大坂城の南、船場から東に向かう高速道路を
この空き地が飛鳥時代と奈良時代に
2011年8月、三光神社や真田丸跡を訪れた後、
難波宮跡から通りを隔てたマンションに
朝堂院は宮殿の中枢の建物で、役人が儀式に
道路を隔てた北側の難波宮跡の入り口です。
難波宮跡は、東西・南北夫々200m程の範囲に広がっています。
難波宮跡は、江戸時代には大坂城三ノ丸になっており、
難波には、飛鳥時代と奈良時代の二度都が置かれています。
645年に中大兄皇子・中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺
敷地の北の端近くには、大極殿の基壇がありました。
現地の案内板によると、大極殿は後期難波宮のものです。
後期難波宮は、726年(神亀3年)に聖武天皇が
難波宮は、翌年に奈良へと遷都されてしまいますが、
大極殿の基壇越しに眺める大阪歴史博物館の建物です。
大極殿の基壇からは大坂城の模擬天守も見えていました。
秀吉が大坂城の本丸を、もう少し南に築いていたら
大極殿の基壇から南を眺めた様子です。
広い難波宮跡には芝生が広がり、家族連れがのんびり
大極殿の基壇から難波宮跡の西側を南北に走る
この博物館の手前に、5世紀の高床式の
全部で16棟もの大型の倉庫が建っていたようです。
難波宮が築かれた頃も、宮殿の周囲には役人の
大阪歴史博物館には、難波宮の様子が再現されています。
飛鳥時代の宮廷は、思っていた以上に鮮やかで
JR大阪環状線の玉造駅から西に向かうと、
上町台地の東端に三光神社がありました。
三光神社を訪れたのは2011年の夏ですが、この時点では
階段を上った所に、真田幸村の銅像がありました。
この左手の丘の上に六文銭の楯が並び、
洞窟の入り口は塞がれていましたが、
洞窟の両側は石垣でしっかり囲われ、その積み方も
この洞窟が大阪城まで続くと言われ、大坂の陣の
三光神社の社殿は、洞窟のある位置よりも
三光神社の創建は反正天皇との事です。
三光神社の参道は、北側に延びていました。
参道には六文銭の旗がたなびいていました。
参道の脇には小さな空き地があります。
この参道の先で、上町台地は尽き、石段を
三光神社の南には宰相山公園があります。
この入り口を抜けていくと、景色が一変しました。
ここは1871年(明治4年)に、日本で最初に設けられた陸軍墓地です。
日本には、こうした旧軍の墓地が80箇所もあるそうですが、
帝国主義・軍国主義だった第二次大戦以前の日本は
近年、日本の首相の地位に就いた人にも、民主主義を破壊し、
大阪
Osaka Japan
かつては水の都と言われた大阪。
江戸時代には天下の台所として
日本経済を支えていた町でした。
今は、やや地盤沈下が伝えられ
人口も、横浜に抜かれて日本第三の
都市になってしまいましたが、
今も西日本の中心都市として
日本を代表する街です。
その大阪の街を散策した様子を紹介します。
(Osaka Tenmangu Shrine)
(Sumiyoshi Shrine)
(Tsurumi Ryokuchi Park)
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中之島界隈
(Nakanosima)
京阪電鉄で淀屋橋駅で下車すると
旧淀川とその中州の中之島、
そしてその周囲を取り囲む
高層ビル群が目に入ってきます。
天下の台所・大坂は、
淀川の水運を生かして発展し、
江戸時代にはこの中之島周辺には
各藩の蔵屋敷が並んでいたそうです。
その淀屋橋駅近くに、適々斎塾があります。
適々斎塾は幕末に蘭学者として知られる
緒方洪庵が開設した私塾です。
間口12m、奥行き39mの細長い敷地に
教室と居室からなる建物が建てられています。
緒方洪庵は1845年(弘化2年)から
1862年(文久2年)までの17年間、
ここに住んでいたそうです。
この部屋は客座敷だったようです。
