京都・洛西
Westside of Kyoto, Japan

京都市街の西に広がる、太秦から嵯峨野・
嵐山にかけては多くの古刹・名刹があります。

また京都の中でも情緒豊かな所です。

京都四条大宮から嵐電という愛称で知られる
京福電気鉄道嵐山本線の路面電車に乗り、
この辺りを歩いてみました。

京福電気鉄道嵐山本線・北野線の
乗車記は こちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Train/Japan/Shitetsu_2/Keifuku.html

広隆寺
(Koryuji Temple)
Aug. 05, '01

龍安寺
(Ryoanji Temple)

仁和寺
(Ninnaji Temple)
Revised ! Aug. 28, '21

大覚寺
(Daikakuji Temple)

嵐山界隈
(Arashiyama Area)
June 29, '21

天龍寺
(Tenryuji Temple)
Aug. 18, '21

野宮神社
(Nonomiya Shrine)
July 06, '21

竹林の小径
(Path of Bamboo)
July 09, '21

常寂光寺
(Jyojyakkoji Temple)
July 15, '21

落柿舎
(Rakushisha)
July 18, '21

二尊院
(Nisonin Temple)
July 27, '21

祇王寺
(Gioji Temple)
July 30, '21

嵯峨鳥居本
(Saga-Toriimoto)
Aug. 08, '21

化野念仏寺
(Adashino Nenbutsuji)
Aug. 05, '21

愛宕念仏寺
(Otagi Nenbutsuji)
Aug. 15, '21

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広隆寺
(Koryuji Temple)

京福嵐山線の太秦駅を降りると、
広隆寺はすぐ近くです。

街並みは雑然としているのですが、
広隆寺の山門は周囲の景観とは異なり、
その辺りだけ、凛とした雰囲気です。

この広隆寺は建立603年という由緒あるお寺で、
法隆寺らとともに聖徳太子ゆかりの
七大寺と知られているそうです。

この広隆寺で有名なのは、本尊・半跏思惟像です。
日本で最も古く、最も美しいと言われる仏像です。
木造のなだらかな曲線、微笑んだ様子は、
なんとも言えぬ美しさを感じます。



〜広隆寺のパンフレットから〜

半跏思惟像を拝んだ後、境内を散策しました。
玉砂利の敷き詰められた境内は、
喧騒とした下界とは変わって、
静かな時が刻まれていました。


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仁和寺
(Ninnaji Temple)

2011年9月に、京福電気鉄道北野線に乗車した際、
御室仁和寺で下車し、仁和寺に向かいました。

京福電気鉄道北野線の乗車記は こちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Train/Japan/Shitetsu_2/Keifuku/Kitano.html

「徒然草」の"仁和寺のある法師・・・" で、
知られる仁和寺は、888年(仁和4年)に落成した、
京都でも有数の大寺です。

最盛期からは規模は縮小されたそうですが、
9万uの境内を有し、国宝の金堂をはじめ、
14棟もの重要文化財指定の建造物があるそうです。

御室仁和寺駅から北に歩いて行くと、
まず目に入るのが、二王門です。


撮影: 2011年9月

威風堂々とした山門で威圧感があります。
1637年(寛永14年)から1644年(正保3年)にかけ、
徳川家光公の発願で再建されています。


撮影: 2011年9月

仁和寺を護るいかめしい二体の仁王像です。
通常、仁王門は、仁王が護る門という事で"仁"の
文字が用いられますが、仁和寺では二体の仁王が
護るという意味で"二"の字が用いられるそうです。

二王門をくぐると広々とした境内です。


撮影: 2011年9月

広々とした境内を歩いていると、
中国西安宮を模した平安京の様子は
こんな感じだったのかな、
とふっと思ったりしました。

二王門の左手に、築地塀に囲まれた御殿があり、
ここは拝願する事が出来ます。

御殿から建物の中に入り、廻廊を通り、
白書院から宸殿と勅使門を眺めた様子です。


撮影: 2011年9月

この御殿が建っている場所は、仁和寺を
創建した宇多天皇が出家した後に住んだ
御室御所のあった所と言われています。

宸殿の北側には、池を配した北庭があります。
庭の向こうに五重塔が聳えていました。


撮影: 2011年9月

五重塔を望むこの景色は、とても心が鎮まる
豊かなひと時を味わう事が出来ました。

北庭に建てられた霊明殿から、北庭と
宸殿の様子を眺める事が出来ました。


撮影: 2011年9月

宸殿は、寛永年間(1624年〜1644年)に京都御所の
常御殿を移築した建物でしたが、1887年(明治20年)に
焼失し、1914年(大正3年)に再建されています。

