幸田
Kouta Japan




(遠望峰山を望む)
(本光寺)



額田郡幸田町は、岡崎の南にある町です。
幸田町の南は遠望峰山で蒲郡に接し、
西は吉良町や西尾市と接しています。

1906年(明治39年)に額田郡の坂崎村、
相見村そして深溝村が合併して
今の幸田町の基礎が出来ています。





この幸田には、岡崎城の築城主の
西郷弾正左衛門稠頼公の菩提寺・正楽寺や
深溝松平氏の菩提寺・本光寺といった
歴史ゆかりのお寺もあります。

最近は、幸田駅近くの文化広場の
枝垂れ桜も知られているそうです。

そんな幸田町の様子を紹介しようと思います。




大久保彦左衛門陣屋跡
Feb. 16, '10

高力と大草界隈 (正楽寺)
Aug. 08, '15

大井池と猿田彦神社
Aug. 08, '15

幸田の枝垂桜
Feb. 19, '10

本光寺
July 03, '15

三光院
July 05, '15

深溝城
July 07, '15

長満寺
July 08, '15

向野首塚
July 13, '15

深溝断層
NEW ! Sep. 04, '15





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大久保彦左衛門陣屋跡



岡崎から蒲郡へと続く国道248号線を南に向かい、
幸田町に入ると坂崎の集落を掠める様になります。

このあたりは、江戸時代初期に書かれた
「三河物語」の著者、大久保彦左衛門の
領地があったところです。





大久保彦左衛門は、大久保忠教といい、
戦国時代の1560年(永禄3年)に生まれ、
1639年(寛永16年)に亡くなっています。

その大久保彦左衛門の陣屋跡が残ってました。
弁天という交差点から西に入ってすぐの
八百富社という神社がその陣屋跡だそうです。



大久保氏は、関東の宇都宮氏の流れを汲む豪族で、
関東から三河の地に移り、松平氏三代目の
松平信光の頃から松平氏に仕えた
古くからの家臣です。


家康が江戸に移封となると甥の大久保忠隣が
小田原城主となると忠教は3000石を与えられたそうです。

その後、大久保長安事件で、忠隣が連座した後に
大久保忠教は三河の地で1000石の領地を得たそうです。
その地が、この坂崎周辺だったようです。

小田原城の様子は
こちらです。


境内の大木の根元に
平岩の射割石という岩がありました。



この石は、後の犬山城主・平岩親吉の先祖で
松平信光に仕えていた弓削氏重が、
この平らな石から苗字を平岩と
変えたと伝わっています。




八百富社には小さな社殿が建っているだけで
当時の陣屋の跡は、神社の入り口の石垣が
残っているだけでした。


八百富社の近くには経塚古墳という
小さな古墳もありました。



いつ頃作られた古墳なのか
良くは判らなかったのですが、
近くにある青塚古墳の陪塚と
考えられているそうです。

そして、八百富社の西側にある正源寺です。



由緒はわからなかったのですが
門構えの雰囲気のいいお寺でした。



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高力と大草界隈 (正楽寺)