この部屋の掛け軸に緒方洪庵の
像が描かれていました。
緒方洪庵は備中国足守藩の下級武士の
三男として1810年(文化7年)に生まれ、
適々斎塾を開いた後に、幕府の要請で
奥医師兼西洋医学所頭取となり、
1863年(文久2年)に亡くなっています。
緒方洪庵の生誕地・足守の様子はこちらです。
左下の写真は書斎の様子です。
障子の丸窓から差し込む
淡い光が印象的でした。
適々斎塾の南側に庭園を挟んで
土蔵が建っていました。
そして二階は塾生の居住用に
使われていたようです。
ここに主な塾生の名前が掲示されていましたが、
長州藩・久坂玄随の兄・久坂玄機と大村益次郎、
箱館戦争を戦った幕臣の大鳥圭介、そして橋本佐内や
福沢諭吉といった錚々たる人物の名前が記されていました。
適々斎塾を訪れた後に、栴檀木橋で
土佐堀川を渡って中之島に向かってみました。
中之島は、適々斎塾の古風な建物とも
淀屋橋駅周辺の雑然とした景色とも異なり
西欧風の堂々とした建物が並んでいました。
こちらは大阪市中央公会堂です。
1911年(明治44年)に辰野金吾氏や
片岡安氏らの設計で造られたそうです。
辰野金吾氏は東京駅や堺にある浜寺公園駅の
駅舎を設計したことで知られています。
東京駅の様子はこちらです。
そしてこちらは1904年(明治37年)に
大阪図書館として開設した
中之島図書館です。
ネオ・バロック様式で建てられ、
ヨーロッパの宮殿のようなこの建物は
国の重要文化財に指定されています。
この建物は日本銀行大阪支店の建物です。
1903年(明治36年)に竣工したこの建物も
辰野金吾氏の設計によるものだそうです。
この日本銀行大阪支店の前には
駅逓司大阪郵便役所跡の碑がありました。
ここは江戸時代には肥後島原藩の蔵屋敷で、
1871年(明治4年)に郵便制度が設けられた際に、
この地に郵便役所が置かれたそうです。
明治時代の近代的な建物を眺めるうちに
大阪市内を南北に貫く御堂筋に突き当たり
中之島から再び土佐堀川を、
淀屋橋で渡りました。
土佐堀川沿いに立ち並ぶ
高層ビルの様子です。
淀屋橋の袂近くに淀屋の碑がありました。
江戸時代に、この地に豪商・
淀屋があったそうです。
淀屋は米相場を決める米市を設立し
江戸時代の米経済の実権を握っていたようです。
あまりに淀屋の財力が大きくなったので
幕府から財産没収の処分にあったそうですが、
後に復興したそうです。
土佐堀川に沿って西に向かい、
肥後橋で再度、土佐堀川を渡り、
今度は北に向かいました。
肥後橋の名は、肥後藩の蔵屋敷が
あったことから付けられた名前です。
肥後橋の上に高速道路が走り
近代的な眺めです。
中之島を横切り渡辺橋付近からの
堂島川の眺めです。
渡辺橋には2008年10月に開業した
京阪中之島線の駅があります。
ここから堂島川に沿って、中之島線の終着駅
中之島までの一駅間を歩きました。
京阪電鉄中之島線の乗車記はこちらです。
難波宮跡
(Ruins of Naniwa Palace)
挟んだ所に、空き地が広がっています。
都が置かれた難波宮跡です。
北に向かうと、難波宮に辿り着きました。
前期難波宮朝堂院南門跡がありました。
撮影: 2020年5月
参加したり、事務を執った所だったようです。
撮影: 2020年5月
当時の朝堂院は、南北に細長い建物だったようです。
その後も、この地には多くの建物が建っていたかと
思いますが、1954年(昭和29年)以降に発掘調査が
続けられ、史跡として整備されたそうです。
撮影: 2020年5月
(乙巳の変)の後に、都が難波に移されています。
これが前期難波宮で、686年(天武天皇朱鳥元年)に
火災によって難波宮が全焼するまで続きました。
撮影: 2020年5月
大極殿の基壇の南側には、十二堂院の周囲に
巡らされた廻廊跡が舗装で示されていました。
撮影: 2020年5月
前期難波宮とほぼ同じ位置に宮殿を建立し、
