下田
Shimida, Izu Peninsula

下田は、伊豆半島の東海岸の先端部に近い街です。
江戸時代から大坂と江戸の廻船の風待ち港として栄え、
幕末にペリーが来航し、1854年(嘉永7年)に日米和親条約が
締結されると、箱館(函館)と共に開港しています。

函館の散策記はこちらです。

下田には温泉も湧き、1961年(昭和36年)に伊豆急行線が
開業すると多くの観光客が訪れる街になっています

伊豆急行線の乗車記はこちらです。

下田は東側に下田湾が控え、周囲を山に囲まれた
比較的狭い範囲に中心街が広がっています。
ここに、幕末の史跡が数多く残っています。

2011年12月、下田の街を散策してみました。

伊豆急下田駅から宝福寺、了仙寺

熱海駅からリゾート21に乗車し、伊豆急下田駅に到着し
まず、駅の西側にある福泉寺に向かいました。


撮影: 2011年12月

「日露談判下田最初の応接所跡」の碑が
お寺の門の脇に立っています。

「日露談判]は、1855年(安政元年)に締結された
日露和親条約締結に向けた会談の事と思います。
福泉寺での会談は1854年11月だったそうですが、
福泉寺は安政の大地震で津波の被害に遭い、
その後は長楽寺で行われたそうです。

福泉寺から伊豆急下田駅の南に向かいました。
次の目的地は海善寺でした。


撮影: 2011年12月

海善寺は1350年(正平5年)に、河津で創建され、
1590年(天正18年)に現在地に移転しています。
この地は、家康が江戸に移封された1590年(天正18年)に
下田城を治めた戸田忠次の屋敷跡だったそうです。

幕末には、上洛途中の将軍・徳川家定が下田で
風待ちした際に、この海善寺で宿泊したそうです。

海善寺の南隣には宝福寺があります。
1854年(嘉永7年)に締結された日米和親条約によって
下田が開港された際に、下田奉行の都筑駿河守が
この宝福寺に仮奉行所を置いています。


撮影: 2011年12月

境内には唐人お吉の資料館がありました。
アメリカ合衆国駐日領事・ハリスは体調を崩し、彼の秘書・
ヒュースケンスが強硬に女性の看護人を求めたそうです。
その女性看護人として「おきち」が選ばれています。

昭和に入り、「おきち」を題材とした『唐人お吉』という
小説が発行され、世に知られるようになりましたが、
「おきち」については良く判っていないことも多いそうです。

この宝福寺には、坂本龍馬にまつわる逸話も残っています。
土佐藩を脱藩した龍馬は、土佐藩にとっては罪人でしたが、
この宝福寺にたまたま滞在していた土佐藩主・山内容堂に、
勝海舟がたまたま宝福寺を訪れた際に龍馬の脱藩の罪を
許してもらったそうです。

これは1863年(文久3年)2月の事ですが、この年の8月に生じた
8月18日の政変の後、藩外に居た土佐藩士に帰藩命令が
出されますが、龍馬は従わず、2度目の脱藩をしています。

高知の散策記はこちらです。
山内容堂のお墓のある、東京・品川の様子はこちらです。

こちらは宝福寺の南西にある大安寺です。


撮影: 2011年12月

境内に日向佐土原藩に関する石碑がありました。


撮影: 2011年12月

江戸時代初めの1688年(貞享5年)、将軍家へ献上する栂の
御用材を運ぶ佐土原藩の船が、遠州灘で台風に遭い、
御用材の一部を捨てて下田港に避難する事故があったそうです。

乗船していた家臣の河越太兵衛と二名の藩士や水主ら
合わせて16名が、御用材流出の責任を取り自害しています。

大安寺から更に南に下ったところに泰平寺があります。
1590年(天正18年)に下田の領主となった
戸田忠次が再建しています。

戸田忠次は三河田原の領主だった人で、家康の
江戸移封の際に、家康から下田を拝領しています。

田原の散策記はこちらです。


撮影: 2017年11月

戸田忠次の次子・尊次は関ヶ原の戦いで功績を挙げ、
5000石の加増を受け、故郷の田原に移封されています。
この泰平寺には、戸田忠次のお墓が残っているそうです。

泰平寺から更に南に向かうと、吉田松陰拘禁跡の碑がありました。


撮影: 2011年12月

吉田松陰は、1854年(嘉永7年)にペリーが下田に来航した際、
金子重輔とペリー艦隊の船に乗船し、渡米を懇願しています。
ペリーにこれを拒否されると、吉田松陰は自首しています。