大久保彦左衛門の陣屋跡のある
坂崎から南に向かうと田んぼが広がり
遠くに遠望峰山が見えてきます。



このv山の向こうには蒲郡の街があり、
三河湾が広がっています。
岡崎市の南部からも見渡せる遠望峰山は
一番見慣れた、好きな山です。

この風景を見ながら南に進むと
高力の集落に入りました。



集落の入り口にある高力神明宮です。
ここから南の微高地に高力の集落があり、
その集落は大草の集落へと続いています。

旧248号線沿いには家が立ち並んでいますが
集落の中に入ると、家々の間には畑が広がっています。



畑のその向こうに立つ木立の上に
青空が広がっていました。


大草の集落の南東の端、
国道248号線を渡ったところに
古めかしいお寺がありました。



真宗大谷派の正楽寺です。





鐘楼が山門になっています。
岡崎の近郊ではよくこのような山門を見かけます。

この正楽寺は、岡崎城の築城主・
西郷弾正左衛門稠頼公の菩提寺です。



西郷氏は元々は九州の仁木氏の家臣でしたが、
仁木氏が三河守護に任じられると守護代として
肥前からこの地に移り、砦を築き勢力を伸ばしたようです。

1452年(享徳元年)に西郷稠頼は、今の岡崎城のある
矢作川と乙川の合流地点に龍燈山城を築いています。

岡崎城の様子はこちらです。

西郷氏は西郷稠頼の子・頼嗣の代に、
松平三代・信光に攻められ敗れてしまいます。
信光の三男・光重を婿に迎え松平氏の外戚となり、
大草松平氏へと繋がっているそうです。

頼嗣の子信貞の時には、山中城を居城としていましたが
松平清康に急襲され、落城すると山中城を明け渡し、
明大寺城に移り、その後大草に居城を構えたそうです。
この正楽寺はその大草城があったところと言われています。