再建されたとはいえ、この佇まいは
宮殿の雰囲気が今でも伝わってきます。

御殿を拝願した後に、境内を北に向かいました。
広々とした参道の先には中門がありました。


撮影: 2011年9月

中門は1641年(寛永18年)から1645年
(正保2年)の間に再建されたものです。

二王門と共に、国の重要文化財に指定されています。

中門を抜けた左手には御室桜がありました。


撮影: 2011年9月

江戸初期から遅咲きの桜として知られ、
国の名勝にも指定されているようです。
一度、御室桜が咲いている時期に
再訪してみたいものです。

御室桜の先には右手に五重塔が見えてきました。
参道を隔てた西側には観音堂がありました。


撮影: 2011年9月

五重塔は1644年(寛永21年)に建立されています。
観音堂は、1641年(寛永18年)から1644年
(正保元年)の間に再建されており、どちらも
国の重要文化財に指定されています。

この先に、仁和寺の金堂がありました。


撮影: 2011年9月

仁和寺には、御所から移築された建物も多いのですが、
この金堂は慶長年間(1596年〜1615年)に建てられた
御所の紫宸殿を寛永年間(1624年〜1644年)に
移築したもので、国宝に指定されています。

金堂の西側に、鐘楼を隔てて、
築地塀に囲われた御影堂があります。

仁和寺は真言宗のお寺で、この御影堂は
弘法大師空海の像が安置されています。


撮影: 2011年9月

御影堂は1641年(寛永18年)から1645年(正保2年)に、
御所・清涼殿の用材を用いて再建されたものです。
御影堂中門と共に、重要文化財に指定されています。

金堂の東側には経蔵が建っています。
この経蔵も1641年(寛永18年)から1645年
(正保2年)に再建されたものです。
この時期、いかに大規模に仁和寺の伽藍が
再整備されたのか、よく判ります。


撮影: 2011年9月

経蔵の手前に建つ九所明神です。


撮影: 2011年9月

仁和寺の伽藍を守る神社で、本殿の
両側に左殿、右殿が連なっています。

中央の本殿いは石清水八幡宮の八幡三神、
左殿、右殿には賀茂神社、日吉神社の
神々など、合わせて九座の明神が
祀られているそうです。

ゆったりとした伽藍の仁和寺は、
1994年に世界遺産に認定されたそうです。

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嵐山界隈
(Arashiyama)

京福電気鉄道の終点は嵐山駅です。

京福電気鉄道嵐山本線の
乗車記は こちらです。

嵐山駅の駅舎は3階建てで、二階・三階は
レディース用のホテルになっています。
一階はお土産物屋さんなどのお店が入り、
ここも賑わっています。


撮影: 2020年1月

この駅から右に折れて北に向かうと嵯峨野です。
通りには多くのお店が建っています。


撮影: 2020年1月

嵯峨野へ向かう観光客の姿が増え、
いつも人で賑わっている印象です。


撮影: 2019年12月

時折、人力車も通ります。

嵐山駅から左に折れ道の両側に並ぶ茶屋や
お土産物屋さんを抜けると渡月橋です。


撮影: 2018年10月

渡月橋は桂川(大堰川)の左岸と中洲の
中ノ島公園の間に架かる橋です。


撮影: 2011年9月

渡月橋から眺める桂川の流れです。
上流には嵐山や愛宕の山々が迫り、
下流には、京都の市街を隔て、
遠くに比叡山が見えています。


撮影: 2018年10月

836年(承和3年)に僧・道昌が架橋したと伝わります。

ここは、昔から貴族らが船を浮かべ、
花見や紅葉狩りを楽しんだ名勝の地です。


撮影: 2019年12月

桂川にかかる渡月橋は、周りの景色に
しっくりと溶け込んでいました。

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天龍寺
(Tenryuji Temple)

