上野恩賜公園
(Ueno Park)
JR上野駅を下車し、公園口の改札を抜けると
すぐに上野公園があります。
53万uもの広さがある公園ですが、
江戸時代は寛永寺の境内でした。
当時、この寛永寺の境内が広かったのは
江戸城の出城の役割を担っていた為だそうです。
また江戸の中期以降になると火事の類焼を防ぐ為
寛永寺の境内の空き地を火除け地として
確保していたそうです。
京成上野駅から上野公園に向かった所の様子です。
今では上野の杜の北側の片隅に佇む寛永寺ですが、
当時は、上野恩賜公園の広々とした空間の辺りに
大きなお堂がいくつも並び、坂を下りきった
この辺りに山門の黒門があったようです。
黒門は、千住にある円通寺に移され現存しています。
円通寺のある千住の様子はこちらです。
この先の階段を上ると有名な
西郷隆盛の銅像があります。
明治維新の立役者の一人だった西郷隆盛ですが
その後、征韓論を唱え野に下り、西南の役を起こします。
その為、逆賊の汚名を帰されますが、1889年(明治22年)に
それを解かれた事を祝し建てられたものだそうです。
西郷隆盛像のすぐ近くに彰義隊のお墓がありました。
鳥羽伏見の戦いで、将軍・徳川慶喜は江戸に戻ってきますが、
慶喜の側近たちは武装し、彰義隊を名乗り寛永寺に籠ります。
1868年(慶応4年) 5月15日に、官軍はこの彰義隊に対する
総攻撃をかけ、僅か半日で制圧してしまいます。
幕末所縁の史跡を訪ね歩くと、
斜面にせり出したお堂が見えてきました。
このお堂は清水観音堂といい、家康や家光とも
関わりのあった僧・天海大僧正が京都の清水寺を
模して、1631年(寛永8年)に築いたものだそうです。
舞台作りの清水観音堂から眺める
不忍池の弁天堂の様子です。
清水観音堂の西側には、
花園神社がありました。
鎮座の謂れは不詳との事ですが、
1654年(承応3年)に、天海の高弟・昇海僧正が
再建し、上野の守護神にしたそうです。
その隣にあった五條天神社です。
こちらは、日本武尊が東夷征伐の際に
ご加護を頂いたお礼に、大国主命と
少彦名命を祀ったのが始まりとされています。
この近くには上野大仏がありました。
寛永寺が出来る以前に上野に屋敷を構えていた
堀直時が、1631年(寛永8年)に建立した
釈迦如来像が始まりです。
1660年頃にこの釈迦如来像が
青銅の大仏に改鋳されています。
その後、大地震や火災に遭ったりしましたが
関東大震災で、頭部が落ち、今はその顔が
リレーフとして保存されています。
上野大仏から更に北に歩いて行きます。
立派な鳥居が現れました。
徳川家康を祀る、上野東照宮です。
藤堂高虎が江戸時代初期に創建したものと伝わります。
鳥居をくぐり、門を抜けると参道の両脇に
立派な燈籠が整然と並んでいました。
この見事な燈籠は、諸国の大名が寄進したものです。
参道に接して、五重塔が聳えていました。
この五重塔が建っているのは隣接する
上野動物園の園内になっています。
元々は1639年(寛永16年)に、寛永寺の
五重塔として建てられました。
唐門前にも燈籠が整然と並んでいました。
こちらは神楽殿です。
1874年(明治7年)に深川木場組合が
奉献したものだそうです。
この奥に上野東照宮の唐門や社殿が建っています。
1651年(慶安4年)に家光によって建てられた唐門です。
日本に一つしかない金箔の門です。
この唐門の奥にも家光が建立した社殿が
建っているのですが、2009年秋にここを
訪れた際には、残念ながら修復中でした。
上野東照宮のすぐ北側には上野動物園があります。
1882年(明治15年)に開園した日本で最も古い動物園です。
広さは14haと行きなれた東山動物園と比べると
小ぶりな動物園ですが、飼育されている動物の
種類や来園者数は日本一と誇るそうです。
1972年の日中国交回復以来、一時期を除いて
飼育されているパンダが一番の人気を博しています。
2014年春に上野動物園を訪れた際の様子です。
パンダというといつも寝ている印象がありますが
この時は、起きて鉱物の笹を熱心に食べていました。
上野動物園から更に北に向かうと
古めかしい立派な門が見えてきました。
旧因州池田屋敷表門です。
もともとは丸の内大名小路に
あった鳥取藩上屋敷の正門です。
因幡・伯耆32万石を有する鳥取藩主池田氏は
徳川家とも姻戚関係のある名門で、
この表門も最高の格式を備えているそうです。
一時、東宮御所の正門になっていたようですが、
1953年(昭和28年)に現在の場所に移築されたそうです。
江戸切絵図によると江戸時代には、
今の丸の内から永田町周辺にかけては
大名屋敷が建ち並んでいたのですが、
