知多半島・野間界隈
Noma, Japan






野間埼灯台



野間は知多半島の南部、
丁度、知多半島を人間の腕に例えると
肘にあたる場所にある集落です。

行政区域では愛知県知多郡美浜町に属しています。




伊勢湾に臨み灯台もある風光明媚なところですが
源頼朝の父・源義朝の最期の地であり、
歴史の香りも漂う町です。

この野間の様子を紹介します。



野間埼灯台


知多半島の先端の師崎から伊勢湾に沿って
国道247号線を北上すると、豊浜、山海
そして内海と港町をいくつも過ぎます。

師崎の様子はこちらです。


内海を過ぎてしばらくすると
海岸線に小さな灯台が見えてきました。
野間埼灯台です。



野間埼灯台は、1921年(大正10年)に
点灯開始した灯台で、伊勢湾を航行する
船の重要な道しるべになっているそうです。



灯の高さ18メートル。
位置は北緯34度45分28秒
東経 136度50分40秒です。

この辺りの海岸からは伊勢湾の対岸の
鈴鹿山脈を遥か遠くに眺める事が出来ます。



鈴鹿山脈を背景に大型船が伊勢湾を
ゆっくりと航行していきました。



野間大坊 (大御堂寺)


野間は知多半島の小さな集落ですが、
7世紀に建立されたと伝わる野間大坊があります。

正式名称は大御堂寺といい、7世紀に役行者が創建した後
8世紀初め頃に行基によって中興され、その後、
11世紀に白河天皇の勅願寺になったそうです。

付近で謀殺された源義朝のお墓もあり、
源頼朝も伽藍を整備したそうです。




野間大坊は海岸から少し入ったところにありました。

野間大坊の客殿です。



この客殿は、徳川家康公が
移築した桃山城の一部だそうです。

この客殿には尾張藩藩祖の徳川義直公が
狩野探幽に描かせた源義朝公最期の図が
収められているそうです。

本殿の前には四国八十八ヶ所の
砂が埋められていました。



この周囲を巡ると、四国八十八ヶ所
巡りのご利益があるそうです。

客殿から東に向かうと鐘楼がありました。



野間大坊の梵鐘は鎌倉幕府五代将軍
将軍藤原頼嗣が寄進したものだそうです。

梵鐘に1250年(建長2年)の銘もあるそうで、
国の重要文化財に指定されているそうです。


その近くにあった平判官康頼卿のお墓です。
平康頼は平家物語で有名な鹿ケ谷の陰謀で
捕まり喜界が島に流された人です。



鹿ケ谷の陰謀以前に平康頼は尾張国の国司目代として
派遣されており、その際に荒れ果てていた野間大坊の
源義朝のお墓を修理してお堂を立てたそうです。

平康頼は1220年(承久2年)頃に京都で亡くなったそうなので
何故、この野間の地にお墓があるかは
ちょっとわかりませんでした。

こちらは五重塔跡です。



野間大坊は源頼朝が伽藍を整備しただけでなく、
その後、秀吉や家康の庇護を受けたそうで、往時は
多くの堂宇が建ち並んでいた事と思います。

こちらは大御堂寺の本堂です。



18世紀半ばの宝暦年間に
再建されたものだそうです。

本堂の前に建つ、大門です。



源頼朝が寄進したもので、案内板に
1190年(建久元年)10月25日の日付がありました。


この大門の東側に源義朝の廟がありました。



源義朝は、1159年(平治元年)に平治の乱で敗れ、
同行の鎌田政清の舅の長田忠政を頼り
この野間の地に逃れますが
入浴しているところを長田忠政・
景致父子に謀殺されてしまいました。

源義朝のお墓です。



義朝は、襲われた際に
「木太刀の一本もあれば」と言ったと伝えられ
お墓には多くの木太刀が備えられていました。

源義朝のお墓の近くには池禅尼の塚と
鎌田政清(政家)のお墓がありました。



池禅尼は平清盛の継母にあたる人ですが
平治の乱で平家側に捕まった頼朝の
助命嘆をしています。

頼朝は池禅尼から念持仏の
延命地蔵菩薩を授かっていましたが
1190年(建久元年)に野間大坊を訪れた際、
この延命地蔵菩薩を奉納しています。

また近くには織田信孝公のお墓がありました。



織田信孝は戦国時代末期の武将、
あの織田信長の三男です。

本能寺の変の後、豊臣秀吉と敵対し
柴田勝家に付きますが、賤ヶ岳の戦いで
勝家が敗れると、秀吉に降伏しますが
この野間大坊に送られ、自害したそうです。


野間大坊から名鉄野間駅に向かう途中の景色です。



この周辺には、源義朝が襲われた湯殿跡や、
義朝を襲った長田忠政父子が、頼朝によって
磔にされた松が残っているそうです。

またゆっくりとこの界隈を散策してみたいです。



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