京福鉄道嵐山本線(通称・嵐電)の終着・嵐山駅から
右手に歩くと直ぐに天龍寺の入り口があります。

京福電気鉄道嵐山本線の
乗車記は こちらです。

天龍寺は、後醍醐天皇の菩提を弔うために
夢想疎石を開山として、足利尊氏が1339年
(暦応2年)に、創建したお寺です。

1386年(至徳3年)には、室町幕府の三代将軍・
足利義満が、南禅寺を別格とした京都五山の
第一位を天龍寺とすることを定めています。


撮影: 2011年9月

二つの門を抜けると、左手に立派な勅使門がありました。


撮影: 2011年9月

この勅使門は、元々は御所の明照院の門で、
慶長年間(1596〜1615年)に建てられたと伝わります。
1641年(寛永18年)に、現在地に移築されたそうです。

天龍寺は、何度も戦火に遭っており、幕末の1864年
(元治元年)に勃発した蛤御門の変では、長州藩が
陣を敷いた事から多くの堂宇も焼かれたそうです。

その際の火災を逃れたこの勅使門が、
天龍寺で最も古い建物になるそうです。

勅使門から西に向かいました。
天龍寺の伽藍配置は、東西の方向に勅使門、
法堂、そして方丈と一直線に配置されています。

勅使門から法堂へと向かう右手には
幾つもの塔頭がありました。

下の写真は弘源寺です。
1429年(永享元年)に、室町幕府の
管領・細川持之が創建しています。


撮影: 2011年9月

弘源寺は、毘沙門天が知られているようです。
毘沙門天が安置されている毘沙門堂(上右写真)の
扁額は、弘法大師の直筆と伝わるそうですが、
見逃してしまいました。

下の写真は弘源寺の西隣の慈済院です。
こちらは弁財天で知られています。


撮影: 2011年9月

そしてこちらは松厳寺です。


撮影: 2011年9月

法堂に最も近い塔頭で、南北朝時代の
1353年(文和2年/正平8年)に創建されています。

松厳寺の南、通路を挟んで法堂が建っていました。
法堂は1864年(元治元年)の蛤御門の戦いで焼失し、
江戸時代後期に建立された雲居庵禅堂を
明治になって移築したものだそうです。


撮影: 2011年9月

法堂は住持が仏に代わって大衆に説法する場所です。
1997年(平成9年)に雲龍図が描かれています。

法堂の左手には庫裡がありました。
白壁に梁が幾何学的に配置され、
しかもその梁に装飾が施されています。


撮影: 2011年9月

庫裡は、方丈や曹源池庭園拝願の入り口です。
庫裡には、有名な達磨絵がありました。


撮影: 2011年9月

庫裡から大方丈の縁側へと進み、
曹源池庭園を眺めました。


撮影: 2011年9月

大方丈の右手には小方丈があります。
小方丈は1924年(大正13年)に建てられました。

曹源池庭園は池泉回遊式庭園で、周辺の
嵐山や亀山を借景とした見事な庭園でした。


撮影: 2011年9月

小方丈から眺める大方丈の様子です。
大方丈は、1899年(明治32年)に
建立された天龍寺で最大の建物です。


撮影: 2011年9月

小方丈からは廻廊が奥へと続いていました。


撮影: 2011年9月

廻廊の先にあったのが、多宝殿がありました。
この多宝殿は後醍醐天皇の尊像を祀るお堂で、
1934年(昭和9年)に建てられています。


撮影: 2011年9月

多宝殿は、後醍醐天皇の吉野行宮時代の
紫宸殿と同じ建築様式だそうです。

多宝殿から廻廊を戻り、曹源池庭園を巡りました。


撮影: 2011年9月

天龍寺の見所の一つだけあって、
曹源池庭園は素晴らしい庭園でした。

曹源池庭園を眺めた後は、南側にある
塔頭の一つ宝厳院に向かいました。


撮影: 2011年9月

宝厳院も庭園で知られるお寺です。
その庭園は、獅子吼の庭と呼ばれています。
訪れた際には、苔が瑞々しく輝くようでした。


撮影: 2011年9月

宝厳院の庭園では瀧門瀑と呼ばれる
水の流れが作られているようです。


撮影: 2011年9月

宝厳院を辞し、今度は南側の塔頭の
門を眺めながら勅使門へと向かいました。

下右は永明院、左は寿寧院です。


撮影: 2011年9月

寿寧院の西側の小路を南に向った所の墓地に、
坂本龍馬の妻だった坂本おりょうと、
父・楢崎将作の顕彰碑があります。


撮影: 2011年9月

楢崎将作は医師で、久邇宮朝彦親王の侍医にも
なっていますが、1858年(安政4年)の
安政の大獄で連座しています。

投獄の影響なのか、49歳の若さで亡くなっています。

龍馬の妻・おりょうは、龍馬の暗殺後に一旦、
高知の龍馬の実家を頼りますが、その後、東京に
移り、呉服商人・西村松兵衛と再婚しています。

おりょうを頼って来た妹の光枝が、
松兵衛と内縁の関係になるなど、晩年は
幸薄かったのではないでしょうか。
享年64歳。

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野宮神社
(Nonomya Shrine)

