鎌倉
Kamakura, Japan






鎌倉はいわずと知れた、源頼朝の鎌倉幕府開設以来、
坂東武士団の拠点になったところです。

そして、京都・奈良に続く歴史の街です。

周囲を山に囲まれ西に開けた狭い土地に街が開けています。
この天然の要害の地で拠点を構えた頼朝は、
遠く、京都の朝廷との戦いを想定していたのでしょうか。




この鎌倉にはあまり縁がなく、
修学旅行を含めて、4度ほどです。

2001年の暮れ、江ノ島電鉄に乗った際、
稲村ヶ崎のあたりと、北鎌倉を少しばかり訪れ、
その後、2008年8月にも鎌倉を訪れました。

2001年と2008年に訪れた際の様子を紹介しようと思います。

円覚寺
(Enkaku Ji Temple)
Revised ! July 07, '19

東慶寺
(Tokei-Ji Temple)
Aug. 01, '05

建長寺
(Kencho Ji Temple)
Feb. 03, '10

鶴岡八幡宮
(Turugaoka Hachimangu Shrine)
June 17, '19

源頼朝墓界隈
(The Grave of Minamoto-no Yoritomo)
Feb. 09, '10

東勝寺跡
(Toushou Ji Temple)
Feb. 14, '10

高徳院・鎌倉大仏
("The Great Buddha")
June 07, '19

稲村ヶ崎、七里ヶ浜
(Inamuragasaki)
Jan. 27, '10

腰越界隈
(Koshigoe)
Jan. 29, '10

関東地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る



円覚寺
(Enkaku Ji Temple)

北鎌倉の駅の近くには、鎌倉五山の
第二位の名刹、臨済宗の円覚寺があります。


撮影: 2001年12月

北鎌倉駅から少しばかり歩くと、
もう円覚寺の境内の入口です。


撮影: 2012年10月

円覚寺は鎌倉の街を取り囲む丘陵地の中腹にあります。
円覚寺は1282年(弘安5年)、時の執権・北条時宗
(1251 - 1284) によって建立されています。

北条時宗の父、北条時頼は建長寺を建立していますが、
官製の寺という位置づけの建長寺に対し、円覚寺は
北条氏の菩提寺という位置づけだったようです。

石段を登ると総門がありました。


撮影: 2012年10月

総門から、再び石段を登ると三門に至ります。


撮影: 2012年10月

いまの三門は1785年(天明5年)に再建されたものです。
写真にははっきりと写っていませんが、扁額は
伏見上皇
(1265 - 1317) によるものだそうです。

堂々とした三門を抜けると、参道が続き、
その両側に色々な伽藍が並んでいます。


撮影: 2012年10月

上左の写真は松嶺院の門、右が選仏場です。
選仏場は修行僧の坐禅道場の事だそうです。

その奥には居士林がありました。
居士林は、在家の全の修行者の為の道場です。


撮影: 2012年10月

元々は東京牛込にあった柳生流の剣道場だったそうですが、
1928年(昭和3年)にこの場所に移築されたそうです。

この右手に大きなお堂が聳えていました。


撮影: 2012年10月

円覚寺仏殿です。
以前の仏殿は1923年(大正12年)の関東大震災で
倒壊し、1964年(昭和39年)に再建されています。

仏殿の仏さまは、円覚寺の御本尊、宝冠釈迦如来です。
仏殿の天井には、見事な白龍の絵が描かれていました。


撮影: 2012年10月

仏殿を訪れた後、南側にある高台に向かいました。
鳥居をくぐり、その奥の長い石段を登っていきます。


撮影: 2012年10月

石段を登ると視界が開けていました。
西側の東慶寺の境内が手に取るように見えています。
良く晴れていれば富士山も眺められるそうです。


撮影: 2012年10月

この高台には弁天堂があります。

執権・北条貞時 (1272 - 1311) は、江ノ島弁財天に参拝した際に
天下泰平祈願の洪鐘を鋳造する事を思い立った
ようで、その所縁として建てられたそうです。


撮影: 2012年10月

弁天堂の横にはその洪鐘が吊るされた鐘楼があります。

鐘楼に架かる洪鐘は、1301年(正安3年)に鎌倉幕府の
第九代執権・北条貞時が国家安泰を願って
鋳造したもので、国宝に指定されています。


撮影: 2012年10月

鎌倉は歴史ある街ですが。鎌倉幕府の建物は
戦火で焼かれ、古い建物は殆ど残っていません。
鎌倉に有る国宝は15ですが、絵画や彫刻などの
美術品を除くと僅か4つしかありません。

