宇和島
Uwajima, Japan







宇和島は愛媛県南西部に位置する城下町です。
宇和海に面し、周囲を丘陵に囲まれ、
市の中心部は狭い平野に建物が密集しています。





宇和島は、1601年に藤堂高虎が築いた
宇和島城に伊達秀宗が1614年に入城し、
10万石の宇和島藩が成立して以来栄えたようです。

市内には、現存天守を有する宇和島城をはじめ、
宇和島藩の歴史にまつわる史跡が数多く残っています。



また宇和島は闘牛でも知られ、
市営の闘牛場もあるようです。


宇和島は、JR予讃線の終着駅で、
以前は何度か宇和島駅まで
列車に乗った事はあったのですが、
街を歩く機会はありませんでした。

しかし、2009年夏に宿毛からバスで宇和島に着き、
宇和島城や市内の史跡を訪ね歩きました。

その際の様子を紹介します。

宿毛からの宇和島バスの
乗車記はこちらです。





宇和島駅から宇和島城周辺
(Uwajima Sta. to Uwajima Castle)
Nov. 25, '12


宇和島城
(Uwajima Castle)
Nov. 23, '12


天赦園から神田川沿い
(Tensha En and along Kanda River)
Dec. 03, '12


伊達家廟所を訪ねて
- 大隆寺から等覚寺 -
(Dairyu-Ji Temple and Tokaku-Ji Temple)
Dec. 07, '12


和霊神社
(Warei Shrine)
NEW ! Dec. 09, '12





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宇和島駅から宇和島城周辺
(Uwajima Sta. to Uwajima Castle)



宿毛から宇和海の雄大な景色を眺め、
2時間掛けて宇和島駅に到着しました。

宿毛からの宇和島バスの
乗車記は
こちらです。

宇和島からの特急「宇和海」の
乗車記はこちらです。

しばらく、自然の景色を眺めた後では
宇和島駅のビルの様子は大都会の趣でした。



宇和島駅前には有名な闘牛の像と、
宇和島で最初に走ったケ220というドイツ製の
蒸気機関車が展示されていました。



この機関車が走っていたのは、
北宇和島から窪川に向かう予土線です。

この機関車は、♪汽笛一声 新橋を♪
で知られる鉄道唱歌が誕生して
100周年を記念して、展示されたそうです。


駅近くのホテルにチャックインした後に、
まずは宇和島城を目指しました。

宇和島駅から南に向かうと、宇和島城の
外堀だったと思われる辰野川を渡りました。



辰野川の畔には高野長英居住地がありました。



高野長英は江戸時代後期の蘭学者で、幕府の
異国船打払令に反対し、1839年(天保10年)の
蛮社の獄で投獄されてしまいます。

この後長英が脱獄した事は知っていましたが、
脱獄後に宇和島藩主・伊達宗城公に
庇護されたとは知りませんでした。


辰野川に沿って西に向かうと穂積橋がありました。

この穂積橋は穂積陳重の功績を
称えるために架けられた橋です。



穂積家は伊達家の譜代の家臣で、
陳重は日本で最初の法学博士です。

穂積陳重の功績を称えて銅像を建てる話が持ち上がった際、
「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」
との穂積陳重の遺言もあり、遺族もこれを
固辞されたというエピソードが残っているようです。

宇和島城の藤兵衛丸には、穂積陳重の生家の
長屋門が移築され保存されています。

この後、建物が立ち並ぶ宇和島の
中心街を抜け、宇和島城に向かいました。

宇和島城の登城記はこちらです。


小高い城山に築かれた宇和島城を散策し、
南側にある絡め手口から再び市街に戻りました。
絡手口に建つ上り立ち門の左手には
児島惟謙の銅像が建っていました。



児島惟謙は明治時代の司法官で、今の最高裁
長官に当たる大審院長を務めています。

ロシア皇帝が暴漢に切りつけらた大津事件の際には、
政府の圧力に屈せず、司法の独自性を
貫いた事で知られています。

江戸末期から明治にかけて宇和島からは
多くの人物が輩出されていますが、
これは幕末に四賢侯の一人と称された
伊達宗城公の藩政の影響でしょうか。


国道を渡ると、鉄道唱歌を作曲した
大和田建樹の生家跡がありました。



大和田建樹が生まれたのは幕末の1857年(安政4年)
の事で、お城に近いこの地が生家という事は
大和田建樹の家は上級武士だったのでしょうか。


この先に、南に進むと伊達博物館がありました。



宇和島市立の博物館で、宇和島藩主
伊達家の屋敷跡に建てられています。

右の写真は博物館前にあった「冠の柳」です。

これは宗城公が、1863年(文久3年)に孝明天皇のお供で
賀茂神社を参拝された際に、食事で出された肴の
折敷の柳の小枝を宇和島に持ち帰って鉢植えにし、
それが根付いたものだそうです。

