吉備路

Kibiji, Okayama

吉備路はJR吉備線の備前一宮から
吉備津、備中高松、足守にかけてと、
吉備津の西、5km程のところにある
備中国分寺跡周辺の一帯です。

JR吉備線に沿って、吉備津彦神社、吉備津神社
秀吉の水攻めで知られる備中高松城、
その奥にある最上稲荷(高松稲荷)、
そして、古い武家屋敷の残る足守の町並み、
吉備津神社からいくつかの古墳を経て
備中国分寺へと至る里の景色と、
「まほろば」を感じる地域です。

ずっと昔、この吉備路に行ったことがあるのですが、
2005年の夏にも再訪しました。

この時は、時間の余裕がなく、吉備路の
すべてを廻る事が出来なかったので、
いつかまた、行ってみたい所です。

吉備津彦神社
(Kibitsuhiko Temple)
May 11, '17

吉備津神社
(Kibitsu Temple)
NEW ! May 19, '17

備中高松城
(Ruins of Bichu Takamatsu Castle)
Mar. 06, '08

足守
(Ashimori) 
Mar.11, 08

鬼ノ城
(Ruins of Kino Castle)

備中国分寺跡
(Bicchu Kokubunji Temple) 
Mar. 14, '08

造山古墳
(The ancient tomb of Tsukuriyama)

作山古墳
(The ancient tomb of Tsukuriyama)

岡山市内の散策記は こちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Chugoku/Okayama.html

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吉備津彦神社

吉備津彦神社は、備前国の一の宮だった神社です。
JR吉備線の備前一宮駅のすぐ近くに位置しています。


撮影: 2010年11月

吉備津彦神社は、主祭神として大吉備津彦命を祀っています。
大吉備津彦命は、第七代の天皇とされる孝霊天王の皇子です。

記紀の神話の世界ですが、大吉備津彦命は、古代に
この地を治め、製鉄を伝えた温羅と呼ばれる渡来人を
討つために大和から派遣されたとされています。

吉備津彦神社の前には池が広がり、鳥居をくぐると、
この池の中の島を伝って本殿へと進みました。


撮影: 2010年11月

鳥居から、島の中を通る参道、そして
拝殿へと一直線に並んでいます。
夏至の日、鳥居の正面から朝日が昇り、
神殿に届くそうです。


太鼓橋を渡ると、隋神門がありました。
1697年(元禄10年)に岡山藩主・
池田綱政が造営したものです。


撮影: 2010年11月

近くには日本一と言われる大きな燈籠がありました。
高さ11.5m、笠石の大きさは8畳にもなるそうです。

江戸時代末期に、備前一円の人の寄付を募り、
1,670人にも及び人から5,676両、今のお金にして
1億3000万円もの寄付が寄せられたそうです。


撮影: 2010年11月

石段を上がったところには樹齢1000年と言われる
ご神木の平安杉がありました。

そして、拝殿の様子です。


撮影: 2010年11月

吉備津彦神社は歴史の古い神社ですが、
社殿は何度も火災に遭っていて、この拝殿は
1936年(昭和11年)に再建された比較的新しいものです。


撮影: 2010年11月

拝殿の奥には渡殿、その更に奥に本殿がありました。

本殿は、隋神門と同じく1697年(元禄10年)に、
岡山藩主・池田綱政の時に再建されています。


撮影: 2010年11月

北側からは本殿が良く見えました。

ここに祀られている大吉備津彦命は、犬飼健・楽々森彦
そして留玉臣の3人の家来とともに温羅を討ったと伝えられ、
この逸話が「桃太郎」の鬼退治になったとされています。

吉備津彦神社は、摂社や別宮がいくつかあります。
そのうちの一つ、子安神社を訪れてみました。


撮影: 2010年11月

本殿の北側の山の中腹にあります。
永井石段を上ると、赤い社殿と
その奥にいくつもの末社がありました。


撮影: 2010年11月

この子安神社は、縁結びや子授けの神様です。
江戸時代初めに岡山藩主・池田利隆公がお参りしたところ、
すぐに後継者となる光政公が授かったそうです。

こうして吉備津彦神社の参拝を終えました。
この後、大吉備津彦命を祀るもう一つの
神社・吉備津神社に向かいました。

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吉備津神社

吉備津彦神社の最寄りの吉備一宮駅から
JR吉備線で一駅乗車した吉備津の近くに、
大吉備津彦命を祀るもう一つの神社があります。


撮影: 2011年6月

その神社は、吉備津神社です。
吉備津神社の創建は古く、神話の時代の頃の事のようですが
847年(承和14年)に従四位下の神階を受けたという記録が
残っているそうで、その時代までには創建されていた事になります。

