羽咋
Hakui in Ishikawa


羽咋は、能登半島の根本の西側に位置しています。
羽咋の名は、垂仁天皇の皇子磐衝別命が、
この地の領民を苦しめていた怪鳥の羽を
食い破ったという「羽喰」から
付いたともされています。

古墳も多く、歴史の深い所です。

いままで、あまり訪れる機会はなかったのですが、
2011年10月に、金沢からレンタカーで能登半島を
訪れた際に、いくつかの史跡を訪れました。


気多大社
(Keta Taisha Shrine)
Oct. 05, '21


妙成寺
(Myojyoji Temple)
NEW ! Oct. 08, '21


千鳥浜
(Chirihama Beach)

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気多大社

気多大社は、能登国の一宮となっている神社です。

創建は有史以前で、第8代の孝元天皇の御代に、
気多大社が祀っている大己貴命が出雲から
300余神を率いて来降したという話が社伝に
残っているようです(wikipediaより)。

気多大社の立派な鳥居です。


撮影: 2011年10月

この鳥居は二の鳥居で、一の鳥居は1km程
南の日本海に近い所に立っているそうです。

調べてみるとその一の鳥居の近くに北陸鉄道・
能登線の能登一ノ宮駅跡があったようです。
北陸鉄道能登線は、羽咋駅から能登半島の西部を
北上し、三明駅に至る営業キロ25.5kmの路線でした。
1972年(昭和47年)に廃線になっています。

二の鳥居をくぐり、すぐ右手にあるのが斎殿です。


撮影: 2011年10月

天皇陛下御幸記念碑が立っていますが、
いつの天皇なのか、とふと頭を過ります。
調べてみると、1983年(昭和58年)に
昭和天皇が気多神社を訪れています。

広い参道を進むと神門がありました。


撮影: 2011年10月

建立は1584年(天正12年)と伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
神門の所に、巫女さんが座って参拝客を
出迎えていたのが、とても印象的でした。


