京都市街の西に広がる、太秦から嵯峨野・
また京都の中でも情緒豊かな所です。
京都四条大宮から嵐電という愛称で知られる
京福嵐山線の太秦駅を降りると、
街並みは雑然としているのですが、
この広隆寺は建立603年という由緒あるお寺で、
この広隆寺で有名なのは、本尊・半跏思惟像です。
半跏思惟像を拝んだ後、境内を散策しました。
2011年9月に、京福電気鉄道北野線に乗車した際、
「徒然草」の"仁和寺のある法師・・・" で、
最盛期からは規模は縮小されたそうですが、
御室仁和寺駅から北に歩いて行くと、
威風堂々とした山門で威圧感があります。
仁和寺を護るいかめしい二体の仁王像です。
二王門をくぐると広々とした境内です。
広々とした境内を歩いていると、
二王門の左手に、築地塀に囲まれた御殿があり、
御殿から建物の中に入り、廻廊を通り、
この御殿が建っている場所は、仁和寺を
宸殿の北側には、池を配した北庭があります。
五重塔を望むこの景色は、とても心が鎮まる
北庭に建てられた霊明殿から、北庭と
宸殿は、寛永年間(1624年〜1644年)に京都御所の
再建されたとはいえ、この佇まいは
御殿を拝願した後に、境内を北に向かいました。
中門は1641年(寛永18年)から1645年
二王門と共に、国の重要文化財に指定されています。
中門を抜けた左手には御室桜がありました。
江戸初期から遅咲きの桜として知られ、
御室桜の先には右手に五重塔が見えてきました。
五重塔は1644年(寛永21年)に建立されています。
この先に、仁和寺の金堂がありました。
仁和寺には、御所から移築された建物も多いのですが、
金堂の西側に、鐘楼を隔てて、
仁和寺は真言宗のお寺で、この御影堂は
御影堂は1641年(寛永18年)から1645年(正保2年)に、
金堂の東側には経蔵が建っています。
経蔵の手前に建つ九所明神です。
仁和寺の伽藍を守る神社で、本殿の
中央の本殿いは石清水八幡宮の八幡三神、
ゆったりとした伽藍の仁和寺は、
京福電気鉄道の終点は嵐山駅です。
嵐山駅の駅舎は3階建てで、二階・三階は
この駅から右に折れて北に向かうと嵯峨野です。
嵯峨野へ向かう観光客の姿が増え、
時折、人力車も通ります。
嵐山駅から左に折れ道の両側に並ぶ茶屋や
渡月橋は桂川(大堰川)の左岸と中洲の
渡月橋から眺める桂川の流れです。
836年(承和3年)に僧・道昌が架橋したと伝わります。
ここは、昔から貴族らが船を浮かべ、
桂川にかかる渡月橋は、周りの景色に
京福鉄道嵐山本線(通称・嵐電)の終着・嵐山駅から
天龍寺は、後醍醐天皇の菩提を弔うために
1386年(至徳3年)には、室町幕府の三代将軍・
二つの門を抜けると、左手に立派な勅使門がありました。
この勅使門は、元々は御所の明照院の門で、
天龍寺は、何度も戦火に遭っており、幕末の1864年
その際の火災を逃れたこの勅使門が、
勅使門から西に向かいました。
勅使門から法堂へと向かう右手には
下の写真は弘源寺です。
弘源寺は、毘沙門天が知られているようです。
下の写真は弘源寺の西隣の慈済院です。
そしてこちらは松厳寺です。
法堂に最も近い塔頭で、南北朝時代の
松厳寺の南、通路を挟んで法堂が建っていました。
法堂は住持が仏に代わって大衆に説法する場所です。
法堂の左手には庫裡がありました。
庫裡は、方丈や曹源池庭園拝願の入り口です。
庫裡から大方丈の縁側へと進み、
大方丈の右手には小方丈があります。
曹源池庭園は池泉回遊式庭園で、周辺の
小方丈から眺める大方丈の様子です。
小方丈からは廻廊が奥へと続いていました。
廻廊の先にあったのが、多宝殿がありました。
多宝殿は、後醍醐天皇の吉野行宮時代の
多宝殿から廻廊を戻り、曹源池庭園を巡りました。
天龍寺の見所の一つだけあって、
曹源池庭園を眺めた後は、南側にある
宝厳院も庭園で知られるお寺です。
宝厳院の庭園では瀧門瀑と呼ばれる
宝厳院を辞し、今度は南側の塔頭の
下右は永明院、左は寿寧院です。
寿寧院の西側の小路を南に向った所の墓地に、
楢崎将作は医師で、久邇宮朝彦親王の侍医にも
投獄の影響なのか、49歳の若さで亡くなっています。
龍馬の妻・おりょうは、龍馬の暗殺後に一旦、
おりょうを頼って来た妹の光枝が、
嵐山駅前の通りを北に向かい、山陰本線の
野宮神社は、古代、斎王が伊勢に下向する前に
斎宮は、崇神天皇の代に天照大神が大和の笠縫邑に
斎宮は天武天皇の代に制度化され、
また天照大神は垂仁天皇の代に、伊勢神宮に
2011年9月に、20数年ぶりに野宮神社を再訪しました。
野宮神社の入り口に立つ黒木鳥居です。
2019年に再訪した際には、紅葉が綺麗でした。
この右手に参道が続いています。
