知覧への道
(The way to Chiran)
知覧は薩摩半島の南部、鹿児島市から
南南西に25km程離れた所にあります。
鹿児島の旅行記はこちらです。
鹿児島市内から知覧へは鹿児島交通がバスを運行しています。
一日12往復で、鹿児島中央駅前からの所要時間は1時間15分です。
初めの予定では鹿児島中央駅前を8:07発のバスで直接行く予定でした。
ところが、30分近くも前に駅に着いてしまっので、
鹿児島市交通局の路面電車で、谷山まで行く事にしました。
路線図を見ると知覧行きのバスは鹿児島市内でも小まめに停車し、
路面電車の終点の谷山にも停まります。
途中のバス停の通過予定時刻が判らなかったので、
ちょっとした賭けなのですが、谷山で10分程は
余裕を持って乗り継げるとの読みです。
鹿児島中央駅前から路面電車で谷山に向かうには
途中の郡元で乗り継ぎが必要です。
郡元での待ち時間が思っていた以上に長く、
なかなか現れない谷山行きの電車にちょっと心配になってきました。
鹿児島市交通局の路面電車乗車記はこちらです。
谷山に着いてみると、路面電車の停留所前には
鹿児島交通のバス停は見つからず、
慌てて近くの国道まで出てみました。
そこでもバス停は見当たらず、500m程離れた
JR谷山駅の方向に歩きだしました。
少々心配になりかけた頃、谷山駅前のバス停を見つけました。
バス停の時刻表では、5分程の余裕がありましたが、
遅れてやってきたバスを見て、やっとホッと出来ました。
谷山を出て、住宅地を抜けると、右手から次第に山が迫り、
錦江湾との間の狭い平地をJRの線路と並んで走るようになりました。
薩摩半島は、その背骨となる山並みが
半島の東側の海岸線近くに南北に走っています。
標高は500〜600m程ですが、海岸から近いので、
走っているバスからは、山を見上げるような感じです。
いよいよ山が迫り、錦江湾を眺めながら
岬を横切る様になりました。
平川で指宿に向かう国道と別れました。
JR平川駅の脇を抜けると山に取り付き、
カーブを続けながら峠を目指してます。
カーブの途中で錦江湾の眺めが開けてきました。
海岸近くから一気にこれだけの眺めが楽しめるのは、
勾配に弱い鉄道では味わえない、バスの旅ならです。
しばらくカーブが続く道を走り、木々の間から遠く
喜入の石油備蓄基地も見えるようになりました。
やがて手蓑峠を越えると、景色は一変し、
なだらかな山間の景色となりました。
時折ススキの穂がなびき、柿が生っている
のどかな景色が広がります。
やがて、急に家が建ち並び、知覧の町に入りました。
バスを降りたのは、武家屋敷入り口の次の中郡のバス停です。
バスの通る道の南側に武家屋敷の残る小道が
東西に伸びているのですが、中郡は
その西に外れたところにあります。
知覧武家屋敷群に行こうとバス停を降り、
少し戻りかけると古びた食堂がありました。
この食堂は、戦時中に知覧に特攻隊の基地が置かれた際に
軍の指定食堂となった富屋食堂を復元した資料館です。
「富屋食堂」と一昔前の字体で看板が掲げられ、
「たばこ」の文字が右から書かれていました。
この食堂の先には、麓川が流れています。
この麓川を渡った東側に知覧の武家屋敷群があります。
入り口の商店で入園料を支払い
武家屋敷群の散策を始めようと思ったのですが、
南・知覧城址と書いた道路標識が目に入りました。
知覧に来た目的の目的の一つには知覧城址の訪問も含まれています。
その標識を見て、まずは知覧城址を目指す事にしました。
知覧城址はこちらです。
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知覧武家屋敷群 -1-
(Samurai Houses in Chiran)
知覧城址を訪れた後、知覧の武家屋敷群を散策しました。
この武家屋敷群には是非訪れたかったので、
2泊3日の短い鹿児島旅行でしたが、
知覧行きをスケジュールに組み込みました。
でも、慌しいスケジュールで、知覧城から戻ると、
予定していた鹿児島行きのバスの時間まで
1時間弱しかありませんでした。
知覧の武家屋敷群は、バスの通る道から一本入った