高台の弁天堂から仏殿に戻り、
再び円覚寺の奥へと進みました。
仏殿の背後には方丈があります。


撮影: 2012年10月

方丈の前には立派な唐門がありました。

唐門を過ぎた左手には百観音があり、
正面に方丈が建っています。


撮影: 2012年10月

百観音は江戸時代に造られた石仏で、荒廃していたものを
明治になり、今の場所に移動させたもののようです。

方丈の裏手には妙香池がありました。
円覚寺創建時からの方生池で、平成になり
江戸時代の絵図に基づいて復元されたそうです。


撮影: 2012年10月

岩肌が露出した庭園は深山幽谷の
雰囲気を醸し出しています。

方生池に沿って緩やかな坂道を上ると、
目の前に佛日庵の立派な石垣が見えてきました。


撮影: 2012年10月

この石垣を左に折れると舎利殿です。
舎利殿には源実朝公が、層の能仁寺から
請い受けたお釈迦様の歯が祀られています。


撮影: 2012年10月

上左の写真の門の奥に舎利殿があります。
舎利殿は室町時代前期に建てられた大平寺の
仏殿を、室町時代後期の天正時代に移築したそうです。

舎利殿は国宝に指定されていますが、
生憎立ち入り禁止になっていました。

先ほどの石垣の所まで戻り、今度は右手の急な石段を上りました。
石段の先には如意庵がありました。


撮影: 2012年10月

残念ながら如意庵も非公開です。
臨済宗のお寺は、修行の場所という事で
非公開になっているお寺や塔頭が多くあります。

如意庵は、お堂の前には綺麗な花が咲き、
とても落ち着いた雰囲気でした。

石段を下り、先ほどの石垣から坂道を上って佛日庵に向かいます。
佛日庵の隣には開基廟がありました。


撮影: 2012年10月

開基廟は、円覚寺を創建した執権・北条時宗、その子・貞時、
そして貞時の子で、北条最後の執権・北条高時
(1304 - 1333) を祀っています。


撮影: 2012年10月

北条時宗は円覚寺を建立した2年後に亡くなっているそうです。
茅葺の開山廟は江戸時代の1811年(文化8年)に改築されています。

方丈から奥の境内は、大きな伽藍の京都五山のお寺に
比べると、こじんまりとした感じがしました。

開山廟の奥にも石段があり、その石段を上ると、
円覚寺で最も奥に位置する黄梅院に至ります。


撮影: 2012年10月

黄梅院は北条時宗公夫人の覚山尼が、時宗公の
菩提の為に建立した華厳塔のあった地に、1354年に
方外宏遠が、師・夢窓国師の塔所として建立した塔頭です。


撮影: 2012年10月

黄梅院は、落ち着いた庭がとても好ましい佇まいでした。

そして、帰り際に、古びた小さな門の向こうに、
黄色く色ついた銀杏の葉が輝いていました。


撮影: 2001年12月

もう随分前に行ったので、
記憶が定かではないのですが、
確か、これが総門だと思います。

"鎌倉"のTopに戻る



東慶寺
(Tokei-Ji Temple)



円覚寺を出て次に東慶寺に向かいました。

東慶寺は、鎌倉尼五山にも名を連ね、
また「縁切り寺」としても有名な尼寺です。
正式名称は「松岡山東慶総持禅寺」といい、
1285年の創建とのことです。

東慶寺は、狭い谷を隔てて、円覚寺と
反対側の山の斜面にひっそりと佇んでいます。

JR横須賀線の踏切を渡ると、
東慶寺はすぐそこです。

円覚寺のそれと比べると、
小ぶりな階段を上ります。



江戸時代の封建的な社会では、武家の妻からの
離婚請求は認められず、この東慶寺と群馬の満徳寺でのみ、
3年間の修行を行えば離婚が認められたそうです。
辛い思いを胸に、多くの女性がこの階段を上ったのでしょうか。