赤い鳥居を抜けたところに絵馬が掛かっていました。
絵馬の先に二つの社がありました。
野宮神社は、竹林の小径も近く、
二つの社から参道を挟んで反対側には
外国からの観光客で賑わう境内にあって、
京都・嵯峨野の観光名所の一つに竹林の小径があります。
竹林の小径の入り口は、京福電気鉄道の嵐山駅から
角を曲がって分け入った小路もしばらくは
道の脇には竹枝垣が設けられ、竹林の中に続いています。
この先、道が右に曲がっていますが、その先に
竹林の中の道を人力車で巡る人が多いのか、
野宮神社に立ち寄り、その先に進みます。
踏切を渡った先には"竹林の散策路"と呼ばれる
2015年に人力屋さんの寄付で整備されたそうです。
竹林に差し込む陽の光が印象的でした。
竹林の散策路から、来た道を戻り、
客待ちの人力車が、ポツンと置かれていました。
竹林は、野宮神社の西側にも広がっています。
美しい竹林の中を竹枝垣で囲われた小路が
この辺りは、古都・京都の景観を今に残しており、
2011年9月に訪れた際は、まだ観光客もそれ程
緩やかな起伏を描く竹林の小径を300m程
"竹林の小径"の正式な区間はここまでですが、
その道を歩いていると、不意に竹の合間、
トロッコ列車で知られる嵯峨野観光鉄道の
この後、常寂光寺へと向かいました。
竹林の小径を抜け北に向かうと、
常寂光寺は日蓮宗のお寺で、1596年(慶長元年)に
山門は、江戸時代後期に改築されたものです。
山門を抜け、参道を真っすぐ進むと、仁王門があります。
訪れた際には気が付いていませんでしたが、
仁王門を過ぎ、急な石段を上ると、本堂があります。
この本堂は、慶長年間
本堂の南には、妙見菩薩を祀る妙見堂があります。
祀られている妙見菩薩は、慶長年間
本堂から更に山腹を上ると、多宝塔がありました。
多宝塔が建立されたのは1620年(元和6年)です。
多宝塔の近くにはこじんまりとした開山堂も建っています。
この他、常寂光寺に所縁のある藤原定家と、
そして、常寂光寺と言えば、何よりも
初めて常寂光寺を訪れたには1985年の秋でしたが、
見頃は少し過ぎていましたが、
本堂に向かう石段の途中から
この時は、朝9:00の開門前にお寺に来たのですが、
本堂脇の高台からは京都市内のビル群の向こうに
多宝塔も晩秋の朝日を浴びて輝くようでした。
常寂光寺の綺麗紅葉を楽しんだ後、仁王門近くまで
藤原定家は1235年に嵯峨野に山荘を開き、
藤原定家の山荘は仁王門の北側から隣の
常寂光寺から山里に下り、しばらく歩くと
この四人は、右から中岡慎太郎、坂本龍馬、
1864年(元治元年)に坂本龍馬と中岡慎太郎は、
この先、道の北側の景色が開け、その向こうに
地図を見てみると落柿舎という事で
落柿舎の西隣には有智子内親王のお墓がありました。
有智子内親王は平安時代初期の807年(大同2年)に生まれ、
そしてこちらが落柿舎の入り口です。
落柿舎は松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘でした。
尤も、去来の別荘があった場所は判っておらず、
2019年の晩秋にも常寂光寺を訪れた後に
落柿舎の名の通り、屋敷には柿の木があり、
落柿舎の本庵の様子です。
これは主の在宅を示す印になっています。
芭蕉も三度この山荘を訪れ、
下の写真は、次庵の様子です。
次庵は、事前の申し込みをすれば、
落柿舎を訪れた後、玄関を抜けると遠くに
秋の日を浴びた落柿舎を遠くから眺めてみました。
落柿舎から北に向かうと二尊院がありました。
二尊院という名は、釈迦如来と薬師如来の
この総門は、1613年(慶長18年)に角倉了以が
総門を抜けたところに西行法師の庵跡がありました。
総門からは長い参道が続いています。
この参道は紅葉の馬場と呼ばれ、秋には
参道の先に緩やかな石段があり、
この土塀の左手に勅使門があります。
かつては天皇の使いのみがこの門を
1521年(永正18年)に、三条西実隆に
勅使門の先に本堂がありました。
本堂の右隣には弁天堂があります。
勅使門から土塀の所に戻ると、
伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・
八宮社の西側の階段を上った所に墓地がありました。
上右の写真は、角倉了以一族のお墓です。
この一角には法然上人のお墓もありました。
法然は浄土宗の開祖とされています。
一時期、この二尊院に住み法を説いていたそうです。
そして二尊院にも藤原定家が小倉百人一首を
常寂光寺にも時雨亭の碑がありますが、
二尊院から更に北に向かうと、路地の分かれ道に
一番手前にあったのが檀林寺です。
檀林寺は、平安時代の初めに嵯峨天皇の皇后・