博物館に入ると、すぐ右手に幕末の四賢候の
一人と称えられた伊達宗城公の像がありました。



元々は幕臣の家に生まれ、その後に
宇和島藩主伊達宗紀公の養子になったそうです。

高野長英以外にも長州からは村田蔵六(後の大村益次郎)を
招くなど積極的な藩政改革を行っています。

博物館の庭園は、かつてこの
屋敷にあった偕楽園の名残でした。



伊達博物館を訪れた後は、
すぐ隣にある天赦園に向かいました。

伊達博物館の白壁と門の様子です。



当時の伊達屋敷の面影が残っているようでした。



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天赦園から神田川沿い
(Tensha En and along Kanda River)



伊達博物館を後に向かったのは天赦園です。



伊達博物館から通りを一つ隔てたところにあるこの庭園は
伊達宇和島藩二代藩主の伊達宗利が造園した浜御殿を、
7代藩主・伊達宗紀が1868年(慶応3年)に池泉回遊式の
庭園として造ったものです。

天赦園に入ってすぐのところに、
かずら石がありました。



この石は、宇和島城追手門(=大手門)の
周囲にあった石だそうです。

宇和島城の追手門は、
国宝に指定されていたそうですが、
太平洋戦争で焼失してしまったそうです。

ここを抜けると、広々とした
天赦園の庭園が広がりました。



右手に見えている建物は
国指定の文化財・潜淵館です。

この天赦園は、約3,600坪もの敷地があります。
広い庭園の一角には臥竜梅もありました。



臥竜梅は、伊達政宗公が朝鮮出兵の際に
持ち帰った梅で、その後仙台城で育てられました。

この臥竜梅は、瑞鳳殿で植栽されている臥竜梅を
1999年(平成11年)に植樹したものだそうです。

仙台の瑞鳳殿の様子はこちらです。
仙台城の登城記はこちらです。

潜淵館の向こう側には、広大な池がありました。



なんとも言えない落ち着いた池の景色です。

この天赦園は、天に赦しを得て余生を楽しむ
というところから名付けられています。

伊達政宗が詠んだ、この句が基になっているようです。

馬上少年過 世平白髪多
残躯天所赦 不楽是如何



落ち着いた優雅な天赦園を巡った後、
宇和島の町の東側にある
伊達家墓所を目指して歩きました。

宇和島の街中で見かけた古い家です。



江戸時代からの佇まいが
そのまま残るような造りの家でした。

宇和島の町の南側を流れる
神田川沿いに東に向かいました。

この神田川も、宇和島城の外堀にあたります。



途中で佐伯橋がありました。
この橋の上では、明治4年に須藤頼明という武士が
泥酔した農夫にからまれた為、無礼討ちにするという
騒動が起きています。

この事件は、無礼討ち禁止令が出される直前の事で
日本史上最後の無礼討ちとされているようです。


観光客の姿も見かけず、地元の人と顔を会わせる度に
「こんにちは」と挨拶をしながら歩いていきます。

神田川に沿って歩いて行くと、村田蔵六
(後の大村益次郎)住居跡がありました。



大村益次郎は、今の山口県周防の生まれで
後に日本の近代兵制の基礎を
築いた人として知られています。

大坂の適塾で、緒方洪庵の下で蘭学を学びながら、
郷里で開業医をしていた益次郎を、伊達宗城公が
宇和島藩士としてこの地に招き、蘭学の教授、
兵書などの翻訳、藩の軍制改革、
軍艦の研究などをさせたそうです。

大坂の適塾の様子はこちらです。

大村益次郎が宇和島の地で暮したのは、
1853年(嘉永6)から1956年(安政3年)の
僅か2年半の事だったようですが、その間に、
シーボルトの娘・イネにも蘭学を教えるなど、
宇和島で残した功績は大きかったのではないでしょうか。


大村益次郎住居跡からも更に
神田川に沿って遡っていきます。



宇和島の東側の山々がかなり近づいてきました。

四国の夏は日没が遅いのですが、
次第に夕暮れの時間が迫ってきました。

途中で立ち寄った佛海禅寺です。



山門と鐘楼が立派なお寺でした。

この先にあった光国寺です。



光国寺の薬師堂は1608年(慶長13年)に
建てられたものが、移築されたものだそうです。
このお寺には中野逍遥のお墓もあるようです。


この先には、南予の一の宮とされた
宇和津神社がありました。



歴代の藩主も祈願した記録が残る由緒ある神社ですが、
社殿が老朽化したとのことで、1997年(平成9年)に
新しい社殿が竣工しているようです。



宇和島城から、かなりの距離を歩き、
脚も疲れてきましたが、伊達藩主廟所の
大隆寺ももうすぐです。



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伊達家廟所を訪ねて
- 大隆寺から等覚寺 -
(Dairyu-Ji Temple and Tokaku-Ji Temple)



