坂本・大津
Sakamoto in Ohtsu City, Japan






坂本は比叡山の東の麓、琵琶湖を見下ろす
比叡山の中腹にある町です。

古くから延暦寺や日吉神社の門前町として栄え、
町には延暦寺の多くの里坊が今でも残っています。

この坂本は、「穴太(あのう)衆」と呼ばれる
戦国時代の石組の技術集団を輩出した町で、
この町の多くの寺院が街並みにその
「穴太衆積み」と呼ばれる石垣で囲まれ、
伝統的建造物保存地域に指定されています。


この坂本の町の様子をいくつかの
地域や寺院に分けて紹介します。



坂本の里坊 (Sakamoto DownTown Area)
- 伝統的建造物保存地域 -
Dec. 10, '07


坂本城 (Sakamoto Castle)
Dec. 12, '07


西教寺 (SaikyoJi Temple) 
Dec. 16, '07


日吉大社 (Hiyoshi Shrine)
NEW! Dec. 18, '07





関西地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る







坂本の里坊
(Sakamoto DownTown Area)
- 伝統的建造物保存地域 -



坂本は延暦寺の麓の町です。
三塔十六谷、三千坊といわれる程の
権勢を誇った比叡山の門前町・坂本には
多くの里坊と呼ばれる宿坊があります。

この宿坊は、穴太衆とよばれる技術集団が
築いた「穴太衆積み」と呼ばれる石垣で囲まれ
独特の雰囲気を醸し出しています。

京阪電車の坂本駅の北側から西側に掛けて
多くの宿坊が今に残り、このあたり一画は
伝統的建造物保存地域に指定されています。



京阪電気鉄道石山坂本線の乗車記は
こちらです。
比叡山の様子はこちらです。



京阪電車の坂本駅を出て左に折れると、
観光協会があり、まずレンタサイクルして
坂本の町の散策を始めました。

観光協会のすぐ隣に、
古風なお寺がありました。
別当大師堂のある生源寺です。



ここは天台宗の祖、伝教大師の
生誕の地と伝えられているそうです。

生源寺から更に坂道を登ると
日吉大社の大鳥居が見えてきました。



この先に、穴太衆積みの石垣で知られる
日吉馬場が続いているのですが、
まずは左手に折れ、滋賀院門跡に向かいました。


大鳥居から左手に折れた一画にも
穴太衆積みで囲われたお寺や
神社があちこちにあります。

作り道を南に下っていくと、
古風なお蕎麦屋さんがありました。



創業300年、江戸時代から続く「鶴喜そば」です。
建物が国の重要文化財に指定されているそうです。

旅先であまり食べ物には頓着しないのですが、
お昼にはここでそばを食べました。

その先には榊宮神社がありました。



この神社の周囲を囲う石垣が
「穴太衆積み」の石垣です。

「穴太衆積み」は基本的には自然石を組合せ、
石の背後に細かい石を敷き詰めて排水の
工夫も施した「野面積み」の一種です。

古くは比叡山の山門の土木技術を担っていた
「穴太衆」が寺院の囲い用に用いていた
石積み技術だったようです。

織田信長が安土城を築城するときに、
この「穴太衆積み」の石垣を取り入れ、
その後、特に織田信長や豊臣秀吉の譜代の
大名の居城に石垣が築かれていました。


榊宮神社の手前の角を
西に曲がると御殿馬場です。



通りに門が建ち、厳かな雰囲気になっています。
御殿馬場は滋賀院門跡へと続いています。

御殿馬場を歩いた先に、
滋賀院門跡の立派な門がありました。

「穴太衆積み」の立派な石垣と白漆喰の
土塀に囲われ、ちょっとした城郭のようです。



土塀の白色に青葉が映え、眩しい程の眺めです。

滋賀院門跡は1615年(元和元年)に天界大僧正が
御陽成上皇から京都御所の高閣を賜り、
その後、1655年(明暦元年)に御水尾上皇から
滋賀院の号を賜ったそうです。

当時の建物は1878年(明治11年)の火災で焼失したのですが、
1880年(明治13年)に延暦寺の建物を移築したそうです。

滋賀院の内部は公開され、建物の内部も
写真撮影が許可されていました。

下の写真は宸殿・羅漢の間の大額です。



そして特別公開ということで、織田信長や徳川家康が
寄進したという大磬子(けいす)の展示がありました。



この写真は、織田信長寄進の磬子です。
延暦寺を焼き払った織田信長が寄進したという
経緯がよく判らないのですが、見事な磬子でした。

そして滋賀院門跡には素晴らしい庭園もありました。



第三代将軍・家光公の命によって築かれ、
小堀遠州作の庭園といわれているそうです。
とても落ち着いた雰囲気で、こういう庭園を
眺めるのは本当に心が落ち着きます。


滋賀院門跡を訪れた後、鶴喜そばでお昼を済まし、
その後、琵琶湖沿いにある坂本城址に向かいました。

坂本城の様子はこちらです。

坂本城址へは坂本駅前を通り過ぎ、
勾配のきつい坂道を下っていくのですが、
その途中に公人屋敷という建物がありました。



「公人(くにん)」というのは里坊で暮らす僧侶のうち
妻帯と名字帯刀を認められた人たちをいうそうです。
上の写真は、その公人屋敷のうち
公開されている旧岡本邸です。


