三浦半島
Miura Peninsula, Kanagawa

三浦半島は、横浜の南に突き出した半島です。
鎌倉時代には有力御家人・三浦氏の本拠だったところです。

幕末、黒船を率いるペリー総督が来航した
浦賀や久里浜も三浦半島にあります。
歴史もあり、風光明媚な三浦半島です。
ここでは、半島南部の史跡を紹介します。


油壷
Nov. 12, '23


新井城
Nov. 07, '23


三崎港
Nov. 27, '23


三崎城
Nov. 21, '23


劒埼



福寿寺


他の三浦半島の散策記は下記です:


鎌倉
July 07, '19


浦賀
Apr. 29, '12


久里浜
May 04, '12


城ヶ島
NEW! Dec. 09, '23

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油壷

油壷は、三浦半島の先端近くの西側に岬状に突き出たあたりです。
鎌倉時代から室町時代の中期にかけて、鎌倉幕府の有力御家人だった
三浦氏の居城・新井城が、この油壷にありました。

新井城の登城記はこちらです。

最寄りの京浜急行電鉄三崎口駅からバスで13分で油壷温泉に着きます。
この停留所がバスの終点で、油壷の岬のすぐ近くの高台にあります。

バス停からほど近い所に油壷の碑がありました。


撮影: 2012年4月

碑のある高台からは、岬の南側の油壷湾が一望に出来ました。


撮影: 2012年4月

この辺りは、三浦氏の居城・新井城の城内になります。
1516年(永正13年)、三浦氏は北条早雲によって
攻め込まれ、滅んでいます。

その際、油壷湾には戦死者の血が多く流れ込み、
まるで油がは投げ込んだかのような色になった為
油壷という名前になったと言われています。

高台から散策路を下って波打ち際まで下りてみました。


撮影: 2012年4月

入り込んだ油壷湾の奥にはヨットハーバーがあり、
湾の入り口側には崖が続いています。

下の写真は、油壺験潮場です。


撮影: 2012年4月

1891年(明治24年)に旧日本軍が建てたものです。
現在は国土地理院が管理しています。
1995年まで現役した。

験潮場は、国土地理院では全国で25ヶ所、
気象庁が52ヶ所ほど所有しているようです。

岬をめぐる遊歩道を歩くと、
岬の先端近くにある浜辺に出ました。


撮影: 2012年4月

夏は海水浴場となる荒井浜です。
海はとても穏やかでした。

荒井浜から岬の北側を目指しました。
下の写真、左手の高台は、一つ南側の岬の先端
にある諸磯崎で、先端の海の中には灯台もあります。


撮影: 2012年4月

岬を巡り、西から北側に向かいました。
油壷から西側には遠く富士山があり、冬の晴れた日には
その姿も見れると思いますが、訪れた日は春の霞んだ天気でした。


撮影: 2012年4月

岬を巡って、油壷の北側に辿り着きました。
向かいの陸地は小網代湾を挟んだ対岸の台地です。


撮影: 2012年4月

ここで岬巡りの遊歩道は台地の上へと繋がっています。
岬の高台から北の方角を眺めた様子です。


撮影: 2012年4月

高台の途中に三浦氏最後の当主・三浦道寸のお墓があります。


撮影: 2012年4月

三浦道寸(義同)は三浦時高の後継争いの後、1494年(明応3年)に
三浦氏の当主となりますが、1512年(永正9年)から北条早雲によって
攻め込まれ、3年間の籠城戦の末、滅んでいます。