檀林寺の門前を過ぎると、道は細くなり、
祇王寺の門ですが、この門は閉ざされており、
ここが祇王寺の入り口です。
滝口寺には新田義貞の首塚があります。
こちらが新田義貞の首塚です。
新田義貞は、鎌倉幕府討幕の立役者で、
しかしその後、足利尊氏が建武の新政に逆らうと
新田義貞の首は、京に運ばれ晒されますが、
新田義貞の首塚から山道を登ると
滝口寺は、一時廃寺となり、
滝口寺には、この他にも「平家物語」や高山樗牛の
平重盛に仕える滝口武者の斎藤時頼は、花見の宴で
これをきっかけに二人は愛し合う様になりますが、
時頼の出家の事情を知らされなかった横笛は、
これを知った横笛は、病に伏し、
横笛が自分の指を斬り、その血で
"山深み 思い入りぬる柴の戸の
滝口寺を辞した後、坂道を下って
小さな門から境内に入ると、そこには
陽の光が苔に反射しているのか、辺り
苔の庭園を巡るように、順路に
茅葺のこの山門の先の門が閉じられていて
山門から順路を辿って行くと、
京都には苔の綺麗な庭園が多いのですが、
この先には竹林と竹枝垣で囲まれた
祇王寺は、平安時代に法然上人の弟子・良鎮が
後に、祇王寺と呼ばれる事になりましたが、
祇王は平清盛の贔屓の白拍子でしたが、
後に、仏御前も平清盛の元を離れ出家し、
境内には祇王、祇王の母の刀自、妹・祇女の
祇王が出家したのは21歳の時だったそうです。
祇王寺の入り口にある檀林寺から更に
この先で八体地蔵の三叉路を左に折れました。
この辺りは嵯峨鳥居本と呼ばれる集落です。
細くなった道の両側には、古い建物を利用した
時折、グループの旅行者とすれ違いながら
その先で、化野念仏寺への入り口がありました。
化野念仏寺の入り口を過ぎても
化野念仏寺から先は、食堂や民芸店などの
しばらく行くと町並み保存館があります。
町並み保存館のすぐ西側には嵐山高雄パークウェイの
この橋からは嵯峨鳥居本の集落が良く見渡せました。
嵐山高雄パークウェイの高架橋の先には、
化野念仏寺から先は下地区と呼ばれ
「つたや」と「平野屋」という古民家の建物を
愛宕神社の鳥居の朱色と相まって
この嵯峨鳥居本の集落は重要伝統的
京都市内ではこの他に産寧坂地区、祇園新橋地区
祇王寺から更に北に向かい、嵯峨鳥居本の集落を
化野念仏寺は華西山東漸院と号する浄土教のお寺です。
この辺りは、平安時代から鳥辺野や蓮台野とともに、
9世紀初めの弘仁年間に空海上人が、この地に
緩やかな石段を上り、化野念仏寺の入り口に
境内に入ると、ここにも見事な苔の庭園がありました。
順路に従っていくと仏舎利塔がありました。
写真が上手く撮れておらず、いま見返してみると残念です。
仏舎利塔から本堂に向かうと、夥しい数の石仏がありました。
西院の河原は、賽の河原を意味しています。
西院の河原の様子は、通路からは写真撮影出来ますが、
西院の河原の南西角には延命地蔵尊のお堂がありました。
延命地蔵尊のお堂の向こうに本堂があります。
化野念仏寺は、創建された際は真言宗のお寺でしたが、
ご本尊の阿弥陀如来像が本堂に安置されていました。
本堂の裏には竹林がありました。
綺麗に整備された竹林に竹枝垣の
この竹林には角倉了以の長男・
竹林を抜けたところには六面六体地蔵がありました。
嵯峨鳥居本の集落を抜け、茅葺の
右手の道路は、嵐山から清滝川まで、
清滝川から愛宕神社のある愛宕山まで、
この先に愛宕
愛宕念仏寺は、奈良時代の764年(天平宝字8年)から
現在地には1922年(大正11年)に移されたそうです。
1955年(昭和30年)に仏師の西村公朝僧侶が
仁王門を抜けると夥しい数の石仏がありました。
ユニークな表情の石仏も多く、思わず見とれてしまいます。
本堂などの伽藍は山の中腹にあり、
途中に建つ三宝の鐘です。
この後方に懸け造りの地蔵堂がありました。
三宝の鐘から最後の階段を上ると本堂がありました。
鎌倉時代中期に再建されており、
本堂の近くには多宝塔と、ふれ愛観音堂もありました。
本堂の周囲にも、数多くの石仏が安置されていました。
京都・洛西
Westside of Kyoto, Japan
嵐山にかけては多くの古刹・名刹があります。
京福電気鉄道嵐山本線の路面電車に乗り、
この辺りを歩いてみました。
乗車記は
こちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Train/Japan/Shitetsu_2/Keifuku.html
(Koryuji Temple)
Aug. 05, '01
(Ryoanji Temple)
(Ninnaji Temple)
Revised ! Aug. 28, '21
