東京 / 浅草
Asakusa in Tokyo








雷門や浅草寺で知られる浅草。
東京の下町の代表的な街です。

雷門から浅草寺へと向かう仲見世は
いつも多くの人で混雑しています。




浅草駅には何度か行った事があったものの
この浅草界隈を散策した事は無かったのですが
2007年以降、ちょくちょく出掛ける機会がありました。

混雑する観光地というイメージでしたが、
実際に行ってみると、浅草寺やその周辺には
江戸の雰囲気を濃厚に残していました。

そんな浅草の様子を紹介します。




浅草寺
Mar. 16, '11

浅草神社
Mar. 25, '11

伝法院から花やしき
NEW ! Mar. 31, '11




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浅草寺
(Sensouji Temple)






浅草寺の起源は、628年(推古天皇36年)に
檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)の
漁師の兄弟が投網の中に仏像を見つけ、
土地の豪族・土師中知(はじのなかとも)が
この仏像は聖観世音菩薩像である事を知り、
自ら出家し、屋敷を寺に改めたのが起こりだそうです。



雷門 〜 本堂


2011年1月、群馬に出張した際、
東武鉄道に乗り、浅草駅に降り立ちました。

東武鉄道浅草駅の様子は
こちらです。


東武鉄道浅草駅から多くの人で賑わう
雷門通りを西に向かうと、歩いて
数分で、大きな雷門が見えてきます。



東京を代表する光景です。


この雷門の正式名称は「風雷神門」といい、
風神・雷神の像が門の両脇に立っています。



大赤提灯の裏側にはその正式名称が書かれていました。
ちなみに雷門は、故・松下幸之助氏の寄贈です。


この雷門を抜けると仲見世です。
お土産物屋さんが浅草寺の
参道の両脇に所狭しと並んでいます。



実は、初めて浅草寺を訪れた時、雷門を
通り過ぎたらどうなっているのか全く知らずに居て
いきなり物凄い人波に遭遇してびっくりしてしまいました。

仲見世のお店が途絶えたところに
伝法院の門が建っていました。



伝法院は浅草寺の住職が住む本坊とのことで、
1777年(安永6年)に建てられた客殿・玄関などの
建物が現存し、その背後には回遊式庭園も
現存しているそうです。

古めかしい堂々とした門で、是非
中に入って観たかったのえすが、
非公開になのでて諦めざるを得ません。


仲見世が尽きると宝蔵門があります。



宝蔵門は浅草寺山門で、942年(天慶5年)に建てられ
仁王像が安置されていたそうです。

その後、焼失と再建を繰り返し、1649年(慶安2年)に
再建された山門が1945年(昭和20年)の空襲で
焼失してしまい、大谷米太郎という方の寄進で
1964年(昭和39年)に建てられたそうです。



宝蔵門とその西側に建つ五重塔の眺めです。
門の裏手には「大わらじ」がありました。



宝蔵門を過ぎたところから
五重の塔を望みました。



仲見世を歩いていた時から目に付いた
この五重の塔は942年(天慶5年)に
創建されたものだそうです。

1041(長久2年)に焼失し、1635(寛永12年)再建。
7年後に再度焼失し、1648(慶安元年)に
これも三代将軍・家光によって再建されています。
その五重の塔も1945年の戦火で焼失し、
1973年(昭和48年)に再建されています。

宝蔵門を過ぎ、浅草寺本堂に辿り着きました。



お線香の煙で本堂が霞んでいるようです。

浅草寺の本殿は何度も焼失と再建が繰り返され、
戦前は国宝に指定されていた1649年(慶安2年)、
三代将軍家光による本堂が建っていたそうですが、
東京空襲で炎上し、1958年(昭和33年)に再建されました。

本堂に向かう手前のお水舎です。



御影石造りの手水鉢の上に
高村光雲作の龍神像が祀られていました。

線香の煙に霞む本堂の赤提灯です。



この提灯には「志ん橋」と書いてあるそうです。

多くの参拝客でにぎわう本堂の内部です。



ご本尊の聖観世音菩薩像は
秘仏で公開されていません。



弁天堂周辺


宝蔵門の手前の右側、仲見世のお店が続き、
見過ごしてしまいそうなところにいくつかの
仏像とお堂があります。

宝蔵門のすぐ近く、緑の幟がはためく
一画に、小さなお堂がありました。
久米平内堂です。



久米平内は江戸時代前期の人です。
没年は、1683年(天和3年)といわれているそうです。

久米平内は多くの人を殺したので、その罪を償う為、
日ごろ修めていた「仁王座禅」の自分の姿を石に刻ませ、
人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたそうです。

