東浦賀地区
(East Uraga Area)
京浜急行の浦賀駅から左手の
道を進み、住宅地の間を歩いて行くと
浦賀湾の東側に出る事が出来ます。
京浜急行の乗車記はこちらです。
左手に山が迫り、海との間の狭い
平地を歩いていくと、山の懐に
小さなお寺がありました。
專福寺です。
1504年(永正元年)に
創建された浄土宗のお寺です。
小林一茶の初恋の人、お壽のお墓があり、
一茶は何度か、この專福寺を訪れたそうです。
狭い境内にあった、お壽の碑です。
この專福寺のご本尊の阿弥陀三尊像は、
高村光雲の作だそうです。
專福寺を辞し、すぐ隣の東林寺に向かいました。
東林寺の参道の脇には稲荷神社がありました。
参道の階段を上り、本堂に至りました。
この東林寺には、幕末の時に浦賀奉行与力だった
中島三郎助のお墓がありました。
中島三郎助は、1853年(嘉永6年)に
ペリー来航の際に、その折衝をしただけでなく、
翌年には日本最初の様式軍艦・鳳凰丸を
建造するなど、活躍したそうです。
享年は49歳。
戊辰戦争に従軍し函館で戦死したそうです。
函館の様子はこちらです。
東林寺から小さな岬の先端に向かいました。
ここには、東叶神社がありました。
叶神社は、1181年(養和元年)に、
京都・高尾山神護寺の僧・文覚が
源氏再興を願って創建した由緒ある神社です。
石清水八幡宮の祭神の応神天皇を
勧請したものと伝わっています。
1181年は、平治の乱で源義朝が斃れて20年。
「平氏にあらずんば人にあらず」と言われた時代でしたが
実権を握っていた平清盛がこの年に亡くなっています。
その後、世は動き、僧・文覚の願いは、
その僅か5年後に源頼朝によって叶えられ、
この神社も「叶神社」と名付けられたそうです。
石清水八幡宮の様子はこちらです。
源義朝終焉の地・野間の様子はこちらです。
平氏の滅んだ壇ノ浦のある下関の様子はこちらです。
叶神社の境内には、咸臨丸でアメリカに渡る前の
勝海舟が、その成功を祈願して断食した際に
使っていた井戸の跡がありました。
その近くには身代わり弁天がありました。
この岩窟内に海の神様の厳島神社が
祀られているそうです。
社殿の裏に続く階段です。
この階段を上った先に、東叶神社の奥院があり、
そこが戦国時代の後北条氏が水軍基地として
築いた浦賀城址があります。
浦賀城の登城記はこちらです。
浦賀城を訪れた後、浦賀湾へと向かいました。
小さな入り江に、船が何艘も浮かび、
対岸の西浦賀地区が手に取るように
眺める事が出来ました。
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西浦賀地区
(West Uraga Area)
浦賀の渡しで浦賀の西地区へ渡りました。
こちらも、東側と同じように、丘陵地と港の間の
狭い平地に家が建ち並んでいます。
まず向かったのは船着き場の
すぐ近くにある西叶神社です。
叶神社は、浦賀東地区にもありましたが、
東西両区に、同じ名前の神社があるのも
面白いものです。
こちらの西叶神社の社殿は1842年(天保13年)に
再建されたものだそうです。
3000両の費用が掛かったそうです。
当時の一両が現在の価格でいくらだったかは
諸説あるようですが、仮に4万円とすると、
1億2千万円の費用だった事になります。
その南側の一角に廻船問屋跡がありました。
案内板の表記がちょっと判り難いのですが、
浦賀では、廻船を所有して瀬戸内海から
東北にかけての広い範囲で商いをする人の他に、
船を持たずに奉行所の指示で、荷改めを
していた人の2種類があったようです。
この先にあった紺屋町です。
紺屋は染物屋さんから付いた町名です。
この辺りにも廻船問屋があったようです。
当時、浦賀には100軒を超える
廻船問屋があったそうです。
愛宕公園への入り口を過ぎると、
蛇畠という案内板を見かけました。
港に沿って細く畑が伸びていたので
付いた名前の様です。
蛇畠を過ぎ、港に出てみると
江戸時代の船番所跡がありました。
1721年(享保6年)に築かれたそうです。
この船番所では、すべての船の乗員と
荷物の検査が行われていたそうです。
その場所に、昭和初期に陸軍の
桟橋が築かれていました。
浦賀港の様子です。
1853年(嘉永6年)、ペリー総督率いる
アメリカ海軍艦隊がこの浦賀にやって来て時、
文字通り日本は太平の眠りから目覚めさせられ、
多くの犠牲を払いながら近代化への道を歩む事になりました。
そのきっかけとなった湊の景色を目の当たりにして、
とても感慨深いものがありました。
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浦賀奉行所
(Uraga Bugyo)
浦賀港の西側、江戸時代の船番所跡から
内陸に入り、浦賀奉行所跡を目指しました。
浦賀に奉行所が置かれたのは1750年(享保5年)。
それまでは、伊豆の下田に置かれていたそうです。
浦賀奉行所の業務は、船改めの他に、
地方役所、警察、裁判所、海難救助と
広範囲に亘っていたそうです。
現地案内板にあった当時の
浦賀奉行所の様子です。
浦賀奉行所跡は住友重機械工業の
社宅になっていました。
敷地の周りには、堀跡の溝が巡らされ、
石垣が僅かばかり残っているようでした。
当時を思い浮かべる事は出来ませんでしたが、
ペリーが浦賀に来たのも、ここに奉行所が
あった為だと、思います。
黒船来航で、右へ左への大騒動になっていた
浦賀奉行所の様子を想像していました。
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