嵐山駅前の通りを北に向かい、山陰本線の
踏切の手前で左に折れ、暫く歩くと、
野宮
(ののみや) 神社があります。

山陰本線の乗車記は こちらです。

野宮神社は、古代、斎王が伊勢に下向する前に
潔斎生活をした 野宮の跡に建てられた神社です。

斎宮は、崇神天皇の代に天照大神が大和の笠縫邑に
祀られた以降に、天皇の代わりとして天照大神の
御杖代として奉仕した皇女や内親王をいうそうです。

斎宮は天武天皇の代に制度化され、
南北朝時代まで続いたそうです。

また天照大神は垂仁天皇の代に、伊勢神宮に
遷宮され、斎宮の生活拠点として斎宮寮が
20km離れた所に築かれています。

2011年9月に、20数年ぶりに野宮神社を再訪しました。


撮影: 2011年9月

野宮神社の入り口に立つ黒木鳥居です。
黒木鳥居は樹皮がついた木を用いた鳥居で、
この黒木鳥居は日本最古だそうです。


撮影: 2019年12月

2019年に再訪した際には、紅葉が綺麗でした。
黒木鳥居を抜けた先に3つの社があり、真ん中の
社に野宮大神という扁額が掲げられていました。


撮影: 2019年12月

この右手に参道が続いています。
赤い鳥居もありました。


撮影: 2019年12月

赤い鳥居を抜けたところに絵馬が掛かっていました。
野宮神社は、縁結びの神様として知られています。


撮影: 2019年12月

絵馬の先に二つの社がありました。
白福稲荷大明神と大山弁財天です。


撮影: 2019年12月

野宮神社は、竹林の小径も近く、
嵯峨野の入り口にもあたり、多くの
外国人観光客で賑わっていました。

二つの社から参道を挟んで反対側には
静かな苔庭が広がっていました。


撮影: 2019年12月

外国からの観光客で賑わう境内にあって、
ここは静かな佇まいでした。

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竹林の小径
(Path of Bamboo)

京都・嵯峨野の観光名所の一つに竹林の小径があります。
元々、京都は竹の産地として知られていたそうですが、
真っすぐに伸びる竹林の中に続く、小路の佇まいが
素晴らしく、多くの観光客を惹きつけています。

竹林の小径の入り口は、京福電気鉄道の嵐山駅から
北に向かい、山陰本線の踏切の手前のこの角です。

京福電気鉄道嵐山本線の乗車記は こちらです。


撮影: 2011年9月

角を曲がって分け入った小路もしばらくは
お土産物屋さんが軒を連ねていますが、
その先で竹林の中へと分け入ります。


撮影: 2019年12月

道の脇には竹枝垣が設けられ、竹林の中に続いています。
惹きこまれてしまうような景色です


撮影: 2011年9月

この先、道が右に曲がっていますが、その先に
縁結びの神様で知られる野宮神社があります。

野宮神社の散策記は こちらです。


撮影: 2011年9月

竹林の中の道を人力車で巡る人が多いのか、
ちょくちょく人力車を見かけます。

野宮神社に立ち寄り、その先に進みます。
北側は、山陰本線の踏切になっています。


撮影: 2011年9月

踏切を渡った先には"竹林の散策路"と呼ばれる
竹林の中に設けられた散策路がありました。


撮影: 2011年9月

2015年に人力屋さんの寄付で整備されたそうです。
真っすぐに伸びる竹林の美しさを実感できます。


撮影: 2019年12月

竹林に差し込む陽の光が印象的でした。

竹林の散策路から、来た道を戻り、
野宮神社までやってきました。


撮影: 2011年9月

客待ちの人力車が、ポツンと置かれていました。

竹林は、野宮神社の西側にも広がっています。
ここまで、竹林の中の路が続いていましたが、
観光名所となっている"竹林の小径"は正式には
野宮神社が起点となって西に続いています。


撮影: 2011年9月

美しい竹林の中を竹枝垣で囲われた小路が
緩やかにカーブしながら続く様子は、
なんとも言えない魅力があります。


撮影: 2011年9月

この辺りは、古都・京都の景観を今に残しており、
歴史的風土特別保存地区に指定されています。

2011年9月に訪れた際は、まだ観光客もそれ程
多くはなく、竹林の小径を見通す事も出来ましたが、
近年は観光客が増えているようですので、この光景を
見ようと思ったら、早朝に出掛ける必要がありそうです。


撮影: 2011年9月

緩やかな起伏を描く竹林の小径を300m程
西に向かうと、大河内山荘庭園の
入り口に辿り着きました。

"竹林の小径"の正式な区間はここまでですが、
竹林の中の路は、この右手にも続いています。

その道を歩いていると、不意に竹の合間、
下の方に線路と駅のホームが見えて来ました。


撮影: 2011年9月

トロッコ列車で知られる嵯峨野観光鉄道の
トロッコ嵐山駅でした。

この後、常寂光寺へと向かいました。

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常寂光寺
(Jyojyakkoji Temple)

竹林の小径を抜け北に向かうと、
小倉山の麓に佇む常寂光寺があります。

常寂光寺は日蓮宗のお寺で、1596年(慶長元年)に
本圀寺16世の究竟院
(くきょういん)(にっしん)
この地に隠棲して、常寂光寺を開いています。


撮影: 2011年9月

山門は、江戸時代後期に改築されたものです。

山門を抜け、参道を真っすぐ進むと、仁王門があります。
この仁王門は貞和年間
(1345〜1349)に建立された本圀寺の
南門を、1616年(元和2年)に移築したものと伝わります。