744年(天平16年)に首都と定めています。
宮殿の建物はその後も残り、793年(延暦12年)頃に
廃止になっているようです。
撮影: 2020年5月
撮影: 2011年8月
難波宮の遺構の中心部が破壊されていた事でしょう。
撮影: 2020年5月
過ごしていますが、1300年もの昔に、この立派な
宮殿が建っていた事を思うと感慨深い思いです。
上町通を横切ると、大阪歴史博物館があります。
撮影: 2019年4月
倉庫が復元されていました。
撮影: 2011年8月
5世紀は、百舌鳥の古墳群が築かれた頃です。
この倉庫群は、その巨大古墳に葬られた
大王らが築いたと考えられているようです。
住居など、多くの建物が建っていた事でしょう。
鮮やかな色彩の服を着た侍従や女官らの像もありました。
撮影: 2017年10月
華やかなところだったように思います。
上町台地に行き当たります。
三光神社への入り口の階段です。
撮影: 2011年8月
三光神社は、江戸時代の初めの1615年(慶長20年)に起きた
大坂冬の陣で真田幸村が築いた真田丸の有力地の一つでした。
撮影: 2020年4月
その下に洞窟の入り口がありました。
六文銭は真田の旗印です。
撮影: 2011年8月
内部は覗く事が出来ました。
撮影: 2011年8月
江戸時代の様式で、それなりの洞窟のように思えます。
真田丸の跡という根拠の一つになっていました。
更に石段を上った所にありました。
撮影: 2011年8月
明確な年代ははっきりしていませんが、
4世紀頃でしょうか。
下の写真は2020年に再訪した際の様子です。
撮影: 2020年4月
4月には、綺麗に桜が咲いていました。
撮影: 2020年4月
下っていくとその先に鳥居がありました。
撮影: 2020年4月
その公園の西側にはフェンスが巡らされて
いますが、入口も設けられていました。
撮影: 2020年4月
質素な墓碑が整然と並んでいました。
西南戦争から第二次大戦までで犠牲になった兵士の墓碑です。
ここには、5,000以上もあるそうです。
撮影: 2020年4月
この大阪の陸軍墓地が最も規模も大きいようです。
数多くの戦争を起こしていますが、この墓地に
眠る方も、全てそうした不毛な戦争の犠牲者です。
戦前の日本に戻そうとする人が現れていますが、今後も
二度と戦争を起さない日本であって欲しいと願います。
(Shitennou Ji Temple)
四天王寺は593年(推古天皇元年)に
聖徳太子が建立した日本最古の仏教寺院です。
本尊は救世観音菩薩、日本の仏教の総本山
という位置づけで、どの宗派にも属していないそうです。
四天王寺が建立される数年前、仏教への帰依を巡り
蘇我氏と物部氏との対立があり物部氏が滅ぼされます。
聖徳太子は蘇我氏に付いたとされ、戦いに勝利した
蘇我馬子が権力を握ると、推古天皇が即位し
聖徳太子は摂政に就任したそうです。
蘇我氏の本拠地は飛鳥にあり、推古天皇が即位した後
飛鳥に都が置かれたのに、四天王寺が何故この地に
建立されたのかは、個人的な疑問です。
また聖徳太子は七大寺を建立したと
伝えられていますが実際に建立に係わったのは、
法隆寺とこの四天王寺だけだったようです。
@ 中之門
A 元三大師堂
B 大黒堂
C 英霊堂
D 六時堂
E 北鐘堂
F 本坊西通用門
G 五智光院
H 方丈
I 猫の門
J 太子殿
K 西大門(極楽門)
L 石ノ鳥居
M 仁王門
N 五重塔
O 金堂
P 講堂
Q 南大門
四天王寺の建立当時の寺域は約33,000坪もあったそうです。
聖徳太子は四天王寺に敬田院、施薬院、療病院、
そして悲田院の「四箇院」を設置したと伝わっています。
堂宇は度重なる戦乱や地震、火災などで焼失し、
現在は江戸時代初期の建物が一部残り、
その他は第二次大戦後に再建されたものです。
四天王寺の中心伽藍は、仁王門、五重塔、金堂