三浦道寸の居城・新井城の登城記はこちらです。

油壷の高台の先端には、水族館がありました。
京急の経営でしたが、2021年に閉館してしまっています。


撮影: 2012年4月

油壷を訪れた際には、水族館へは
立ち寄らずに遠くから眺めただけでした。

訪れたのは4月でしたので、
周囲には桜や菜の花が咲いていました。


撮影: 2012年4月

室町時代の凄惨な籠城戦も、水族館の
賑わいも感じる事はありませんでしたが、
静かでのどかな油壷の散策を楽しみました。

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三崎港

三浦半島の先端にある漁港が三崎港です。

港の南側の城ヶ島が、天然の防波堤の役割を果たしています。
室町時代には三崎港を望む高台に三崎城が
築かれ、水軍の基地になっていました。

江戸時代には廻船の寄港地あるいは風待ち港として栄え、
近年では、マグロの水揚げ高が日本で有数の港になっています。

2012年4月、三崎城の散策を終えた後、三崎の散策をしてみました。

三崎城の登城記はこちらです。

三崎城の曲輪の跡の一つに建てられた
三崎小学校の南に、本瑞寺があります。


撮影: 2012年4月

これは本瑞寺の裏門です。
本瑞寺は、1394年(応永元年)に三浦義同(道寸)の
嫡男、三浦義意によって創建されたお寺です。

三浦義同が三浦氏の当主だった1516年(永正13年)に、
三浦氏は北条早雲によって攻め込まれ、滅んでいます。
三浦義同が三浦氏最後の当主にあたると思っていましたが、
三浦義意が三浦氏最後の当主だそうです。
尤も、三浦義意は父・三浦義同の切腹を見届けると
敵陣に切り込み最期を遂げたそうです。

鎌倉時代、この地には源頼朝の別荘・桜御所が建っていたそうです。
御所に多くの桜を植え、城ケ崎の桜も遠望する宴を開いていたそうです。


撮影: 2012年4月

鐘楼の近くに綺麗に桜が咲いていました。

三崎には、この桜の御所の他にも、桃の御所、
椿の御所と三か所の別荘を有していたそうです。

頼朝の好みで三崎に3つもの御所を設けたというよりも、
三浦氏の、将軍家に対する接待の意味で
築かれたような気もします。

源頼家、実朝もこの地を訪れているようです。


撮影: 2012年4月

本瑞寺の本堂です。
墓所には文化人のお墓も多くあるようです。

本瑞寺の西隣にある光念寺です。
鎌倉初期の御家人・和田義盛が建立したお寺です。
和田氏も三浦氏一門の家系です。


撮影: 2012年4月

訪れた時には本堂前の桜が綺麗に咲いていました。
境内には和田義盛が建てた弁天堂がありました。


撮影: 2012年4月

この弁天堂は、筌という竹の漁具を祀っています。
筌は、頼朝の石橋山の挙兵で敗れた際、房総半島の
安房に逃げますが、その際に、流れてきた筌で魚を取る
ことが出来、飢えを凌いだという逸話があるそうです。

光念寺から眺める三崎の集落です。
狭い海峡を挟んだ先には城ヶ島と、
城ヶ島へ渡る城ヶ島大橋も見えています。


撮影: 2012年4月

この後、急な海岸段丘を下り、三崎の集落を歩いてみました。


撮影: 2012年4月

上左の写真は、修理中の土蔵です。
今は、古民家の宿として開業しているようです。
また集落には、海鮮料理のお店がいくつもありました。

そして集落を抜けると入り江がありました。
三崎城の目と鼻の先の入り江で、当時は
ここに多くの戦船が停泊していたと思います。


撮影: 2012年4月

一旦、三崎の集落に戻り、海鮮料理のお昼を食べた後、
入り江を回り込んで、対岸から三崎の集落を眺めてみました。


撮影: 2012年4月

海岸段丘の高台にある白い建物が
三崎城の本丸跡に建つ三浦市役所の建物です。

三崎城の登城記はこちらです。

この近くの高台に大椿寺というお寺がありますが、
そこが源頼朝の椿御所の跡の様です。

この後、城ヶ島大橋を歩いて渡り、城ヶ島を散策していいます。
その帰り道、城ヶ島から三崎口に向かうバスの中から
三崎の様子を眺めてみました。

下の写真は、三崎城跡を眺めた入り江の様子です。


撮影: 2012年4月

そのあと、バスは三崎の集落の海岸寄りを走り、
三崎漁港へと回って行きました。


撮影: 2012年4月

日本有数のマグロの水揚げを誇る漁港の様子です。
駆け足の三崎散策になってしまいましたが、
漁港の様子は眺められて良かったです。

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