東慶寺の境内は、梅や紫陽花、菖蒲の花で
知られているようですが、真冬のこの時期、
境内はひっそりとしていました。



境内の木々や、白壁の建物を見ていると
どこか遠くの山里に入り込んだような錯覚に陥りました。



"鎌倉"のTopに戻る



建長寺
(Kencho Ji Temple)



建長寺は、1253年(建長7年)に時の執権、
北条時頼の発願により創建された大寺です。
中国の僧・大覚禅師が開山した臨済宗のお寺です。

1386年(至徳3年)に足利義満が制定した
鎌倉五山で、第一の寺とされています。

北鎌倉駅から江ノ電バスに乗って
建長寺のバス停で下車し、
総門に向かいました。



総門は、1783年(天明3年)に築かれた
京都の般舟三昧院の門を1940年(昭和15年)に
移築したものだそうです。

門には「巨福山」という建長寺の山号が
額に掲げられていました。

総門をくぐったところで、入場料を払い
よく整備された参道を歩いていくと
見上げるような三門が見えてきます。

建長寺の周囲は深い森に囲まれ
その中に大きな三門が聳えていました。



高さは約30メートル程もある楼門で、
今の三門は1775年(安永4年)に
再建されたものだそうです。

楼上には五百羅漢が像が安置されているそうです。



後深草天皇直筆と伝わる「建長興国禅寺」の額が
門を通る参拝客を見下ろしています。
「建長興国禅寺」は建長寺の正式名称です。

門の向こうには仏殿が見えています。



このまま真っ直ぐに仏殿に進みたくなりますが
その前に三門の右手の鐘楼に立ち寄りました。



この梵鐘は1255年(建長7年)に大和権守物部重光が鋳造し
大覚禅師による「建長禅寺」の銘文が印されているそうです。
梵鐘の高さは207.7cm、口径125pで、
重量は2.7tにもなるそうです。


三門を抜け、仏殿へと向かいました。



地蔵菩薩を安置し、法要を行うお堂です。
1647年(正保4年)に東京・芝の増上寺から
徳川第二代将軍、秀忠公夫人、小督の方
(崇源院)の霊屋を移築したものだそうです。

東京・芝の増上寺の様子はこちらです。


それにしても大きな建物で、
これが将軍の正室の霊屋だったというと、
徳川創設期の将軍家の御威光の凄さが判ります。

仏殿のすぐ奥には法堂が建っています。
法堂の軒先の向こうの森から
煙がたなびいていました。



その様子が幽玄な感じに見えました。
法堂は住職が説法するためのお堂だそうで、
この建長寺の法堂は1814年(文化11年)に
再建されたものだそうです。


法堂から方丈に向かう途中に
振り返って眺めた様子です。



法堂と仏殿が一直線上に並び、
その脇に整然と参道が延びています。

さすがに鎌倉五山一の大寺
という雰囲気が漂っています。

そしてこちらが法堂の奥にある方丈です。



1732年(享保17年)に建てられ、
総門と同じく京都・般舟三昧院から
1940年(昭和15年)に移築されたそうです。

方丈の手前には、屋根が優雅に
曲線を描く唐門が建っています。



この唐門は仏殿と同じ、東京・芝の増上寺から
1647年(正保4年)に移築されたものだそうです。

こうしてみると、建長寺には多くの
立派な伽藍が建ち並んでいますが、
その多くが移築されたもので、室町時代の14世紀や
15世紀には大火で多くの建物が焼失してしまったそうです。

江戸時代初期には寺勢も衰えていたのでしょうか。


方丈の裏には、大覚禅師作と
伝わる庭園がありました。



中央に池を配し、池の周囲の芝がとても綺麗でした。
雰囲気もとても落ち着いた名園だと思いました。


建長寺は周囲の山々にも、半僧坊や
西来庵といったお堂が点在しているようです。

"鎌倉"のTopに戻る



鶴岡八幡宮
(Turugaoka Hachimangu Shrine)


撮影: 2015年1月

鶴岡八幡宮は、源頼義が1063年(康平6年)に、
前九年の役での奥州平定を終えて鎌倉に帰った際、
戦勝祈願をした京都の石清水八幡宮を
由比ヶ浜に勧請したのが始まりだそうです。