撮影: 2011年9月

訪れた際には気が付いていませんでしたが、
仁王像は福井県小浜市の日蓮宗寺院・長源寺
から移され、作者は運慶と伝わっているそうです。

仁王門を過ぎ、急な石段を上ると、本堂があります。


撮影: 2011年9月

この本堂は、慶長年間(1596-1615)に建立された
伏見桃山城の客殿を移築したものだそうです。
移築に際して、小早川秀家の尽力があったそうです。

本堂の南には、妙見菩薩を祀る妙見堂があります。


撮影: 2011年9月

祀られている妙見菩薩は、慶長年間(1596-1615)に、
保頭川の洪水で流れ着いた菩薩像を、角倉町の
船頭が広い、集会所に祀られていたものを、
享和年間
(1801〜1804)に遷座したものです。

本堂から更に山腹を上ると、多宝塔がありました。


撮影: 2011年9月

多宝塔が建立されたのは1620年(元和6年)です。
均整の取れた姿で、重要文化財に指定されています。

多宝塔の近くにはこじんまりとした開山堂も建っています。


撮影: 2011年9月

この他、常寂光寺に所縁のある藤原定家と、
藤原家隆像を収める歌仙祠もありました。

そして、常寂光寺と言えば、何よりも
紅葉で知られています。

初めて常寂光寺を訪れたには1985年の秋でしたが、
2019年の晩秋にも紅葉を眺めに訪れました。


撮影: 2019年12月

見頃は少し過ぎていましたが、
仁王門近くの紅葉は見事でした。


撮影: 2019年12月

本堂に向かう石段の途中から
振り返って眺める仁王門の様子です。


撮影: 2019年12月

この時は、朝9:00の開門前にお寺に来たのですが、
既に多くの観光客の方が列をなしていました。

本堂脇の高台からは京都市内のビル群の向こうに
東山の山々の景色が広がっていました。
左端には比叡山の頂も見えています。


撮影: 2019年12月

多宝塔も晩秋の朝日を浴びて輝くようでした。


撮影: 2019年12月

常寂光寺の綺麗紅葉を楽しんだ後、仁王門近くまで
戻ると、近くに藤原定家の山荘跡の碑がありました。


撮影: 2011年9月

藤原定家は1235年に嵯峨野に山荘を開き、
そこで小倉百人一首を編纂したそうです。

藤原定家の山荘は仁王門の北側から隣の
二尊院にかけての辺りにあったそうです。
この地で、小倉百人一首の編纂をしたのでしょうか。

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落柿舎
(Rakushisha)

常寂光寺から山里に下り、しばらく歩くと
道端に四人の武士の像がありました。


撮影: 2011年9月

この四人は、右から中岡慎太郎、坂本龍馬、
武市瑞山、吉村寅太郎で、土佐が生んだ
幕末の志士で、土佐四天王と呼ばれています。

1864年(元治元年)に坂本龍馬と中岡慎太郎は、
長州藩が本陣としていた天龍寺を訪れたそうです。
元治元年と言えば、京都御所を舞台に蛤御紋の変が
勃発し、長州藩が京都から追放された年です。

京都御所の様子は こちらです。

この先、道の北側の景色が開け、その向こうに
杜に囲まれた茅葺の屋敷が見えてきました。


撮影: 2011年9月

地図を見てみると落柿舎という事で
立ち寄ってみました。

落柿舎の西隣には有智子内親王のお墓がありました。


撮影: 2011年9月

有智子内親王は平安時代初期の807年(大同2年)に生まれ、
文才に恵まれた方で、有智子内親王の詠った漢詩は
『経国集』などに合計10首が遺されているそうです。

そしてこちらが落柿舎の入り口です。


撮影: 2011年9月

落柿舎は松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘でした。
去来は1685年から1686年(貞享2〜3年)にかけて、
豪商からこの屋敷を入手したそうです。

尤も、去来の別荘があった場所は判っておらず、
現在の建物は、1770年(明和7年)に俳人・
井上重厚が再建したものだそうです。

2019年の晩秋にも常寂光寺を訪れた後に
落柿舎に立ち寄りました。


撮影: 2019年12月

落柿舎の名の通り、屋敷には柿の木があり、
いくつか柿が残っていました。

落柿舎の本庵の様子です。
ちょっとわかり難いですが、入り口の
右側の壁に蓑と笠が掛かっています。


撮影: 2019年12月

これは主の在宅を示す印になっています。
落柿舎の本庵は立ち入り禁止ですが、
清楚な室内の様子を見る事が出来ます。


撮影: 2019年12月

芭蕉も三度この山荘を訪れ、
嵯峨日記を記したそうです。

下の写真は、次庵の様子です。


撮影: 2019年12月

次庵は、事前の申し込みをすれば、
句会などに利用可能なようです。

落柿舎を訪れた後、玄関を抜けると遠くに
嵐山を眺める景色が広がっていました。


撮影: 2019年12月

秋の日を浴びた落柿舎を遠くから眺めてみました。
のどかな嵯峨野の景色が広がっていました。


撮影: 2019年12月

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二尊院
(Nisonin)

落柿舎から北に向かうと二尊院がありました。
二尊院は嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師が
841年(承和8年)に創建したお寺です。

