川越
Kawagoe, Japan






川越は武蔵野台地の東北端に位置する歴史の古い街で、
「小江戸」とも呼ばれていますが、その歴史からは
「江戸の母」とも言えるような街のようです。

川越の街が発展したのは鎌倉時代に
御家人だった河越氏が館を築いて
この地を治めた頃からのようです。

室町時代になり、上杉氏が古河公方への戦略上、
太田道真・道灌父子に河越城を築城させています。

戦国時代には後北条氏が小田原城の支城を置き、
城下町が形勢されるようになり、江戸時代には
川越藩が置かれ江戸城の北の抑え
としての役割を果たしていました。

川越城本丸御殿や徳川家光や春日の局縁の建物、
そして江戸時代からの蔵造りの街並みも残り
歴史の香り高い街です。

この川越には出張に何度も来た事があるのですが、
2007年4月半ばに初めて街歩きをしました。
また2012年4月にも再訪しています。


氷川神社
(Hikawa Shrin)
 
RFevised! Jan. 15, '24

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無量寿寺・中院

西武新宿線の本川越駅から川越の街の散策を始めました。

西武新宿からの特急「小江戸」の乗車記はこちらです。

本川越の駅前にはレンタサイクル屋さんがあるのですが、
時間が早くてまだ開いていないので、歩いての街歩きです。

まずは、東照宮や喜多院を目指し、
駅の北側の通りを東に向かって歩きました。

歩いていると不意に山車の蔵がありました。
西小仙波町の山車蔵です。




川越では毎年10月第三土曜日と
翌日の日曜にかけて山車が繰り出される
川越祭りが開かれているそうです。

これもその祭りで使われる山車を収納するのでしょう。
蔵が高く、山車の大きさが判ります。

ここから東に5分程歩き、南に折れると無量寿寺がありました。
830年(天長7年)に慈覚大師によって建立されています。

慈覚大師は最澄に師事し、中尊寺や立石寺など
700ヶ寺を建立したと言われる偉人です。


撮影: 2012年4月

無量寿寺も、中院、南院そして北院と
3つの伽藍があったそうですが、今は
中院が残るだけになってしまいました。

中院は山門と赤門の二つの門が並んでいます。


撮影: 2012年4月

その中院も、もとは今の川越東照宮の場所にありましたが、
東照宮建立のために、今の地に移されたのだそうです。
山門から望む境内は、とても綺麗な光景でした。


撮影: 2012年4月

他に訪れる人もなく、静かな境内でした。
ここには島崎藤村の義母のお墓があり、
境内には島崎藤村の記念碑もあるようです。

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仙波東照宮

無量寿寺から北に向かうと
仙波東照宮がありました。
境内の入り口に建つ随身門です。


撮影: 2012年4月

仙波東照宮は、家康の没後、その遺骸を久能山から
日光に移す際、すぐ隣にある喜多院に4日間逗留され、
供養された事から、喜多院の天海僧正が
1633年(寛永10年)に築いたものです。

随身門から参道が真っ直ぐに伸びています。
堀にかかる石橋を渡ると石鳥居があり、
その先に一段高い丘へと階段が続いています。


撮影: 2012年4月

階段の先に東照宮の社殿がありました。
この日は葵の御紋の入った門が閉ざされていました。


撮影: 2012年4月

門から望んだ東照宮の社殿です。


撮影: 2012年4月

この仙波東照宮は1638年(寛永15年)の大火で焼失してしまい、
2年後の1640年(寛永17年)に社殿等が再建されています。


東照宮を辞し、階段を下りて左に折れると喜多院です。
途中に堀に浮ぶ弁財天厳島を眺めながら
喜多院に向かいました。


撮影: 2012年4月

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喜多院

喜多院は故事によると創立が奈良時代までに
遡るとも言われる歴史ある寺院です。
史実では平安時代の830年(天長7年)に
慈覚大師円仁により創建された
勅願所が始まりとなっているようです。

