仙台駅〜片平丁界隈
(Sendai Station and Katahira-cho Area)
この仙台駅の駅舎は、僕の心の中では、
仙台の記憶と強く結びついています。
大学入学を控え、大学の様子を
調べに初めて仙台に来た時、
大学入学の為に一人暮らしを始めた時、
この仙台駅が出迎えてくれました。
国鉄の全線に乗車しようと、
旅立ったのもこの仙台駅でした。
そして、仙台駅前に延びる青葉通り。
ケヤキ並木が続き、杜の都を象徴する景色です。
仙台市内には、この他にも青葉通りに平行して、
広瀬通、定禅寺通りとケヤキ並木の
美しい通りが並んでいます。
このケヤキ並木はクリスマスには、
並木通り全体をイルミネーションとした
光のページェントと呼ばれるイベントが催されています。
落葉したケヤキに何十万もの
電灯が輝く様子はとても綺麗です。
この写真は仙台駅前の青葉通りの様子、
そして下の写真は定禅寺通りの様子です。
多くの人がケヤキ並木の下を歩き、
クリスマスの様子を楽しんでいました。
その近くには、夏には七夕の飾りが揺れる
一番丁商店街があります。
写真はクリスマスの時のものですが、
またいつか、七夕の時期に
この一番町を歩いてみたいです。
♪七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず
夜空 輝く星に 願いをこめた君の囁き
時はめぐり また夏が来て あの日と同じ 七夕飾り
葉ずれさやけき 杜の都 あの人は もういない♪
大学に入る前の年にヒットした青葉城恋歌は、
青春を過ごした仙台の想い出の曲です。
青葉通りを西に向かって歩くと
晩翠草堂があります。
明治中頃に活躍した仙台出身の歌人・
土井晩翠が晩年をすごした居宅です。
「荒城の月」の作詞者、土井晩翠。
その家は質素なものでした。
晩翠が「荒城の月」の着想を得た
仙台城、会津若松城の様子はこちらです:
仙台城
会津若松城
晩翠草堂から南に向かった
あたりの街の様子です。
2007年12月に仙台に行った際の
少し遅めの紅葉の様子です。
五橋通り沿いに小さな神社がありました。
馬上蛎崎神社です。
伊達政宗公に仕えた後藤信康が
五島という愛馬を正宗に献上したものの
大阪の陣の際に、その馬が随行されなかった
事を悲しみ、飛び降り自殺してしまったそうです。
それを悼み、この神社が建てられたそうです。
この神社の脇には良覚院丁公園があります。
良覚院は伊達政宗が1602年(慶長7年)に岩出山から
仙台に居城を移した時からこの地にあった寺院です。
今でも池泉回遊式庭園が残されているそうです。
この時は朝早く、まだ開園していなかったので
土塀越に色付いた木々を眺めていました。
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経ヶ峰・瑞鳳殿
(Kyogamine Zuihouden)
仙台市内を流れる広瀬川。
仙台城(青葉城)の真下を削るように
流れた後は大きく蛇行していきます。
その蛇行する広瀬川に囲まれるように
ひっそりと森が広がっています。
この経ヶ峰の森には二代藩主・伊達忠宗公によって
藩祖・伊達政宗公の菩提寺として創建された瑞鳳寺、
政宗公の眠る瑞鳳殿、忠宗公の霊屋・感仙殿、
そして三代藩主の伊達綱宗公の眠る
善応殿などが点在しています。
仙台の中心部から、評定河原橋を渡り、
この経ヶ峰に向かいました。
こんもりとした経ヶ峰の麓に
ひっそりと瑞鳳寺の山門がありました。
二代藩主・忠宗公が伊達政宗公の
菩提寺として創建されたのは1637年(寛永14年)。
伊達正宗公が亡くなった翌年に建てられています。
この山門は東京・白金町の伊達屋敷の門を模して
1971年(昭和46年)に建てられたそうです。
境内には、小さなお地蔵さんが並んでいました。
紅葉も綺麗で、落ち着いた境内の雰囲気に
すっかり魅せられてしまいました。
本堂の前にある高尾門と、本堂の様子です。
この瑞鳳寺のご本尊の釈迦、文殊、普賢の
仏さまは、平泉の毛越寺から遷したものだそうです。
毛越寺の様子はこちらです。
本堂の脇に置かれている梵鐘は
二代藩主・忠宗公の命で、1637年(寛永14年)に
