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Shane旅日記
鉄道旅行へのいざない



鹿児島
Kagoshima, Japan








鹿児島市は、鹿児島県の県庁所在地ですが、
僕にとっては、鹿児島というと薩摩藩の
藩庁というイメージが強い街です。

鎌倉時代に薩摩・大隈国の守護職として任命された島津氏が
これらの地を治め、その後、戦国時代に
九州一円を支配する程の強国となった島津氏。
江戸時代にも薩摩藩は藩内鎖国政策を敷き、
諸藩に比べると、より独自性を出していたように思います。

その薩摩藩(正式名称は鹿児島藩)の藩庁だった鹿児島に
2006年11月に行ってきました。
その時の様子を紹介しようと思います。




城山界隈 (Shiroyama)
Jan. 21, '07


仙巌園 (Sengan-En) 
Jan. 22, '07


鹿児島城(鶴丸城) (Kagoshima Castle)
NEW! Jan. 30, '07


加治屋町〜天文館界隈 (Downtown Area)
Jan. 24, '07





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城山界隈
(Shiroyama)

鹿児島は日本の歴史、特に幕末には
日本史に大きな影響を与えた街ですが、
鹿児島といえばやはり桜島でしょう。

九州新幹線で鹿児島中央駅に着き、
まず、城山を目指しました。
城山は、鹿児島市の中心部に近い
標高107mの高台です。

九州新幹線の乗車記は
こちらです。





城山の駐車場でタクシーを下り、展望台へと急ぎました。
遊歩道を歩き、木々の茂みの間を抜け展望台に辿り着くと、
急に展望が開け、目の前に桜島が現れました。



傾きかけた日差しを浴びる桜島の姿が
目の前に迫って来ています。
その雄大な姿に息を呑む思いです。

眼下には鹿児島の市街地も見えています。



城山からの素晴らしい眺めに
しばらく佇んでいましたが、
晩秋の陽が傾いてしまわないうちにと
去りがたいこの展望台を後にしました。

次に向かったのは、西郷洞窟です。
幕末の薩摩藩を代表する偉人・西郷隆盛の
最期の史跡を巡ろうと思います。

城山の駐車場から、鹿児島の観光名所を巡回する
「カゴシマシティビュー」で次の停留所が西郷洞窟前です。
写真は「カゴシマシティビュー」のバスです。



城山からトンネルを越え、ヘアピンカーブを
いくつか曲がった谷間に西郷洞窟がありました。

西郷洞窟は、西南の役で敗勢になった西郷隆盛が
政府軍に囲まれ最後の5日間を過ごした洞窟です。



時は、1877年(明治10年)9月のことです。
洞窟とはいうものの、狭く、湿気ぽい洞穴です。

この洞穴に、江戸幕府を倒す功績を挙げた一人
西郷隆盛が夜露を偲んで数日も潜んでいたと思うと
何とも言えない思いが募ってきます。

1877年9月24日の早朝、死を決した西郷隆盛は
この洞窟を出て、谷を下ったそうです。
その道を辿ってみる事にしました。

急な下り坂が続くのですが、西郷洞窟の
すぐ下から住宅やマンションが続き、
やがて鹿児島本線の線路がトンネルを抜けて
右下の切り通しに見えてきました。

やがて山間を抜け、交通量の
多い通りとの交差点に出ました。



この山間の道を、西郷が歩いたのです。
死を決意した西郷隆盛は、どのような
思いをしながらこの道を歩いたのでしょうか。

近くに西郷隆盛終焉の地があります。
道を尋ねながら、その地に向かいました。

西郷隆盛終焉の地は、先ほどの交差点から
少し先に入ったところにありました。



西郷隆盛は、洞窟を出て300m程歩いた
この地で、二発の銃弾に斃れたということです。

終焉の地は思ったよりも広い敷地に
立派な碑が建っていました。
この広い敷地と立派な終焉の碑に
鹿児島の人々の西郷隆盛への敬愛の
想いが現れているように思いました。