1599年(慶長4年)に27世を引き継いだ
天海僧正が家康の篤い信頼を
得た事から大いに栄えました。

仙波天満宮から喜多院に向かうと
まず鐘楼門が見えてきました。


撮影: 2012年4月

1633年(寛永10年)建立の記録があるそうです。
また銅鐘は1702年(元禄15年)の銘とのことです。

鐘楼の西側には小高い高台があり、階段が続いています。


撮影: 2012年4月

この階段を上った先に、慈眼堂が建っていました。
慈眼堂は、喜多院を江戸時代の初めに中興した
天海大僧正(慈眼大師)の木造を奉納したお堂です。


撮影: 2012年4月

天海大僧正は1643年(寛永20年)に東京・上野の
寛永寺で亡くなり、1645年(正保2年)に三代将軍・
徳川家光公の命によりこの慈眼堂が建てられました。

上野・寛永寺の散策記はこちらです。

慈眼堂の奥には天海大僧正の墓碑がありました。


撮影: 2012年4月

鐘楼の北側に進むと、山門が現れました。
この山門は1632年(寛永9年)に建てられ、
喜多院で最も古い建造物です。


撮影: 2012年4月

もともと仙波東照宮は喜多院の境内に建立されたので、
東照宮から歩いてきると知らず知らずのうちに
喜多院の境内に入ってしまっています。

一旦山門をくぐり、再び喜多院の境内に入り直しました。
山門をくぐった北側には五百羅漢がありました。


撮影: 2012年4月

1782年(天明2年)から1825年(文政8年)の約50年間にかけて
533体の尊者の像と、お釈迦さまをはじめ、文殊・普賢菩薩、
阿弥陀如来や地蔵菩薩をあわせて538体もの像があります。

この五百羅漢はあまりゆっくり見なかったのですが、
数多い像に、圧倒されてしまいそうでした。

そしてこちらは多宝塔です。


撮影: 2012年4月

この多宝塔が建立されたのが1639年(寛永16年)とのことです。
1910年(明治43年)に一旦移築され、その後1973年(昭和48年)に
今の位置に移築されたそうです。

境内に色々の見所のある喜多院ですが、
メインの建物はこれからです。

境内の中に進んでいくと階段の上に建てられた
どっしりとした慈恵堂です。


撮影: 2012年4月

比叡山延暦寺の第18代座主の慈恵大師を祀る堂宇です。
1638年(寛永15年)の大火で焼失しましたが
その翌年に早くも再建されたそうです。

この慈恵堂の右手に、客殿と書院が建っています。
客殿と書院の入り口となっている庫裏です。
建物の入り口も風格を感じさせます。


撮影: 2012年4月

白砂が敷かれていて京都の古いお寺の様な雰囲気です。


撮影: 2012年4月

この庫裏も国の重要文化財に指定されている
江戸城の別邸を移築したものです。

下の写真は庫裏と、慈恵堂を結ぶ渡廊下です。


撮影: 2012年4月

この喜多院の客殿と書院は、川越大火で焼失してしまった
喜多院の伽藍を再建する為に、徳川家光公が江戸城
紅葉山にあった将軍家別邸を移築させたのだそうです。


撮影: 2012年4月

江戸城には当時の宮殿の建物は残っていないので、
この喜多院の客殿と書院だけが当時の江戸城の
建物を伝えている事になります。


客殿には家光公誕生の間が、書院には家光公の乳母
として知られる春日の局の化粧の間が残されています。

江戸城の登城記はこちらです。

書院の中庭も心を落ち着かせる事が
出来るいい雰囲気の庭でした。


撮影: 2012年4月

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喜多院から氷川神社

喜多院からは北に向かい、氷川神社を目指しました。
喜多院のすぐ隣には日枝神社がありました。


撮影: 2012年4月

慈覚大師が無量寿寺を中興した際に近江の
日吉大社を勧進して創建した神社と伝わります。

日吉大社の散策記はこちらです。

喜多院が再興されたのは1612年(慶長17年)の事です。
日枝神社も、その頃に建立されたと考えられているようです。


撮影: 2012年4月

日枝神社の本殿は国の重要文化財に指定されています。

日枝神社から200m程北に向かうと
成田山川越別院がありました。


撮影: 2012年4月

成田山川越別院は幕末の1853年(嘉永6年)に建立されています。
この地には本行院という廃寺になったお寺が建っていたようです。

成田山川越別院から北に500m程行くと川越城址です。


撮影: 2012年4月

川越城址には、本丸御殿が現存しています。
本丸御殿が残っているのは、この川越城と
高知城の2城しかありません。

川越城の登城記はこちらです。

本丸の西側には中ノ門堀跡が復元されています。


撮影: 2012年4月

中ノ門堀跡から北に350mの所に川越氷川神社があります。


撮影: 2007年4月

日本一と言われる木製の大鳥居です。
氷川神社の北側には新河岸川が流れています。


撮影: 2012年4月

川の堤防に桜並木が続き、のどかな景色が続いていました。
訪れたのは4月半ばでしたが、まだ桜の花は残っていました。


撮影: 2012年4月

堤防には散った花弁が絨毯の様になっていました。
そして新河岸川の水面にも多くの花弁が散っていて
花筏が出来ていました。


撮影: 2012年4月

この新河岸川の桜並木から西に
500m程行った所に東明寺があります。


撮影: 2012年4月

この東明寺は、河越夜戦の古戦場となっています。
河越夜戦は、1546年(天文15年)に起きた後北条氏と、
扇谷上杉氏、古河公坊・山内上杉氏との戦いです。

1537年(天文6年)に、後北条氏が川越城を攻め落とし、
この状況を打開すべく、扇谷上杉氏は1546年(天文15年)に
古河公坊・山内上杉氏と組み川越城奪回を図るのですが、
後北条氏の奇襲に遭い、敗退しています。