(Daikakuji Temple)
(Arashiyama Area)
June 29, '21
(Tenryuji Temple)
Aug. 18, '21
(Nonomiya Shrine)
July 06, '21
(Path of Bamboo)
July 09, '21
(Jyojyakkoji Temple)
July 15, '21
(Rakushisha)
July 18, '21
(Nisonin Temple)
July 27, '21
(Gioji Temple)
July 30, '21
(Saga-Toriimoto)
Aug. 08, '21
(Adashino Nenbutsuji)
Aug. 05, '21
(Otagi Nenbutsuji)
Aug. 15, '21
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広隆寺
(Koryuji Temple)
広隆寺はすぐ近くです。
広隆寺の山門は周囲の景観とは異なり、
その辺りだけ、凛とした雰囲気です。
法隆寺らとともに聖徳太子ゆかりの
七大寺と知られているそうです。
日本で最も古く、最も美しいと言われる仏像です。
木造のなだらかな曲線、微笑んだ様子は、
なんとも言えぬ美しさを感じます。
〜広隆寺のパンフレットから〜
玉砂利の敷き詰められた境内は、
喧騒とした下界とは変わって、
静かな時が刻まれていました。
仁和寺
(Ninnaji Temple)
御室仁和寺で下車し、仁和寺に向かいました。
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Train/Japan/Shitetsu_2/Keifuku/Kitano.html
知られる仁和寺は、888年(仁和4年)に落成した、
京都でも有数の大寺です。
9万uの境内を有し、国宝の金堂をはじめ、
14棟もの重要文化財指定の建造物があるそうです。
まず目に入るのが、二王門です。
撮影: 2011年9月
1637年(寛永14年)から1644年(正保3年)にかけ、
徳川家光公の発願で再建されています。
撮影: 2011年9月
通常、仁王門は、仁王が護る門という事で"仁"の
文字が用いられますが、仁和寺では二体の仁王が
護るという意味で"二"の字が用いられるそうです。
撮影: 2011年9月
中国西安宮を模した平安京の様子は
こんな感じだったのかな、
とふっと思ったりしました。
ここは拝願する事が出来ます。
白書院から宸殿と勅使門を眺めた様子です。
撮影: 2011年9月
創建した宇多天皇が出家した後に住んだ
御室御所のあった所と言われています。
庭の向こうに五重塔が聳えていました。
撮影: 2011年9月
豊かなひと時を味わう事が出来ました。
宸殿の様子を眺める事が出来ました。
撮影: 2011年9月
常御殿を移築した建物でしたが、1887年(明治20年)に
焼失し、1914年(大正3年)に再建されています。
宮殿の雰囲気が今でも伝わってきます。
広々とした参道の先には中門がありました。
撮影: 2011年9月
(正保2年)の間に再建されたものです。
撮影: 2011年9月
国の名勝にも指定されているようです。
一度、御室桜が咲いている時期に
再訪してみたいものです。
参道を隔てた西側には観音堂がありました。
撮影: 2011年9月
観音堂は、1641年(寛永18年)から1644年
(正保元年)の間に再建されており、どちらも
国の重要文化財に指定されています。
撮影: 2011年9月
この金堂は慶長年間(1596年〜1615年)に建てられた
御所の紫宸殿を寛永年間(1624年〜1644年)に
移築したもので、国宝に指定されています。
築地塀に囲われた御影堂があります。
弘法大師空海の像が安置されています。
撮影: 2011年9月
御所・清涼殿の用材を用いて再建されたものです。
御影堂中門と共に、重要文化財に指定されています。
この経蔵も1641年(寛永18年)から1645年
(正保2年)に再建されたものです。
この時期、いかに大規模に仁和寺の伽藍が
再整備されたのか、よく判ります。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
両側に左殿、右殿が連なっています。
左殿、右殿には賀茂神社、日吉神社の
神々など、合わせて九座の明神が
祀られているそうです。
1994年に世界遺産に認定されたそうです。
嵐山界隈
(Arashiyama)
乗車記は
こちらです。
レディース用のホテルになっています。
一階はお土産物屋さんなどのお店が入り、