西郷隆盛の銅像は、終焉の地から南西に向かい、
鹿児島城(鶴丸城)を通り過ぎたところの、
城山の麓にあります。



この銅像は1937年(昭和12年)に設置されています。
これは、思っていたよりも新しいものでした。


城山付近には、この他に「薩摩義士の碑」があります。
徳川幕府は、外様の有力藩の力を削ぐために
御手伝普請と称して、大規模な普請を行わせていたのですが、
1753年(宝暦3年)に、薩摩藩に命じられた木曽川、長良川
そして揖斐川の改修工事はかなりの難工事で、
80名以上の人命が犠牲になっています。

この工事を指揮した薩摩藩家老・平田靱負(ゆきえ)は
その責任を取って工事完成後に自害しています。
この薩摩義士の碑はその供養墓塔として
1920年(大正9年)に建立されました。



中央の一番高い碑が平田靱負の碑だそうです。

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仙巌園
(Sengan-En)

仙巌園は、薩摩藩主の別邸だったところで、
1658年(万治元年)に島津光久が建てたのが始まりだそうです。

仙巌園は、鹿児島市の北東部、磯地区にあります。
城山を訪れた後、薩摩義士碑前から
「カゴシマシティビュー」で仙巌園に向かいました。

夕暮れ近づく仙巌園に着いて、園内の散策をはじめました。
園内に入ると、大砲が置かれていました。



幕末に使われた150ポンド砲です。
その奥の石垣は、反射炉の跡です。

これらは薩摩藩の近代化政策の遺産で、
仙巌園の隣には尚古集成館という当時の
機械工場跡の博物館もありますが、
まだ明るいうちにと、まずは庭園を目指します。

お土産物屋さんが並ぶあたりに、菊の花が飾られています。



11月中は、菊祭りが開催されていたようで、
庭園も菊の花でデコレーションされていました。

しばらく歩いていくと、右手に立派な門がありました。



仙巌園の正門です。
江戸時代からのものと思ったのですが、
この門が出来たのは、明治も半ば過ぎの1895年の事です。

よく見ると、門の屋根瓦や内側の梁の所に
丸に十文字の、島津家の家紋が入っています。

この正門の先には、もう少し小ぶりな
赤銅色の門がありました。



錫門という朱塗りの門で、江戸時代は
この辺りまで、錦江湾が入り込み、
この門が仙巌園の正門だったようです。


この門をくぐると、いよいよ仙巌園の
庭園や御殿が見えてきました。

広々とした芝生の向こうに、
錦江湾を隔て桜島が聳えています。



雲が出て、日も沈みかけているので、
あまり鮮明な写真は撮れませんでしたが、
なかなかの景色です。

島津の藩主は、この景色を眺めながら
のんびり庭園を散策していたかと思うと
やはり、なんとも優雅な暮らしであった事でしょう。

庭園の入り口には、大きな石灯篭がありました。



獅子乗大石灯籠といい、畳八畳程の大きさの
石の笠の上に、獅子の像が乗っています。
このほか、庭園の奥には、石の笠の形が
鶴が優雅に羽を広げたような、鶴灯篭もあります。

この庭園の背後には御殿が建っています。



江戸時代には、別荘だったこの仙巌園も、
廃藩置県の後は、島津氏の当主はここで暮らしたそうなので、
1658年の当時から残っている藩主の別荘の建物に、
明治に入ってから、建て増しをしてあるそうです。

御殿内部も見学する事が出来るのですが、
格式がある建物の内部は島津氏の伝統の重さと、
建物の静かさを実感する事が出来ました。
内部の装飾に中国文化の影響を受けたものもあり、
琉球を経由した薩摩と中国との繋がりを感じました。

御殿の裏山には、「千尋巌」と岩肌に字が描かれています。



上の写真では、殆ど見えないのですが、
写真の右上隅に針のように細長く写っている
灰色の部分が字の書いてある石です。
字の大きさは、三文字で11メートルにもなり、
延べ3,900人の人工が3ヶ月かけて刻んだそうです。