石清水八幡宮の様子はこちらです。

1180年(治承4年)に、平氏打倒の挙兵をし、
鎌倉入りした源頼朝が、鶴岡八幡宮を
現在の地に遷移したそうです。

鎌倉幕府が成立すると、鶴岡八幡宮は
関東武家の崇敬を集めました。

鶴岡八幡宮の一の鳥居は本宮から2km近くも
離れた、鎌倉駅の南側にあります。

一の鳥居は鎌倉駅からも少し離れているので、
鎌倉駅から程近い二の鳥居から参拝を始めました。


撮影: 2008年8月

二の鳥居は、鶴岡八幡宮からほぼ南に一直線に
伸びる若宮大路に建てられ、鳥居の前には、
沖縄のシーサーの様な狛犬が控えていました。

二の鳥居の奥には、若宮大路の真ん中に
段葛と呼ばれる、一段高い参道が続いています。


撮影: 2008年8月

この段葛は北条政子の安産を祈願して造られた参道です。
参道の両脇には桜と躑躅が植えられていました。
春には花のトンネルが綺麗な事でしょう。

段葛が途切れると、大きな三の鳥居が現れました。


撮影: 2008年8月

ここからはいよいよ鶴岡八幡宮の境内です。
三の鳥居をくぐった所にある太鼓橋です。


撮影: 2015年1月

源平池に架かるこの太鼓橋は当時は朱色に
塗られ、「赤橋」と呼ばれていたそうです。

太鼓橋は、神様の通り道として
通行禁止になっていました。

太鼓橋から続く参道を歩いていくと
舞殿や上宮の神殿が見えています。


撮影: 2015年1月


多くの参拝客と共に参道を歩き、流鏑馬の
馬場を横切り、舞殿に辿り着きました。


撮影: 2015年1月

舞殿では、源頼朝の求めに応じて、義経の
愛妾・静御前が舞を舞ったと伝えられています。

2014年9月に訪れた際には、この舞殿で
結婚式が行われていました。


撮影: 2014年9月

舞殿の右手奥には下宮(若宮)の
社殿も見えています。


撮影: 2008年8月

このように、上宮と下宮(若宮)の2箇所に神殿が
建てられたのは1191年(建久2年)の事だったそうです。
鎌倉幕府開府の一年前の事です。

舞殿から回り込んで、上宮へと至る
大石段を眺めてみました。


撮影: 2015年1月

大石段の途中、左手には
大きな公孫樹の木がありました。


撮影: 2008年8月

1219年(建保7年)1月27日、鎌倉幕府第三代将軍・源実朝は、
この公孫樹の木に隠れていた二代将軍・頼家の息子・
公暁に暗殺されたと伝わっています。

この日本史上の大事件を目撃していた大公孫樹ですが、
2010年3月に折からの強風で倒れてしまっています。

大公孫樹も無くなり、大勢の観光客が大石段を
何気なく上っているのを見ると、この場所で
将軍暗殺という惨劇が起きたとは、俄には
信じられないのですが、実朝の死で、
源氏の血筋は絶えてしまった事実は
重く残っています。

大石段を上ると上宮です。


撮影: 2015年1月

上宮は、応神天皇らを祀る鶴岡八幡宮の本殿です。
1828年(文政11年)に、徳川家斉によって再建され、
下宮と共に重要文化財に指定されています。

この上宮からは、舞殿の屋根越しに
鎌倉の街を一望出来ました。


撮影: 2014年9月

上宮の社殿の右手には武内社が建っていました。
本殿と同じく1828年(文政11年)に再建されています。


撮影: 2008年8月

この武内社の右隣には、神輿を収納した朱塗りの
建物もあり、このあたりは日光東照宮を
連想するような造りでした。

日光東照宮の様子はこちらです。

本殿を参拝した後に、大石段をくだり、
本殿の東側にある白旗神社に向いました。
その途中にある由比若宮遥拝所です。


撮影: 2008年8月

この一角は木々が生い茂り
神聖な雰囲気が伝わってきます。
由比若宮は、源頼朝が最初に鶴岡八幡宮を
創建した元宮のあるところです。

この由比若宮遥拝所を過ぎると
白旗神社がありました。


撮影: 2014年9月

朱塗りの上宮の社殿に比べると
ひっそりとした佇まいの社殿です。

源頼朝公と実朝公が祀られていて、源氏の
旗印から白旗神社と名付けられています。

白旗神社から南に進むと、建物の傍らに
暗殺された三代将軍・源実朝の歌碑が建っていました。


撮影: 2008年8月

"山はさけ うみはあせなむ 世なりとも
君にふた心 わがあらめやも"