この正楽寺には、西郷稠頼公と西郷氏に婿入りした
松平光重公の画像が残されているそうです。

百日紅が咲き、趣のある蔵がありました。



そして、境内には西郷稠頼公のお墓もありました。



右側のお墓が西郷稠頼公のお墓です。
思いがけず小さなお墓でした。
左側は、高力城主の熊谷氏の
お墓と記されていました。

隣り合うような高力と大草の集落ですが
中世の時代にはそれぞれに城館が
築かれていたのでしょうか。



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大井池と猿田彦神社



大草の正楽寺から西に行くと
三河の山々の西の端の丘陵地帯へと
近づいていきます。



集落もまばらとなり、緩やかな傾斜地に
田圃が広がるようになりました。





こののどかな景色が尽き、
丘陵地に差し掛かるあたりに
大草神社がありました。



この大草神社は、元の名を杉太明神といい
768年(神護景雲2年)に、大和・三輪神社から
大已貴命(大国主命)を勧請したのが始まりだそうです。

丘陵地の麓にある小さな神社ですが、
1250年近い歴史があるとは驚きでした。

その後、戦国時代には大草松平氏の
鎮守となっていたようです。


大草神社から丘陵地の間を分け入り
小さな集落へと入って行きました。

集落の奥にある浄土寺に向かいます。





小川に架かる橋の袂に小さなお堂がありました。



明治維新後に廃仏毀釈の運動が起きました。
この時、浄土寺にある運慶作と伝わる
仁王像を守ろうと、この川底に埋めて
難を逃れたそうです。

この先の山懐に浄土寺がありました。



以前、この辺りには7つのお寺があったそうですが、
今ではこの浄土寺が残るのみです。

藤原時代(894年からの300年)に行基が
造ったという薬師如来座像があるそうです。

仁王門をくぐり本堂に向かいます。



この仁王像が運慶作と伝わり、廃仏毀釈の
荒波をくぐり抜けてきたのでしょうか。

急な階段を上り、本堂を目指します。



弘仁年間(810〜824年)に南城という
修験者がこの地に開いたお寺です。



鎌倉時代には興隆を極め、源頼朝から
7寺で700石の寺領を受けていたそうです。


浄土寺から大草神社まで戻り、
丘陵地に伸びる細い道を進みました。

木々が生い茂り薄暗い、
曲がりくねった坂道が続きます。

鬱蒼とした木々が尽きると
急に周囲が明るくなり、
大井池が見えてきました。



この大井池は灌漑用の溜池です。
岡崎平野の東の端にあたるこの辺りには
いくつもの灌漑用の池がありますが、
大井池はその中でも一番大きな池です。

池の堤防からは、田圃の向こうに
羽角山が見えていました。


大草から上ってきた道は丘陵地を越えて
桑谷から山中へと続いていますが、
大井池に沿って、右手に分け入っていくと
猿田彦神社があります。



道の途中に、猿田彦神社の
幟が並んでいました。

猿田彦神社に向かう途中で
見かけた大井乃瀧です。



大草周辺ののどかな集落の景色から
わずかに山間に入り込んだだけで
人里離れた寂しい景色になりました。

この先に猿田彦神社がありました。



猿田彦天神は、国土開発の祖神で、
高千穂の嶺に降臨したそうです。

高千穂の様子はこちらです。

日本書紀や古事記に登場する
遠い昔の国造りの神話の世界です。

この猿田彦神社は伊勢の椿大社から
分霊したものだそうです。

この界隈では地鎮祭で名高いこの猿田彦神社ですが、
創建は1969年(昭和44年)と新しい神社でした。



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幸田の枝垂桜



大草から更に南に向かうと幸田町の中心部、
幸田駅前の商店街に至ります。



最近はどの地方都市もそうですが
駅前周辺の町並みは寂れてしまっています。

JR幸田駅の様子です。



一時間に2本の普通列車と
1本の快速電車が停車しています。
一日の乗車人数は4,200人程です。

この幸田駅近くには以前、紡績工場があり
その跡地が町役場と公園になっています。



空き地になっているのが以前の工場跡で
その向こうに遠望峰山が見えていました。

春には、公園の隅の土手の桜が綺麗です。




桜といえば、この幸田町は、最近
枝垂桜で知られるようになっています。

その枝垂桜は、幸田駅の
南側にある文化公園の桜です。





2008年の4月初旬にこの幸田の
枝垂桜を見に行ってきました。



1983年(昭和58年)に作られたこの文化公園では
国立遺伝子研究所の指導の下に
江戸彼岸系の紅枝垂桜が300本以上
植えられているそうです。



青空が広がり、春爛漫の陽気です。

公園の展望台からの眺めです。



多くの人が花見に出ていて、
桜の木の下でくつろぐグループを
たくさん見かけました。

そして、遠望峰山もうっすらと
ピンク色に霞んでいるようでした。






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本光寺



幸田駅から南に向かうと、
岡崎平野は尽き、遠望峰山と
三ヶ根山の間の谷間になります。

そして、東海道本線の次の駅、
三ヶ根周辺の集落に至ります。





この集落が深溝(ふこうず)と言うのですが
戦国時代には1520年頃から深溝松平氏が、
この地を拠点にしていました。

深溝松平氏は、五井松平家二代目の松平元心が
深溝城主・大場次郎左衛門を討ち取り、
その功を譲られた弟の松平忠定が家祖となっています。


三ヶ根駅から東側の山に向かう
坂道の途中に本光寺がありました。



山門へと続く参道です。
あじさいの参道と名付けられていて
梅雨の時期には紫陽花が綺麗に咲き乱れています。



この本光寺は18家あるとも16家あるとも言われる
松平家の一つ深溝松平家の菩提寺です。

深溝松平氏は、この深溝周辺の小藩の藩主から
4代家忠公の時に家康の関東移封に伴い、
忍藩主や小見川藩主を務めました。

その子、5代忠利公の時に、再び深溝に戻り、
その後三河吉田藩主となり、6代忠房公の代に
刈谷藩、福知山藩と転封を続け1668年(寛文8年)に
6万5000石で島原藩に入っています。