吉備津神社には何度か訪れていますが、最近では
2010年10月と2011年6月に訪れています。
その際の様子を紹介します。

吉備津駅の近くから、吉備津神社へと
真っすぐに参道が伸びています。


撮影: 2011年6月

その参道は松並木になっています。
一直線に伸びた松並木がとても印象的でした。


撮影: 2011年6月

松並木から東の方向を眺めた様子です。
長閑な田園風景が広がり、右手に小高い山が見えます。
この山が、神の山とされる中山で、吉備津神社も、
吉備津彦神社もこの山の中腹や麓に位置しています。

松並木の端に広い駐車場があり、
その脇の門前のお土産物屋さんの先に
吉備津神社の境内へと続く石段がありました。

その袂に、矢置岩という岩がありました。


撮影: 2011年6月

大吉備津彦命が、温羅を討伐した際、
大吉備津彦命は中山の山頂に陣取り、
温羅と矢を射あったそうです。

大吉備津彦命は、奪い取った温羅の矢を
この岩の上に置いたので、矢置岩と
呼ばれるようになったそうです。

矢置岩の脇の石段を上ると、朱塗りの門が見えてきました。


撮影: 2011年6月

国の重要文化財に指定されている北隋神門です。
1542年(天文11年)に再建されているそうです。

北隋神門をくぐり、更に石段を上ると、本殿の
手前の授与所と呼ばれる建物に辿り着きます。


撮影: 2011年6月

古い社殿の佇まいが、とても印象的で、
思わず身が引き締まるような感じになりました。

石段を登り切り、授与所を抜け、
真っすぐ行ったところに拝殿がありました。


撮影: 2011年6月

オレンジの注連縄がとても印象的でした。

2011年6月に訪れた際は、午前中の
確か早めの時間に訪れたと思います。
良く晴れた日で、社殿が朝日を浴びていました。


撮影: 2011年6月

吉備津神社の本殿は入母屋造の屋根が二つ並んだ造りです。
比翼入母屋造と呼ばれ、この吉備津神社で
しか見られないとても珍しいものです。

1390年(明徳元年)に、室町幕府の第三代将軍・
足利義満が再建したそうです。

この本殿も素晴らしかったのですが、神社の西側に
建てられている廻廊も見逃す事は出来ません。


撮影: 2010年11月

2010年11月に訪れた際には、陽が沈みかかる頃に
訪れたのですが、秋の夕暮れの、空気も澄み、
心が洗われるような景色でした。

廻廊の途中にある南隋神門です。
1357年(延文2年)に再建された吉備津神社で
最も古い建物で、国の重要文化財に指定されています。


撮影: 2010年11月

夕陽を浴びた南随身門の様子が素晴しかったです。
廻廊はこの先も続いていました。


撮影: 2010年11月 x

全長は約400mもあるそうで、地形に沿ってうねる様に続く
廻廊を見ていると、ヤマタノオロチの様にも思えてきました。


撮影: 2010年11月

廻廊の階段を下っていくと、廻廊が西に分岐していました。


撮影: 2010年11月

この先へ進んでいくと御釜殿があります。
この御釜殿のお釜の下に、大吉備津彦命が
成敗した温羅が祀られていると言われています。


撮影: 2010年11月

そしてここでは鳴釜神事が毎日のように行われています。
温羅が大吉備津彦命の夢枕に立ち、「阿曽媛に神饌を
炊かしめれば、温羅自身が大吉備津彦命の使いとなって、
吉凶を告げよう」といい、神事が始まったそうです。