自首した吉田松陰は、この地で拘禁され、28日後に
江戸・神田の伝馬町牢屋敷に投獄されました。
松陰は、安政の大獄の際に投獄され、老中・
間部詮勝暗殺計画を告白し、処刑されています。

萩の散策記はこちらです。
投獄された江戸の伝馬町牢屋敷跡の様子はこちらです。
吉田松陰が葬られた、世田谷の松陰神社はこちらです。

吉田松陰拘禁跡から1ブロック南には下田開国博物館がありました。
ここはペリー来航から開国に至る資料が展示されています。


撮影: 2011年12月

下田開国博物館から通りを東に向かうと了仙寺があります。
了仙寺は、第二代下田奉行・今村正長が、
1635年(寛永12年)に開いたお寺です。


撮影: 2011年12月

境内には立派な五輪塔がありました。
第二代下田奉行の今村正長、第四代の
今村正成、そして第五代の今村正信のお墓です。

小さなお墓は、今村正長の妻の墓と伝わるそうです。


撮影: 2011年12月

1854年(嘉永7年)に日米和親条約が締結されると
了仙寺は、ペリー一行の応接所に指定されました。


撮影: 2011年12月

了仙寺で、日米和親条約付録・下田条約が締結されています。
本堂にその際の様子を描いた絵が掲げられています。

了仙寺の東側は、家々の間を通る小路が続いていました。


撮影: 2011年12月

了仙寺からペリーロード、伊豆急下田駅

日米和親条約付録・下田条約が締結された
了仙寺から東に向かうと、運河沿いの道になりました。

運河沿いには趣のある建物が続いています。
この通りは、ペリーロードと呼ばれています。


撮影: 2011年12月

了仙寺で日米和親条約付録・下田条約が
締結された際、細かな取り決めもされたようです。
その一つに遊歩権というものがあって、アメリカ人が
自由に下田の街を歩く権利も認められたようです。

当時のアメリカ人も、この運河沿いを
散策していたのでしょうか。

ペリーロードの南側には長楽寺がありました。
この長楽寺では1854年(安政元年)に
日露通商条約が締結されています。


撮影: 2011年12月

日露通商条約は、日米和親と同年に締結されています。
そして長楽寺では、その翌年に日米和親条約批准書の
交換が行われています。

再び、ペリーロードに戻り、東に進みました。
煉瓦造りの建物もあり、いい雰囲気です。


撮影: 2011年12月

ペリーロードを東に進むと、下田湾の南を遮る岬の山に突き当たります。
その山は、室町時代の末期に下田城が築かれています。

この後、その小山に登り、下田城を訪れたのですが
高台から下田の市街地を眺めることが出来ました。

下田城の登城記はこちらです。


撮影: 2011年12月

この高台に、下岡蓮杖の碑がありました。


撮影: 2011年12月

下岡蓮杖は幕末の、下田出身の写真家です。
下岡蓮杖の名は、この地で初めて知りましたが、
幕末の写真家として知られている長崎の上野俊之丞とは
別に写真技術を習得し、日本で最初の写真館を開設したそうです。

下田城址の北側には小さな入り江があります。


撮影: 2011年12月

ここにペリー上陸の碑がありました。
下田での条約交渉の際、そしてその結果開港された
下田を訪れる際に、ペリーの艦隊はここから上陸したようです。


撮影: 2011年12月

その下田の港の眺めです。
ここは了仙寺の最寄りの場所になっています。

港にはアジの開きが天日干しされていました。
アジの開きは下田名産の一つだそうです。


撮影: 2011年12月

ペリー上陸地から伊豆急下田駅まで、町中を通って戻りました。
町中にはなまこ壁の建物もいくつか見かけました。


撮影: 2011年12月

なまこ壁は潮風にも強いそうで、それで下田に多いのでしょうか。
近くには、雑忠家がなめこ壁では知られているようです。

駅に近づいたところで、再び下田港に立ち寄ってみました。


撮影: 2011年12月

港の南側に見える丘が、下田城址が残る丘です。

下田城の登城記はこちらです。

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