その後、10代忠まさ公の時に宇都宮藩主となりますが、
11代・忠恕(ただひろ)公以降再び島原藩主となっています。


その参道を抜けたところの山門です。



赤い門には「瑞雲山」と
書かれた額が飾られています。
門の脇に「不許葷酒入山門」と
刻まれた石碑が建っていました。

この本光寺の創建は1523年(大永3年)です。



境内には、歴代の深溝松平家の当主の霊廟が
東西二箇所に分かれてあります。


山門を抜けてまっすぐ進むと
まずは本堂と鐘楼が見えてきました。



手前の鐘楼の鐘は、三代将軍・徳川家光公の勅願によって、
深溝松平氏五代目・松平忠利公が鋳造したものだそうです。

本堂の建物はそれ程立派なものではありませんでした。
運慶作と伝わる地蔵菩薩や千手観音像があったそうです。
現在の本堂は再建されたものという事です。


この本堂の前には梅園が広がっています。



その先に、深溝松平氏の始祖・松平忠定公から
五代目の忠利公と、十一代・忠恕公の
お墓のある西御廟所がありました。

まず五代・忠利公の廟所である肖影堂がありました。



本光寺にある深溝松平氏の廟で唯一のお堂です。

松平忠利公は1582年(天正10年)に生まれ、
1600年(慶長5年)に下総・小見川藩主となり、
翌年には父祖の地である、この深溝で
1万石の大名となっています。



その後忠利公は、1612年(慶長17年)に
三河吉田藩の初代藩主になっています。

吉田城の様子はこちらです。

忠利公の廟所だけがお堂になっているのは
深溝城主として父祖の地に戻った功績故でしょうか。

この奥には、初代・松平忠定公、二代・好景公、
三代・伊忠公そして四代・家忠公のお墓がありますが、
小さな墓碑があるだけの驚くような質素なお墓でした。



まだ、三河をも制覇していなかった松平氏に仕え、
二代・好景公、三代・伊忠公そして四代家忠公は
家康の天下平定の過程で戦死しています。

好景公は、1561年(永禄4年)、吉良義昭との善明平の戦いで、
伊忠公は1575年(天文6年)に長篠・設楽原の戦いで戦死しています。

伊忠公の長篠・設楽原の戦いでの戦死は
織田・徳川軍の武将としては唯一の例だったそうです。

4代家忠公は、1600年(慶長5年)、関ヶ原の
前哨戦の伏見城の戦いで、西軍に攻められ
孤軍奮闘の中、戦死しています。

後の栄華を見ずに亡くなった戦国期の
当主の小さなお墓は侘しさが募ります。


そして神殿石造りのお墓が、十一代・忠恕公のお墓です。



松平忠恕公は宇都宮藩主から島原藩主となり、
島原では1792年(寛政4年)の普賢岳の大噴火で
辛苦をなめ、ついには過労死したそうです。

宇都宮城の様子はこちらです。
島原の様子はこちらです。



西御廟所の外れには福知山藩主だった
六代・忠房公が1672年(寛分12年)に作った
願掛け亀の石碑がありました。

石垣で囲われた石段を上がり、
願掛け亀の石碑に向かいました。



参拝者の願いを聴く為に大きな耳を持ち、
お賽銭が亀の首と甲の間のくぼみに乗ると
願いが叶うと言われているそうです。


西御廟所を散策し終え本堂を横切り、
東御廟所に向かいました。
東御廟所は山を登ったところにあります。



普段は訪れる人は少ないのか、
石段の途中には蜘蛛の巣が張り、
薮蚊に何箇所も刺されてしまいました。

石段を登ったところにある東御廟所の門です。



この東御廟所には、島原藩に移封された
六代・忠房公以降の当主のお墓が並んでいます。

島原藩主になっていた深溝松平家の当主らは
亡くなった後、島原からこの先祖代々の土地、
深溝まで送られてこの本光寺に葬られたそうです。



西御廟所に葬られている十一代・忠恕公の
お墓と同じ神殿石造りのお墓でした。

写真左は1736年(天文元年)に没した7代・忠雄公、
右は1738年(天文3年)に没した8代・忠俔公のお墓です。



2009年8月、岡崎では時間雨量が146mmに達する豪雨があり
何名かの方が亡くなったりして被害が出ましたが
この際に、この7代・忠雄のお墓も被害を受けたそうです。

