函館
Hakodate, Japan








函館は北海道の玄関口の街です。

幕末の1854年(安政元年)にアメリカとの間に
締結された日米和親条約によって、
伊豆半島の下田と共に、江戸時代以降
日本で一番最初に開港した町です。

この開港に備えて設置された
箱館奉行所のある五稜郭や
早い時期に開港したために
函館山の麓には瀟洒な
西洋の建物が並んでいます。

1991年と2008年11月にこの函館を訪れました。
2008年11月に訪問した際の様子を中心に
函館の様子をお伝えしようと思います。




五稜郭 (Goryokaku)
Oct. 03, '10

土方歳三終焉の地
(The Place Toshizo Hijikata Lost His Life)
Oct. 04, '10

立待岬 (Cope Tachimachi)
Oct. 11, '10

元町界隈 (Motomachi Area) 
Oct. 21, '10

函館山 (Mt. Hakodate)
NEW ! Oct. 26, '10





北海道のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る







土方歳三終焉の地
(The Place Toshizo Hijikata Lost His Life)







云わずと知れた新撰組副長・土方歳三。
彼の終焉地の地が函館駅から然程遠くない所に
あるというので、訪れてみました。

現在の総合福祉センターのある辺りです。




新撰組は鳥羽伏見の戦いが始まると、
京から江戸に入り、その後、東北各地で戦いますが
次第に追い詰められていきます。

仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流し、
1868年(明治元年)には箱館を占領します。

1869年(明治2年)5月11日、新政府軍は
五稜郭に立て籠もる旧幕府軍に対し、
箱館山に上陸し箱館市街や箱館山北部の
弁天台場を制圧します。

土方歳三はこれを奪還しようと
僅かな兵を率い一本木関門で戦いますが
ここで流れ弾に当たり即死したそうです。

一本木関門があった場所が
総合福祉センターになっています。


函館駅前で路面電車を降り、北へ
15分程歩くと、総合福祉センターに着きました。

函館までの特急「白鳥」の乗車記は
こちらです。
函館市交通局路面電車の乗車記はこちらです。

総合福祉センター前の公園の様子です。



公園の向こうのビルが総合福祉センターです。

その公園の一角に一本木関門跡を示す冠木門と
「土方歳三最期の地」の碑がありました。



享年35歳だったそうです。

"「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも
魂は東(あずま)の君やまもらむ"


土方歳三辞世の句です。

土方の死後、旧幕府軍は降伏し
中世の日本にようやく幕が下ろされました。

再び公園の様子です。



公園の管理をしている人が掃除していましたが
他には誰もいなくて、ひっそりとしていました。

公園内には土方歳三の碑以外にも
猿田彦塚の碑もありました。



猿田彦塚は1817年(文化14年)に
箱館村と亀田村の境にある
一本木に築かれた塚です。

その後、太平洋戦争中の疎開の際に
行方知れずとなっていたものが
1958年(昭和33年)にその一部が発見され
その2年後に復元されたそうです。



函館のページのTopに戻る







立待岬
(Cope Tachimachi)







立待岬は函館山の東にある岬です。

アイヌ語の地名は"ヨコウシ"
魚を待ち伏せするという意味だそうです。
このアイヌ語の"魚を獲ろうと立って待つ"
という意味から、立待という地名になったようです。


この立待岬は、函館市交通局の路面電車、
谷地頭の停留場から1km程のところにあります。




谷地頭で路面電車を降り、立待岬を目指しました。
南に向かって歩いていくと緩やかな坂道となり、
その道が墓地へと続いていました。



既に傾いた冬の陽も函館山に隠れ
とても寂しい情景でした。

この墓地の一角に23体もの
観音菩薩像がありました。



案内板によると、江戸時代にこの地は
幕府の許可を得て十勝・幌泉の場所の経営と
廻船業を営んだ福島屋杉浦喜七の
別荘があったところだそうです。

明治になって福島屋の船子の航海安全と
受難者の冥福、そして商売繁盛を祈った
ものと考えられているそうです。



観音像近くから眺める函館の街と
太平洋の様子です。


この観音菩薩像のすぐ近くに
石川啄木一族の墓がありました。



石川啄木は1907年(明治40年)5月から9月までの
4ヶ月間をこの函館で過ごしました。

啄木は函館の地に馴染み、
「死ぬときは函館で」と言っていたそうですが
その5年後の1912年(明治45年)に東京で
その生涯を終えています。

啄木の生まれ故郷の
岩手県渋民の様子はこちらです。

啄木の遺骨は1913年(大正2年)に
夫人の希望で函館に移され、
その夫人も翌年に函館で亡くなったそうです。



こうした経緯で、ここに、啄木夫妻と
その子供達や両親が眠っています。

"東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて 蟹とたはゆる
"