東西に伸びる本馬場通りに沿った500m程の区間にあります。
薩摩藩は、江戸時代に一国一城令が出された後も、
藩内の各地に麓と呼ばれる外城を持ち、
知覧もその一つだったそうです。
知覧に残る武家屋敷群は、島津姓を名乗る事を許された
佐多氏16代島津久達(1651〜1719)の時代か、
18代視島津久峯(1732〜1772)の時代のものだそうです。
西側から本馬場通りに足を踏み入れました。
通りを一歩入ると、路地の両側に低い石垣が並び、
その上には綺麗に剪定された植木が続いています。
時代が一気に数百年も昔に戻ったような雰囲気になります。
知覧は、薩摩藩の麓の中でも、最も当時の様子が残っていて、
この武家屋敷群は1981年(昭和56年)に国の重要伝統的
建造物群保護地区に指定されています。
その武家屋敷群の中の7つの庭園は
国の名勝に指定されています。
本馬場通りを歩きながら、それらの庭園を訪ねてみました。
まずは、西郷恵一郎氏庭園です。
立派な門構えを潜り、庭先へと向いました。
そこには石組と庭木のしっとりした庭園が広がっていました。
知覧武家屋敷庭園保存会のパンフレットによると
真ん中の石組みが高い峯を表しているそうです。
また高い石組みを鶴に見立て、手前に低く配置されている
石は亀を表す、鶴亀の庭園とも言われているようです。
静かな庭園を眺めていると、心が安らぎます。
西郷恵一郎氏庭園の斜め向いにあるのが
平山克己氏庭園です。
西郷邸と同じ様に立派な門をくぐり
庭先へと向かうと、広々とした庭園でした。
遠くの山を借景とし、丸く刈り込んだ植木が
空間の広がりを表しているように感じました。
この次は、平山亮一氏庭園です。
イヌマキの曲線を持った生垣の切り込みは山を、
手前のツツジは築山を表しているようです。
平山亮一氏庭園を出て、更に本馬場通りを
東に向かって足を進めました。
通りの両脇に続く低い石垣と、波を打ったような
生垣の組み合わせが、とても良く合って
独特の雰囲気を作り出しています。
しっとりと雨に濡れた道の表面が一層
その雰囲気を引き立てているように思います。
その先の、稽古所跡の小さな石碑のある
角を折れると萱葺きの屋敷が見えてきました。
二ツ家と呼ばれる民家で、おもてと呼ばれる主屋と
なかえと呼ばれる付属屋を小さな
棟で繋いだ構造になっています。
ここの庭先では、お土産物の販売がされていて、また
主屋の縁側で「あくまき」という薩摩名物のお菓子と一緒に
知覧茶を飲んでゆっくりと時を過ごす事が出来ます。
「あくまき」は、黄な粉につけて食べるお菓子ですが、
戦国時代には兵糧として用いられていたようです。
知覧はお茶の産地です。
縁側に座り庭を眺めながら頂いた
知覧茶はとても美味しかったです。
この二ツ家の雨戸にはちょっとしたカラクリがあります。
ご主人に、「あくまき」の話を伺ったりするうち、
多くの観光客が集まり出すと、ご主人が
そのカラクリを披露して下さいました。
香川の栗林公園にも同じカラクリのお屋敷があるそうです。
栗林公園の旅行記はこちらです。
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知覧武家屋敷群 -2-
(Samurai Houses in Chiran)
二ツ家で、ゆっくりした後、再び武家屋敷群の散策です。
本馬場通りは、どこまでも石垣とイヌマキの生垣が続き、
江戸当時の雰囲気に浸る事が出来ます。
案内板が高札のように建てられていました。
この案内板を少し行った左手にあるのが、
佐多美舟氏庭園です。
白壁の蔵もある広い庭です。
そこを右手に折れると、庭園が現れました。
この佐多美舟氏庭園は、7つの庭園の中で
最も広く、豪華な庭園とのことです。
午前中の早い時間には、あまり他の
観光客の人も見かけませんでしたが、
お昼も近づき、観光客も増えてきたようです。
次は、向かいの佐多民子氏庭園です。
訪れている人が多く、庭全体の写真が取れなかったので、
雰囲気があまり伝わっていなくて、残念ですが、
ゆるやかな曲線を描く石が置かれ優雅な雰囲気でした。
佐多民子氏庭園の東隣が、佐多直忠氏庭園です。