そして坂本城址を訪れた後、その城主だった
明智光秀のお墓のある西教寺を訪れました。

琵琶湖の畔からの急坂を上り、坂本駅前を過ぎ
日吉大社の鳥居のところで右に曲がり、
西教寺に向かったのですが、このあたりにも
穴太衆積みの石垣に囲まれた建物が
散在していました。




西教寺の様子はこちらです。


西教寺の訪問を終え、レンタサイクルを返却した後、
日吉馬場の坂道を上り、日吉大社を目指しました。

日吉馬場は道幅が広く、中央に車道がありますが、
その脇に穴太衆積みの石垣の続く小道があります。

その小路に沿って幾つもの里坊が続いています。



これは寿量院の堂々とした門構えです。

白壁を載せた穴太衆積みの石垣の様子です。



小路の脇には疎水も流れていて、
自動車の走る車道の脇ですが
とても趣のある小路です。

いくつも里坊続いています。
これも見事な門構えの恵光院です。



里坊は厳格な雰囲気ものもの多く、
門の中をなかなか覗き難かったのですが、
この恵光院は質素なお寺の雰囲気でした。

日吉馬場の突き当たりには旧竹林院があります。



八王子山を借景とした3,300平米の
国の名勝指定の庭園があるそうです。

旧竹林院のすぐ先には日吉大社があります。
時間が限られてきてしまったので、
日吉大社に向かいました。

日吉大社の様子はこちらです。




坂本のページのTOPに戻る


関西地方のページに戻る






西教寺
(SaikyoJi Temple)






西教寺は天台真盛宗総本山のお寺です。
聖徳太子が、恩師である高麗の僧・慧慈、
慧聡の為に創建されたと言われる古刹です。

西教寺は、かの明智光秀が菩提寺にしようと
篤く庇護し、彼のお墓や坂本城の城門が
移築されていると言うことで行ってみることにしました。

坂本の里坊地区からは約1km程北にある西教寺を
目指し、急坂を自転車を押しながら向かいました。

伝統的建造物保存地区を抜け、
新しい住宅地に入り、こんなところに
古いお寺があるのかな、と不安になる頃、
交通量の多い道路の向こうに
西教寺の総門が見えてきました。



坂本城の城門を移築した堂々たる門です。

鮮やかな青葉のトンネルの参道。
振り返って総門を眺めてみました。



参道の脇にはいくつも宿坊が並んでいました。



どの宿坊の入り口の門にも
日の丸の旗が掲げられていました。

宿坊の案内をよく読むと、
県別に宿坊が割り振られています。
全国から信者がこの西教寺に
御参りにくるのでしょう。

100m程、緩やかな参道の坂道を登っていくと
由緒ありそうな勅使門がありました。



鶯のさえずりが聞こえてきます。
4月も終わりですが、桜の花が
綺麗に咲いていました。

勅使門で左に折れ、石段を
登っていくと本堂の一画に出ました。


ここには大本坊、本堂、書院そして客殿と
重要文化財に指定されている建物が
立ち並んでいます。

右手にある大本坊は、信長の焼き討ちに
遭った西教寺を再興しようと、明智光秀が
坂本城の陣屋を寄進したものだそうです。



鐘楼とその向こうは本堂です。



本堂は江戸時代の1739年(元文4年)、
紀州徳川家から寄進された用材を
用いて建てられたそうです。
また鐘楼の鐘は坂本城の陣鐘を
光秀が寄進したものだそうです。


大本坊から渡り廊下を通り、客殿に向かいます。



客殿は豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿を
1598年(慶長3年)に大谷刑部吉隆の母と
山中山城守長俊内室が寄進したものだそうです。

この客殿の重厚とした部屋の様子は二条城
二の丸御殿にも匹敵する程だと思います。
秀吉が使っていた部屋を、この西教寺で
見ることが出来るとは思っても見ませんでした。