二尊院という名は、釈迦如来と薬師如来の
二尊を祀る事から付いたそうです。


撮影: 2011年9月

この総門は、1613年(慶長18年)に角倉了以が
伏見城薬医門を移築したものです。

総門を抜けたところに西行法師の庵跡がありました。


撮影: 2011年9月

総門からは長い参道が続いています。
木々が生い茂り、趣のある光景です。


撮影: 2011年9月

この参道は紅葉の馬場と呼ばれ、秋には
紅葉の名所として知られているそうです。

参道の先に緩やかな石段があり、
その石段を上ると土塀が現れました。


撮影: 2011年9月

この土塀の左手に勅使門があります。


撮影: 2011年9月

かつては天皇の使いのみがこの門を
通る事を許された、格式の高い門です。

1521年(永正18年)に、三条西実隆に
よって再建されたそうです。

勅使門の先に本堂がありました。
この本堂も三条西実隆によって1521年
(永正18年)に、再建されたそうです。


撮影: 2011年9月

本堂の右隣には弁天堂があります。
弁財天の化身である九頭龍大神と
宇賀神が祀られているそうです。


撮影: 2011年9月

勅使門から土塀の所に戻ると、
八宮社があります。


撮影: 2011年9月

伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・
熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮の
八社を祀り、室町時代末期に建てられたそうです。

八宮社の西側の階段を上った所に墓地がありました。
下の写真左は、本堂などを再建した三条西実隆公と
次男・公条公、その子・実枝のお墓です。


撮影: 2011年9月

上右の写真は、角倉了以一族のお墓です。
角倉了以は戦国時代末期から江戸時代初期の人で、
各地の治水に力を注ぎ、京都の高瀬川や、天竜川、
富士川の開削などを行っています。

高瀬川の様子は こちらです。

この一角には法然上人のお墓もありました。


撮影: 2011年9月

法然は浄土宗の開祖とされています。

一時期、この二尊院に住み法を説いていたそうです。
1212年(建暦2年)に亡くなった15年後の嘉禄3年に
天台宗の僧侶が浄土宗の僧侶に圧力をかける
事件が勃発し、法然の遺骸も知恩院から
この二尊院に移されたそうです。

そして二尊院にも藤原定家が小倉百人一首を
編纂した時雨亭跡がありました。


撮影: 2011年9月

常寂光寺にも時雨亭の碑がありますが、
常寂光寺の仁王門から二尊院にかけての
辺りに時雨亭があったそうです。

常寂光寺の様子は こちらです。

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祇王寺
(Gioji)


滝口寺へ
(to Takiguchi-Dera Temple)

二尊院から更に北に向かうと、路地の分かれ道に
「祇王寺」や「新田公首塚」と刻まれた石碑が
立ち、惹きこまれるようにそちらに向かいました。


撮影: 2011年9月

一番手前にあったのが檀林寺です。


撮影: 2011年9月

檀林寺は、平安時代の初めに嵯峨天皇の皇后・
橘嘉智子が創建した寺院に由来するそうです。
現在の檀林寺は1964年(昭和39年)に
再建されています。

檀林寺の門前を過ぎると、道は細くなり、
勾配を登るようになりました。


撮影: 2011年9月

祇王寺の門ですが、この門は閉ざされており、
狭い階段をさらに上って行きます。

ここが祇王寺の入り口です。


撮影: 2011年9月

この更に奥に、滝口寺があります。
狭い石段を更に登っていきました。


滝口寺
(Takiguchi-Dera Temple)

滝口寺には新田義貞の首塚があります。
質素な門を抜けて滝口寺の境内に入りました。


撮影: 2011年9月

こちらが新田義貞の首塚です。


撮影: 2011年9月

新田義貞は、鎌倉幕府討幕の立役者で、
その後後醍醐天皇による建武新政を
足利尊氏と共に支えています。

しかしその後、足利尊氏が建武の新政に逆らうと
足利尊氏との間で争いとなり、最期は越前の
藤島の戦いで命を落としています。

福井の新田塚の様子は こちらです。

新田義貞の首は、京に運ばれ晒されますが、
妻の勾当内侍がその首を持ち去り、
この地に葬ったと追われています。

新田義貞の首塚から山道を登ると
古びた茅葺のお堂がありました。


撮影: 2011年9月

滝口寺は、一時廃寺となり、
昭和初期に再興されています。

滝口寺には、この他にも「平家物語」や高山樗牛の
小説で知られる滝口入道の悲恋の話もあります。

平重盛に仕える滝口武者の斎藤時頼は、花見の宴で
舞を踊った横笛に一目ぼれし、文を送りました。

これをきっかけに二人は愛し合う様になりますが、
時頼は、父に身分の違いから横笛との結婚を許されず、
出家し滝口寺に籠って仏道修行に勤めたそうです。

時頼の出家の事情を知らされなかった横笛は、
時頼を探し訪ね、滝口寺を訪れるも、時頼は、
仏行の妨げになると、横笛を追い返し、
女人禁制の高野山に籠ってしまいます。

