高松
Takamatsu, Japan
栗林公園飛来峰からの眺め
高松はその昔、宇高連絡船で四国入りする時の玄関口でした。
当時は、連絡船を受けて、高松発の特急列車や急行列車が、
四国の他の地域に向けて相次いで発車していったものです。
僕も2度ほど連絡船で四国入りした事があるのですが、
連絡船を下りると、駅で讃岐うどんを食べて、
次への目的地に向かう列車に乗り込み、
高松市内に足を踏み入れることはありませんでした。
時は移り、瀬戸大橋が開通し、岡山からの特急列車が松山、
高知、そして徳島へ直通するようになると、
高松へ向かう足が更に遠のいてしまっていました。
そんな高松ですが、市内には屋島をはじめ、
高松城址の玉藻公園や栗林公園といった名勝・名跡があります。
「琴電」に乗りに行った際、高松市内の観光をしてきました。
屋島の様子はこちらです。
高松琴平電鉄 志度線の様子はこちらです。
まずは、高松駅前の玉藻公園を目指しました。
玉藻公園は、高松城址を公園として整備したものです。
高松城は海を天然の要害として建てられた水城です。
公園に入るとすぐに、海水を引き入れたお堀の奥に
天主台に建てられたお社が見えてきました。
この高松城が建てられたのは1590年頃だったようです。
初代城主は、豊臣秀吉の家来の生駒親正(ちかまさ)
この生駒家が4代続いた後、下館藩松平氏が
高松藩を治めるようになったそうです。
城郭の中に、披雲閣と呼ばれる建物がありました。
大正6年に建設されたのですが、江戸時代には
この場所に、高松藩の藩政を司る建物があったそうです。
往事の建物は、現存する建物の2倍の大きさがあったそうですが、
この建物を眺めながら当時を思い浮かべていました。
江戸時代から現存する月見櫓を眺めた後、
天主台に向かいました。
丁度、胡弓を練習している人たちがいて、
時を越えて流れるような胡弓の音色が響いていました。
天主台からは瀬戸内海を行きかう船が間近に見えました。
高松城の天主閣は明治17年(1884年)に取り壊されたそうです。
天守閣の跡に建つ社は、この高松に移封された
下館藩主・松平頼重公を祀ったものだそうです。
往事の主要な建物の多くが取り壊されていますが、
現存するのは、月見櫓や下の写真の
艮櫓(うしとらやぐら)など数棟だけです。
高松琴平電鉄の車窓から見た艮櫓
琴電の志度線・長尾線に乗車した翌朝、
琴平に向かう途中、栗林公園に行ってきました。
その栗林公園は、琴電琴平線の栗林公園駅から
西に徒歩10分ほどのところにあります。
これは公園の東門の写真です。
紫雲山を借景に、6つの池と13の築山が築かれているそうです。
公園の広さは、約75ヘクタール(約23万坪)。
数字を聞いてもうまくイメージ出来ない程、広々としています。
庭園の南側に見所が集まっているようなので、
そちらに行ってみました。
手入れの行き届いた芝生に、
形の整った松が生い茂っていました。
庭園を歩くうち、6つある池のうち一番南にある
南湖のほとりにある掬月亭に辿りつきました。
栗林公園は、高松藩の下屋敷の庭園を明治8年
(1875年)に一般公開したのが始まりです。
南湖は、栗林公園の中で一番最初に造園され、
1625年頃の事だそうです。
栗林公園の庭園は廻遊式大名庭園と呼ばれる様式で、
自然溢れる広大な敷地の中の池泉や築山を巡り歩くことで
色々な景観を楽しむ事が出来るようになっているとのことです。
昭和28年(1953年)には国の特別名勝に指定されたそうです。
そして、南湖のほとりを散策し、飛来峰と
呼ばれる展望台に向かいました。
紫雲山を背景に南湖とそれに架かる偃月橋の眺めは
息を呑むような感じで、いつまでも眺めていたい景色でした。
飛来峰の近くには、南湖から流れ出る
せせらぎに菖蒲の花が咲いていました。
そして、こちらは北湖を望む芙蓉峰です。
芙蓉峰からの眺めも素晴らしい眺めでした。
梅林橋の赤い色がいいアクセントになっていました。
栗林公園は、その規模といい、景観の美しさといい、
日本三名園に勝るとも劣らない素晴らしい名園だと思いました。