源実朝は、金槐和歌集でも知られる
当時一級の歌人だったようです。

そして、その先に源氏池が見えてきました。
鶴岡八幡宮入り口の太鼓橋の右手(東側)に広がる池です。
2014年9月、蓮の葉が池全体を覆い尽くしていました。


撮影: 2014年9月

この源氏池には3つの島が浮かんでします。
朱塗りの橋を渡り、最も大きな東の島に向かうと
弁財天の旗幟が並び、小さな境内に
旗上弁財天が祀られていました。


撮影: 2008年8月

厳かな雰囲気の漂う社でしたが、
1980年(昭和55年)に復元されたそうです。

旗上弁財天の所縁は、源頼朝の旗挙げの際に
弁財天が現れ、霊験があったことと、
実朝暗殺に端を発した将軍後継問題により生じた
承久の乱の際には、鎌倉幕府軍はここで
旗挙げをしたことからこの名がついたそうです。

2015年1月に鶴岡八幡宮を訪れた際、
源氏池の南東側では牡丹が咲いていました。


撮影: 2015年1月

冬の源氏池は蓮が枯れ、弁財天の旗幟が
遠くからも良く見えていました。


撮影: 2015年1月

源頼朝所縁の鶴岡八幡宮には、鎌倉幕府の
初期の歴史が色濃く刻まれていました。

ちなみに、2014年9月に訪れた際、滅多にしない事ですが、
御神籤をひきました。末吉でしたが、その御神籤に
書かれていた和歌が胸をうちました:

淡雪の 降れどたまらぬ 梅が枝に
花は香りて 春風ぞ吹く

意味は、『本分を知り、困苦に耐えて清節を守り通しなさい。
時には耐え難い程の忍従があるが、すぐ春風をともなって
天与の恵風が訪れ、きっと幸福になる。』というものだそうです。

当時、将来への不安が強くあり、その中で
この御神籤の言葉に出会えたのは
大きな心の支えになりました。

"鎌倉"のTopに戻る



源頼朝墓界隈
(The Grave of Minamoto-no Yoritomo)



源頼朝が幕府を開いた地、鎌倉では、
街中を歩いているとあちこちに碑が建ち、
源氏所縁の地や鎌倉幕府所縁の
史跡が点在しています。

鶴岡八幡宮を訪れた折り、近くにあった
源頼朝のお墓に行ってみましたが
その際に、見かけた旧跡の様子も
合わせて紹介しようと思います。



1. 畠山重忠邸跡
2. 大蔵幕府跡
3. 白旗神社
4. 西御門跡
5. 若宮大路幕府跡
6. 青砥藤綱旧蹟



畠山重忠邸跡


畠山重忠は、鎌倉時代初期の有力御家人の一人です。
源頼朝が挙兵した際には、平氏側に付いていたそうですが、
頼朝が安房から武蔵に入った際に、源氏方に付いたそうです。

その後、源義仲追討の戦や一の谷の戦いで武功を挙げ、
有力御家人として、頼朝に認められたようです。

鶴岡八幡宮から東に向かって境内を出ると
すぐに畠山重忠の屋敷跡の碑がありました。



畠山重忠の屋敷がどこにあったのかは
実際のところは確定していないようですが、
これほど鶴岡八幡宮の近くに屋敷があったとなると、
畠山重忠は重職に就いていた事がわかります。