御釜殿の内部の写真撮影は禁止されているので、
貼られていたポスターを写真に撮りました。

御釜殿から少し南に下ったところが、廻廊の端になっていました。


撮影: 2010年11月

ここから再び、本殿まで戻りました。
神の山、中山を背景に、廻廊を眺めた様子です。


撮影: 2010年11月

廻廊が地形沿って建てられているのが、良くわかります。
そして、西側から眺めると、本殿の特徴のある屋根に、
南随身門が重なって、趣のある眺めでした。

再び、山の中腹の本殿まで戻りました。


撮影: 2010年11月

既に陽が沈んでいましたが、本殿の屋根が
明るさの残る青空にシルエットの様に
浮かび上がっていました。

本殿の脇にあるご神木の公孫樹です。


撮影: 2010年11月

2010年11月に訪れた時は
丁度、黄葉が見事でした。

本殿の奥の一段高い所からは、暮れなずむ
吉備の様子を眺める事が出来ました。


撮影: 2010年11月

この景色を眺めながらl歴史豊かな吉備路の
素晴らしさを改めて感じていました。

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足守

足守はJR吉備線で岡山から30分程の足守駅から
3km程、足守川に沿って山間に入ったところにある
ひっそりとした集落です。

この足守には豊臣秀吉の妻・北の政所の兄・
木下家定が1601年(慶長6年)に陣屋を
構えた事から歴史が始まっているようです。

陣屋を構えたといっても石高は2万5千石もあり、
城持ち大名並みの石高だったようです。

その後、一時天領になったようですが、1615年(元和元年)に
大阪の陣の功により木下利房が入封しています。

ひっそりとした足守の集落に入って
まず最初に旧足守藩侍屋敷に向かいました。

ここは足守藩の家老職を務めていた
杉原家の屋敷跡です。

特徴的な白壁の長屋門の奥に茅葺の母屋や
蔵が建っていて、当時の侍屋敷が
ほぼ完全な形で残っているようです。

これは一の間と呼ばれる座敷だったと思います。

鐘のような形の花頭窓から庭が見渡せ、
落ち着いた造りになっています。

侍屋敷を抜けて、振り返って撮った一枚です。

この近くは落ち着いた雰囲気の町並みで
この侍屋敷の奥には、足守藩主・
木下家屋形跡もありました。

屋敷跡は整備され、その一画に
足守藩の最後の藩主・木下利恭の子供で
歌人として活躍した木下利玄の生家も残っていました。

今なら写真に撮っておくの筈ですが、
写真が残っていなくて残念です。

その奥には、足守藩主・木下家の
池泉回遊式庭園だった近水園もありました。

先を急いでしまったので近水園も立ち寄らず、
足守の中心部に向かいました。

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ひっそりとした通りには、白漆喰の蔵造りの建物や
土塀の家もあって古い景観が残されています。

駆け足で立ち寄った足守ですが、
ひっそりと佇むとてもいい町でした。

この足守も、いつの日にか再び訪れる
事が出来ればいいな、と願っています。



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備中国分寺跡


吉備路のハイライトの一つが、備中国分寺でしょう。
備中国分寺は741年(天平13年)に
聖武天皇の勅願で建てられたそうです。

当時の寺領は東西約160m、南北に180mもあり、
南門、中門、金堂そして講堂や塔が建っていたそうです。

当時とは異なる位置に、江戸時代に
五重塔や建物が建てられています。


足守からは、田圃の広がる中を南に下ると
緩やかな丘陵地が広がるようになり、その丘陵地に、
五重塔が遠く聳えているのが見えてきました。



江戸時代に建てられた塔ですが、丘陵地に
聳える姿は、遠い古の雰囲気を醸し出しています。

五重塔に向かうと、国分寺の伽藍がありました。



これらの建物も、江戸時代に再建されたものだそうです。
国分寺建立当時をそのままに復元されたものでは
無いと思うのですが、質素な建物の様子は
他の寺院とは違ってみえます。


そして、五重塔が間近に見えてきました。



五重塔を眺めていると、自分があたかも
奈良の斑鳩にいるかのような錯覚を覚えてしまいます。

高さ約34mの堂々たる五重塔です。



この五重塔の眺めも
「まほろば」を感じさせる
心落ち着く眺めでした。



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