鋳造され、重要文化財に指定されているそうです。
瑞鳳寺から坂道を登ると、伊達政宗公の
眠る瑞鳳殿へと行けるのですが、その前に、
公子公女廟(御子様御廟)に立ち寄りました。
この廟所は1713年以降に設けられた墓所で
5代藩主・伊達吉村公以降の藩主の若くして
亡くなった公子公女が埋葬されています。
ここはあまり訪れる人もなく、
森の中にひっそりとしていました。
公子公女廟を訪れた後に、
いよいよ瑞鳳殿へと向かいました。
杉木立の階段を上っていきます。
瑞鳳殿は戦災で焼失してしまっていますが、
この階段は戦災を免れ、江戸時代からの
ものが残っているそうです。
杉木立も樹齢370余年だそうです。
階段を上ると、紅葉の綺麗な
瑞鳳殿に辿り着きました。
これは瑞鳳殿の正門にあたる
涅槃門です。
菊の御紋が付いた門です。
伊達政宗が豊臣秀吉から下賜されたものを
伊達家の家紋として用いたものだそうです。
普段は閉まっている涅槃門の脇から
階段を上り瑞鳳殿に向かいました。
威風堂々とした門の向こうに
瑞鳳殿が控えています。
伊達政宗が眠る瑞鳳殿は
豪華絢爛な建物でした。
日光東照宮を彷彿とさせるようです。
1931年(昭和6年)に国宝に指定されていたのですが、
第二次大戦の戦災で1945年(昭和20年)に
惜しくも焼失してしまいました。
これは1979年(昭和54年)に再建され、
2001年(平成13年)に改修されたものです。
この絢爛な装飾をされていた瑞鳳殿の建物が
戦争で焼失してしまったのは、誠に残念です。
瑞鳳殿から二代藩主忠宗公廟所・感仙殿と
三代藩主綱宗公廟所善応殿に向かいました。
この二つの廟所は瑞鳳殿からは
少し離れたところにあります。
紅葉のトンネルを抜けて
そちらに向かいました。
瑞鳳殿と小さな丘をはさんで、
向かい合うように建つ感仙殿です。
ひっそりと佇む涅槃門がありました。
この涅槃門の奥に感仙殿があります。
感仙殿も豪華に装飾されていました。
この煌びやかな霊屋を眺めていると
伊達藩62万石の財力に驚いてしまいます。
この感仙殿も瑞鳳殿と同じく、
第二次大戦で焼失してしまいました。
復元されたのは1980年(昭和60年)です。
感仙殿の脇には、いくつかの
寶筺印塔がありました。
これは忠宗公に殉死した家臣12名、
陪臣4名のお墓だそうです。
そして、感応殿の奥に善応殿が建っています。
感仙殿、善応殿とも2007年(平成19年)に
改修され、往事の鮮やかな彩色が
蘇っていました。
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経ヶ峰〜大橋周辺 - 広瀬川に沿って -
(from Kyogamine to Ohashi along Hirose River)
経ヶ峰から広瀬川に沿って
仙台城大手門跡へと繋がる
大橋を目指しました。
経ヶ峰は、広瀬川に深く削られ、
経ヶ峰にある伊達政宗の霊廟、
瑞鳳殿はしっかり護られているようです。
仙台市街の西側を流れる広瀬川は
大都市を流れる川とは
思えない程の清流です。
♪広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬躍る光に 揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て あの日と同じ 流れの岸
瀬音ゆかしき 杜の都 あの人は もういない♪
青葉城恋歌のこのフレーズを
つい口ずさんでしまいそうな、
広瀬川の流れでした。
この先で広瀬川に架かる大橋を渡ります。
大橋から仙台市街の方に
少し入ったところからの眺めです。
広瀬川の向こうに青葉山が見えてきます。
青葉通りから続くこの道を西に向かうと
大橋をわたり、仙台城へと行くことが出来ます。
この道は、大学への通学で通っていたので、
とても懐かしい光景です。
石の欄干の向こうに青葉城址
(正式名:仙台城)が見えています。
そして、大橋からの広瀬川の眺め。
朝陽に川面が輝いていました。
正面に見える森が瑞鳳殿がある経ヶ峯です。
大橋から右手に仙台国際センターを見ながら
坂道を上っていくと左手に隅櫓が見えてきます。
この隅櫓の脇の道を登っていくと
仙台城(青葉城)の本丸跡です。