その修復の際に、小判や西洋のガラス類などの
豪華な副葬品などが発掘されました。
その価値が認められ、国の史跡に指定されました。


それにしても、このお墓の姿と、
数の多さには圧倒されました。



昭和に入っても、深溝松平氏の当主は
この墓地に埋葬されたようです。

7代・忠雄のお墓だけでも国の史跡になったのですが
ここにあるすべてのお墓の価値を考えると、
国宝級なのではないでしょうか。



この深溝地区は、1945年に起きたM6.8の
直下型地震の三河地震の震源地に近く
その地震の影響で土塀とかが
壊れたままになっていました。



お寺のお話では、大名の菩提所だった
この本光寺には元々檀家が居らず、
修復する費用が捻出出来ないとの事でした・・・

なんとか、この貴重な史跡を整備し
保存出来る事は出来ないのでしょうか。


この本光寺で、2012年2月に現地説明会がありました。



この時の説明会は、明治以前に梅林にあった
旧本堂や仏堂の発掘調査の内容でした。

当時の本光寺本堂は、いま梅林になっている辺りに建っていて、
寛政時代(1789年〜1800年)の絵図で示されている箇所通りの位置に
客殿の基盤や建物の周囲にあった溝と思しき跡が認められたそうです。



当時の基盤や溝は、今の梅林よりも40p程低い位置にあって
すぐ隣の西廟所は見上げる様子だったようです。

こうした発掘調査を続けて、当時の本光寺の様子が
更にはっきりわかるようになるといいですね。



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三光院



本光寺を辞し、右手に折れて
緩やかな坂道を上ってい来ます。





幸田町の歴史資料館を過ぎると
丘陵地の麓にお寺がありました。



三光院です。

三光院は、深溝松平氏初代・忠定公の
正室・三光院が開基したそうです。
16世紀前半の事でしょうか。

緩やかな参道を上ったところにある山門です。



山門の佇まいが本光寺とそっくりです。

山門を抜けると静かな境内があり、
その奥に本堂がひっそりと佇んでいました。



この三光院には薬師堂に1492年(延徳4年)に
出来た鰐口が納められているそうです。

境内にあった小さなお堂です。



この中に三光院の石像がありました。



失礼とは思いながらカメラに収めました。



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長満寺



深溝城の兵九下から、段丘の下の田圃に下り
向かいの丘陵地にある大きな屋根の
お寺に向かいました。



このお寺は深溝城の築城城主・大庭次郎
左エ門朝満が開き、菩提寺とした長満寺です。

深溝城の登城記は
こちらです。

大庭次郎左エ門朝満が長満寺を開いたのは
1332年(正慶元年)と伝わります。
深溝城も同時期に築かれたのでしょうか。

大庭氏を斃した深溝松平氏の菩提寺・本光寺とは、
深溝城を隔てて、丁度反対側に位置しています。





長満寺は日蓮宗のお寺です。
その山門は、実に堂々としていました。



山門を抜けると石垣の脇に急な石段が続いています。
石段から見上げる本堂の甍です。



石段の途中に大きな木が生え、
覆いかぶさっているようです。


石段を上った境内の様子です。
左が庫裡、右が本堂です。



本堂の前にも、古いスダジイでしょうか、
お寺の歴史と風格を物語る立派な木がありました。



うねる様な幹に圧倒されました。
本堂から眺めたスダジイの古木です。



この眺めも印象的でした。


境内からは、深溝城のあった段丘が見えていました。

広角レンズのデジカメで撮った写真は
小さく見えていますが、肉眼では
大きく、手に取るように見えます。



長満寺が建立された当時、深溝城も既に
出来上がっていたので、この境内から
お城の様子が良く眺められた事でしょう。

その当時は、どのような様子だったのでしょう。


境内の奥には古いお堂がありました。
三十番神堂と呼ばれるお堂です。



お堂に掲げられた古く筆も色褪せた案内板によると、
このお堂が建てられたのは、お寺が創建された
1332年(正慶元年)ということです。

案内板に書かれていますが、まさに
