平泉駅 〜 中尊寺 (無量光院、高館 他)
(from Hiraizumi Station to Chusonji Temple)
仙台近郊の多賀城跡を訪れた後、
JR東北本線の電車を乗り継ぎ平泉に来ました。
平泉駅から中尊寺までは約1.6kmの道のりです。
駅前レンタサイクルがある事を調べておき、
平泉駅から中尊寺の間にある高館(たかだち)や
毛越寺(もうつうじ)を巡ろうと思っていたのですが、
冬季期間はレンタサイクルが休業ということで
歩いて平泉を巡る事にしました。
まずは旧奥州街道に沿って、中尊寺を目指しました。
駅前の信号を右手に折れて進みます。
東北本線の踏切を越えるとすぐに、
伽羅之御所(きゃらのごしょ)跡の標識があり、
小道へと入って行きました。
「吾妻鏡」によると、この伽羅之御所は
奥州藤原氏第三代の秀衡と
その子、泰衡の居所としています。
義経を暖かく迎え、彼を匿った秀衡の
豪華な御殿が建っていたであろうこの辺りですが
今では、小道が交わる交差点の生垣に
案内板がひっそり建っているだけです。
この奥に入ったところには、国道のバイパス工事中に
発掘された柳之御所遺跡もあります。
この柳之御所跡には立ち寄らなかったのですが、
ここは平泉政庁の跡か、藤原清衡や基衡が
住んでいたという説があるようです。
900年程前にはこの辺りは、藤原氏の栄華を示す
壮大な屋敷や役所の建物が建っていたことでしょう。
その場所は今では、住宅地の間に田畑が広がる
ひっそりとした所になっています。
"三代の栄華一睡の中にして
大門の跡は一理こなたに有
秀衡が跡は田野に成て・・・"
1689年旧暦5月13日にここを訪れた芭蕉が
奥の細道に記した時の様子が今でも感じられます。
伽羅之御所跡のすぐ先には、
無量光院跡の史跡が広がっています。
この無量光院は三代目秀衡が、
宇治の平等院を模して建立した寺院です。
吾妻鏡では、以下のように記されています:
『秀衡これを建立す。(中略) 本佛は阿弥陀。丈六なり。
三重の宝塔、院内の荘厳、ことごとくもって
宇治の平等院を模するところなり。』
発掘調査の結果では、お堂や左右の翼廊も
平等院の鳳凰堂よりも大きかったそうです。
お堂の前に配した中の島の跡も残っていて、
当時の様子をすこしばかり思い浮かべる事が出来ました。
この無量光院跡からは北側に小高い丘が見えています。
この小高い丘が、源義経の居館であり、
終焉の地となった高館跡です。
藤原秀衡の屋敷や、政庁跡に程近くにある
小高い丘に、義経の居館があったということは
義経に対する藤原秀衡の篤い待遇が偲ばれます。
無量光院跡を一通り見学した後に、
さっそく、高館跡に向かいました。
小高い高館跡に向かって真っ直ぐに階段が続いています。
階段の途中に、高館義経堂の碑がありました。
そして、先ほどの階段を上りきると、
目の前に、北上川の流れと、その向こうに
聳える束稲山の姿が目に入ってきました。
北上川はさすがに東北一の大河で
その流れは滔々としています。
束稲山には微かに靄が漂い山の頂が
雲に浮ぶような感じです。
この素晴らしい眺めの要衝の地に、
義経の居館が築かれていたのです。
しかし、1189年(文治5年)閏四月三十日、
源頼朝の圧力に屈した、秀衡の子、
藤原泰衡がこの高館を急襲し、
義経は妻子共々自害して果てたのです。
"先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。
泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、
南部口をさし堅め夷をふせぐとみえたり・・・"
格調高い「奥の細道」の文章を読んでいると、
この高館からの眺めが奥の細道の旅の
目的地であったような気がしてなりません。
この高台の右の一番奥に芭蕉の句碑が立っていました。
"・・・「国破れて山河あり、城春にして草青見たり」と
笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ"
"夏草や 兵共が 夢の跡"
この高館からの眺めは、その素晴らしさもさることながら
義経の悲劇、芭蕉の泪と日本の歴史に深く係わっています。
