下田は、伊豆半島の東海岸の先端部に近い街です。
下田には温泉も湧き、1961年(昭和36年)に伊豆急行線が
下田は東側に下田湾が控え、周囲を山に囲まれた
2011年12月、下田の街を散策してみました。
熱海駅からリゾート21に乗車し、伊豆急下田駅に到着し
「日露談判下田最初の応接所跡」の碑が
「日露談判]は、1855年(安政元年)に締結された
福泉寺から伊豆急下田駅の南に向かいました。
海善寺は1350年(正平5年)に、河津で創建され、
幕末には、上洛途中の将軍・徳川家定が下田で
海善寺の南隣には宝福寺があります。
境内には唐人お吉の資料館がありました。
昭和に入り、「おきち」を題材とした『唐人お吉』という
この宝福寺には、坂本龍馬にまつわる逸話も残っています。
これは1863年(文久3年)2月の事ですが、この年の8月に生じた
こちらは宝福寺の南西にある大安寺です。
境内に日向佐土原藩に関する石碑がありました。
江戸時代初めの1688年(貞享5年)、将軍家へ献上する栂の
乗船していた家臣の河越太兵衛と二名の藩士や水主ら
大安寺から更に南に下ったところに泰平寺があります。
戸田忠次は三河田原の領主だった人で、家康の
戸田忠次の次子・尊次は関ヶ原の戦いで功績を挙げ、
泰平寺から更に南に向かうと、吉田松陰拘禁跡の碑がありました。
吉田松陰は、1854年(嘉永7年)にペリーが下田に来航した際、
自首した吉田松陰は、この地で拘禁され、28日後に
吉田松陰拘禁跡から1ブロック南には下田開国博物館がありました。
下田開国博物館から通りを東に向かうと了仙寺があります。
境内には立派な五輪塔がありました。
小さなお墓は、今村正長の妻の墓と伝わるそうです。
1854年(嘉永7年)に日米和親条約が締結されると
了仙寺で、日米和親条約付録・下田条約が締結されています。
了仙寺の東側は、家々の間を通る小路が続いていました。
日米和親条約付録・下田条約が締結された
運河沿いには趣のある建物が続いています。
了仙寺で日米和親条約付録・下田条約が
当時のアメリカ人も、この運河沿いを
ペリーロードの南側には長楽寺がありました。
日露通商条約は、日米和親と同年に締結されています。
再び、ペリーロードに戻り、東に進みました。
ペリーロードを東に進むと、下田湾の南を遮る岬の山に突き当たります。
この後、その小山に登り、下田城を訪れたのですが
この高台に、下岡蓮杖の碑がありました。
下岡蓮杖は幕末の、下田出身の写真家です。
下田城址の北側には小さな入り江があります。
ここにペリー上陸の碑がありました。
その下田の港の眺めです。
港にはアジの開きが天日干しされていました。
下田
Shimida, Izu Peninsula
江戸時代から大坂と江戸の廻船の風待ち港として栄え、
幕末にペリーが来航し、1854年(嘉永7年)に日米和親条約が
締結されると、箱館(函館)と共に開港しています。
開業すると多くの観光客が訪れる街になっています
比較的狭い範囲に中心街が広がっています。
ここに、幕末の史跡が数多く残っています。
まず、駅の西側にある福泉寺に向かいました。
撮影: 2011年12月
お寺の門の脇に立っています。
日露和親条約締結に向けた会談の事と思います。
福泉寺での会談は1854年11月だったそうですが、
福泉寺は安政の大地震で津波の被害に遭い、
その後は長楽寺で行われたそうです。
次の目的地は海善寺でした。
撮影: 2011年12月
1590年(天正18年)に現在地に移転しています。
この地は、家康が江戸に移封された1590年(天正18年)に
下田城を治めた戸田忠次の屋敷跡だったそうです。
風待ちした際に、この海善寺で宿泊したそうです。