上杉連合軍は総勢8万、片や後北条氏は、河越城の
守備兵3,000、応援部隊8,000程だったそうです。


撮影: 2012年4月

境内の公孫樹の木の下に夜戦の碑がありました。
この河越夜戦に勝利した後北条氏が、
その後関東を支配する事になります。


撮影: 2012年4月

こちらは東明寺の本堂です。
東明寺は時宗のお寺で、御本尊は虚空蔵菩薩です。

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氷川神社

氷川神社の縁起は古墳時代に遡り、約1500年前に
大宮の氷川神社から分祀されたのが起源だそうです。
それ以降、川越の鎮守されてきたそうです。

通りに面して赤い大きな鳥居が聳えていました。


撮影: 2007年4月

高さは約15m。
木製の鳥居としては日本一の大鳥居です。

鳥居をくぐった先には格式ある
本殿が佇んでいました。


撮影: 2012年4月

天保年間に建立されたということなので、
築後、約170年程の建物です。

由緒ある神社の厳かな雰囲気が漂っています。
境内に佇んでいると、神主さんが玉砂利を清めるように
箒で掃いている姿を見かけて、印象的でした。

境内の片隅には太田道灌が
植えたと言われる矢竹がありました。


撮影: 2007年4月

川越城を建築した太田道真・道灌は
川越氷川神社を篤く尊崇したそうです。

この氷川神社には山上憶良の歌碑もありました。


撮影: 2007年4月

そしてこちらは、氷川神社の境内にある八坂神社です。
この八坂神社は、江戸城二の丸にあった
東照宮の社殿を移築したものだそうです。


撮影: 2012年4月

江戸城に建造されたのが、1637年(寛永14年)、
川越に移築されたのが1656年(明暦2年)、
現在地には1872年(明治5年)に 移されました。

江戸城の現存建造物は、江戸城以外では
喜多院だけかと思いましたが、ここにも残っていました。

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蔵造りの街並

氷川神社から西に向かい裁判所の角を
左に折れ、しばらく歩くと市役所があります。
市役所には太田道灌の像があり、
ここで再び西に向かうと札の辻に出ました。

太田道灌の像は川越城のページです。

江戸時代、市役所の辺りに川越城の大手門がありました。
札の辻は地名から、高札が掲げられた場所だったのでしょうか。

この札の辻から南に向かう通りに沿って、
蔵造りの街並が続いています。


撮影: 2007年4月

この通りに一歩入ると、今までとは雰囲気が変わりました。

川越に蔵造りの街並が残っているのは1893年(明治26年)に
起きた川越の大火がきっかけになっているそうです。
この時、蔵が燃え残った為、耐火建築として、
大火後の復興に採用したということです。

この辺りのいきさつは、喜多方と似ています。


喜多方のページはこちらです。

黒い蔵が続く様子は時代を遡ったような感じがします。


撮影: 2007年4月

江戸も当時は大火が続き、街中に蔵造りの建物があったそうです。
大商人の住む江戸の町の一角はこのような景色だったのかもしれません。

しかし残念ながら、この蔵造りの街並は川越市のメインストリートに
面しているので、車がひっきりなしに行き交っていて、
せっかくの古い町並みの情緒を損なっています。


撮影: 2007年4月

古い街並の保存と街の発展という相反する
課題を両立させるのは悩ましい事だと思います。


撮影: 2012年4月

上の写真は、川越まつり会館(上左)と蔵造資料館(上右)です。
蔵造資料館は古い建物でしたが、取り壊されているようです。


撮影: 2012年12月

蔵造資料館の様子です。

古い蔵造りの建物が建ち並ぶ通りと交差する「かねつき通り」との
交差点にも古い見世蔵の建物がありました。


撮影: 2012年4月

見世蔵の建物の奥に見えているのは時の鐘です。
蔵造りの街並から「かねつき通り」に一歩はいると、
時の鐘が聳えていました。


撮影: 2012年4月

この時の鐘は寛永年間(1624年〜44年)に
時の城主・酒井忠勝公が建てたものです。
明治26年の大火で焼失してものを、
その翌年に再建したそうです。

今でも、日に4度時を告げているそうです。
1996年(平成8年)に環境省の「残したい"日本の音風景100選"」に
選ばれた時の鐘を、残念ながら聞き逃してしまいました。

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