
重要文化財になっているようです。
安土桃山様式の八棟造りという様式で
優美で豪華な建物です。
こちらは拝殿です。
間口は16メートル、奥行き12メートルの建物で
1640年代の正保年間に建てられたようです。
拝殿の西側に回ると、
朱色の覆いの中に銅燈篭がありました。
1292年に鹿沼権三郎入道が奉納した燈篭です。
燈篭には無数の切り傷があり、その昔、
夜更けに火を灯すと、この燈篭が化け、
警備の侍に切りつけられたと言われています。
その銅燈篭の近くには高野槙がありました。
樹齢1000年を超える老木で、
820年(弘仁11年)に空海が日光参詣した時に
お手植えしたと伝えられているそうです。
この近くには1617年(元和3年)に建てられた
神輿舎があったのですが、見逃してしまいました。
その神輿舎の奥に建つ大国殿です。
柿葺のこじんまりとした社ですが、
この大国殿も重要文化財に指定されています。
その奥に二荒霊泉という小さな泉が湧き出ていました。
本殿後ろの洞窟からわき出る「薬師霊泉」と
天狗沢のほとりにわき出る名水「酒の泉」を
池に引き入れているそうです。
二荒霊泉を拝んだ後に、
拝殿のところまで戻り、神門から、
家光廟大猷院を目指しました。
神門から石段を下ったところの鳥居です。
境内の配置からすると、二荒山神社の
表参道はこちら側のように思います。
ちなみに、日光山の入り口に架かる
神橋は、二荒山の所有だそうです。
神橋の様子はこちらです。
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日光廟大猷院
二荒山神社の神門から参道を下り、
西参道へと抜ける手前の道を
右に曲がると大猷院があります。
大猷院は、三代将軍・徳川家光公の霊廟で、
輪王寺の一寺院です。
家光公は生前から家康公を深く尊敬し、
「死んだ後も東照大権現に仕える」と
遺言したそうです。
その意を受けた四代将軍・徳川家綱公が
1652年(承応2年)に完成させたのが、
この大猷院です。
この大猷院は日光東照宮にひけをとらない
壮麗な建物が残っています。
左手に常行堂や法華堂を眺めながら進んでいきます。
この建物は阿弥陀如来を祀る常行堂です。
大猷院の豪華絢爛な建物を早く見ようと
気が焦っていたので通り過ぎてしまいましたが
常行堂と法華堂の間の道を入っていくと、
天海大僧正の墓所・慈眼堂に行くことが出来ます。
法華堂を過ぎると日光廟大猷院と記された
立派な石碑が建つ大猷院の入り口に出ます。
この写真に見える門は仁王門です。
承応2年に大猷院が創建された
当時から残る建物で、八脚門という形式です。
仁王門をくぐった先を右に曲がると
二天門へと続く石段が続いていました。
二天門の先に、本殿があるのですが、
仁王門から真っ直ぐに伽藍が配置されていないのは
万が一、敵が攻めて来た時の事を考えての事と
聞いた様に記憶しています。
この記憶が正しいとすると、
日光の「二社一寺」は、やはり
万が一の際、ここに立て篭もる事を
考えられていたように思います。
仁王門から真っ直ぐ進む道は
竜光院へと続き、その道には
燈籠が並び、趣がある光景でした。
石段を登り、二天門をくぐります。
この二天門も幾重にも重なる装飾や
見事な彩色が施された豪華な門です。
門に掲げられた「大猷院」の額は
後水尾天皇の筆によるものだそうです。
二天門から更に石段が続いています。
石段の途中から振り返って眺めた
二天門の様子です。
杉の木立の中に佇む二天門。
日光で最も大きな門ですが、
大きな杉の木に囲まれていると小さく感じます。
折れ曲がった石段からは竜光院の
様子を眺める事が出来ました。
しっとりとした眺めで、整然と並ぶ
燈籠の様が何とも言えません。
石段を登りきったところに
左右二つの鐘楼が建っていました。
鐘楼の周囲にも燈籠が並んでいます。
この燈籠は10万石を超える大名が
寄進したものだそうです。
この鐘楼の先に、夜叉門があります。
東照宮に例えると陽明門にあたる門です。
深みのある金色に彩られ、緑や朱色の彩色が
華やかさの中にも落ち着いた印象を与えています。
夜叉門を抜けると、唐門です。
拝殿、相の間そして本殿と続く
家光公の霊廟へと続く門です。
この唐門やその両側に続く
回廊の装飾も素晴らしいの一言です。
唐門を抜け、右手に折れると、
国宝の拝殿、相の間そして
本殿を眺める事が出来ます。
左の写真が拝殿、右の写真は奥にあるのが本殿、
その手前が相の間で、将軍着座の間だったそうです。
この深みのある金色と朱色の彩色が
重厚な印象を与えています。
このの奥には皇嘉門があります。
白い壁が印象的な竜宮造りと
いわれる様式の門です。
この門の奥には家光公の墓所の
大猷院の奥院がありますが、
この皇嘉門から先は非公開に
なっていて入る事が出来ませんでした。
徳川家康が眠る東照宮の奥社の
宝塔が公開になっている事を考えると
アンバランスの様な気もしますが、
東照宮奥社に入る事が出来る事が
望外の事だと思います。
この皇嘉門を日光「二社一寺」の
見納めとして山を下ることにしました。
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小田代ヶ原
日光市街からいろは坂を上り、
中禅寺湖を過ぎ、竜頭滝の坂を上ると
平地が開け湿原が広がってきます。
金精峠へと向かう国道沿いに広がるのは
戦場ヶ原ですが、その西側の奥に
ひっそりと小田代ヶ原が広がっています。
今では、このあたりは自動車乗り入れ禁止になって
ハイカーだけが行くことが出来ますが、
1991年の10月、自動車の乗り入れ規制が
される前に、この小田代ヶ原まで行ってきました。
戦場ヶ原の途中で、金精峠へと向かう
国道120号線と分かれて
原生林の中に分け入っていきます。
原生林が途切れ、戦場ヶ原を流れる
湯川の清流を渡りました。
しゃくなげ橋からの眺めと思います。
しばらく、車を走らせていると、
小田代ヶ原に辿り着きました。
湿原が湖のようになっています。
雨が降った後に訪れたのでしょうか。
今となっては思い出せません。
秋といえども紅葉のピークは過ぎ
平日ということもあり、訪れる人も
殆どありません。
湖畔に立つ白樺の木が、いかにも
高原の湿原という雰囲気を醸し出しています。
小田代ヶ原は周囲2キロほどだそうです。
曇り空で、底冷えのするような
小田代ヶ原でした。
現在、小田代ヶ原へは竜頭滝からしゃくなげ橋へ歩き、
そこから往復6キロのハイキングコースを歩くことになります。
竜頭滝からしゃくなげ橋へは20分の距離だそうです。
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