この景色は、いつまでも残しておいて欲しい眺めです。
近くには、義経や秀衡、弁慶らの
供養塔が建っていました。
その近くには苔むした石碑も建っていました。
この石碑は、残念ながらその謂れは判りません。
高館跡の左手には仙台藩の第四代藩主・伊達綱村公が
義経を偲んで建てた義経堂(ぎけいどう)があります。
義経堂は更に階段を上った高台にありました。
このお堂の中には、義経の木像が安置されています。
冬の平日のこの日、他に訪れる人もなく
義経の像はひっそりと佇んでいました。
高館義経堂を辞し、中尊寺に向かいました。
その途中、JR東北本線の踏み切りの脇に
「卯の花清水」の碑がありました。
ここは、古来から霊水が湧き出る
名所として知られていたそうです。
高館落城の折、主君・義経とその妻子の
最期を見届けた老臣・兼房が敵兵共々燃え盛る
火炎の中に飛び込んで消え去ったいうことです。
奥の細道で芭蕉と共に旅をした曽良は、
その老臣、兼房をしのび、
"卯の花に 兼房みゆる 白毛かな"
と詠んだそうです。
残念な事に、古来より湧き出ていたその霊水は
国道の拡幅工事により枯渇してしまったそうです。
卯の花清水から少し戻ってJRの
踏み切りを渡るといよいよ中尊寺です。
その参道に、衣川で立ったままの大往生を
遂げたと言われる弁慶の墓がありました。
中尊寺には何度か来た事があったのですが、
ここに弁慶のお墓があるとは知りませんでした。
義経への忠義を尽くした弁慶は
ここに安らかに眠っているのでしょうか。
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中尊寺
(Chusonji Temple)
中尊寺は天台宗の東北大本山です。
天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって
850年(嘉祥3年)に開かれたお寺です。
その後、奥州藤原氏の初代清衡公が、
前九年・後三年の戦乱で亡くなった人の
霊を慰め、仏国土を建設したいという趣旨のもと、
「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」もの
堂塔が造営されたそうです。
奥州藤原氏が源頼朝によって滅ぼされた後は
中尊寺も衰え、更に1337年(建武4年)の火災で
多くの堂塔が焼失しましたが、江戸時代に入り
建半の庇護もあり、今でも金色堂をはじめ、
3000余点もの国宝・重要文化財が残っているそうです。
弁慶のお墓から程近いところに
中尊寺の入り口がありました。
山門はなく、中尊寺の碑の脇に
お地蔵さんが立っていました。
入り口からは、月見坂の急坂が続いています。
しばらく坂道を上がっていくと、参道の両側に
見事な杉の並木が続くようになりました。
その杉並木の中に埋もれるように八幡堂がありました。
この八幡堂は、1057年(天喜5年)に前九年の役で
安部氏追討の戦に勝利した源頼義・義家が
勝利の記念に京都の石清水八幡宮から迎えたものです。
京都の石清水八幡宮はこちらです。
参道ぞいに立ち並ぶこの杉並木は
仙台伊達藩によって植樹されたもので、
樹齢は350年を数えるそうです。
冬の中尊寺を訪れる人は少なく、
鬱蒼とした杉並木が続く参道は
深い山の中を歩いているような感じです。
参道の左側にお堂が現れました。
弁慶堂です。
1826年(文政9年)に再建されたお堂です。
由緒書きの文章が難解なのですが、
ご本尊の勝軍地蔵菩薩の傍らに
義経と弁慶の木像が安置されているそうです。
参道沿いには他にも色々なお堂がありました。
中尊寺は以前に少なくとも2回は来ていますが、
参道の両脇にこれ程お堂があるのに
気が付いたのは今回が初めてでした。
下の写真は薬師堂です。
このお堂は、1657年(明暦3年)に移築されたものだそうです。
中尊寺開山の祖、慈覚大師作の薬師如来と
脇仏として月光菩薩、日光菩薩が安置されています。
薬師堂に続いて観音堂がありました。
このお堂の中の灯明が、印象的でした。
やがて、参道の左手に本堂門が見えてきました。
この本堂は1909年(明治42年)に再建され、
中尊寺の中心となるお堂です。
他のお堂に比べても大きく立派なお堂で、
堂内には、およそ1200年燈り続ける「不滅の法燈」が