このような門構えの大名屋敷が整然と並んでいた様子は
さぞ圧巻だったものと思います。
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寛永寺
(Kanei Ji)
寛永寺は、江戸時代初期の天台宗の大僧正・
天海によって開かれた徳川将軍家の祈祷所で
菩提寺だったお寺です。
江戸時代には上野の杜すべてが寛永寺の境内でした。
上野恩賜公園の項で紹介した史跡の中にも寛永寺の
清水観音堂や五重塔などの建物もありますが、現在の
主な社殿は、上野公園の北側の一角だけになっています。
上野恩賜公園から旧因州池田屋敷表門の
北側には博物館が幾つも並んでいます。
その東側の一角に輪王寺がありました。
輪王寺は、江戸時代には寛永寺の伽藍の一部でした。
輪王寺は、寛永寺の開祖・天海大僧正(慈眼大師)と
慈恵大師をお祀りしており、両大師とも呼ばれます。
江戸時代には開山堂と呼ばれていたそうです。
こちらは、阿弥陀堂です。
輪王寺のご本尊は阿弥陀如来という事なので
ここにご本尊が安置されているのでしょうか。
輪王寺の境内にあった寛永寺の旧本坊表門です。
江戸時代、寛永寺の本坊は今の
国立博物館の位置にあったそうです。
この門は、その正面に建っていたものです。
山門から真っ直ぐ進むと、輪王寺の本坊です。
1993年に再建されたものです。
輪王寺から東京国立博物館の脇を抜け、
寛永寺に向かいました。
その途中、まず目に止まったのが殉死者の碑です。
1651年(慶安4年)4月20日に第三代将軍・徳川家光が
亡くなった際、その後を追って殉死した家光の家臣4名と
その家臣8名のお墓があるそうです。
佐倉藩主で元老中の堀田正盛と、岩槻藩主で
老中の阿部重次らが葬られているようです。
佐倉城の登城記はこちらです。
岩槻城の登城記はこちらです。
案内板を詳しく読まなかったので、
そのお墓を訪れずに先に向かってしまいました。
この先、鶯谷駅に向かう道の左手に
寛永寺の墓地が広がっていました。
この墓地の中には徳川将軍のお墓もあります。
徳川将軍は、徳川家康公と三代・家光公そして
最後の将軍・と慶喜公を除き、この寛永寺か
芝の増上寺に葬られています。
増上寺の様子はこちら、
墓地の中を歩いているうちに8代将軍・
徳川吉宗公の御宝塔を見かけました。
以前は、徳川将軍家の御廟は非公開でしたが
今では日にちを限定し、特別公開しているようです。
高台にある寛永寺の境内からは
鶯谷駅を良く見下ろすことが出来ました。
墓地を抜け、寛永寺の案内に従って境内に
入ると駐車場の脇に煌びやかな門がありました。
こちらは厳有院霊廟勅額門といい、
第四代将軍徳川家綱公の勅額門です。
家綱公は家光公の死に伴い,1651年(慶安4年)に
10歳で将軍職に就き、1680年(延宝8年)に亡くなっています。
家綱公の霊廟は、明治維新後に解体されたり、
第二次大戦で焼失したりして、この門と
水盤舎が残るのみだそうです。
こちらは第五代将軍・徳川綱吉公の霊廟勅額門です。
徳川綱吉の霊廟は柳沢吉保によって築かれ、
資材の調達には豪商の紀伊国屋文左衛門と
奈良屋茂左衛門が行ったそうです。
綱吉が将軍になる以前は館林城の城主でした。
館林城の様子はこちらです。
また彼の側用人だった柳沢吉保が城主だった
甲府城の様子はこちら、
寛永寺の境内で見かけた葵の御紋です。
さすがに将軍家の菩提寺だけあり、
金色に輝く立派な御紋でした。
広大な墓地の西側に現在の寛永寺の本坊があります。
1879年(明治12年)に川越喜多院の
本地堂を移築した寛永寺根本中堂です。
1638年(寛永15年)に建造されたものと
言われているようです。
寛永寺から東京芸術大の敷地を巡り、
閑静な住宅地を歩いていくと
大黒天護国院の建物が見えてきました。
護国院は寛永寺の36を数える子院の一つです。
1722年(享保7年)に火災にあったお堂が再建されています。
この護国院の大黒天画像は、第三代将軍家光が
寛永寺の開山天海僧正の弟子の生順僧正に
贈ったものと伝えられているそうです。
護国院前から緩やかな下り坂を、
角を幾つか曲がりながら歩いていきました。
上野動物園のモノレールが頭上を横切り、
不忍池の辺に出ました。
東叡山寛永寺を比叡山に見立て、
琵琶湖になぞらえて不忍池が作られたそうです。
不忍池には葦が生い茂り、
鴨が池に漂うように浮んでいました。
その不忍池の中に浮ぶ弁天島に
弁天堂が建っていました。
この写真は、弁天堂の大きな石碑です。
夕暮れ迫る弁天島を抜け上野駅へと向かいました。
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