品川駅の南、京浜急行の路線の東側に東海道が通り、
江戸時代には、北品川駅と青物横丁駅辺りに
掛けて、品川宿がありました。
その更に南には越前鯖江藩や土佐藩などの
下屋敷もあったようです。
品川は、元々は目黒川の河口に発達した港町でした。
1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に移封される
前から、品川は栄えていたそうです。
現在は品川区になってるこの周辺の様子を紹介します。
Jan. 04, '17 NEW ! Jan. 19, '17 Dec. 24, '17 Dec. 05, '17 "東京"のTopに戻る
品川宿は東海道53次の最初の宿場町です。
日本橋を起点とする東海道も、江戸の町は高輪の
木戸までで、そこからは江戸郊外になっていました。
高輪の散策記は こちら です:
東海道は、京浜急行本線の東500m程の
ところを南北に走っていました。
新馬場駅の南東に「街道松の広場」があります。
浜松の松をここに植えたものだそうです。
ここから東海道を北に向かいました。
この北に目黒川が東西に流れ、
その対岸に在原神社がありました。
在原神社の手前の赤い橋が架かっているのが目黒川です。
品川は、元々は目黒川の河口に発達した港町でした。
1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に移封される
前から、品川は栄えていたそうです。
訪れた時、境内の緋寒桜が綺麗に咲いていました。
再び、旧東海道を北上しました。
商店がずっと軒を連ねています。
その中に品川宿交流館がありました。
品川宿の街づくり協議会が運営する建物で
2階には展示室もあるそうです。
この先、国道317号線を渡った先には本陣跡もありました。
品川宿本陣の跡は今は小公園になっています。
明治になり、東京に向かう明治天皇も、
ここで休息したそうです。
品川宿を更に北に向かました。
街道沿いにあった成田山一心寺です。
一心寺の歴史は思いの外新しく、井伊直弼によって
幕末の1854年(安政2年)に開かれたお寺だそうです。
一心寺の向いの小路を入っていくと
虚空蔵菩薩を祀る養願寺があります。
今ではひっそりとしていますが、江戸時代には
こうしたお寺も参拝客で賑わっていた事でしょう。
この先にもう一か所、品川宿の松がありました。
ここの案内板によると、江戸の最盛期、
品川宿には1,600軒の家屋があり、
人口は7,000人程だったそうです。
この先も品川宿跡の商店街が続きます。
魚屋さんとか、今では地方では見る事の出来ない
お店も現役で繁盛しているようでした。
こうして品川宿の北の端に近づいた時、土蔵相模跡の碑がありました。
品川は宿場としてだけでなく、北の吉原に対し、南の品川と言われた
程の遊興の地で、多くの妓楼が建ち、土蔵相模もその一つでした。
土蔵相模跡の様子です。
土蔵相模は幕末の志士が良く利用していたようで、桜田門外の変を
起こした水戸浪士らが事件の前夜に今生の別れの宴を開いたり、
長州藩士による御殿山に建設中の外国公使館焼き討ちの
際にも土蔵相模に宿泊したようです。
土蔵相模を過ぎると、品川宿も外れとなり、
京浜急行の踏切になりました。
この踏切の南側に北品川駅があり、一駅北が品川駅です。
1872年(明治5年)に、新橋 - 桜木町間の鉄道が開業した際には、
線路は品川宿を避けるように西側の丘陵地を切通で通り抜け、
品川宿の北側に駅が設けられています。
踏切の先に八ツ山橋があります。
京浜急行の電車も道路に並走して、東海道本線や山手線、
京浜東北線を走る列車をオーバークロスしています。
山手線の乗車記は こちら です:
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東京の地理は、余所者にとっては判り難い事が多いです。
道路が綺麗な碁盤の目になっている名古屋に慣れ親しんだ
者からすると、道路だけでなく、地下鉄も曲るくねっていて、
何処がどう繋がっているのか、地図が無いと移動もままなりません。
もう一つは、主要駅と地名が一致していない事です。
目黒駅は目黒区にはなく品川区にあり、品川駅は
品川区ではなく、その所在地は港区です。
駅のすぐ近くを目黒川の流れていますが、
大崎駅も、品川区の北の端に位置しています。
大崎駅から東の高台に登っていくと、
御殿山へと至ります。
今は、高層の高級マンションや超高級ホテルが
建っていますが、江戸時代には桜の名所でした。
すぐ隣の切通には、東海道新幹線や東海道本線、
山手線などの日本の大動脈が走っています。
丁度いい具合に、右手に跨線橋があります。
ここからしばらく行き交う列車を眺めていました。
山手線に東海道本線、品鶴貨物線を通る横須賀線の電車、
山手貨物線に乗り入れる成田エクスプレスと、短い間に
多くの列車が駆け抜けて行きました。
この跨線橋の東南側は、幕末に英国公使館が
建てられていたところです。
1863年(文久2年)1月31日、完成間近のその公使館は、
高杉晋作を始めとする長州藩士によって
焼き討ちされてしまったのでした。
英国公使館があった辺りの様子です。
住宅が密集していて、当時の様子は
残っていませんでした。
このすぐ近くに品川神社がありました。
品川神社は平安時代末期の1187年(文治3年)に
源頼朝によって創建された神社です。
関ケ原の合戦の際には、徳川家康が
必勝祈願をしたそうです。
境内に入ると、小さな鳥居がありました。
ここは富士塚の入り口です。
富士塚は江戸時代の富士山信仰の象徴です。
富士山を模した山を築き、富士山を訪れる代わりに
この富士塚にお参りする人で溢れたそうです。
富士塚に用いられている岩は、溶岩のようですが
富士山から持ってきたものなのでしょうか?