ここも賑わっています。
撮影: 2020年1月
通りには多くのお店が建っています。
撮影: 2020年1月
いつも人で賑わっている印象です。
撮影: 2019年12月
お土産物屋さんを抜けると渡月橋です。
撮影: 2018年10月
中ノ島公園の間に架かる橋です。
撮影: 2011年9月
上流には嵐山や愛宕の山々が迫り、
下流には、京都の市街を隔て、
遠くに比叡山が見えています。
撮影: 2018年10月
花見や紅葉狩りを楽しんだ名勝の地です。
撮影: 2019年12月
しっくりと溶け込んでいました。
天龍寺
(Tenryuji Temple)
右手に歩くと直ぐに天龍寺の入り口があります。
乗車記は
こちらです。
夢想疎石を開山として、足利尊氏が1339年
(暦応2年)に、創建したお寺です。
足利義満が、南禅寺を別格とした京都五山の
第一位を天龍寺とすることを定めています。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
慶長年間(1596〜1615年)に建てられたと伝わります。
1641年(寛永18年)に、現在地に移築されたそうです。
(元治元年)に勃発した蛤御門の変では、長州藩が
陣を敷いた事から多くの堂宇も焼かれたそうです。
天龍寺で最も古い建物になるそうです。
天龍寺の伽藍配置は、東西の方向に勅使門、
法堂、そして方丈と一直線に配置されています。
幾つもの塔頭がありました。
1429年(永享元年)に、室町幕府の
管領・細川持之が創建しています。
撮影: 2011年9月
毘沙門天が安置されている毘沙門堂(上右写真)の
扁額は、弘法大師の直筆と伝わるそうですが、
見逃してしまいました。
こちらは弁財天で知られています。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
1353年(文和2年/正平8年)に創建されています。
法堂は1864年(元治元年)の蛤御門の戦いで焼失し、
江戸時代後期に建立された雲居庵禅堂を
明治になって移築したものだそうです。
撮影: 2011年9月
1997年(平成9年)に雲龍図が描かれています。
白壁に梁が幾何学的に配置され、
しかもその梁に装飾が施されています。
撮影: 2011年9月
庫裡には、有名な達磨絵がありました。
撮影: 2011年9月
曹源池庭園を眺めました。
撮影: 2011年9月
小方丈は1924年(大正13年)に建てられました。
嵐山や亀山を借景とした見事な庭園でした。
撮影: 2011年9月
大方丈は、1899年(明治32年)に
建立された天龍寺で最大の建物です。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
この多宝殿は後醍醐天皇の尊像を祀るお堂で、
1934年(昭和9年)に建てられています。
撮影: 2011年9月
紫宸殿と同じ建築様式だそうです。
撮影: 2011年9月
曹源池庭園は素晴らしい庭園でした。
塔頭の一つ宝厳院に向かいました。
撮影: 2011年9月
その庭園は、獅子吼の庭と呼ばれています。
訪れた際には、苔が瑞々しく輝くようでした。
撮影: 2011年9月
水の流れが作られているようです。
撮影: 2011年9月
門を眺めながら勅使門へと向かいました。
撮影: 2011年9月
坂本龍馬の妻だった坂本おりょうと、
父・楢崎将作の顕彰碑があります。
撮影: 2011年9月
なっていますが、1858年(安政4年)の
安政の大獄で連座しています。
高知の龍馬の実家を頼りますが、その後、東京に
移り、呉服商人・西村松兵衛と再婚しています。
松兵衛と内縁の関係になるなど、晩年は
幸薄かったのではないでしょうか。
享年64歳。
野宮神社
(Nonomya Shrine)
踏切の手前で左に折れ、暫く歩くと、
野宮
潔斎生活をした 野宮の跡に建てられた神社です。
祀られた以降に、天皇の代わりとして天照大神の
御杖代として奉仕した皇女や内親王をいうそうです。
南北朝時代まで続いたそうです。
遷宮され、斎宮の生活拠点として斎宮寮が
20km離れた所に築かれています。
撮影: 2011年9月
黒木鳥居は樹皮がついた木を用いた鳥居で、
この黒木鳥居は日本最古だそうです。
撮影: 2019年12月
黒木鳥居を抜けた先に3つの社があり、真ん中の
社に野宮大神という扁額が掲げられていました。
撮影: 2019年12月
赤い鳥居もありました。
撮影: 2019年12月
野宮神社は、縁結びの神様として知られています。
撮影: 2019年12月
白福稲荷大明神と大山弁財天です。