これを知った横笛は、病に伏し、
儚い一生を終えてしまったそうです。

横笛が自分の指を斬り、その血で
詩を書いたとされる石がありました。


撮影: 2011年9月

"山深み 思い入りぬる柴の戸の
まことの道に我を導け"


祇王寺
(Gioji Temple)

滝口寺を辞した後、坂道を下って
祇王寺に向かいました。

小さな門から境内に入ると、そこには
美しい苔の庭が広がっていました。


撮影: 2011年9月

陽の光が苔に反射しているのか、辺り
一面が緑一色に染まっているようでした。

苔の庭園を巡るように、順路に
従っていくと山門に出ました。


撮影: 2011年9月

茅葺のこの山門の先の門が閉じられていて
ここからは境内には入る事が出来ませんでした。

山門から順路を辿って行くと、
再び苔の庭園の周囲を巡りました。


撮影: 2011年9月

京都には苔の綺麗な庭園が多いのですが、
これ程見事な苔の庭園を見たのは
初めてでした。

この先には竹林と竹枝垣で囲まれた
坂道が本堂へと続いていました。


撮影: 2011年9月

祇王寺は、平安時代に法然上人の弟子・良鎮が
往生院を開設した事に由来するそうです。

後に、祇王寺と呼ばれる事になりましたが、
祇王という名も平家物語に関係しています。

祇王は平清盛の贔屓の白拍子でしたが、
平清盛の興味は若い仏御前に移り、祇王は
母と妹と共にこの祇王寺に出家したそうです。

後に、仏御前も平清盛の元を離れ出家し、
この祇王寺で、祇王らと共に過ごしたそうです。

境内には祇王、祇王の母の刀自、妹・祇女の
三人のお墓と、平清盛の供養塔がありました。


撮影: 2011年9月

祇王が出家したのは21歳の時だったそうです。
未だ若いにも関わらず、世を離れ暮らした祇王と
その家族のお墓と、何人もの若い白拍子を弄んだ
平清盛の供養塔が、一緒に佇んでいるというのは
少々違和感を感じますが、昔はそうした違和感も
なく、こうして隣同士で建てられたのでしょうか。

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嵯峨鳥居本
(Saga-Toriimoto)

祇王寺の入り口にある檀林寺から更に
北に向かうと、通りの両側の町並みが
落ち着いた雰囲気になってきました。


撮影: 2011年9月

この先で八体地蔵の三叉路を左に折れました。
しばらく行くと、白壁の家並みが現れました。


撮影: 2011年9月

この辺りは嵯峨鳥居本と呼ばれる集落です。
室町時代に農林業や漁業などを主体とした
集落として栄え、江戸時代には愛宕神社の
門前町としても栄えたところだそうです。


撮影: 2011年9月

細くなった道の両側には、古い建物を利用した
食堂や民芸品店、お土産物屋が並んでいます。


撮影: 2011年9月

時折、グループの旅行者とすれ違いながら
鳥居本の集落を分け入っていきます。
この先でも、土蔵造りの建物がありました。


撮影: 2011年9月

その先で、化野念仏寺への入り口がありました。
嵯峨鳥居本の集落のうち、この化野念仏寺の
入口までは下地区と呼ばれています。


撮影: 2011年9月

化野念仏寺の様子は こちらです。

化野念仏寺の入り口を過ぎても
古い集落が続いています。


撮影: 2011年9月

化野念仏寺から先は、食堂や民芸店などの
お店は少なくなっている様に思います。
この先では茅葺屋根の建物もありました。


撮影: 2011年9月

しばらく行くと町並み保存館があります。
ここは内部が公開されています。


撮影: 2011年9月

町並み保存館のすぐ西側には嵐山高雄パークウェイの
高架橋が嵯峨鳥居本の集落のを跨いでいます。


撮影: 2011年9月

この橋からは嵯峨鳥居本の集落が良く見渡せました。
鉛色の瓦屋根が続く様子がとても印象的でした。

嵐山高雄パークウェイの高架橋の先には、
茅葺屋根の民家が何軒か並んでいました。


撮影: 2011年9月

化野念仏寺から先は下地区と呼ばれ
農村的な景観が特徴です。

「つたや」と「平野屋」という古民家の建物を
使った二つの鮎料理のお店がありました。
写真は平野屋の様子です。


撮影: 2011年9月

愛宕神社の鳥居の朱色と相まって
とても印象的な光景でした。


撮影: 2011年9月

この嵯峨鳥居本の集落は重要伝統的
建造物群保存地区に指定されています。

京都市内ではこの他に産寧坂地区、祇園新橋地区
そして上賀茂地区が重要伝統的建造物群
保存地区に指定されています。

産寧坂の様子は こちらです。
祇園新橋の様子は こちらです。

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化野念仏寺
(Adashino-Nembutsu Temple)

