三浦半島は、横浜の南に突き出した半島です。
幕末、黒船を率いるペリー総督が来航した
他の三浦半島の散策記は下記です:
油壷は、三浦半島の先端近くの西側に岬状に突き出たあたりです。
最寄りの京浜急行電鉄三崎口駅からバスで13分で油壷温泉に着きます。
バス停からほど近い所に油壷の碑がありました。
碑のある高台からは、岬の南側の油壷湾が一望に出来ました。
この辺りは、三浦氏の居城・新井城の城内になります。
その際、油壷湾には戦死者の血が多く流れ込み、
高台から散策路を下って波打ち際まで下りてみました。
入り込んだ油壷湾の奥にはヨットハーバーがあり、
下の写真は、油壺験潮場です。
1891年(明治24年)に旧日本軍が建てたものです。
験潮場は、国土地理院では全国で25ヶ所、
岬をめぐる遊歩道を歩くと、
夏は海水浴場となる荒井浜です。
荒井浜から岬の北側を目指しました。
岬を巡り、西から北側に向かいました。
岬を巡って、油壷の北側に辿り着きました。
ここで岬巡りの遊歩道は台地の上へと繋がっています。
高台の途中に三浦氏最後の当主・三浦道寸のお墓があります。
三浦道寸(義同)は三浦時高の後継争いの後、1494年(明応3年)に
油壷の高台の先端には、水族館がありました。
油壷を訪れた際には、水族館へは
訪れたのは4月でしたので、
室町時代の凄惨な籠城戦も、水族館の
三浦半島の先端にある漁港が三崎港です。
港の南側の城ヶ島が、天然の防波堤の役割を果たしています。
江戸時代には廻船の寄港地あるいは風待ち港として栄え、
2012年4月、三崎城の散策を終えた後、三崎の散策をしてみました。
三崎城の曲輪の跡の一つに建てられた
これは本瑞寺の裏門です。
三浦義同が三浦氏の当主だった1516年(永正13年)に、
鎌倉時代、この地には源頼朝の別荘・桜御所が建っていたそうです。
鐘楼の近くに綺麗に桜が咲いていました。
三崎には、この桜の御所の他にも、桃の御所、
頼朝の好みで三崎に3つもの御所を設けたというよりも、
源頼家、実朝もこの地を訪れているようです。
本瑞寺の本堂です。
本瑞寺の西隣にある光念寺です。
訪れた時には本堂前の桜が綺麗に咲いていました。
この弁天堂は、筌という竹の漁具を祀っています。
光念寺から眺める三崎の集落です。
この後、急な海岸段丘を下り、三崎の集落を歩いてみました。
上左の写真は、修理中の土蔵です。
そして集落を抜けると入り江がありました。
一旦、三崎の集落に戻り、海鮮料理のお昼を食べた後、
海岸段丘の高台にある白い建物が
この近くの高台に大椿寺というお寺がありますが、
この後、城ヶ島大橋を歩いて渡り、城ヶ島を散策していいます。
下の写真は、三崎城跡を眺めた入り江の様子です。
三浦半島
Miura Peninsula, Kanagawa
鎌倉時代には有力御家人・三浦氏の本拠だったところです。
浦賀や久里浜も三浦半島にあります。
歴史もあり、風光明媚な三浦半島です。
ここでは、半島南部の史跡を紹介します。
劒埼
福寿寺
油壷
鎌倉時代から室町時代の中期にかけて、鎌倉幕府の有力御家人だった
三浦氏の居城・新井城が、この油壷にありました。
この停留所がバスの終点で、油壷の岬のすぐ近くの高台にあります。
撮影: 2012年4月
撮影: 2012年4月
1516年(永正13年)、三浦氏は北条早雲によって
攻め込まれ、滅んでいます。
まるで油がは投げ込んだかのような色になった為
油壷という名前になったと言われています。
撮影: 2012年4月
湾の入り口側には崖が続いています。
撮影: 2012年4月
現在は国土地理院が管理しています。
1995年まで現役した。
気象庁が52ヶ所ほど所有しているようです。
岬の先端近くにある浜辺に出ました。
撮影: 2012年4月
海はとても穏やかでした。
下の写真、左手の高台は、一つ南側の岬の先端
にある諸磯崎で、先端の海の中には灯台もあります。
撮影: 2012年4月
油壷から西側には遠く富士山があり、冬の晴れた日には
その姿も見れると思いますが、訪れた日は春の霞んだ天気でした。
撮影: 2012年4月
向かいの陸地は小網代湾を挟んだ対岸の台地です。
撮影: 2012年4月
岬の高台から北の方角を眺めた様子です。
撮影: 2012年4月
撮影: 2012年4月
三浦氏の当主となりますが、1512年(永正9年)から北条早雲によって
攻め込まれ、3年間の籠城戦の末、滅んでいます。
京急の経営でしたが、2021年に閉館してしまっています。
撮影: 2012年4月
立ち寄らずに遠くから眺めただけでした。
周囲には桜や菜の花が咲いていました。
撮影: 2012年4月
賑わいも感じる事はありませんでしたが、
静かでのどかな油壷の散策を楽しみました。
室町時代には三崎港を望む高台に三崎城が
築かれ、水軍の基地になっていました。
近年では、マグロの水揚げ高が日本で有数の港になっています。
三崎小学校の南に、本瑞寺があります。
撮影: 2012年4月
本瑞寺は、1394年(応永元年)に三浦義同(道寸)の
嫡男、三浦義意によって創建されたお寺です。
三浦氏は北条早雲によって攻め込まれ、滅んでいます。
三浦義同が三浦氏最後の当主にあたると思っていましたが、
三浦義意が三浦氏最後の当主だそうです。
尤も、三浦義意は父・三浦義同の切腹を見届けると
敵陣に切り込み最期を遂げたそうです。
御所に多くの桜を植え、城ケ崎の桜も遠望する宴を開いていたそうです。
撮影: 2012年4月
椿の御所と三か所の別荘を有していたそうです。
三浦氏の、将軍家に対する接待の意味で
築かれたような気もします。
撮影: 2012年4月
墓所には文化人のお墓も多くあるようです。
鎌倉初期の御家人・和田義盛が建立したお寺です。
和田氏も三浦氏一門の家系です。
撮影: 2012年4月
境内には和田義盛が建てた弁天堂がありました。
撮影: 2012年4月
筌は、頼朝の石橋山の挙兵で敗れた際、房総半島の
安房に逃げますが、その際に、流れてきた筌で魚を取る
ことが出来、飢えを凌いだという逸話があるそうです。
狭い海峡を挟んだ先には城ヶ島と、
城ヶ島へ渡る城ヶ島大橋も見えています。
撮影: 2012年4月
撮影: 2012年4月
今は、古民家の宿として開業しているようです。
また集落には、海鮮料理のお店がいくつもありました。
三崎城の目と鼻の先の入り江で、当時は
ここに多くの戦船が停泊していたと思います。
撮影: 2012年4月
入り江を回り込んで、対岸から三崎の集落を眺めてみました。
撮影: 2012年4月
三崎城の本丸跡に建つ三浦市役所の建物です。
そこが源頼朝の椿御所の跡の様です。
その帰り道、城ヶ島から三崎口に向かうバスの中から
三崎の様子を眺めてみました。