お墓に記されていた啄木の詩です。


墓地から緩やかな坂道を進みむと、
太平洋が左手に広がるようになりました。



寂しい墓地の先に立待岬があるのか
不安だったので、この景色を見て
ホッとした心地になりました。


舗装された道は行き止まりとなり
立待岬の碑がたっていました。

その先の短い階段を下りると
切り立った崖の海岸の景色が
広がっていました。

冬の傾いた弱い日差しが雲の間から漏れ、
天使の階段が海へ差し込んでいました。



海は凪いでいましたが、潮騒が
風の音とともに静かに響いていました。

雲から差し込む光の筋の向こうに
津軽海峡を隔てて遠く下北半島の
山影が見えていました。



冬の日に照らされて鉛色の
海の一部が明るく輝いていました。

立待岬から眺める函館の街の様子です。



切なくなるような立待岬の光景とは異なり
函館の町は日差しを浴びて明るく映えていました。


この立待岬には自然石に刻まれた
与謝野寛・晶子の歌碑がありました。



"浜菊を郁雨が引きて根に添ふる
立待岬の岩かげの土
"


"啄木の草稿岡田先生の顔も
忘れじはこだてのこと
"
晶子

与謝野寛・晶子夫妻は1931年(昭和6年)に
函館を訪れ、その際には啄木一族の
お墓にも立ち寄ったそうです。

この近くには函館出身の俳人・中村舟路の句碑、
歌人・庭田竹堂の歌碑も立っていました。


"海峡や 波音ちかく 朧月"
舟路

"烏賊つりの 父の灯見分け
子の立てり
"
竹堂


海風にあたり寒さを覚え、
立待岬を後にしました。



谷地頭の路面電車乗り場に向かう途中
函館の街の向こうに、うっすらと
駒ケ岳の頂が見えていました。



函館のページのTopに戻る







元町界隈
(Motomachi Area)







箱館(現・函館)が幕末の1854年(安政元年)に
締結された日米和親条約によって開港した際に
この元町に箱館奉行所が置かれ、この周辺に
各国の領事館や洋館、教会が建てられました。

元町は函館山の北側の麓に位置しています。




この元町一体には、今でも洋館や教会が数多く残り、
伝統的建造物群保存地域に指定されています。



保存地域に指定されている地域は上の地図にある
基坂に沿って路面電車の走る通りから元町公園、
さらに元町公園から函館ハリストス正教会へ続く道、
そして大三坂を下って海岸沿いの 赤レンガ倉庫群に至る区域です。

