吉良は愛知県の中央部に広がる
岡崎平野の南部に位置する町です。
13世紀の鎌倉時代に足利義氏の長男・長氏が
三河国碧海郡吉良荘を本拠とし、
吉良氏を名乗ったのが始まりです。
吉良氏は承久の乱以降に三河に多く与えられた
足利氏の所領を指揮・監督する役割を与えられ、
後に足利尊氏が京都・六波羅探題を攻め落とした際に
鎌倉幕府軍が京に入るのをこの三河の地で防いだそうです。
そうした経緯もあり、吉良氏は足利氏一門の名門とされ
「御所(足利幕府)が絶えれば吉良が継ぎ
吉良が絶えれば今川が継ぐ」
とまで言われた名家でした。
世に名高い元禄赤穂事件で
赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に斬りつけられ
赤穂浪士の討ち入りで命を落とした
吉良上野介義央公の所縁の地でもあります。
この歴史ある吉良も2011年に平成の大合併で、
西尾市に吸収合併となってしまいました。
その吉良氏の本拠地、
吉良の様子を紹介します。
東条城
1222年(貞応元年)頃、承久の乱後に
三河守護となった足利義氏は吉良荘を
矢作川(今の矢作古川)を境に
西条と東条に分け、お城を築いたそうです。
これが東条城の歴史の始まりで、
義継の子孫は東条吉良氏となりました。
ちなみに西条城は今の西尾城です。
東条城の登城記はこちらです。
東条・西条の吉良氏同士での争いを続けたため、
勢力を伸ばすことが出来ず、戦国時代は今川氏への
隷属を強いられてしまったそうです。
そして徳川家康が江戸幕府を開府すると、
石高は僅か3000石ながら高家筆頭の家格を与えられ、
江戸幕府の儀典を取り仕切る家として
存続することになったそうです。
華蔵寺
名古屋鉄道西尾線の上横須賀駅から
1.5km程北に行くと、田圃が広がる景色が尽き
丘陵地が広がるようになります。
その丘陵地の懐に華蔵寺があります。
この華蔵寺は吉良家の菩提寺で、
創建は1600年(慶長5年)だそうです。
山門をくぐると急な石段が目の前に迫っています。
危険の為、通行禁止になっているので、
坂道を回り道して、石段の先の
高台にある本堂を目指しました。
質素ですが、堂々とした本堂の建物です。
本堂の裏には、枯山水の庭園があり
落ち着いた雰囲気です。
この庭園は吉良上野介義央公が
1690年(元禄3)年に寄進したものだそうです
華蔵寺には、吉良上野介義央公の
木造坐像がありました。
写真では綺麗に写っていませんが、
この坐像には彩色が施されていますが
この彩色は吉良義央公自身が
施したと言われています。
境内の墓地には赤穂浪士の討ち入りで
命を落とした吉良上野介義央公の墓もありました。
いわゆる元禄赤穂事件の発端は、
江戸に向かう、東山天皇の勅使の饗応役に
浅野長矩は任じられ、その指南役に高家の
吉良上野介が任命された事に始まります。
その勅使が将軍に対し奉答する
最も格式の高い儀式が行われる当日、
江戸城松の廊下で長矩に切り付けられます。
1701年(元禄14年)3月14日の事です。
江戸城松の廊下のある
幕府の権威を傷つけられた将軍・徳川綱吉は
浅野長矩を即日切腹に処し、
浅野家はお家取り潰しとなります。
これに対し、翌年に浅野家の遺臣ら
47名が吉良邸に討ち入り、
吉良上野介義央公は殺されてしまいます。
討ち入りのあった本所松坂町の
討ち入りした赤穂浪士は切腹となり、
浅野長矩と同じく泉岳寺に葬られることになります。
泉岳寺の様子はこちらです。
吉良上野介義央公のお墓の近くには
義央公の孫にあたる吉良義周のお墓もありました。
吉良義央公が松之廊下での刃傷事件で隠居し
孫の吉良義周は討ち入りの際には
18歳で吉良家当主になっていましたが、
事件後、信濃諏訪藩に預け入れとなり、
その後、僅か21歳で亡くなっています。
諏訪藩高島城の様子はこちらです。
吉良義周の死で、名門・吉良家は
断絶となってしまいました。
境内には吉良義央公が1700年(元禄13年)に
寄贈した経蔵が建っていました。
そして、鐘楼とお堂の様子です。
元禄赤穂事件は赤穂浪士の討ち入りや
「仮名手本忠臣蔵」の影響もあり、
主君の遺恨を果たした赤穂浪士に
人気が集まり、討たれた吉良上野介は
一方的な悪役になってしまっています。
浅野長矩が吉良義央公を斬りつけた真相は
今では知る由も出来ないのですが、
吉良義央公が悪役になってしまっているのは
あまりにも一方的な見方のような気がします。
江戸城で浅野長矩が振り上げた刀は
吉良家にとってはとんだ災難の始まり
だったことは確かな事と思います。
黄金堤
吉良家の菩提寺の華蔵寺から
丘陵地の間を更に北に向かうと
黄金堤と呼ばれる古い土塁があります。
この堤は、吉良義央公が
築いた土塁と言われています。
高さ3m程の堤が約200m程続いています。
土塁の両側に桜の木が植えられ、
春には綺麗な景色が見られると思います。
この黄金堤の北側には
矢作古川の支流の小川が流れています。
当時、この辺りは鎧が淵という低湿地で
大雨の際には、矢作古川の流れが
この丘陵地の間を流れ、吉良の集落に
押し寄せる水害が発生していたそうです。
吉良義央公はその水害を防ぐために
この土塁を築いたそうです。