撮影: 2019年12月
嵯峨野の入り口にもあたり、多くの
外国人観光客で賑わっていました。
静かな苔庭が広がっていました。
撮影: 2019年12月
ここは静かな佇まいでした。
竹林の小径
(Path of Bamboo)
元々、京都は竹の産地として知られていたそうですが、
真っすぐに伸びる竹林の中に続く、小路の佇まいが
素晴らしく、多くの観光客を惹きつけています。
北に向かい、山陰本線の踏切の手前のこの角です。
撮影: 2011年9月
お土産物屋さんが軒を連ねていますが、
その先で竹林の中へと分け入ります。
撮影: 2019年12月
惹きこまれてしまうような景色です
撮影: 2011年9月
縁結びの神様で知られる野宮神社があります。
撮影: 2011年9月
ちょくちょく人力車を見かけます。
北側は、山陰本線の踏切になっています。
撮影: 2011年9月
竹林の中に設けられた散策路がありました。
撮影: 2011年9月
真っすぐに伸びる竹林の美しさを実感できます。
撮影: 2019年12月
野宮神社までやってきました。
撮影: 2011年9月
ここまで、竹林の中の路が続いていましたが、
観光名所となっている"竹林の小径"は正式には
野宮神社が起点となって西に続いています。
撮影: 2011年9月
緩やかにカーブしながら続く様子は、
なんとも言えない魅力があります。
撮影: 2011年9月
歴史的風土特別保存地区に指定されています。
多くはなく、竹林の小径を見通す事も出来ましたが、
近年は観光客が増えているようですので、この光景を
見ようと思ったら、早朝に出掛ける必要がありそうです。
撮影: 2011年9月
西に向かうと、大河内山荘庭園の
入り口に辿り着きました。
竹林の中の路は、この右手にも続いています。
下の方に線路と駅のホームが見えて来ました。
撮影: 2011年9月
トロッコ嵐山駅でした。
常寂光寺
(Jyojyakkoji Temple)
小倉山の麓に佇む常寂光寺があります。
本圀寺16世の究竟院
この地に隠棲して、常寂光寺を開いています。
撮影: 2011年9月
この仁王門は貞和年間
南門を、1616年(元和2年)に移築したものと伝わります。
撮影: 2011年9月
仁王像は福井県小浜市の日蓮宗寺院・長源寺
から移され、作者は運慶と伝わっているそうです。
撮影: 2011年9月
伏見桃山城の客殿を移築したものだそうです。
移築に際して、小早川秀家の尽力があったそうです。
撮影: 2011年9月
保頭川の洪水で流れ着いた菩薩像を、角倉町の
船頭が広い、集会所に祀られていたものを、
享和年間(1801〜1804)に遷座したものです。
撮影: 2011年9月
均整の取れた姿で、重要文化財に指定されています。
撮影: 2011年9月
藤原家隆像を収める歌仙祠もありました。
紅葉で知られています。
2019年の晩秋にも紅葉を眺めに訪れました。
撮影: 2019年12月
仁王門近くの紅葉は見事でした。
撮影: 2019年12月
振り返って眺める仁王門の様子です。
撮影: 2019年12月
既に多くの観光客の方が列をなしていました。
東山の山々の景色が広がっていました。
左端には比叡山の頂も見えています。
撮影: 2019年12月
撮影: 2019年12月
戻ると、近くに藤原定家の山荘跡の碑がありました。
撮影: 2011年9月
そこで小倉百人一首を編纂したそうです。
二尊院にかけての辺りにあったそうです。
この地で、小倉百人一首の編纂をしたのでしょうか。
落柿舎
(Rakushisha)
道端に四人の武士の像がありました。
撮影: 2011年9月
武市瑞山、吉村寅太郎で、土佐が生んだ
幕末の志士で、土佐四天王と呼ばれています。
長州藩が本陣としていた天龍寺を訪れたそうです。
元治元年と言えば、京都御所を舞台に蛤御紋の変が
勃発し、長州藩が京都から追放された年です。
杜に囲まれた茅葺の屋敷が見えてきました。
撮影: 2011年9月
立ち寄ってみました。
撮影: 2011年9月
文才に恵まれた方で、有智子内親王の詠った漢詩は
『経国集』などに合計10首が遺されているそうです。
撮影: 2011年9月
去来は1685年から1686年(貞享2〜3年)にかけて、
豪商からこの屋敷を入手したそうです。
現在の建物は、1770年(明和7年)に俳人・
井上重厚が再建したものだそうです。
落柿舎に立ち寄りました。
撮影: 2019年12月
いくつか柿が残っていました。
ちょっとわかり難いですが、入り口の
右側の壁に蓑と笠が掛かっています。
撮影: 2019年12月
落柿舎の本庵は立ち入り禁止ですが、
清楚な室内の様子を見る事が出来ます。