そして講堂が一直線に並んだ配置をしており、
四天王寺式伽藍として知られています。
以上の記述は、パンフレットと
wikipediaを参考にさせて頂きました。
元三大師堂〜六時堂〜北鐘堂
大阪市営地下鉄谷町筋線を四天王寺前夕陽ヶ丘で
下車し、南に向かって歩いていきます。
この辺りは、大坂城から南に続く
上町台地の上に位置しています。
小道を歩いていくと中之門が見えてきました。
ここから四天王寺に入りました。
四天王寺の境内に入ってすぐに
元三大師堂がありました。
お堂の前に大きな茅の輪が飾られていました。
1618年(元和4年)に建てられていて、
国の重要文化財に指定されています。
元三大師は延暦寺の中興の祖として尊ばれている
平安時代の天台宗の僧・慈恵大師の事だそうです。
比叡山延暦寺の様子はこちらです。
元三大師堂脇の墓地には江戸時代の
歌舞伎役者・坂田藤十郎のお墓がありました。
元三大師堂の先には、大黒堂と英霊堂がありました。
大黒堂の佇まいはなかなか落ち着いたもので
江戸時代のものかな、と思っていましたが
どうも違うようです。
英霊堂は元々は157トンもの大きな梵鐘が
釣られていた鐘楼でしたが、第二次大戦で供出され、
それ以降、英霊堂と呼ばれているようです。
お堂の大きさに圧倒されました。
この英霊堂の南に位置するのが六時堂です。
六時堂は昼夜6回にわたって諸礼讃をする
事からその名が付いているそうです。
1623年(元和9年)に建立された大きなお堂で、
重要文化財に指定されています。
六時堂前に置かれている大きな石の基盤は
「石舞台」と呼ばれ、これも重要文化財です。
この舞台の上で、毎年4月22日に
聖徳太子を偲ぶ舞楽が行われるそうです。
六時堂の南には北鐘堂がありました。
この辺り、大きな堂宇が建ち並び
四天王寺の規模の大きさと
格式の高さを感じます。
本坊庭園
北鐘堂から、次に本坊庭園に向かいました。
本坊庭園は四天王寺の北東の角にある日本庭園です。
江戸時代の初期に造園され、二河白道という
浄土教の極楽往生の願いを具現化したものです。
庭園の入り口にあたる本坊西通用門です。
この門も六時堂と同じく1623年
(元和9年)に建てられたもので、
重要文化財に指定されています。
通用門をくぐり、まずは五智光院を訪れました。
この五智光院は、1187年(文治3年)に
後白河法皇が灌頂を受ける際にお堂を
建てたのが始まりとされるようです。
樟が生い茂る境内を歩いて行くと、
重要文化財の立派なお堂に辿り着きました。
現在のお堂は1623年(元和9年)に
徳川秀忠公が寄進したものだそうです。
五智光院からいよいよ本坊庭園へと進みます。
この庭園は瑠璃光の池、極楽の池という二つの池があり、
庭園の中を白道と呼ばれる散策路が巡っています。
瑠璃光の池と、釈迦の滝の様子です。
こちらは極楽の池の様子です。
四天王寺を訪れたのは5月初めでしたが
菖蒲も綺麗に咲いていました。
この日は日差しの強く暑い日でしたが、
緑の多い本坊庭園では過ごしやすく、
のんびりと過ごす事が出来ました。
庭園を巡った後に、出口に向かう途中で
方丈や客殿の建物を眺める事が出来ました。
上の写真左が方丈です。
この方丈も1617年(元和3年)に徳川秀忠公が
寄進した建物で、重要文化財に指定されています。
太子殿と極楽門、石ノ鳥居
本坊庭園を訪れた後、
中心伽藍の東側を南に向かいました。
方丈庭園の南側に、築地塀で
囲われた一角がありました。
その築地塀の所に古風な門がありました。
猫の門です。
門の造りは古風ですが1979年
(昭和54年)に再建されたものです。
この門の名前が猫の門というのは、
聖霊院太子殿の経堂にあるお経を
鼠から守っていると伝えられているそうです。
江戸時代に建てられた猫の門は日光東照宮の
眠り猫と一対だったという逸話もあるそうです。
日光東照宮の様子はこちらです。
この塀に囲われた一画が聖霊院太子殿です。