畠山重忠は、今の埼玉県比企郡嵐山町にも
屋敷を持っていたそうです。

畠山重忠の居城、
菅谷館の様子はこちらです。


謹直な性格で、人望も厚かった畠山重忠ですが、
1205年((元久2年)に時の執権・北条時政に
謀殺されてしまいました。

源頼朝が急死した1199年(正治元)以降、
北条氏が有力御家人を次々と謀殺していく
暗く陰湿な時代が続いたのでした。


所在地: 鎌倉市雪ノ下3-2-19




大蔵幕府跡


その昔、社会科の授業では、源頼朝が
1192年(建久3年)に征夷大将軍に任ぜられ
鎌倉幕府が成立したと教えられました。

しかし現在では、鎌倉幕府は頼朝の私的な
権力体制が段階的に整えられたという
見解になっているようで、どの段階で
鎌倉幕府が成立したかには諸説あるそうです。


1180年(治承4年)伊豆で挙兵した頼朝は
一旦、石橋山の戦いで敗れたものの安房に渡り兵を整え、
その年の10月に鎌倉に居を構えます。

頼朝が流されていた、
蛭ヶ小島の様子はこちらです。


この頼朝の館が大蔵幕府と呼ばれています。
この大蔵幕府は現在の清泉小学校にあったそうです。

畠山重忠の屋敷跡から、
いくつか角を曲がりながら東に向かい
清泉小学校の南西角に碑がありました。



頼朝はこの場所で政治を開始しています。
最も早い説ではこの1180年(治承4年)を
鎌倉幕府の成立年としているそうです。

その後、源頼家、実朝もここで政治を執り行い、
北条政子が亡くなった1225年(元仁2年)まで
ここが幕府の中心でした。


所在地: 鎌倉市雪ノ下3丁目11-45




白旗神社


大蔵幕府跡から北に向かい、
小高い丘の麓に白旗神社がありました。



白旗は、もちろん源氏の旗印です。

この地は大蔵幕府(源頼朝公居館)の北隅にあたり
持仏堂があったところだそうです。

持仏堂には、頼朝が石橋山の戦いの際に
髻(もとどり)の中に納めていたという
小さな観音像が祀られていたそうです。



1199年(正治元年)に頼朝が亡くなると
ここに葬られたそうです。

頼朝の一周忌以降、持仏堂は
法華堂と呼ばれたようです。


所在地: 鎌倉市西御門2-1




源頼朝墓


白旗神社の奥に続く、
急な石段を上っていくと
源頼朝のお墓がありました。



ここに来るまでに、
建長寺や鶴岡八幡宮を巡り、
かなり歩いていたので、
この石段はちょっと堪えました。


この石段を登ったところに
源頼朝のお墓がありました。



多くの観光客で賑わう
鶴岡八幡宮とは対照的に、
頼朝の墓は、ひっそりとしていました。

お墓も質素なもので、平家を倒し、
源氏の武家政権を開いた人のお墓とは
信じられませんでした。




西御門跡


頼朝の墓を訪れた後に鶴岡八幡宮に戻る際、
西に向かって行くと、西御門跡の碑を見つけました。



この辺りに大蔵幕府の西門が位置していたようです。
周囲は住宅が立ち並んでいて、碑がなければ
この周囲に鎌倉幕府があったとは
思えない光景です。

市街化が早くから進んでしまったので、
いまさら鎌倉幕府発祥の地を
史跡化するのは難しい事でしょう。


所在地: 鎌倉市西御門2-1-11




若宮大路幕府跡


若宮大路幕府跡は、鶴岡八幡宮の
南側に立ち並ぶ住宅地になっています。

細い路地の角に若宮大路幕府跡の碑がありました。



北条政子の死後、鎌倉幕府の政務所は
大蔵幕府から宇津宮辻に移されたのですが、
その11年後の1236年(嘉禎2年)に、
この地に移されています。

これから約100年後の1333年(元弘3年/正慶2年)に
鎌倉幕府の歴史は幕を閉じるのでした。


所在地: 鎌倉市雪ノ下1-11-22





青砥藤綱旧蹟


若宮大路幕府跡から東勝寺跡に向かう途中に、
鎌倉の市街地の東を流れる滑川を渡ります。

その滑川に架かる橋の袂に
青砥藤綱旧蹟の碑が立っていました。



数々の暗殺や謀殺が起きた鎌倉時代でしたが、
北条時宗が執権に就いた時期は、
暗殺や御家人の謀殺は少なかったようです。

その北条時宗に使えたのが青砥藤綱で、
その人柄による所が大きかったようです。

青砥藤綱についての逸話は数々あるそうですが、
その一つが、この滑川を渡る際、
十文を落としてしまった話です。



彼は、五十文で松明を買い求め、
落とした十文を探したそうです。

その時、青砥藤綱は
「十文のお金を落とす事は天下のお金を無くす事だが、
それを探すために使った五十文は人の役に立っている」
と言ったそうです。


所在地: 鎌倉市小町3-4-1

"鎌倉"のTopに戻る



東勝寺跡
(Toushou Ji Temple)



