東京 / 千住界隈
Senjyu Area in Tokyo




千住は日本橋から北北東に
7km程のところにあります。

昔風に言うと約2里の距離で、奥州街道の
最初の宿場町だったところです。

千住は隅田川を隔てて南千住と
北千住とに分かれていますが、
今回、訪れたのは南千住の付近です。




2007年1月、都電「荒川線」に乗車し、
終点の三ノ輪橋で下車した後、
500m程離れた南千住の駅に向かう途中、
この辺りを少しながら散策してみました。

都電「荒川線」の乗車記はこちらです。

まず、三ノ輪橋から向かったのは
三ノ輪橋の北東にある真正寺と円通寺です。

雨が強く、アーケードで雨を避けながら歩くのですが、
そのアーケード街もすぐに途切れてしまいました。
真正寺はそこから角を2度ほど曲がった先にありました。



真正寺は徳川秀忠の母方に連なる
西月友船が開基したと言われているそうです。

もともとは浅草にあったのですが、
1661年(寛文元年)にこの地に移転し、
同時に門前町も作られたそうです。

そして、真正寺から北にすぐの
ところに円通寺があります。
円通寺は791年(延暦10年)に坂上田村麻呂が
開創したと伝えられる古刹です。

維新の時期、上野寛永寺に立て籠もり敗れた
彰義隊士のお墓がこの円通寺にあります。

その彰義隊士を葬った関係で、
寛永寺の正門だった黒門が
この円通寺に移築されています。



僅か一日で制圧された寛永寺の彰義隊ですが、
その戦いは激しかったようで、この黒門には
銃弾の跡がいくつも残っていました。


円通寺の黒門を眺めた後、
国道4号線に出て、ちょっと思案・・・

左に折れて北に向かうと、芭蕉が元禄2年の
弥生も末の七日、奥の細道の旅を始めた
千住大橋の袂に出ます。

芭蕉が矢立の句として、
弟子達との泪の別れを詠んだ

行く春や 鳥啼き 魚の目は泪

の句碑もあります。

そこに行こうと心が動いたのですが、
その後のスケジュールに余裕が無いことと
雨の強さに負けて句碑を見るのは諦め、
右に折れ小塚原回向院に向かいました。

この小塚原には江戸時代に刑場があり
回向院にその刑死者が葬られていました。

ちなみに、小塚原の地名の所以は、
八幡太郎義家が奥羽征伐した敵将の首48を
先ほど訪れた円通寺に埋め首塚48基を
築いた事から付けられたそうです。
奥羽征伐というと、前九年・後三年の役でしょうか。

回向院は、お寺とはいえ味気ないビルの建物でした。



この小塚原刑場では、安政の大獄の時に処刑された
吉田松陰や橋本佐内のお墓があるお寺です。

ビルの一階が通り抜けられるようになっていて
その奥、左手に柵で囲われた一角があり、
葵の御紋が掲げられた門があります。
お寺の方に一声かけてこの門を通りお墓に向かいました。



門に掲げられていた葵の御紋です。

柵の中にはいくつかお墓が並んでいますが、
その奥まったところに「松蔭二十一回猛士」と
刻まれた吉田松陰の墓石がありました。



吉田松蔭の遺骸は一旦はここに葬られたのですが、
1863年(文久3年)に、松下村塾の塾生だった
高杉晋作らによって、今の世田谷区若林の
松陰神社に改葬されました。

松蔭神社のある世田谷の様子はこちらです。
また吉田松蔭の生誕地、萩の様子はこちらです。

そのすぐ近くには橋本佐内のお墓がありました。



橋本左内の出身地、
福井の様子はこちらです。


この小塚原刑場では、杉田玄白や中川淳庵、
前野良沢などが小塚原で刑死者の解剖に参加し、
後に「解体新書」の翻訳のきっかけと
なったことでも知られています。
回向院にはその記念碑もありました。

回向院の南、JRのガードをくぐった辺りが
小塚原刑場跡で、そこには首切地蔵もあるのですが
それは見逃してしまいました。



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