仙台城の様子はこちらです。
そして、この隅櫓の近くには
支倉常長の像がありました。
支倉常長ら一行は、メキシコとの貿易と
キリスト教の布教を望む伊達政宗の命を受け、
宗主国・スペインに貿易の許可と、
ローマ法王に宣教師の派遣の交渉の為に
ヨーロッパに渡りました。
1613年のことで、帰国までに
7年もの年月を費やしています。
これは「慶長遣欧使節」として知られていますが、
支倉常長らが出国した後、徳川幕府が
キリシタン禁止令と鎖国令を出した為に、
彼らの業績は、明治になるまで
知られる事は無かったそうです。
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大崎八幡周辺
(Ohsaki Hachiman Shrine)
支倉常長の像のある、旧仙台城二の丸は
現在は東北大学川内キャンパスになっています。
そのキャンパスを抜け、北に向かうと
再び広瀬川を渡ります。
左側の崖の上が東北大の川内キャンパスです。
広瀬川が天然の要害になっていた事がわかります。
広瀬川を渡ったところが八幡の町。
この東側に知事公舎があり、ここに
仙台城の城門が移築されています。
昔ながらの商店が点在する細い道を
歩いて知事公舎に向かいました。
この城門は四脚門という形式の門ということです。
残念ながら城内のどこにあったのかは
はっきりしていないそうです。
仙台城の様子はこちらです。
知事公舎からは西に歩き、
龍宝寺を目指しました。
大学生活の最後の2年間は龍宝寺の
すぐ近くに住んでいたので、当時の事を
とても懐かしく思い出しました。
山形へ通じる国道48号線を横切り、
龍宝寺へと向かいました。
この龍宝寺は平安時代に創建され、
1186年(文治2年)に伊達家の祖・伊達朝宗公が
伊達家の祈願寺とした古刹です。
伊達家の拠点が変わるたびに、
この龍宝寺もその場所を変えていましたが、
1598年(慶長3年)に、伊達政宗により
今の場所に移創されています。
龍宝寺の境内の様子です。
今ではさほど広くはない境内に
多宝塔や本堂が建っているだけですが、
江戸時代には480石の石高を授けられ、
大崎八幡宮も龍宝寺の別院だったそうです。
龍宝寺から大崎八幡宮へ向かう
途中で見つけた紅葉の様子です。
龍宝寺のすぐ裏の杜が大崎八幡宮です。
1604年(慶長9年)に伊達政宗の仙台開府により
岩出山からこの地に移るべく工事が始まり、
1607年(慶長12年)に遷座祭が執り行われたそうです。
岩出山の様子はこちらです。
赤い一の鳥居を抜け、
石製の二の鳥居へと向かいます。
二の鳥居の後ろに見える小さな橋は
旧四谷用水に架かる橋です。
旧四谷用水は江戸時代初期に整備され、
仙台の城下町を支える貴重な
水源になっていたようです。
広瀬川上流の郷六から取水し、総延長7.3km
にも及ぶ上水道が整備されていたそうです。
そして、その先には急な階段が続いています。
大石段と呼ばれるこの石段は、慶長時代に
大崎八幡宮が創建されて以来のものだそうです。
石段を登ったところにある三の鳥居です。
1718年(享保3年)、時の藩主・伊達吉村公に
よって寄進されたものだそうです。
鳥居に掲げられている「八幡宮」の字は
吉村公の直筆ということです。
三の鳥居をくぐり、しばらく歩くと石段をあがり
長庄と呼ばれる建物が見えてきました。
この長床はいつ建てられたのかは、
はっきりしていないそうですが、
17世紀初期に大崎八幡宮がこの地に
遷座した時に建てられたものといわれています。
質素な造りの長床の前を箒を持って
掃除している巫女さんの姿が印象的でした。
この長床の奥に、国宝の社殿があります。
1604年(慶長9年)から12年の歳月をかけて
建てられた権現造りの本殿です。
この社殿を建てるために、畿内から
名工が仙台に呼ばれたということです。
樹齢約400年の高野槙と
江戸中期に作られたお神輿です。
神馬舎を眺め、参堂の
階段を下りていきました。
先ほど翳っていた陽が差し込んできました。
二の鳥居の脇にある公孫樹の落葉が
黄色い絨毯のように輝いていました。
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