そして小堀遠州作と伝えられる客殿庭園です。



裏山の傾斜をうまく利用した鑑賞庭園です。

そしてこちらは枯山水の書院庭園です。



白砂の木々や石の配置がとても素晴らしく
また、背後の茅葺の客殿の屋根や白壁が
庭園の様子を、一層引き立てています。


本堂の裏手には、明智光秀のお墓がありました。



天王山の戦いに敗れ、安土に逃げ帰る途中、
京都・醍醐寺の近くの小栗栖で
落ち武者狩りによって討たれた光秀。

本能寺の変の6年前にこの世を去った
光秀の内室・煕子の墓もその近くにあります。



そして、芭蕉の句碑もありました。

"つきさびよ 明智が妻の 咄せむ"



信長に仕える以前のことでしょうか、
連歌の催しに貧しい光秀が困っていると
光秀の妻が、髪を切って役立てた
という事を偲んで詩にしたそうです。


本堂や大本坊から一段低いところに
宗祖大師殿がありました。
天台真盛宗の宗祖、真盛上人の
木像を祀るお堂です。



真盛上人は1443年(嘉吉3年)に伊勢の国一志郡に生まれ
1486年(文明18年)に西教寺に入寺し、19歳から
20年間、比叡山に籠って修行したそうです。

この宗祖大師殿の唐門も見事な門でした。



唐門を出ると、遠く琵琶湖を見渡すことが出来ました。



爽やかな風が吹き抜け、
素晴らしい眺めでした。


西教寺は思いがけない発見が沢山あり、
とても素晴らしいお寺でした。

この後、日吉大社に向かいました。



坂本のページのTOPに戻る


関西地方のページに戻る






日吉大社
(Hiyoshi Shrine)






日吉大社は、比叡山の東の円錐形をした
八王子山の山域に広がる神社です。

その歴史は古く、古事記にも記されているそうです。
この日吉大社が、都の東北の鬼門に位置することから、
国家の方除け、魔除けの祈願の社となったそうです。

更には、最澄上人が延暦寺を開山すると
この日吉大社を天台宗の守り神と位置づけたそうです。


旧竹林院を過ぎて、程なく
日吉大社の赤い大鳥居が現れました。



丁度、大鳥居に隠れてしまっていますが
円錐形の八王子山も姿を見せています。

受付を過ぎると、二つの橋が見えてきます。
大宮橋と走井橋です。

このうち大宮橋は、西本宮(旧称大宮)に
通じる橋なので、この名が付けられています。



大きな石を組み合わせている立派な橋で、
1669年(寛文9年)に石造の橋になったそうです。


大宮橋を過ぎると、今度は山王鳥居です。



陽の光を浴び輝く青葉が、
赤い鳥居も照らしているようです。

普通の鳥居とは異なり、梁の上に
合掌造りのような、山形の飾りが付いています。

坂本城址で見かけた日吉大社の山王祭での
お神輿の船渡御が行われる三津浜の
鳥居もこの形をしていました。


大きな自然石を神が宿る石として
崇めてられている祇園石や
神馬の厩舎を過ぎると、
西本宮楼門がありました。



檜皮葺の屋根の実に堂々とした楼門です。
1586年(天正14年)頃に再建されたそうです。



楼門に掲げられた提灯も、とっても
いい雰囲気を醸し出していました。

楼門を抜けると、西本宮の拝殿と本殿です。



本殿は1571年(元亀2年)に織田信長の
比叡山焼討ちの際に焼失しましたが、
1586(天正14年)に再築されています。

平安時代の姿そのままの姿を伝えており、
国宝に指定されています。


西本宮の左手、一段下がった
ところにあるのが宇佐宮です。



案内板によると、この宇佐宮本殿は
日吉造りという特徴的な建築様式だそうです。
1598年(慶長3年)に建てられています。

西本宮と同じ様に本殿の前に
吹き抜けの拝殿が配置されていました。



神事が行われる拝殿も厳かな雰囲気がありました。

周囲は新緑に囲われています。



東隣の白山宮への階段を下りて振り返ると、
逆光を浴びた青葉が輝いていました。
この眺めは一番印象に残る景色でした。

そして一段下がったところにある白山宮です。



社殿は1589年(天正17年)に再建されたものです。
神殿の内陣の正面に庇が付いた
構造をしているようです。


白山宮から神輿庫の前を通って行くと、
東本宮の楼門が見えてきました。



この楼門をくぐると、東大宮の境内です。



この東大宮も本殿の前に拝殿が並んでいます。
本殿は1595年(文禄4年)に再建され、
国宝に指定されています。


かつては境内百八社・境外百八社
といわれた日吉大社ですが、
今は山王二十一社に集約されています。
それでも、広い境内に圧倒されていました。


この後、比叡山鉄道(坂本ケーブル)で比叡山に向かいました。
坂本ケーブルの様子はこちらです。
比叡山の様子はこちらです。




坂本のページのTOPに戻る

関西地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る