宇和島城から天赦園、そして神田川沿いに歩き、
宇和島の街の東南の外れにある大隆寺にやってきました。



この大隆寺は臨済宗の古刹で、
1608年(慶長13年)頃の創建です。

伊達正宗の長子・伊達秀宗が宇和島に
移封されると伊達家の菩提寺とされました。



宇和島城と時間を掛けて散策したので
この大隆寺にやってきた時には既に
午後6時に近く、門は既に閉まっていました。

この大隆寺には、伊達家墓所があり、
そこを目的にやって来たのですが、
幸いな事に、塀の外側に墓地へと続く道がありました。



ここには、伊達家初代藩主・伊達秀宗公夫人と
五代・村候(むらとき)公、七代・宗紀(むねただ)公、
九代・宗徳(むねえ)公のお墓があります。


境内の外れに初代・秀宗公夫人のお墓がありました。



折れ曲がった参道の緩やかな上り坂を歩いて行くと
七代・宗紀公夫妻のお墓がありました。



藩主のお墓は立派な門構えの
奥に置かれとても荘厳です。

こちらは秀宗公二男の宗時公のお墓です。



梅雨の末期という時期に訪れたので、
藪蚊に刺されながらの参拝です。

そして、こちらは九代・宗徳公のお墓です。



立派なそして気品のある廟所です。

蝉時雨の中、墓地に佇んでいると、
他に訪れる人もなく、時間が止まったかの様な
ふと、異次元の世界に吸い込まれてしまう様な
不思議な感覚になってきました。

急に心細くなり、廟所を辞する事にしました。
参道を戻る時の様子です。



大隆寺の本堂の大きな屋根が、
現世に引きとめてくれる礎の様な、
安心感を与えてくれていました。


大隆寺からは、もう一つの伊達家
廟所のある等覚寺に向かいました。



大隆寺から等覚寺へは歩いて10分程の道のりです。
その途中で、宇和島城が遠くに見えていました。



お城から、父祖のお墓のあるこの辺りを、当時の
藩主は眺め、手を合わせていたのかも知れません。

宇和島城の登城記はこちらです。


静かな住宅地を抜け、等覚寺にやってきました。
立派な山門のあるお寺です。



この山門をくぐり、左手に折れると伊達家廟所があります。
その廟所の入り口です。



この奥には一番広い敷地に伊達家
初代藩主・秀宗公のお墓がありました。



伊達正宗公の長子で、一時は秀吉の人質となり、
大坂の陣で功績をあげ、宇和島藩主として
10万石の領地を得ています。

この秀宗公のお墓の近くには、
殉死した4名の近臣のお墓もありました。

こちらは四代藩主・村年公のお墓です。



等覚寺は宇和島の市街にも近く、
藩主の廟所は明るい雰囲気でした。

この等覚寺には、本堂の東側にも、
二代、三代、六代そして八代藩主の
お墓もあったのですが、そちらには行きませんでした。

今思うと、幕末の四賢候と称えられた
八代藩主・宗城(むねなり)公のお墓は
詣でておきたかったと、残念です。



等覚寺の墓地から眺めた山門の様子です。


等覚寺から宇和島駅前のホテルに戻る途中でも
遠くに宇和島城が見えていました。



小高い城山の上のこじんまりとした
現存天守がとても印象的でした。



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和霊神社
(Warei Shrine)



宇和島城や天赦園、そして伊達家墓所を巡った次の日、
宇和島駅近くにある和霊神社に向かいました。



この日は、朝から良く晴れていました。

駅前のホテルから15分程歩いて、
須賀川の畔の和霊神社に辿り着きました。



和霊公園を抜けると、須賀川の向こうの
丘陵の麓にある和霊神社が見えていました。

須賀川の手前にある大きな鳥居は、
石造りの鳥居としては日本一の大きさだそうです。



須賀川の向こうには立派な神門が建っています。
須賀川沿いには、城郭と見まがうような
立派な石垣が築かれていました。

神門を抜け、境内を進むと
立派な石段が見えてきますが、
まずはその奥にある社を訪れました。



左の写真は竈神社、その前に神馬社、
御井社などの社が建っていました。


これらの社に詣でた後、
石段に戻り本殿に向かいました。



和霊神社が建立されたのは、1653年(承応2年)です。
創建者は伊達家宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗公、
祀られているのは、彼の家老だった
山家公頼(やんべきんより)です。

和霊神社の拝殿です。



この和霊神社の建立には、宇和島藩創立期に
起きた和霊騒動が大きく関わっています。


伊達秀宗公は、伊達正宗の長子です。
移封前に悪性が続いていた宇和島藩の運営に際し、
伊達正宗は57名もの家臣を派遣していたそうです。

その筆頭家老が山家公頼で、彼は藩政を支えていましたが
秀宗公は諫言を信じ、公頼を殺害させてしまいます。

その後、殺害に関わった者が次々に変死し、
秀宗公も病に臥す事になったため、
その霊を鎮める為に、この神社を創建したそうです。



尤も、この和霊神社を訪れた際には、
この宇和島伊達藩の騒動の事は全く知らず、
境内に掲げられた牛の絵馬に気を取られていました。


和霊神社は、元々は山家公頼の
屋敷跡に建てられたそうです。

宿毛から宇和島に向かったバスからも
和霊神社を見かけたのですが、こちらが
山家公頼邸跡の和霊神社だったようです。



宿毛からの宇和島バスの
乗車記はこちらです。


また、この日訪れた和霊神社の前にある
和霊公園には、C12型蒸気機関車が
展示されていました。





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