祇王寺から更に北に向かい、嵯峨鳥居本の集落を
歩いていると、集落の途中に化野念仏寺があります。

化野念仏寺は華西山東漸院と号する浄土教のお寺です。


撮影: 2011年9月

この辺りは、平安時代から鳥辺野や蓮台野とともに、
葬地として知られ、寂れた所だったようです。

9世紀初めの弘仁年間に空海上人が、この地に
葬られた人々を追善する為に千体の石仏を埋め、
五智山如来寺を開いたのが始まりだそうです。

緩やかな石段を上り、化野念仏寺の入り口に
向かう途中で、素朴な石仏を見かけました。


撮影: 2011年9月

境内に入ると、ここにも見事な苔の庭園がありました。
苔庭に小さな石仏がありますが、その石仏に掛けられた
赤い前掛けが、見事なアクセントになっていました。


撮影: 2011年9月

順路に従っていくと仏舎利塔がありました。


撮影: 2011年9月

写真が上手く撮れておらず、いま見返してみると残念です。
仏舎利塔へは階段が続いていましたが、これ以上
立ち入りは出来なかったと思います。

仏舎利塔から本堂に向かうと、夥しい数の石仏がありました。
ここは西院の河原と呼ばれています。


撮影: 2011年9月

西院の河原は、賽の河原を意味しています。
ここには8000体もの石仏が置かれているそうです。

西院の河原の様子は、通路からは写真撮影出来ますが、
西院の河原の中に入っての撮影は禁止されています。
ここは鎮魂の場所という事でしょうか。

西院の河原の南西角には延命地蔵尊のお堂がありました。


撮影: 2011年9月

延命地蔵尊のお堂の向こうに本堂があります。
1712年(正徳2年)に寂道上人が再建したと伝わります。


撮影: 2011年9月

化野念仏寺は、創建された際は真言宗のお寺でしたが、
法然上人の常念仏道場となっり、浄土宗のお寺になり、
寺の名前にも念仏寺と呼ばれるようになったそうです。

ご本尊の阿弥陀如来像が本堂に安置されていました。


撮影: 2011年9月

本堂の裏には竹林がありました。
その竹林の中を参道が続いていました。

綺麗に整備された竹林に竹枝垣の
小径が続く様子はとても絵になります。


撮影: 2011年9月

この竹林には角倉了以の長男・
角倉素庵のお墓もありました。


撮影: 2011年9月

竹林を抜けたところには六面六体地蔵がありました。
塔の六つの面に夫々地蔵様が安置されています。
水を掛ける事によって、罪障を洗い流すそうです。

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愛宕念仏寺
(Otagi-Nembutsu Temple)

嵯峨鳥居本の集落を抜け、茅葺の
趣のある平野屋を過ぎると、狭い谷間に
二つの道路が並走するように続いています。

右手の道路は、嵐山から清滝川まで、
営業していた愛宕山鉄道の廃線跡です。


撮影: 2011年9月

清滝川から愛宕神社のある愛宕山まで、
ケーブルカーも営業していましたが、
第二次大戦中に不要不急路線とされ
1944年(昭和19年)に廃止されました。

この先に愛宕 (おたぎ) 念仏寺があります。


撮影: 2011年9月

愛宕念仏寺は、奈良時代の764年(天平宝字8年)から
770年(神護景雲4年)にかけて、東山の地に
創建された愛宕寺
(おたぎてら) が所縁です。

現在地には1922年(大正11年)に移されたそうです。
第二次大戦中に無住となり、1950年(昭和25年)に
廃寺になってしまったそうです。

1955年(昭和30年)に仏師の西村公朝僧侶が
延暦寺から再興を命じられ、それ以降、
愛宕念仏寺の復興が進められたそうです。

仁王門を抜けると夥しい数の石仏がありました。


撮影: 2011年9月

ユニークな表情の石仏も多く、思わず見とれてしまいます。
これらの石仏は1981年(昭和56年)以降、参拝者によって
彫られたもので、1200体を越える石仏が奉納されています。

本堂などの伽藍は山の中腹にあり、
坂道を上って行きました。


撮影: 2011年9月

途中に建つ三宝の鐘です。


撮影: 2011年9月

この後方に懸け造りの地蔵堂がありました。
地蔵堂には、平安時代に造られた あたご本地
仏火除地蔵尊坐像が安置されています。


撮影: 2011年9月

三宝の鐘から最後の階段を上ると本堂がありました。


撮影: 2011年9月

鎌倉時代中期に再建されており、
国の重要文化財に指定されています。
ご本尊の千手観音が祀られています。

本堂の近くには多宝塔と、ふれ愛観音堂もありました。


撮影: 2011年9月

本堂の周囲にも、数多くの石仏が安置されていました。

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