太子殿には前殿と奥殿の二つの建物があります。
第二次大戦で焼失し、前殿を1954年(昭和29年)、
奥殿は1979年(昭和54年)に再建されています。
奥の八角形の建物が奥殿です。
太子殿の前の広い通路を隔てた西側には、
回廊で囲われた中心伽藍があります。
四天王寺はさすがに大寺で、
境内もとても広いのですが、
この写真でお分かり頂けるでしょうか。
四天王寺の東側にある太子殿から
中心伽藍の南側を通り、
西側の極楽門に向かいました。
その途中、中心伽藍の仁王門を通ります。
仁王門の屋根の上に五重塔の
頂上にある相輪が見えています。
回廊越しに眺める五重塔。
塔や回廊などは新しく再建されたものですが、
この眺めは歴史を感じさせるものでした。
五重塔が寺院の中心にあるのが
四天王寺伽藍配置と言われ、
日本最古の寺院様式です。
四天王寺の境内を横断して、
辿り着いた西大門(極楽門)です。
この門が出来たのは593年(推古天皇元年)の
四天王寺の創建時で、1962年(昭和37年)に
松下幸之助氏の寄贈で再建されているようです。
松下幸之助氏の寄贈の
浅草寺雷門はこちらです。
この門は、極楽浄土に通じる門とされています。
西大門から西に向かうと、聖徳太子影向引導石
(ようごういんどうせき)がありました。
玉垣に囲まれた小さな石です。
葬祭の際に、棺をこの先にある石の鳥居の
前に置き、聖徳太子引導鐘を鳴らすと、
太子がこの石の上に影向され、浄土に
導いていただけるという伝えられているそうです。
この西側にある石の鳥居です。
四天王寺の西の端に位置していますが
この鳥居は、極楽浄土の東門の中心とされ、
「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」
と扁額に書かれています。
四天王寺が極楽浄土の入り口に
位置しているという事でしょうか。
西大門から石の鳥居を眺めると
彼岸の中日には、丁度鳥居の
真ん中に夕陽が沈むそうです。
四天王寺が創建された当時、台地の上にある
四天王寺から難波湊が眼下に広がっていた筈で、
その光景は見事なものだった事でしょう。
四天王寺が、都から遠く離れたこの地に
建てられたのは、こうした意味があったのでしょうか。
中心伽藍
広い四天王寺の境内を北から東、
そして南を通り、西へと一巡しましたが、
いよいよ中心伽藍へと向かいます。
中心伽藍の入り口は西重門です。
ここで入場料を払って入場します。
門をくぐると、目の前に五重塔が聳え、
その姿に圧倒されてしまいました。
五重塔は593年(推古天皇元年)に建てられた後、
相次ぐ火災に遭い、今の塔は1959年(昭和34年)に
建てられた8代目だそうです。
中心伽藍は、仁王門(中門)と五重塔、金堂
て講堂と、外側を巡る回廊からなっています。
四天王寺の伽藍配置は、これらの堂宇が
一直線上に並んでいる事に特徴があります。
古い時代のお寺は、お釈迦様の骨が収められた
塔が寺院の中心に置かれていましたが、
年代が下るにつれ塔の位置は脇に追いやられます。
五重塔が最も中心近くにあった四天王寺の伽藍配置を見ても
この寺が古い時期に創建された事がうかがえます。
ちなみに現存最古の建造物が残る法隆寺は
金堂と五重塔が横に並んでいますが、
法隆寺の前に建てられた若草伽藍は
この四天王寺式だったと言われています。
まず、仁王門に向かいました。
仁王門の左右を護る那羅延金剛力士(右側)と
密迹金剛力士(左側)です。
東大寺南大門の仁王像に次ぐ
国内で2番目の大きさだそうです。
中心伽藍を巡る回廊です。
昭和に入って新しく造られた回廊ですが
白鳳時代の当時の様子を感じる事が出来ました。
回廊の東側から中心伽藍を眺めました。
五重塔、金堂そして講堂が
一直線に並んでいる様子が良く判ります。
1956年(昭和31年)から3年間に亘る発掘調査で、
この伽藍配置が創建当時と変わらない事が