撮影: 2019年12月
嵯峨日記を記したそうです。
撮影: 2019年12月
句会などに利用可能なようです。
嵐山を眺める景色が広がっていました。
撮影: 2019年12月
のどかな嵯峨野の景色が広がっていました。
撮影: 2019年12月
二尊院
(Nisonin)
二尊院は嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師が
841年(承和8年)に創建したお寺です。
二尊を祀る事から付いたそうです。
撮影: 2011年9月
伏見城薬医門を移築したものです。
撮影: 2011年9月
木々が生い茂り、趣のある光景です。
撮影: 2011年9月
紅葉の名所として知られているそうです。
その石段を上ると土塀が現れました。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
通る事を許された、格式の高い門です。
よって再建されたそうです。
この本堂も三条西実隆によって1521年
(永正18年)に、再建されたそうです。
撮影: 2011年9月
弁財天の化身である九頭龍大神と
宇賀神が祀られているそうです。
撮影: 2011年9月
八宮社があります。
撮影: 2011年9月
熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮の
八社を祀り、室町時代末期に建てられたそうです。
下の写真左は、本堂などを再建した三条西実隆公と
次男・公条公、その子・実枝のお墓です。
撮影: 2011年9月
角倉了以は戦国時代末期から江戸時代初期の人で、
各地の治水に力を注ぎ、京都の高瀬川や、天竜川、
富士川の開削などを行っています。
撮影: 2011年9月
1212年(建暦2年)に亡くなった15年後の嘉禄3年に
天台宗の僧侶が浄土宗の僧侶に圧力をかける
事件が勃発し、法然の遺骸も知恩院から
この二尊院に移されたそうです。
編纂した時雨亭跡がありました。
撮影: 2011年9月
常寂光寺の仁王門から二尊院にかけての
辺りに時雨亭があったそうです。
祇王寺
(Gioji)
滝口寺へ
(to Takiguchi-Dera Temple)
「祇王寺」や「新田公首塚」と刻まれた石碑が
立ち、惹きこまれるようにそちらに向かいました。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
橘嘉智子が創建した寺院に由来するそうです。
現在の檀林寺は1964年(昭和39年)に
再建されています。
勾配を登るようになりました。
撮影: 2011年9月
狭い階段をさらに上って行きます。
撮影: 2011年9月
この更に奥に、滝口寺があります。
狭い石段を更に登っていきました。
滝口寺
(Takiguchi-Dera Temple)
質素な門を抜けて滝口寺の境内に入りました。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
その後後醍醐天皇による建武新政を
足利尊氏と共に支えています。
足利尊氏との間で争いとなり、最期は越前の
藤島の戦いで命を落としています。
妻の勾当内侍がその首を持ち去り、
この地に葬ったと追われています。
古びた茅葺のお堂がありました。
撮影: 2011年9月
昭和初期に再興されています。
小説で知られる滝口入道の悲恋の話もあります。
舞を踊った横笛に一目ぼれし、文を送りました。
時頼は、父に身分の違いから横笛との結婚を許されず、
出家し滝口寺に籠って仏道修行に勤めたそうです。
時頼を探し訪ね、滝口寺を訪れるも、時頼は、
仏行の妨げになると、横笛を追い返し、
女人禁制の高野山に籠ってしまいます。
儚い一生を終えてしまったそうです。
詩を書いたとされる石がありました。
撮影: 2011年9月
まことの道に我を導け"
祇王寺
(Gioji Temple)
祇王寺に向かいました。
美しい苔の庭が広がっていました。
撮影: 2011年9月
一面が緑一色に染まっているようでした。
従っていくと山門に出ました。
撮影: 2011年9月
ここからは境内には入る事が出来ませんでした。
再び苔の庭園の周囲を巡りました。
撮影: 2011年9月
これ程見事な苔の庭園を見たのは
初めてでした。
坂道が本堂へと続いていました。
撮影: 2011年9月
往生院を開設した事に由来するそうです。
祇王という名も平家物語に関係しています。
平清盛の興味は若い仏御前に移り、祇王は
母と妹と共にこの祇王寺に出家したそうです。
この祇王寺で、祇王らと共に過ごしたそうです。
