屋代からの長野電鉄の電車に揺られ15分程、
進行左手の車窓に松代城址が見えてきました。
真新しい石垣と新築の門構えが、
夏の日差しに眩しく映えていました。
この松代城址では、2004年(平成16年)に
城址の整備工事が行われて、この太鼓門や北不明門が
木造建築で、当時のままに復元されています。
太鼓門の升形を通って、場内に入りました。
升形とは、敵の侵入を防ぐため、門の建物を
鉤状に配置したものを言うそうです。
こちらは、北不明門です。
新旧の石垣で囲まれた城郭の内部の本丸跡には
木が数本生えているのみで、ガランとした印象ですが、
こうして当時の建物が復元されているのは、
本当に素晴らしい事だと思います。
写真ではわかりずらいのですが、
北不明門の脇の石碑には、
「海津城址の碑」と刻まれています。
海津城は、武田信玄が越後攻略の拠点としたお城です。
当時は、千曲川もこの海津城のすぐ近くを流れており、
有名な川中島の古戦場もここから程近いところにあります。
城址を取り囲む石垣の四隅にはかつて
櫓の建っていた台が残っています。
その櫓台に上り、千曲川の方向を眺めてみました。
遠く飯綱高原を望み、千曲川の
方向には果樹園が広がっていました。
その昔、信玄もこの海津城から川中島の様子を
眺めたこともあったと思うと、感慨もひとしおです。
この松代城址の近くには、真田邸があります。
幕末に参勤交代令が廃止されたのに伴い、
当時の藩主・真田幸教が江戸に住んでいた
母・貞子の住居として建てたものだそうです。
真田邸は当時の建物が残っており、
江戸末期ではありますが、大名御殿の
様子を伺い知る事が出来ます。
重厚な門構えと玄関です。
真田家の六文銭の紋の入った提灯が掲げられ、
いかにも重々しい雰囲気です。
奥には新御殿と庭園がありました。
威風堂々と言った感じの玄関と比べると
新御殿の建物はどことなく質素な感じがします。
江戸末期の時代背景なのでしょうか、それとも
城主の母の住居ということで建てられた為でしょうか。
この真田邸の裏側には、松代藩の藩校だった
文武学校の建物も残っています。
この写真は真田邸と文武学校の間の小道です。
土塀と白漆喰の倉に囲まれとても雰囲気がありました。
髷を結い刀を腰に差した武士が小道の向こうから
現れても不思議ではないような雰囲気でした。
この松代藩文武学校は、佐久間象山等の
意見を取り入れて1852年に建てられたそうです。
江戸末期の1842年、松代藩主真田幸貫が
老中兼海防掛に任命されたということもあり、
松代藩では人材育成が急務だったのではないでしょうか。
イギリスを始めとする西欧諸国が東アジアに現れ、
清を征服しつつあるという情報は入っていたでしょうから、
かなり緊迫した雰囲気で講義が開かれていたことでしょう。
そして下の写真は、文武学校のすぐ近くにある旧武家屋敷の門です。
確か、旧白井家表門だったと思います。
松代のこのあたりは、本当に江戸時代の雰囲気を
今に伝える建物が多く残っていました。
近くには、佐久間象山の出生の場所に
象山を祭る象山神社もあります。
佐久間象山は松代藩の下級武士の出身だそうですが、
江戸で西洋文明に触れ、早くから
開国の必要性を説いたそうです。
吉田松陰や勝海舟、坂本竜馬等、幕末の時代を変えた
数多くの人に影響を与えた佐久間象山ですが、
1864年、京都で暗殺されてしまいます。
確か、佐久間象山が一時期松代に戻った際、
高杉晋作もこの地を訪ねていたと思います。
戦国時代から江戸にかけての史跡が数多く残る
松代ですが、町外れの象山の麓には
第二次大戦の遺構も残されています。
戦時中に旧日本軍が大本営移転の地として
松代の山中に築いた地下壕です。
町を抜け、のどかな山懐の景色を眺めながら
10分ほど歩くと、松代大本営予定地跡に着きました。
松代大本営予定地跡には、
象山を初めとする3つの山の中に
計10km以上の地下壕が
網の目に掘られているそうです。
入口でヘルメットを借り、狭い入口から中に入ります。
数十メートル程、岩がむき出しの
素掘りの狭いトンネルが続きます。
やがて右に曲がると、トンネルの空間が広がり、
数多くのトンネルが縦横に張り巡らされていました。
着工は1944年11月。
終戦までの9ヵ月間に約2億円の資金と、
延べ300万人もの朝鮮人・住民の
強制労働で作られたそうです。
当時の軍部のことゆえ、数多くの犠牲者が出たそうで、
この地下壕を見ていると過去の愚行知り、
それを二度と繰り返さない様にすることも
重要な事だなと思いました。