この奥には園内を流れる保津川を渡ると
曲水の宴が行われていたという庭園と
その奥に、日本で初めてという
江南竹の竹林が広がっていました。



この辺りまで来ると、足を運ぶ人も少なく
静かな雰囲気でした。


仙巌園を一通り散策した後、
尚古集成館に向かいました。



1851年(嘉永4年)に藩主となった島津斉彬は
薩摩を、あるいは日本を近代国家に変えようと
仙巌園のある磯地区に軍需や民需用の工場群を建て、
様々な産業を興したのです。

仙巌園を入ってすぐの大砲や、反射炉はそのごく一部です。
この尚古集成館も当時は機械工場でした。

この他にも薩摩切子で知られるガラス工場や発電所、
また集成館以外の場所でも造船や紡績工場を作ったそうです。

こうした、当時としては日本有数の工業力が
薩摩藩の倒幕運動を陰で支える

尚古集成館を見学するうちに日も暮れてしまいました。
この日は、菊祭りの夜間ライトアップが行われるというので
再び、仙巌園に行ってみました。



まだ明るさの残る夕暮れの空に、
スポットライトを浴びた五葉松の
大木が浮かび上がっていました。

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加治屋町〜天文館界隈
(Downtown Area)

九州新幹線の終着駅、鹿児島中央駅から
大通りを左手に進むと、すぐに
甲突川に架かる橋を渡ります。

この橋が高見橋です。
駅前からの路面電車の停留所もあります。

鹿児島の路面電車の乗車記はこちらです。
まずは、高見橋の辺に建つ大久保利通の銅像です。
上の写真が、そうなのですが、コートの裾をなびかせ、
颯爽たる姿の銅像です。



この銅像を写真に収めた後、
甲突川の堤防に沿って歩いて行きました。



この小さな甲突川の下流左手の辺りは、加治屋町という地名で、
この町は、幕末に活躍した多くの人物を輩出しています。

川に沿い公園が整備されていて、その公園の中に
大久保利通のおいたちの碑が建っていました。



大久保利通は、生まれは加治屋町ではなかったようですが、
生まれて間もなく、この地に移り、ここで育ったようです。
西郷隆盛とは3歳年下ですが、
生家が近く、幼少の頃はこの甲突川の河原や
路地裏で、一緒に遊ぶ仲だったに違いありません。

そして、大久保利通おいたちの碑から道路を隔てた
反対側に「伊地知正治誕生地の碑」がありました。



伊地知正治の事は良く知らなかったのですが、
初期の明治政府にあって政府軍の優れた軍略家の一人で、
戊辰戦争の時に活躍した人だという事です。
戊辰戦争の時の総指揮官だった大村益次郎と
劣らぬほどの人だったそうです。

「伊地知正治誕生地の碑」のすぐ近くには、
維新ふるさと館があり、その南側に
西郷隆盛生誕の地の碑がありました。



大久保利通の住んでいた家の跡や、
西郷隆盛の生誕の地跡は、当時の建物こそ残っていませんが、
その敷地だったところは、公園として残されています。
西郷隆盛の弟の西郷従道邸の庭の跡も残っていました。

この加治屋町には、この他にも
村田新八 、大岩巌 、東郷平八郎 と、
幕末から明治にかけて活躍した人が
キラ星のように、この狭い加治屋町界隈から出ています。

この甲突川は鹿児島城(鶴丸城)からは約1.5km程は離れていて
当時は、下級武士が住んでいる地域だったようです。

そういった下級武士を抜擢した薩摩藩も、
彼らに大きな仕事をさせたのでしょうが、
置かれた環境によって、人の能力は
伸びるものなのだ、とつくづく思いました。


この加治屋町の隣は、江戸時代には
馬場のあったという高見馬場、
そして南九州最大の繁華街へと続いていきます。



上の写真は、路面電車から眺めた天文館周辺の様子です。
路面電車も頻繁に行き交い、人通りも多い繁華街です。

天文館の名前は、第25代薩摩藩主・島津重豪が、
この地に天文観測や暦を研究する施設明時館、
別名「天文館」を建てた事に由来するようです。



アーケードもあり、百貨店も数多く集まっています。
史跡めぐりで、この目抜き通りを歩く事はなかったのですが、
夜の通りの様子は、とても綺麗でした。

鹿児島の路面電車の乗車記はこちらです。




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