撮影: 2011年10月

巫女さんの姿を近くで写真に撮るのが
憚られましたので、後ろ姿を遠くから
撮影した写真です。

この先に、気多大社の社殿が建っていました。
下の写真は、拝殿です。


撮影: 2011年10月

拝殿は、1653年(承応2年)に建立されており、
こちらも国の重要文化財に指定されています。

拝殿の奥には本殿と、その両脇に若宮神社と
白山神社の社殿が建っています。


撮影: 2011年10月

神門と合わせ、これら5つの社殿が
国の重要文化財に指定されています。

気多神社の社殿の背後には原生林が広がっています。


撮影: 2011年10月

「入らずの杜」と呼ばれ、30,000平米もの
広さがある鎮守の杜です。

その立ち入り禁止になっている杜の東隅は
ひっそりと太玉神社の社がありました。


撮影: 2011年10月

気多大社の社殿の西側には
正覚院というお寺があります。


撮影: 2011年10月

正覚院は気多神社の神宮寺として
718年(養老二年)に創建されたそうです。

神宮寺の正覚院の創建が奈良時代初期という事も合わせ、
気多大社の長い歴史を想わずにいられませんでした。

出雲大社や吉備津神社もそうですが、神話時代に創建された
こうした神社は、大和朝廷が地方の有力勢力を制圧した際に、
鎮魂の為に設けたのではないか、と思っています。

出雲大社の散策記はこちらです。
吉備津神社の散策記は
こちらです。

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妙成寺

気多神社を訪れた後、レンタカーを北に向かって
走らせていると、遠くに古いお寺の塔が見えて
きたので、立ち寄ってみる事にしました。


撮影: 2011年10月

木々の上から姿を現している古い塔の
眺めが何とも言えず、旅情を誘いました。

妙成寺という日蓮宗の北陸本山に
なっている立派なお寺です。


撮影: 2011年10月

創建は1294年(永仁2年)の事です。
五重塔を眺めながら境内に入ると、
仁王門があります。


撮影: 2011年10月

初重に屋根のない二階造りの櫓門で、これは
室町時代の日蓮宗のお寺独特の形式だそうです。

仁王門に安置されている阿形の金剛像(写真下右)と
吽形の那羅金剛像(写真下左)です。


撮影: 2011年10月

この仁王門は1625年(寛永2年)に建てられ、
国の重要文化財に指定されています。

仁王門を過ぎると、右手に鐘楼が建ち、
その奥には本堂が立っていました。


撮影: 2011年10月

鐘楼も1625年(寛永二年)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。

左手には石段が続き、そこを上って行くと
開山堂(下写真左)と経堂(写真下右)があります。


撮影: 2011年10月

開山堂は、開祖・日乗上人を祀るお堂で、
妙成寺第17代日遼上人が1677年(延宝5年)に
私財を投じて建立したそうです。

そして、五重塔が間近に聳えていました。


撮影: 2011年10月

この五重塔は1618年(元和4年)に建立されたもので、
高さ34.27m、底辺は4.85m四方の大きさがあります。
1815年(文化12年)に焼失した日光東照宮の五重塔と
ほぼ同じ大きさだったそうです。

日光東照宮の様子はこちらです。

現在残る妙成寺の伽藍は、加賀藩の二代目藩主・
前田利常が生母の寿福院の菩提寺として整備した
もので、第四代藩主・綱紀の代に完成したそうです。

五重塔の奥にはお墓が幾つかあります。
目に付いたのが、大槻伝蔵のお墓です。


撮影: 2011年10月

大槻伝蔵は、五代藩主・前田吉徳によって
取り立てられ、藩政改革を行っています。
吉徳が亡くなると、伝蔵は周囲の反感を浴び、
主君・吉徳の側室だった真如院との密通の疑いを受け、
伝蔵は自害し、真如院も処罰を受ける事になりました。

これらの出来事は加賀騒動として知られていますが
今日では伝蔵は無実の罪を着せられていたようです。

この先には第二代藩主・前田利常公の
生母・寿福院のお墓もありました。


撮影: 2011年10月

この奥に、丈六堂があります。
丈六堂の名は、一丈六尺(約4.8メートル)の
釈迦牟尼仏を祀る事から名付けられています。


撮影: 2011年10月

この丈六堂は1686年(貞享3年)に建立されています。
丈六堂の右手には、閻魔堂も建っていました。

丈六堂は妙成寺の境内では一番奥に立っています。
少し戻った左手に三十番神堂が建っています。


撮影: 2011年10月

三十番神堂は、1614年(慶長19年)に
北野天満宮から移築されたそうで、
国の天然記念物に指定されています。

北野天満宮の様子はこちらです。

三十番神堂は、大阪冬の陣・夏の陣の際に
藩主だった前田利常が先勝祈願したそうです。

三十番神堂の北隣に建つ三光堂です。


撮影: 2011年10月

三光堂は廻廊で右隣の本堂と繋がっています。
本堂は更に右隣の祖師堂と廻廊で繋がっています。


撮影: 2011年10月

本堂は1614年(慶長19年)に建立され
国の重要文化財に指定されています。


撮影: 2011年10月

廻廊で繋がれたお堂の様子は
如何にも大寺という趣です。
朱色で「妙成寺」と書かれた扁額が
掲げられた本堂も素晴らしい佇まいでした。

祖師堂からの廻廊は、鐘楼へと突き当り、
そこで左に折れ、麓へと続いています。


撮影: 2011年10月

廻廊を下ると、妙成寺庭園の案内がありました。
江戸時代初期に造られた池泉式庭園です。


撮影: 2011年10月

庭園に面して書院が建ち、その書院からは
五重塔を眺める事が出来ました。


撮影: 2011年10月

木々の間から眺める五重塔の姿は、
とても端正で美しいものでした。

庭園を辞し、客殿から東に向かうと、
庫裡がひっそりと建っていました。


撮影: 2011年10月

見逃してしまいそうな所に立っていますが、
数多くの重要文化財のある妙成寺でも最も古い
建物で、1593年(文禄2年)の建立と伝っているそうです。

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