青砥藤綱旧蹟から滑川を渡り、
更に東に向い東勝寺跡を目指しました。



滑川の西側では密集していた住宅も
鎌倉の東側を取り囲む山に近く、
このあたりは木々も生い茂り、
区画も広い住宅地になっていました。




細い坂道を上っていくと、
草の生い茂った平地が現れました。

この空き地が国の指定史跡、東勝寺跡です。



東勝寺は鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建したお寺で、
鎌倉幕府の実権を握っていた、初代執権・北条時政から
繋がる血筋の北条得宗家の菩提寺だったようです。

北条得宗家の強権政治も時代とともに綻びを見せ、
1333年(元弘3年/正慶2年)には
有力御家人の足利尊氏が反旗を翻し、
新田義貞も、上野国で挙兵し、
鎌倉へと攻め込んできました。

北条得宗家として実権を握っていた
北条高時は、この東勝寺に逃げ込み、
ついには自害し、140年程続いた
鎌倉幕府も、ここに潰えてしまいました。


東勝寺跡から更に山に向かって歩くと
祇園山ハイキングコースの階段がありました。



この階段を上り始めた藪の中に
東勝寺旧蹟 の碑が立っていました。



新田義貞軍に追われた北条高時は、
この碑から左に分け入っていった
洞窟の中で自刃したそうです。

北条高時が果てた、鎌倉幕府滅亡の地は、
高時の腹切りやぐらとして残っています。



岩が迫り出した洞窟には
いくつもの卒塔婆が立てかけられ
ちょっと不気味な雰囲気が漂っています。

カメラを向けるのもちょっと怖い思いがしました。
高時の無念が、この辺りには、
まだ残っているようでした。

"鎌倉"のTopに戻る<



高徳院・鎌倉大仏
(Koutoku-in Temple, "The Great Buddha")

江ノ島電鉄を長谷で下車し、
緩やかな坂道を海と反対方向に
お土産物屋さんの並ぶ道を歩いていくと
しばらくすると高徳院に辿り着きました。


撮影: 2012年10月

高徳院という名前はそれ程知られていませんが
鎌倉大仏といえば、有名な観光名所です。

境内を入ると仁王門が見えてきました。


撮影: 2012年10月

この仁王門には高徳院の山号
「大異山」を記す扁額が掲げられているそうです。

仁王門を抜け、拝願料を払って境内に入ると
野ざらしの大仏様がその大きな姿を現していました。


撮影: 2012年10月

大仏が最初に造られたのは1244年(寛元2年)で、
源頼朝の侍女だった稲多野局の発案で、
浄財を集めて資金を工面したようです。

1247年(宝治元年)にその仏像が大風で倒れ、
1252年(建長4年)に現在の青銅の仏像を
造ったそうです。

当初は、奈良の大仏のように大仏殿も建てられ
そこに安置されていたそうですが、
1498年(明応7年)に、湘南海岸を襲った
大津波で、大仏殿は洗い流されたようです。

大仏様には、後ろ側から
内部に入る事が出来ました。


撮影: 2012年10月

内部からは、鎌倉の大仏が幾つものパーツから
出来ている事が手に取る様に判りました。
背中には明り取りの窓がつけられ、
首の部分は、穴が開いているようでした。

後世に多くの修復を受けた東大寺の大仏とは異なり、
鎌倉の大仏は、鋳造当時の形や工法が今も良く
残されているそうです。

その為、国宝に指定されています。


撮影: 2012年10月

また、この地では、鎌倉幕府の末期に北条高時の
一族870名以上が自刃したと伝わっています。

"鎌倉"のTopに戻る






稲村ヶ崎、七里ヶ浜
(Inamuragasaki & Shichiri ga hama)