また徳川家康が、桶狭間の戦いの後に行った
三河平定の際には、徳川方と吉良氏との間で、
この鎧が淵で戦いがあったそうです。
徳川軍は、吉良氏の策略で、この淵に誘い込まれ
多くの武将が命を落としたそうです。
鎧が淵という名前は、その戦いの後
ここにあった沼地から鎧が度々
引き上げられた事に由来するそうです。
黄金堤の傍らには、その時の戦で
武将が鎧を掛けた松の碑が残っていました。
圓融寺
東条城から帰宅の途中、
道路沿いの標識に
清水一学の墓所の標識があったので、
立ち寄って来ました。
清水一学のお墓があるのは、
吉良町の圓融寺です。
吉良は吉良上野介で知られる
高家・吉良家の所領だったところです。
東条吉良家は14代嘉昭の時に、家康により
滅ぼされたのですが、家康は天下を取った後、
13代義安の子、義定を旗本に取り立てました。
これが高家・吉良家の始まりです。
清水一学は吉良町の農家の出身だったそうです。
清水一学は、吉良家随一の剣客として知られ、
赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、
吉良上野介を守り奮闘したのですが、
命を落としました。
遺骨は江戸万昌院に葬られたのですが、
故郷の圓融寺にも分骨されたそうです。
一学のお墓は古く小さいものでした。
この圓融寺のすぐ近くに生誕の地の碑もありました。
金蓮寺
旧吉良町の中心的な集落だった上横須賀から
2km程南に行った、丘陵地と平野の
境の辺りに、金蓮寺というお寺があります。
金蓮寺は1186年(文治2年)に、
源頼朝の命を受けた三河守護・安達盛長が、
阿弥陀堂を建てた事に由来するそうです。
その後、1340年(歴応3年)に、足利尊氏は
尾張の清龍坊というお寺をこの地に移し、
金蓮寺と名付けたそうです。
2010年7月に、金蓮寺を訪れました。
この日は真夏日の暑い日で、金蓮寺の堂宇は
夏の陽射しを浴び、鮮やかな景色でした。
境内に入ると大きな楠の脇に、古いながらも
凛とした佇まいのお堂がありました。
伝承では、安達盛長が建てた阿弥陀堂との事ですが、
1954年(昭和29年)に行われた解体修理の結果、
鎌倉中期に再建されたものだそうです。
それでも愛知県下で最も古い建造物で
国宝に指定されています。
史跡の多い愛知県ですが、国宝の建造物は
僅か3つしかなく、三河地方にある
唯一の国宝建造物です。
この建物はさすがに威厳を感じました。
ちなみに、この金蓮寺の阿弥陀堂を建てた際、
源頼朝は、三河に七つのお堂を建てたそうですが、
この金蓮寺阿弥陀堂以外は失われています。
こちらは金蓮寺の本堂です。
金蓮寺は、足利尊氏から約3.3ヘクタール(3町3反)の
寄贈を受け、戦国時代には東の丘の上に築かれた
饗庭城城主・饗庭妙鶴丸の祈願所にもなったそうです。
境内にあった井戸です。
饗庭城での茶の湯にも使われた
名水と言われています。
吉良吉田周辺の古寺
2011年11月、名古屋鉄道蒲郡線に乗車した際、
吉良吉田で下車し、近くのお寺を訪れました。
名古屋鉄道蒲郡線の乗車記はこちらです。
駅の改札が西側にあり、少し歩くと正覚寺がありました。
境内の案内板には詳しい由緒が書かれていませんでしたが、
元々は天台宗のお寺で、「開基の智教から十余代を経て、
蓮如
正覚寺の本堂です。
本堂は1758年(宝暦6年)に改築された後、
4回にわたって修繕を受けているそうです。
この正覚寺の墓地には吉良家の家老だった
左右田孫兵衛
左右田孫兵衛は吉良上野介義央公に仕え、
赤穂浪士討入の際にも吉良邸で戦っています。
息子の源八郎はその際に討ち死にしています。
生き残った孫兵衛は、高輪の泉岳寺から
上野介義央公の首級を受け取っています。
その後孫兵衛は、吉良家を米沢藩上杉綱憲の
次男・吉良義周が吉良家を相続した際に
義周公に従い諏訪高島藩に赴いています。
浅野長矩の凶行によって、大きく人生を
狂わされた犠牲者の一人です。
正覚寺を訪れた後、すぐ南にある
宝珠院に向かいました。
宝珠院は1463年(寛正4年)に創建されたお寺です。
比叡山の栄俊上人が十一面観音を祀り、
富士山の吉田口で修業を積んだ後に
宝珠院に戻り伽藍を整備したそうです。
地元の人々は、その故があり、このお寺を
吉田御坊と呼んだ為、この地が吉良吉田と
呼ばれるようになったとも伝わります。
本堂は1875年(延宝3年)に建てられたものです。
本堂の脇に草切観音がありました。
草切は草分けの意味で、栄俊上人がこの地に
草庵を築いた事に由来しているそうです。
その後、線路を渡り吉良吉田駅の
東側にある専長寺に向かいました。
専長寺は1471年(文明3年)に創建されています。
専長寺のご本尊は、鎌倉時代の三代将軍・実朝公が
亡くなられた後、妻の本覚尼が実朝公を弔う為に
創建した大通寺(京都南区)の本尊だったそうです。
明治の廃仏毀釈の後、誓願寺の末寺に安置
されていましたが、当時の住職が願い出て、
専長寺に祀られる事になったそうです。
専長寺の本堂です。
ガラス戸の向こうに運慶作の
そのご本尊が見えていました。
とても尊いお姿でした。
専長寺には入口の所に石仏もありました。
この古い石仏も趣がありました。