「踏みつけ」が転じて「文付け」となり、その後は
恋の仲立ち役として崇拝される様になったそうです。


久米平内堂の近くには、いくつかの
野ざらしになった仏像がありました。

こちらは阿弥陀如来像です。



1654年(承応3年)に、江戸の人達の
願いによって造立されたそうです。

こちらの二体の仏像は観音菩薩と
勢至菩薩の二つの菩薩像で、
二尊仏と呼ばれています。



「濡れ仏」(ぬれぼとけ)の名で知られる
この二つの菩薩像は1687年(貞享4年)に、
現在の群馬県館林の高瀬善兵衛という
人が建立したそうです。


二尊仏の東側、弁天山と呼ばれる
低い丘に弁天堂が建っています。

弁天堂の前に建つ鐘楼です。



この鐘楼の鐘は、1692年(元禄5年)に第五代将軍・
徳川綱吉の命により下総国関宿藩主牧野成貞が
金200両を寄進、改鋳されたものだそうです。

江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉が
"花の雲 鐘は上野か 浅草か"
と詠んでいるそうです。



その句碑が、弁天堂の下に立っていました。
鐘楼は1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で
焼失しましたが、鐘は無事に残り、現在でも
毎朝6時に時を告げているそうです。

石段を上ったところにある弁天堂です。



ここに祀られている弁天様は、
江の島や柏の布施と共に
関東三弁天と言われているそうです。

この弁天堂は1983年(昭和58年)に
再建されたものだそうです。



淡島堂周辺


浅草寺の本堂の西側には新しい
いくつかのお堂が建っています。

まず目に付いたのが石橋と石碑です。



石橋は1618年(元和4年)に浅草寺に
東照宮が造営された際に参道の神橋として
和歌山藩主(後の浅野氏広島藩祖)の
浅野長晟が寄進したものだそうです。

石碑は鎌倉時代の末期か室町時代の初期の頃、
西仏という人物が妻子の安楽を願って
作ったものだそうです。


この先にある朱色の新しいお堂は影向堂です。



影向堂は観音様に協力している「影向衆」と
呼ばれる仏様を祀るお堂だそうです。
この影向堂は本堂の南東側にあったのを
1994年(平成6年)に再建されたものです。

この辺りには小さなお堂が
いくつも建っていました。



左が金龍権現、右が九頭龍権現です。

こちらは1649年(慶安2年)に三代将軍
家光公が再建した橋本薬師堂です。



当時は堀に架かる橋の袂にあったので
橋本薬師堂と名付けられたそうですが、
このお堂も1994年(平成6年)に
現在地に移転・復元されました。

橋本薬師堂の南側には
銭塚弁財天がありました。



朱色の社の前で、熱心にお参りしている方の
姿がとても印象的で心打たれました。

弁財天のすぐ先にある
大黒様と恵比須様のお堂です。




通路を隔てて橋本薬師堂の
西側には淡島堂がありました。



このお堂は元禄年間(17世紀後半)に
紀伊の国(今の和歌山県)の加太神社を
勧請したものだそうです。

この淡島神社は女性の守り神だそうです。


浅草寺本堂の西側を一通り巡った後に
宝蔵門に戻ると「迷子しるべ石」がありました。



迷子が出るとこの石碑で知らせたそうで、
「志らする方」と「たづぬる方」の其々が
石碑の左右の側面に貼り紙をして
情報交換したそうです。

この石碑は1860年(安政7年)に建てられたそうですが
江戸の人の集まるところにもいくつか建てられたそうです。



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浅草神社
(Asakusa Jinjya Shrine)