函館市交通局の路面電車を末広町で下車し、
その西側にある基坂からこの"伝建地区"を
散策してみました。


函館市交通局の路面電車の
乗車記はこちらです。

路面電車の走る通りと基坂の
交差点に洋館が建っていました。
相馬株式会社の建物です。



この建物は1914(大正3)年に造られたそうです。

「相馬」は函館を代表する会社で、
1863年(文久3年)に開業しています。
箱館戦争の際の米の投機買いで
巨利を得たそうです。

ここから基坂を元町公園に
向けて上っていきました。



基坂という坂の名前は、坂の麓に
道路の距離を測る里程元標が
建てられた事から名付けられました。

坂の正面に函館山が聳え、
右手には公園がありました。

坂の途中の左手には
旧イギリス領事館があります。



イギリス領事館は、当初、称名寺にありましたが、
度重なる火災により、1913年(大正2年)に
この地に移ったそうです。

領事館脇の公孫樹も葉がすっかり落ちていました。


基坂の右側の元町公園とその近くには
ペリー提督来航記念碑(左)と
箱館奉行所跡の碑がありました。



箱館奉行所は開港された箱館の
統治を目的にこの地に設置されましたが、
その後、防御強化の目的で五稜郭が築かれ、
その内部に奉行所が建てられました。

五稜郭の様子はこちらです。


基坂を上ったところにある
元町公園からの眺めです。



坂の麓を走る路面電車が
行き来する様子は風情ありました。

この元町公園の一角に、古びた
レンガ造りの建物がありました。
旧開拓使函館支庁書籍庫です。



1880(明治13)年に建造されたレンガ倉庫です。
建物の角のところには隅石が持ちいられ
外観上のアクセントになっていました。

そしてこちらは旧北海道庁函館支庁庁舎です。



玄関部分には2階に届く立派な柱が立っています。
この旧函館市庁庁舎は1909(明治42)年の建造です。


この函館支庁庁舎の一段高いところには
旧函館区公会堂の瀟洒な建物がありました。



旧函館区公会堂は、1907年(明治40年)の
函館大火で焼失した公会堂を再建したものです。
当時の豪商・相馬氏の寄付で建設費の
大半を賄ったそうです。

ホテルと見間違えるような建物ですが
1911(明治44)年8月のには後の大正天皇が
ここを宿泊所として使ったそうです。

旧函館区公会堂のベランダから
眺める函館の街の様子です。



手前の元町公園の向こうに
函館湾が広がっています。

開港で賑わった函館の様子を
髣髴とさせる眺めです。


この旧函館区公会堂から東へ向かい
ハリストス正教会を目指しました。



ハリストス正教会に向かう道の様子です。

この道は多くの観光客が歩いていて
通りの両側にもお土産物屋さんが
何軒かありました。

途中の八幡坂の様子です。



ガス燈を模したような電燈が立ち
いい雰囲気の坂でした。


八幡坂からしばらく歩くと、
ハリストス正教会にたどり着きました。



ハリストスはロシア語でキリストの意味で、
ここは日本ハリストス正教会発祥の地だそうです。

1859年(安政6年)にロシア領事館の付属聖堂として
建てられたのが始まりで、1840年(明治40年)の
大火で焼失し、1916年(大正5年)に再建されたのが
現在の教会で、国の重要文化財に指定されています。

ロシアのビザンチン様式というそうですが
白壁がとても印象的な教会です。



1991年に訪れた際、青空に
教会の尖塔が映えていました。


ハリストス教会の下には元町カトリック教会があります。



上の写真左は、ハリストス教会へと向かう階段から
振り返って眺めた元町カトリック教会です。

元町カトリック教会の歴史は1868年(明治元年)に
この地に仮聖堂が建てられたことに始まり、
1877年(明治10年)には初代の木造聖堂が建てられました。

その後、907年(明治40年)と1921年(大正10年)の
2回の大火で焼失し、現在の建物は
1924年(大正13年)に建てられた3代目です。


ハリストス教会と元町カトリック教会の
東側にある大三坂の様子です。



この坂も、落ち着いた雰囲気の坂道でした。


ハリストス教会から大三坂を隔てて
反対側にあるのが聖ヨハネ教会です。

聖ヨハネ教会は1874年(明治7年)に建てられています。
その後、度重なる大火の被害を受け、
1921年(大正10年)に現在の地に移転したそうです。



聖ヨハネ教会はとても斬新なデザインで、
1979年(昭和54年)に完成しています。


この聖ヨハネ教会を訪れた頃には
日は夕暮れが近づいてきていました。

この後、ロープウェーで函館山に上り、
函館の夜景を眺めましたが、その後に
赤レンガ倉庫群まで行ってみました。



赤レンガ倉庫群は、お洒落なお店があり、
綺麗にライトアップされていました。


2008年11月に函館を訪れた時には
この元町界隈の散策には十分な
時間を取ることは出来ませんでしたが
1991年には、函館どつく前の
南側にある船見町辺りにも足を伸ばしました。

当時のフィルム写真から、旧ロシア領事館の様子です。



この建物は1908年(明治41年)に建てられています。
赤レンガと白漆喰の組み合わせがとても綺麗でした。

この船見町には外人墓地などもあり、
函館に再訪する機会があれば、
また訪れてみたいです。



函館のページのTopに戻る







函館山
(Mt. Hakodate)







函館山は函館の街の南に聳える
標高334mの小高い山です。




函館の街は、この函館山に向かって伸びる
砂州の上に築かれた街なので、
この函館山は函館の母なる山でしょうか。

街に近接して聳える独立峰なので
この函館山から眺める夜景は
つとに知られています。

2008年11月に函館を訪れた際にも
この函館山からの夜景を楽しんできました。


函館山へは、ロープウェーが便利です。



山麓から山頂駅まで、0.835kmのロープウェー。
乗車時間わずか3分で山頂に行くことが出来ます。

多くの観光客が押し寄せる函館山。
このロープウェーも125人乗りのゴンドラです。
観光シーズンを外れた初冬にも関わらず、
団体客が次々と訪れていました。



ロープウェーに乗り込むと、函館の街が
どんどんと目の前に広がってきました。

進行左手のこの山影には立待岬があります。



立待岬の様子はこちらです。


乗車時間、僅か3分なので、
あっという間に山頂駅に到着です。

さっそく展望台へと向かいました。



日は既に沈み、夕暮れが迫る
函館の街が一望に出来ました。

山頂はさすがに風が冷たく、
カメラを構える手が、すぐに
悴んでしまいました。

しかし、目の前の函館の街は、
夕暮れから黄昏へと次第に移り変わり、
その変化に目が釘付けになっていました。



街のあちこちに灯りが点き始めたと思うと
その灯りが次第次第に輝きを増し
いつしか闇に宝石箱のような
函館の街が浮かぶようになりました。



凍える指で、何度もシャッターを押して
この光景をカメラに写していました。



函館のページのTopに戻る


北海道のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る