ここも立派な門をくぐるのですが、門を入ると
門の中にも塀のように高く石垣が組まれていました。
ここの庭園は、中央に大きな岩が立ち
スケールの大きさを感じます。
知覧の庭園は、どこもイヌマキの生垣を背景にしていますが
夫々に意匠を凝らし違った趣があります。
佐多忠直氏庭園を見学し、さらに東に歩いていくと
再び、萱葺き屋根の家が見えてきました。
ここは、旧高城家住宅です。
二ツ家と同じ、おもてと呼ばれる主屋と
なかえと呼ばれる付属屋を小さな棟で
繋いだ構造になっています。
旧高城家住宅の案内板によると、
江戸時代の武家屋敷だったこの家には、
おとこ玄関と、おんな玄関の二つの玄関があったそうです。
当時の男女の差別は、今では考えられない程だったようです。
旧高城家の裏は麓川に面しています。
朝には路面も濡れ、曇っていた空も
いつしか晴れ上がり、日が差してきています。
麓川を望む景色は、開放感があり
こころ和む景色でした。
この旧高城家に隣接して高城庵という食堂があります。
予定では、お昼前のバスで鹿児島に戻る予定でしたが、
ゆっくり散策していたので、間に合いそうもありません。
予定を変更して、午後のバスで戻ることにして、
高城庵でお昼を食べることにしました。
高城庵は本馬場通りの東の端にかなり近いところにあります。
高城庵のすぐ先で、道はT字路となっていました。
その路地の向こうに蔵が見えています。
この路地の景色は、昔見たことのあるような
不思議と、とても懐かしさを覚える景色でした。
ここは森重堅氏庭園です。
他の庭園とは異なり、池を配した庭園となっています。
森重堅氏庭園は、知覧城の支城だったという
亀甲城の麓にあります。
この知覧武家屋敷群は、亀甲城の城下町だったと思います。
その亀甲城址に向かう為、先ほどのT字路に戻り、
知覧武家屋敷群の南に向かって行きました。
通りを一歩出ると、田畑が広がっていました。
ここから眺める武家屋敷群は、
のどかな農村のような雰囲気でした。
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特攻平和会館・ミュージアム知覧
(Musiums in Chiran)
武家屋敷群と亀甲城の訪問を終え、
再び本馬場通りを戻ると、丁度、
知覧観音入り口行きのバスの発車時間になりました。
このバスに乗って、終点の知覧観音入り口に行くと
40分程の待ち合わせで、折り返しの
鹿児島行きバスに乗ることが出来ます。
この40分間で、近くにある知覧特攻平和会館と
ミュージアム知覧に行く事にしました。
知覧は、第二次世界大戦末期に特攻基地が置かれた町で、
ここから、若い兵士が操縦する片道分の燃料だけを
積んだ戦闘機が飛び立ったという悲しい歴史があります。
知覧観音入り口でバスを降りると、
灯篭が並ぶ平和記念通りに沿って進んでいきます。
この博物館は知覧へ観光に訪れる人の一番多い施設です。
知覧の武家屋敷群の訪問者の3倍近い方が訪れているようです。
平和記念通りに隣接している駐車場には
大型バスが何台も停まっていました。
知覧特攻平和会館はこの先の町民会館の隣にあります。
特攻平和会館の前には、特攻隊の制服を着た人の像と、
当時の零戦が置かれています。
また、平和を祈願する鐘も置かれています。
この知覧特攻平和会館を訪れ、
当時の政府によって騙され、将来のある尊い命を
落とした人が何千にもいた事には、
いたたまれない気持ちがしました。
あの愚行を二度と繰り返さない為に
どうしたらいいのか?を常に、心に
刻んでおかなかればと思いました。
時間もあまりなく、早々に特攻平和記念館を引き上げ、
その奥にあるミュージアム知覧に向かいました。
こちらは古代からのこの地方の歴史や
風土を真面目に捉えた博物館です。
午前中に出掛け、城址碑の前で佇んでいただけの
知覧城の模型や、武家屋敷群の
ジオラマも展示されています。
バスの発車時間も近づき、こちらの博物館も
大急ぎで見学する事になってしまいました。
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