浅草寺の本堂から東に向かって歩くと
古い門が目につきました。
この門が重要文化財の二天門です。



1618年(元和4年)に浅草寺に東照宮が
建てられましたが、この門はその
随身門だったそうです。

浅草寺は何度も火災に遭っていますが
この二天門は炎上を免れ、今に残っているそうです。

二天門の前には1777年(安永6年)に寄贈された
石製の手水鉢がありました。



銘文によると、当時以来この地に
置かれていたようで、浅草寺を訪れる
多くの人がこの手水鉢で手を清めた事でしょう。


浅草寺本堂と二天門の間に浅草神社があります。
堂々とした浅草神社の石鳥居と碑です。



浅草神社は、浅草寺の起源となる聖観世音菩薩像を
釣り上げた檜前浜成、竹成の兄弟の漁師と、
その仏像を奉納した土師中知の3名を祀った神社です。

3人の霊を祀るので三社様と呼ばれています。
江戸以降には、東照宮こと徳川家康も
祀られるようになりました。

鳥居の奥に、拝殿・幣殿・本殿がありました。



現在の社殿は、1649年(慶安2年)に
徳川家光公が建立したもので、こちらも
国の重要文化財に指定されています。

案内書には、創建の年代は不明との事でしたが、
檜前浜成と竹成が菩薩像を釣り上げたのは
628年(推古天皇36年)の事なので、神社の歴史は
古いものと思います。


浅草神社の傍らには、槐の木がありました。



檜前浜成と竹成は釣り上げた聖観世音菩薩像を
槐の切り株に安置したそうです。

この槐の木は自生しているものだそうですが、
槐の木は浅草神社にとって縁の深い木のようです。



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伝法院から花やしき
(from Denhoin to Hanayashiki)







浅草寺の南西には伝法院があります。
浅草寺の住職の居住する本坊です。



この伝法院は公開されていませんが、
客殿・玄関など、江戸時代の建物が現存し
小堀遠州作と伝わる回遊式の庭園も残っています。

現存の客殿・玄関などは、1777年
(安政6年)に建てられたものだそうです。


この伝法院の南側には仲見世から
西に延びる通りがあります。




冬の短い日が暮れた後に、
この伝法院通りを歩いていました。



伝法院通りにあるお店は、
昔ながらの町屋を感じさせるものでした。

まだ午後6時頃というのに、
既にシャッターを下ろした店もあり、
夜遅い光景のようです。



丁度、観光用の人力車も通りかかり
一層、江戸の風情を感じました。

この先には伝法院の
重厚な門がありました。



ライトアップされた門の佇まいは
素晴らしいものでした。


伝法院通りの角の様子です。



この伝法院通りのどこかに
鼠小僧次郎吉が潜んでいるそうです。

鼠小僧次郎吉のお墓のある
両国・回向院の様子はこちらです。


日没後には気が付きませんでしたが
朝に歩いた時にはその姿を
見つけることが出来ました。


この先に鎮護堂がありました。
非公開の伝法院ですが、この
鎮護堂は中に入る事が出来ます。



この鎮護堂は浅草寺境内に住み着いた
狸の乱行を鎮めるために祀られたお堂だそうです。
1872年(明治5年)の事だそうで、
つい近年までそうした時代だったのかと思います。



樹齢400年を超える公孫樹と鎮護堂です。
鎮護堂のお堂は1913年(大正2年)に
再建されたものだそうです。

伝法院通りを更に西に進みます。



灯りが灯された伝法院通りの
お店の佇まいも良かったです。

浅草寺の境内の外れに差し掛かると
交差点があり、ここからは浅草六区と
呼ばれる一角になります。



演芸場もあり下町の雰囲気が伝わってきます。
この浅草六区は多くの芸人を
輩出した町だそうです。

伝法院通りから浅草六区にかけて
思いがけず、趣のある通りに出会えて
楽しい夜の散策となりました。


翌朝、この近くの「浅草花やしき」
近くに行ってみました。



この界隈には明治から大正期にかけて
凌雲閣という12階建ての塔が建っていました。




その跡地には碑がありました。



1890年(明治23年)に完成し、日本で初めての
電動エレベーターも供えられた近代的なビルで
多くの人で賑わう名所だったようですが、
1923年(大正12年)の関東大震災で
破壊されてしまったそうです。

凌雲閣跡地近くの浅草花やしき
という遊園地です。



町中にあるこじんまりとした遊園地の様でした。

2011年1月には、浅草のホテルに宿泊しました。



比較的高層階に泊まれたので、浅草から
丸の内や上野方面の展望を楽しむ事が出来ました。



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