1854年(嘉永7年)に締結された日米和親条約によって
下田が開港された際に、下田奉行の都筑駿河守が
この宝福寺に仮奉行所を置いています。
撮影: 2011年12月
アメリカ合衆国駐日領事・ハリスは体調を崩し、彼の秘書・
ヒュースケンスが強硬に女性の看護人を求めたそうです。
その女性看護人として「おきち」が選ばれています。
小説が発行され、世に知られるようになりましたが、
「おきち」については良く判っていないことも多いそうです。
土佐藩を脱藩した龍馬は、土佐藩にとっては罪人でしたが、
この宝福寺にたまたま滞在していた土佐藩主・山内容堂に、
勝海舟がたまたま宝福寺を訪れた際に龍馬の脱藩の罪を
許してもらったそうです。
8月18日の政変の後、藩外に居た土佐藩士に帰藩命令が
出されますが、龍馬は従わず、2度目の脱藩をしています。
山内容堂のお墓のある、東京・品川の様子はこちらです。
撮影: 2011年12月
撮影: 2011年12月
御用材を運ぶ佐土原藩の船が、遠州灘で台風に遭い、
御用材の一部を捨てて下田港に避難する事故があったそうです。
合わせて16名が、御用材流出の責任を取り自害しています。
1590年(天正18年)に下田の領主となった
戸田忠次が再建しています。
江戸移封の際に、家康から下田を拝領しています。
撮影: 2017年11月
5000石の加増を受け、故郷の田原に移封されています。
この泰平寺には、戸田忠次のお墓が残っているそうです。
撮影: 2011年12月
金子重輔とペリー艦隊の船に乗船し、渡米を懇願しています。
ペリーにこれを拒否されると、吉田松陰は自首しています。
江戸・神田の伝馬町牢屋敷に投獄されました。
松陰は、安政の大獄の際に投獄され、老中・
間部詮勝暗殺計画を告白し、処刑されています。
投獄された江戸の伝馬町牢屋敷跡の様子はこちらです。
吉田松陰が葬られた、世田谷の松陰神社はこちらです。
ここはペリー来航から開国に至る資料が展示されています。
撮影: 2011年12月
了仙寺は、第二代下田奉行・今村正長が、
1635年(寛永12年)に開いたお寺です。
撮影: 2011年12月
第二代下田奉行の今村正長、第四代の
今村正成、そして第五代の今村正信のお墓です。
撮影: 2011年12月
了仙寺は、ペリー一行の応接所に指定されました。
撮影: 2011年12月
本堂にその際の様子を描いた絵が掲げられています。
撮影: 2011年12月
了仙寺から東に向かうと、運河沿いの道になりました。
この通りは、ペリーロードと呼ばれています。
撮影: 2011年12月
締結された際、細かな取り決めもされたようです。
その一つに遊歩権というものがあって、アメリカ人が
自由に下田の街を歩く権利も認められたようです。
散策していたのでしょうか。
この長楽寺では1854年(安政元年)に
日露通商条約が締結されています。
撮影: 2011年12月
そして長楽寺では、その翌年に日米和親条約批准書の
交換が行われています。
煉瓦造りの建物もあり、いい雰囲気です。
撮影: 2011年12月
その山は、室町時代の末期に下田城が築かれています。
高台から下田の市街地を眺めることが出来ました。
撮影: 2011年12月
撮影: 2011年12月
下岡蓮杖の名は、この地で初めて知りましたが、
幕末の写真家として知られている長崎の上野俊之丞とは
別に写真技術を習得し、日本で最初の写真館を開設したそうです。
撮影: 2011年12月
下田での条約交渉の際、そしてその結果開港された
下田を訪れる際に、ペリーの艦隊はここから上陸したようです。
撮影: 2011年12月
ここは了仙寺の最寄りの場所になっています。
アジの開きは下田名産の一つだそうです。