総本山の比叡山延暦寺より分火されてているそうです。
本堂を過ぎると峯薬師堂がありました。
ひっそりと佇む様子は印象的でした。
そして、下の写真は大日堂です。
この大日堂は、藤原清衡建立の三重の塔跡地に
1711年(正徳2年)に建立されたお堂で、
三重の塔のご本尊であった
大日如来を祀っているそうです。
参道を上りながら様々なお堂を眺めているうちに
いよいよ有名な金色堂が近づいてきました。
金色堂の手前に、中尊寺の宝物を収めた讃衡蔵がありました。
中尊寺に現存する3,000点以上の国宝・重要文化財の
殆どをここに収蔵しているそうです。
そしていよいよ金色堂です。
金色堂は、中尊寺で唯一創建当初から残る遺構です。
杉の大木の向こうに覆堂が見えてきました。
金色堂は、1124年(天治元年)に建立され、
風雨をしのぎ損傷を防ぐ為、鎌倉時代には
鞘堂といわれる覆堂に囲われていたようです。
今の覆堂は1963年(昭和37年)に建てられた
鉄筋コンクリート製の建物です。
金色堂はお堂全体に厚く黒漆が塗られ、
その表面全体に金箔が押されています。
螺鈿細工や漆の蒔絵が施されていて、
眩いばかりの輝きです。
ご本尊の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩
そして地蔵菩薩と仏像も金色に輝いていました。
更に、金色堂が歴史的に大きな意味を持っているのは、
仏像の下の中央の須弥壇に、初代・清衡公の遺体、
左の壇に二代目・基衡公、右には三代目の秀衡公と
泰衡公の首級が納められていることです。
奥州藤原氏が滅びた時、よくぞこの金色堂が
破壊されず、後世に残されたものだと、
思わずにはいられません。
松尾芭蕉は高館の後、この金色堂にも足を運び
五月雨の 降残してや 光堂
の一句を残しています。
こちらは重要文化財の経蔵です。
建立当時は2階瓦葺だったそうですが、
1337年(建武4年)の火災で2階部分が
焼失してしまったそうです。
経蔵の近くに、芭蕉の句碑が建っていました。
そしてこれは旧覆堂です。
1288年(正応元年)に建てられた
という記録が残っているようです。
今の覆堂が建てられた時に
この場所に移築されたました。
芭蕉が訪れた時には金色堂は
このお堂の中で輝いていた筈です。
確か、中尊寺の一番奥にあったのが
この鐘楼です。
この鐘楼も1337年の火災で焼失したそうです。
梵鐘は1343年(康永2年)に鋳造されたものです。
苔むした鐘楼は趣がありました。
これで、一通り中尊寺を巡ったのですが、
広い境内に実に多くのお堂がありました。
訪れる人も少なく、中尊寺はひっそりと
息を潜めているかの様に静かな佇まいでした。
参道を下る途中、西行の歌碑を見つけました。
西行は12世紀の半ば、二代目基衡が
治めていた頃にこの平泉を訪れたそうです。
西行は、中尊寺の東の束稲山を眺め、
"聞きもせずたばしね山の桜ばな
吉野の外にかかるべしとは"
との和歌を詠んでいます。
歌碑の近くからは、北上川の向こうに
束稲山が静かに横たわっていました。
当時はこの山が全て桜の木に覆われていたようです。
春には見事な光景だったことでしょう。
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毛越寺
(Moutsuji Temple)
中尊寺を訪れた後、毛越寺に向かいました。
毛越寺も9世紀に建立された平泉の名刹です。
毛越寺は、中尊寺から1.6km程の道のりです。
中尊寺の山門を出て、弁慶のお墓を過ぎ
しばらく交通量の多い国道4号線を歩きますが
最初の信号で右のわき道に折れ、
金鶏山の麓の静かな田舎道を歩きました。
振り返ると、束稲山と高館が見えていました。
上の写真の赤い屋根の家の
右手に見えている森が高館です。
途中、花立廃寺を通り、毛越寺の手前で
広々とした空き地が広がってきました。
ここは旧観自在王院庭園です。
奥州藤原氏二代目の基衡の妻が
基衡の死後に建立したと言われています。
庭園の中央に広々と鶴舞池が広がり、
その北側に阿弥陀堂が建っていたそうです。
今は、阿弥陀堂の建っていたあたりに
小さなお堂が佇んでいました。
近くには基衡の妻のお墓と伝えられる