三人のお墓と、平清盛の供養塔がありました。
撮影: 2011年9月
未だ若いにも関わらず、世を離れ暮らした祇王と
その家族のお墓と、何人もの若い白拍子を弄んだ
平清盛の供養塔が、一緒に佇んでいるというのは
少々違和感を感じますが、昔はそうした違和感も
なく、こうして隣同士で建てられたのでしょうか。
嵯峨鳥居本
(Saga-Toriimoto)
北に向かうと、通りの両側の町並みが
落ち着いた雰囲気になってきました。
撮影: 2011年9月
しばらく行くと、白壁の家並みが現れました。
撮影: 2011年9月
室町時代に農林業や漁業などを主体とした
集落として栄え、江戸時代には愛宕神社の
門前町としても栄えたところだそうです。
撮影: 2011年9月
食堂や民芸品店、お土産物屋が並んでいます。
撮影: 2011年9月
鳥居本の集落を分け入っていきます。
この先でも、土蔵造りの建物がありました。
撮影: 2011年9月
嵯峨鳥居本の集落のうち、この化野念仏寺の
入口までは下地区と呼ばれています。
撮影: 2011年9月
古い集落が続いています。
撮影: 2011年9月
お店は少なくなっている様に思います。
この先では茅葺屋根の建物もありました。
撮影: 2011年9月
ここは内部が公開されています。
撮影: 2011年9月
高架橋が嵯峨鳥居本の集落のを跨いでいます。
撮影: 2011年9月
鉛色の瓦屋根が続く様子がとても印象的でした。
茅葺屋根の民家が何軒か並んでいました。
撮影: 2011年9月
農村的な景観が特徴です。
使った二つの鮎料理のお店がありました。
写真は平野屋の様子です。
撮影: 2011年9月
とても印象的な光景でした。
撮影: 2011年9月
建造物群保存地区に指定されています。
そして上賀茂地区が重要伝統的建造物群
保存地区に指定されています。
祇園新橋の様子は
こちらです。
化野念仏寺
(Adashino-Nembutsu Temple)
歩いていると、集落の途中に化野念仏寺があります。
撮影: 2011年9月
葬地として知られ、寂れた所だったようです。
葬られた人々を追善する為に千体の石仏を埋め、
五智山如来寺を開いたのが始まりだそうです。
向かう途中で、素朴な石仏を見かけました。
撮影: 2011年9月
苔庭に小さな石仏がありますが、その石仏に掛けられた
赤い前掛けが、見事なアクセントになっていました。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
仏舎利塔へは階段が続いていましたが、これ以上
立ち入りは出来なかったと思います。
ここは西院の河原と呼ばれています。
撮影: 2011年9月
ここには8000体もの石仏が置かれているそうです。
西院の河原の中に入っての撮影は禁止されています。
ここは鎮魂の場所という事でしょうか。
撮影: 2011年9月
1712年(正徳2年)に寂道上人が再建したと伝わります。
撮影: 2011年9月
法然上人の常念仏道場となっり、浄土宗のお寺になり、
寺の名前にも念仏寺と呼ばれるようになったそうです。
撮影: 2011年9月
その竹林の中を参道が続いていました。
小径が続く様子はとても絵になります。
撮影: 2011年9月
角倉素庵のお墓もありました。
撮影: 2011年9月
塔の六つの面に夫々地蔵様が安置されています。
水を掛ける事によって、罪障を洗い流すそうです。
愛宕念仏寺
(Otagi-Nembutsu Temple)
趣のある平野屋を過ぎると、狭い谷間に
二つの道路が並走するように続いています。
営業していた愛宕山鉄道の廃線跡です。
撮影: 2011年9月
ケーブルカーも営業していましたが、
第二次大戦中に不要不急路線とされ
1944年(昭和19年)に廃止されました。
撮影: 2011年9月
770年(神護景雲4年)にかけて、東山の地に
創建された愛宕寺
第二次大戦中に無住となり、1950年(昭和25年)に
廃寺になってしまったそうです。
延暦寺から再興を命じられ、それ以降、
愛宕念仏寺の復興が進められたそうです。
撮影: 2011年9月
これらの石仏は1981年(昭和56年)以降、参拝者によって
彫られたもので、1200体を越える石仏が奉納されています。
坂道を上って行きました。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
地蔵堂には、平安時代に造られた あたご本地
仏火除地蔵尊坐像が安置されています。
撮影: 2011年9月
撮影: 2011年9月
国の重要文化財に指定されています。
ご本尊の千手観音が祀られています。
撮影: 2011年9月