確認されたようです。
中心伽藍を見終った後は、
南大門から退出しました。
南大門には熊野権現礼拝石がありました。
古来、熊野詣の前には、ここで道中の
安全を祈り旅立ちしたそうです。
天王寺界隈
(Tennou Ji)
大阪の繁華街は「キタ」と呼ばれる
大阪駅周辺の梅田地区と、「ミナミ」と
呼ばれる難波や心斎橋が双璧です。
大阪の鉄道路線図を見ると、大阪市内には
もう一つのターミナルがあり、それが天王寺です。
大阪環状線と奈良へ続く関西本線、そして
和歌山へと向かう阪和線の接続駅で、
隣の近鉄・大阪阿部野橋からは
吉野へと向かう近鉄の路線も出ています。
この天王寺地区も新しい商業設備が出来て、
人の流れが変わっているようです。
その天王寺界隈の史跡を紹介します。
安居神社
天王寺の北にある天王寺公園の更に北側、
四天王寺から国道25号線を西に向かうと
小さな神社が見えてきます。
この神社が安居神社です。
少彦名神と菅原道真を祀る神社で、
創建は定かではないという事ですが、
942年(天慶5年)に菅原道真公を祀ったと言われ、
少彦名神を祀ったのはそれ以前との事ですので
歴史の長さがわかります。
593年(推古天皇元年)に造営が開始された
四天王寺と同じ頃に創建された
という説もあるそうです。
古い歴史のある安居神社ですが、
1615年(慶長20年)に行われた大坂夏の陣の際、
あの真田幸村が、ここで討ち死にしたことから
この安居神社はひときわ有名になっています。
真田幸村(信繁)は、信濃国小県郡の豪族・真田昌幸の
次男として1567年(永禄10年)に生まれました。
真田昌幸は徳川軍を2度も破った事で知られていますが
関ヶ原の戦いで西軍に付いた為、次男・幸村と共に
高野山の麓の九度山に蟄居させられます。
関ヶ原の戦いの後、1611年(慶長16年)に
真田昌幸は亡くなりますが、幸村は大坂の陣が
始まる1614年(慶長19年)には、14年間の配流生活を送った
九度山を抜けだし、大坂城の豊臣軍に加わります。
真田幸村は、大坂冬の陣では大坂城の南に築いた
真田丸に陣取り、越前松平・加賀前田軍を破ったそうです。
国道25号線沿いの安居神社の入り口は
裏口にあたるところで、建物との間の
細い通路を抜けて拝殿や本殿に向かいます。
真田幸村戦死跡の碑がありました。
大坂冬の陣の翌年に起きた大坂夏の陣では、
幸村は寡兵ながら徳川家康の本陣に迫り、
あわやという所まで追い詰めますが、
軍勢の多さで優る徳川軍に押し返されてしまいます。
そして、この安居神社で休んでいるところを
越前松平の兵に討たれたと言われています。
その脇にある安居神社の拝殿です。
この脇に古びた石碑が立っていました。
この石碑の脇の松の木が、真田幸村が
佇んでいた松という事です。
この真田幸村の比類なき戦いぶりは
敵味方を違わず称賛され、島津忠恒は
「真田日本一の兵」と称えています。
通天閣
真田幸村終焉の地の安居神社から
南西に向かって歩いていくと
通天閣が間近に見えてきました。
通天閣の位置はこちらです。
現在の通天閣は1956年(昭和31年)に建てられ、
国の登録有形文化財にも指定されているそうです。
通天閣の高さは103m。
遠くから見るとビルの合間に埋もれているようですが、
近くで見ると、大空に聳えて堂々としています。
驚いた事に、この通天閣は二代目だそうで、
一代目は、1912年(明治45年)に完成していたそうで、
関西の新進気鋭の風土を感じます。
通天閣の展望台に上ってみようと思っていたのですが
エレベーターには長い列が出来ていて、諦めました。
なんでも、最近、通天閣の人気が復活していて
入場者数が増えているそうです。
通天閣の真下には「王将」の碑がありました。
堺出身の坂田三吉を称えた碑でした。
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