石塔もあったようですが、気が付きませんでした。
整備され芝生に優雅な池が配された庭園に一歩足を踏み入れると、
周囲の景色とは雰囲気が一変し、時の進みも遅くなったような感じです。
過ぎ去った遠い昔を思い起こさずにはいられなくなります。
鶴舞池に青空に浮ぶ雲が映っていました。
旧観自在王院庭園を訪れた後
毛越寺(もうつうじ)に向かいました。
この毛越寺は850年(喜祥3年)に、
中尊寺の開祖でもある慈覚大師が
建立したと伝えられています。
藤原氏二代基衡と三代秀衡が多くの伽藍を造営し、
往時には堂塔40僧坊500を数え、
中尊寺を凌ぐ程の規模と華麗さであったそうです。
荘厳な山門をくぐり境内にはいると
右手には緩やかな土塁に松が生い茂り、
その松林の中にある芭蕉の句碑が目に入りました。
芭蕉が高館で詠んだとされる
"夏草や 兵共が 夢の跡"
の句が刻まれています。
二つの石碑ともに同じ句が刻まれているのですが、
左手の小さな石碑の文字は芭蕉の真蹟ということです。
前方には平成元年に再建された、
薬師如来をご本尊とする本堂が聳えています。
その本堂の手前、松並木が途絶えた辺りに
南大門跡がありました。
東西の幅が三間、南北の奥行き二間の
「二階惣門」と呼ばれた大きな門だったようです。
毛越寺は1954年(昭和29年)から5年間、
発掘調査が行われ、当時のほぼ全容が
明らかになったそうです。
この南大門跡の北側には、
広々とした大泉が池が横たわっています。
当時はこの大泉が池に浮ぶ中の島に
南大門から真っ直ぐに続く橋が架けられ、
周囲にいくつもの伽藍が配され、
京都の大寺をも凌ぐような造りだったようです。
今では、当時の建物は失われてしまっていますが、
大泉が池の周囲に広がる芝生の庭園を眺めていると
はるか昔、平安時代の貴族文化の香りがしてきます。
大泉が池に沿って、毛越寺の境内を
一周してみる事にしました。
大泉が池の西に佇むこのお堂は開山堂です。
毛越寺を開いた慈覚大師をお祀りしているとのことです。
開山堂を過ぎ、大泉が池の北側に出ると
広々と空間が広がっていました。
芝生が植えられ綺麗に整備された
この場所は、嘉祥寺の跡です。
基衡が造営をはじめ、秀衡が完成されたお堂で、
正面が約28m、側面約23mの大きな建物で
左右に廊があったそうです。
嘉祥寺跡を過ぎても、芝生の空間が続いています。
金堂円隆寺跡です。
基衡が建立した勅願寺です。
毛越寺の中心的なお堂で、「吾妻鏡」では
「我朝無双」と述べられています。
二代基衡が贅を尽くし建立したお堂です。
本堂の両脇には左右に伸びる廊があり、
その廊がコの字型を描くように南に折れ
その先に鐘楼や経楼建てられていたそうです。
この金堂円隆寺跡を過ぎると、
静かな水の流れがありました。
これは山水を大泉が池に引き込む水路ですが、
水底には玉石を敷き詰め、流れに石組を配しています。
遣水と呼ばれ、平安時代の遣水の遺構が残るのは
この毛越寺だけだそうです。
当時は、ここで曲水の宴も行われていたのでしょうか。
遣水を過ぎると、松の木々の間に
常行堂が見えてきました。
1733年(享保17年)に再建されたこのお堂には
阿弥陀如来と脇士四菩薩が祀られています。
正月20日の祭礼では、重要無形文化財の
「延年」の舞が奉納されるそうです。
広い毛越寺の庭園を歩くうちに、
短い冬の陽も西に傾いてきました。
この毛越寺を散策していると、当時の藤原氏の
栄華は如何ばかりであろうと思えてきます。
一日平泉を歩き廻り、かなり足が疲れていたのですが、
毛越寺の北に義経の妻子の墓があるというので
そこを訪れてみました。
中尊寺から来た道を途中まで戻り花立廃寺の
角を左に曲がり山間に入っていきます。
寂しい山間に建つ弁財天のお堂の前に
小さな小さな石塔が二つ建っていました。
栄華を極め、仏教を中心の世を実現しようとした
清衡、基衡、秀衡の藤原三代の夢も儚く消え、
戦乱の中で命を落とした義経とその妻子。
煌びやかであったであろう旧観自在王院庭園や
毛越寺を訪れた後に訪れたので、
より一層、諸行無常の世の移り変わりに
胸を打たれました。
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