江戸時代に、これだけの量の岩を運んだとすると
そのエネルギーの大きさに驚かされます。
富士塚からの眺めです。
京浜急行の高架線の向こうに、
湾岸地区の高層ビルが見えていました。
品川神社を訪れたのは2月ですが、
境内には梅が咲いていました。
品川神社は家康の参拝以降、徳川将軍家の
信仰する特別な神社とされ、神社の紋にも
三つ葉葵が使われていました。
第二次大戦でも神社の社殿は焼けなかったそうですが
老朽化の為に、1964年に建て替えられたそうです。
三つ葉葵の御紋はそのまま使われていました。
この品川神社には板垣退助のお墓もありました。
幕末の土佐出身で、明治以降に政治家になっています。
岐阜で襲われた際の、次の言葉が知られています。
「板垣死すとも自由は死せず」
ここを訪れた翌年の2012年以降は、国粋主義的な
政策が施され、多くの人が命がけで掴み取り、そして
護ってきた自由が危険に晒される状況になりました。
自由で平和な社会を護り通さねば、と思います。
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品川駅から京浜急行の普通電車で4駅目、
青物横丁を発車したと思うと、
すぐに鮫洲駅に到着します。
京浜急行電鉄の乗車記は こちら です:
JR大井町駅のすぐ東側にある住宅地が広がる一角です。
京浜急行電鉄本線は低地を高架で突っ切っていますが
すぐ西側には海岸段丘跡の丘陵地が迫っています。
鮫洲駅から目の前の海岸段丘を上っていきます。
この階段を上ったところに、小さな空き地があり、
幕末の土佐藩の藩主・山内容堂のお墓がありました。
山内容堂の晩年は自らを鯨海酔侯と自称し、
毎日のように酒を飲み、妾に囲まれて
過ごしていたようですが、酒が過ぎたようで、
御前会議でも醜態を晒してしまったようです。
容堂公が亡くなったのは46歳の時、
脳溢血だったそうです。
分家の出身で、藩主になる際に幕府から多大な恩を
受けた容堂公は、討幕の立場を取れず、それが
幕末の土佐藩の行動に制約を生じさせたようです。
容堂公のお墓の右隣には容堂公の義子・
山内豊範公の正室のお墓もありました。
山内容堂公のお墓の目の前には、
区立の小学校の校庭があります。
時節柄、校庭との間にはフェンスが遮っていました。
この北側に大井公園が広がっています。
この大井公園も以前は越前鯖江藩の藩邸だったようです。
大井公園にあった案内板によると、山内容堂公のお墓も
江戸時代には鯖江藩の下屋敷の敷地だったようです。
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京浜急行の普通電車で、品川から
10分程乗車すると立会川に到着します。
品川区南部に位置するこの立会川には
江戸時代、土佐藩の下屋敷がありました。
2011年1月、東京の出張の機会があり、その際に
少々時間の余裕があったので、立会川に行ってみました。
前年に大河ドラマで坂本竜馬が取り上げられていた事もあり
立会川駅のホームには、龍馬を記した看板が掲げられていました。
立会川駅の周囲は、住宅や商店の密集地帯で、
西側には国道15号線も走っています。
駅の南を東西に横切る狭い道路には、商店街が連なっています。
国道の西側にはアーケード街もありました。
この北側に品川区立浜川中学校があります。
国道から様子を伺っただけですが、この中学校が
江戸時代の土佐藩下屋敷跡だそうです。
1853年(嘉永6年)4月に剣術修行の為、江戸に出てきた
坂本龍馬はその2か月後に、ペリーの来航があり、
警備の為に、この土佐藩下屋敷に詰めたそうです。
駅に戻り、商店街を東に向かうと
坂本龍馬の銅像がありました。
土佐藩下屋敷に龍馬が滞在した縁で、
この銅像が建てられたようです。
煙を上げる4艘の蒸気船は、若い龍馬にとって
衝撃的な光景だった筈で、その後の彼の行動に
大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。
商店街を更に東へ進みました。
どのお店も店を閉めていない商店街というのは
もう地方ではお目にかかる事がありません。
都内だけの光景と思います。
この先に立会川に小さな橋が架かっています。
涙橋です。
江戸時代に、涙橋の南側に鈴ヶ森刑場があり、
罪人がその刑場に送られる様子を、親族が
ここで涙を流し、最期の見送りをしたそうです。
上右の写真は、鈴ヶ森刑場側からの眺めです。
逆光だったのか、路上駐車の車がいたのか、
今では思い出しませんが、鈴ヶ森刑場の
方向の写真を撮っておかなかったのが悔やまれます。
涙橋から更に東に向かうと、立会川が勝島運河へと
流れ込んで行きます。
今は、埋め立てられてこのような姿なっていますが、
江戸時代は、この運河の位置が海岸線だったようで、
ここに土佐藩が築いた浜川砲台がありました。
今では、砲台に使われた数個の石が
その痕跡として残るだけです。
近くの新浜川公園が、その砲台跡だったようです。
勝島運河の眺めです。
運河の対岸に高速道路も走っていますが、
当時はここに江戸の海が広がっていました。
しかし、この光景も不思議に、喉かなもので、
「立会川河口堤防船だまり」として、
しながわ百景に選ばれているようです。
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