2001年12月の鎌倉行きは、
藤沢から江ノ電に乗って出かけました。

江ノ島電鉄の乗車記はこちらです。


この時は、江ノ島電鉄の未乗区間に乗ることが
主目的でしたが、七里ヶ浜で途中下車してみました。
駅から少し歩いて浜辺に出てみました。



抜けるような青空と、青い海。
暮れも押し迫った12月とは
思えないような景色です。

上の写真は、稲村ヶ崎から鎌倉方面を見たところ
この反対側には江ノ島が見えていました。



この稲村ヶ崎は鎌倉の西の要害で、
鎌倉幕府を倒した新田義貞はここから
鎌倉に攻め込んだそうです。

そんな歴史にも彩られた稲村ヶ崎ですが
澄み渡った日には遠く富士山も見えるそうです。


2001年に訪れた際には稲村ヶ崎を
ちらっと見た後、北鎌倉に向かいましたが、
2008年に鎌倉を訪れた際にも
湘南の浜辺に行ってみました。

この時は、もう一駅江ノ島寄りの
鎌倉高校前で下車してみました。



稲村ヶ崎から西に砂浜が続き、
この辺りは七里ヶ浜と呼ばれているようです。


海が真正面に広がる鎌倉高校駅から
しばらく西に歩き、浜辺に出ました。



小動岬の向こうに江ノ島が見えています。

小動岬と江ノ島の間が腰越で、
頼朝に許しを得ようと鎌倉に向かった
義経が足止めを受けたところです。



打ち寄せる波の向こうには
逗子や葉山あたりの丘陵地が
霞んで見えていました。



"鎌倉"のTopに戻る






腰越界隈
(Koshigoe)



腰越は、稲村ヶ崎から七里ヶ浜へと
続く浜辺が小動岬によって隔たれた先、
江ノ島へと続く砂嘴の東側の地名です。

鎌倉の西の端のこの地は、
義経悲劇の地として知られています。


その地は、江ノ島電鉄を腰越で下車し、
東に向かい、江ノ島電鉄の小さな踏切を
越えたところにありました。



義経の腰越状で知られる満福寺です。


1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に加わった義経は、
一の谷、屋島そして壇ノ浦での戦いに勝利し、
平氏滅亡への殊勲を挙げます。

屋島の様子はこちらです。
壇ノ浦のある下関の様子はこちらです。


しかし、朝廷からの官位を無断で受けたとの事や
平氏追捕の戦いでの独断専行を咎められ、
兄の頼朝の怒りをかい、壇ノ浦で捕虜とした
平宗盛・清宗父子を伴って鎌倉に凱旋したものの
鎌倉入りを許されず、この腰越の地に留まったそうです。

義経が逗留していたと伝わる満福寺です。



境内はそれ程広くはなく、本堂も作り変えられたのか、
比較的新しく、一見、どこにでもあるお寺ですが、
創建は744年(天平16年)に、僧・行基によるそうです。

外見に似ず歴史の古い満福寺ですが、
本堂の前には弁慶の手玉石や腰掛石がありました。



義経と弁慶主従はこの満福寺に2週間近くも留め置かれ、
結局、鎌倉入りを許されず、空しく京に戻ったとされています。

その間に、義経が頼朝の側近、大江広元に
託した嘆願文が世に名高い腰越状です。

その腰越状の控が満福寺に展示されていました。



満福寺にこの書状が残ったのは、文中の
「不顧為敵亡命」の字が抜けたためだそうです。

腰越状については、その真贋も疑われているそうですが、
平家討伐の武功を挙げ、父の敵討ちを果たした義経が
兄の頼朝から敵視され、ついには平泉まで落ち延び
そこで殺されてしまうのは事実であり、義経の波乱万丈の
そして哀しい最期については胸が痛む思いがします。

義経最期の地、平泉の様子はこちらです。


義経の、決して幸せではなかったと思われる
短い人生に思いを馳せ、満福寺の
階段を下りていると、目の前の踏切を
江ノ島電鉄の電車が横切っていきました。



この江ノ島電鉄の様子は
なかなか趣がありました。

江ノ島電鉄の乗車記はこちらです。



満福寺から腰越の駅に戻る途中で
雰囲気のある神社を見かけました。



小動(こゆるぎ)神社です。

12世紀の源平合戦の際に創建された神社だそうですが
1333年(元弘3年)には、新田義貞が鎌倉攻めの際に
戦勝祈願を行った神社だそうです。

木々に囲まれた参道を歩いていくと
参道とは直角に本殿が位置していました。



この小動神社は、七里ヶ浜の西の端に突き出た
小動岬にあり、境内の裏手は高台になっていて
ここから湘南の海や江ノ島が見えました。



湘南の海に浮かぶ江ノ島は、
やはり絵になる光景でした。



"鎌倉"のTopに戻る


関東地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る