重要文化財級の建物だと思います。

この建物が文化財に指定されていないのは
2本の柱が後世の改修を受けている為だそうですが
なんだか規則が厳格すぎるようにも思います。

それにしても14世紀前半にはこれだけの建物が
三河の地にも建てられていたとは驚きです。

同時期に築かれた深溝城にも
城主の館とか同じような建物が
きっと建てられていた事と思います。


この三十番神堂の奥には赤い鳥居が立っていました。



この鳥居をくぐり,坂道を上り、
裏にある墓地へと向かいました。

歴代の住職のお墓でしょうか、
古いお墓が整然と並んでいました。



その一段高いところに、深溝城築城城主の
大庭次郎左エ門朝満のお墓がありました。



苔むして少し傾いたお墓は本光寺にある
深溝松平氏のお墓と比べようもありません。


質素な佇まいの本光寺を訪れていると、つい思い至る事が
出来なかったのですが、このお墓を見て、紫陽花の
咲く本光寺は、勝者の歴史を刻むお寺と思いました。

一方、この長満寺は敗者のお寺という事になるのでしょうか。

長満寺の凛とした佇まいは、とても敗者の歴史を
引きずっているとは思えないのですが、少なくとも
松平氏の盛隆の陰で、敗れて行った者達の歴史も、
この地域には眠っている事を思い至りました。


大庭次郎左エ門朝満のお墓を詣でた後、
本堂に上がり、お参りしてきました。

開け放たれた本堂に吹く風が
涼しく気持ち良かったです。



本堂の甍が、夕方の澄んだ空に
良く映えていました。



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向野首塚



JR三ヶ根駅の西側,三ヶ根山からの
山の斜面に住宅地が広がっています。



この住宅地の一角に深溝松平氏の首塚があります。





向野首塚と呼ばれています。



深溝松平氏、初代の忠定公とその子・好景公のものです。
忠定公の享没年は不詳、好景公は1561年(永禄4年)の事です。

松平忠定公は寿命を全うしたと伝わる為、
ここにその首は埋まっていないようです。
が、二代・好景公は、1561年(永禄4年)に
吉良義昭との善明堤の戦いで、戦死しています。




好景公は吉良方の策略にはまり、好景以下一族の者21人、
家臣等34人全員倒れ生還するものが無かったそうです。

戦いのあった善明堤は今の西尾市吉良にあります。
吉良の様子はこちらです。


この向野首塚は、住宅地の中にあって、
その場所はなかなか判りませんでした。

近くの酒屋さんに道を尋ねたのですが、
その時、酒屋の御主人が
「うちの殿さんは慌てん坊だもんで 、それで慌てて
飛び出てってしまうから、殺されてしまったんですわ」
と言っていました。

深溝の人達には、450年も昔の領主が
ちょっと前の、町長さんの様な
身近な存在に思えました。


松平忠定公と好景公二人のお墓はJR東海道本線を
隔てた反対側の本光寺にもお墓があります。

元々、本光寺はこの向野首塚の位置にあったそうです。

本光寺の様子はこちらです。




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深溝断層



JR三ヶ根駅から北に向かい、途中で三ヶ根山の北に
連なる丘陵地に分け入って行くと、深溝断層があります。





1945年1月13日、三河湾を震源とする
マグニチュード 7.1 の地震が起きました。

三河地震といいます。


愛知県三河地方では大きな被害が出たのですが
当時の日本は、軍国主義国家。

被害は全く報道されず、
救済もありませんでした。


地震を引き起こした深溝断層は
活断層で、総延長28kmに及ぶそうです。



ここは丘陵地の間の狭い、
東西方向の谷にありました。

断層は段差約1.5m、水平方向の
ずれは1m程だったそうです。



既に70年の時が経ち、当時の断層は
風雨で崩れ、明瞭には判りませんでしたが
杭がそのズレを示していました。


三河地震の爪痕は、隣の蒲郡市にもあります。


その爪痕の残る蒲郡の
崇徳寺の様子はこちらです。




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