東京 / 池上本門寺
Ikegami-Hommonji Temple in Tokyo

池上本門寺は1282年9月に日蓮上人が開堂供養した
長栄山本門寺を起源とするお寺です。
この時、日蓮上人は病に侵され、身延山から
湯治の為に茨城に向かう途中でした。

当時、この地には池上氏が居を構え、日蓮上人は
この地に20日程滞在し、そして亡くなりました。

池上本門寺は、大田区の丁度中ほどに位置しています。
丘陵地の端にあり、丘陵地の西側の谷に池上氏の
居館があり、今は塔頭の本行寺になっています。

2011年2月に、池上本門寺を訪れました。
その際の様子を紹介します。

総門から大堂
Mar. 05, '18

本殿、御廟所そして多宝塔
Mar. 17, '18

松涛園
NEW! Mar. 23, '18

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総門から大堂
(from Somon Gate to Main Hall)

池上本門寺は、東急電鉄池上線の池上駅の
北、約500m程のところにあります。

池上線の乗車記は こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Train/Japan/Shitetsu_2/Tokyu/Ikegami.html


撮影: 2011年2月

建物が密集する池上駅周辺ですが、池上本門寺に向かう
道には老舗の葛餅屋さんや、古い道標がありました。


撮影: 2011年2月

池上本門寺の手前で呑川を渡りました。
用水路のような川ですが、当時は池上本門寺を
護る堀の役割を果たしていたのでしょうか。

呑川を渡ると、いくつかお寺がありました。
池上本門寺の塔頭だったお寺です。


撮影: 2011年2月

上の写真は中道院(右)と本妙院(左)の様子です。
参道の左手には本成院もありました。
江戸時代中期の享保年間(18世紀前半)に
建てられた堂宇が残っているそうです。

この先に池上本門寺の総門がありました。


撮影: 2011年2月

この総門は江戸時代初期の元禄年間 (1688-1703)
建てられたもので、池上本門寺では最も
古い建物の一つだそうです。

総門を抜けたところにも塔頭がありました。
理境院です。


撮影: 2011年2月

池上本門寺の第三代目の住持を務めた日輪聖人の
草庵として14世紀前半に開創されたお寺です。

幕末の1867年(慶応3年)、江戸城攻撃の為に東上した
官軍の参謀・西郷隆盛は、この理境院を宿舎にしたそうです。

この先に、小高い丘陵地があり、
急な石段が続いていました。


撮影: 2011年2月

この石段は、加藤清正が寄贈したものと伝わります。
清正は、1606年(慶長11年)に祖師堂を寄贈し、
寺域を整備しており、その際にこの石段も
寄贈したと考えられているようです。


撮影: 2011年2月

石段の途中に咲く河津桜が綺麗でした。

法華経の宝塔品の偈文の文字数にちなんだ96段の石段を
上がると、池上本門寺の伽藍が広がっていました。

そちらに向かう前に、石段の右手後方に向かうと
日蓮上人の立像がありました。


撮影: 2011年2月

この像は比較的新しく、1983年(昭和58年)に
富山県の会社から奉納されたものだそうです。

日蓮上人の像を眺め、いよいよ
池上本門寺の伽藍に向かいました、

まずは、堂々とした仁王門(三門)です。


撮影: 2011年2月

1608年(慶長13年)に徳川秀忠が建立した仁王門は、
1945年(昭和20年)4月15日の空襲で焼けてしまい、
今の門は1977年(昭和52年)に再建されたものです。

仁王門を抜けると正面に大堂が聳え、左手には
日朝堂、鐘楼、霊宝殿、経蔵と建物が続いています。


撮影: 2011年2月

鐘楼と霊宝殿の間を奥に入って行った所の墓地に、
日樹聖人五輪塔(左)と加藤清正の供養塔(右)がありました。


撮影: 2011年2月

日樹聖人は安土桃山時代から江戸時代
初期にかけての日蓮宗の僧です。

調べてみると、寺領について、国主の供養で
あるとする受布施派と、寺領は供養の施と
仁恩の施があるとする不受不施派の対立があり、
1630年(寛永7年)3月に江戸城で対論が行われたそうです。

日樹は不受不施派の首謀者でしたが、幕府の裁定は
受布施派を支持し、日樹は信州・伊那に流され、
池上本門寺の寺の歴史からも抹殺されていたそうです。

また戦国大名・加藤清正は、熱心な
日蓮教の信者としても知られていました。
この五輪塔は、彼の息女で、紀伊藩主・徳川頼宣の
正室・瑤林院が供養の為に建立したものです。

大堂の東側に向かうと五重塔が建っていました。


撮影: 2011年2月

この五重塔も2代将軍・徳川秀忠が
1608年(慶長13年)に建立したものです。
関東地方で最も古い五重塔だそうです。

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本殿、御廟所そして多宝塔
(Main Hallm, Mausoleum and Pagoda)

池上本門寺の大堂の脇を北に向かうと、
道路を挟んで本殿があります。


撮影: 2011年2月

本殿は、第二次大戦で焼失した釈迦堂を
1969年(昭和44年)に再建したものだそうです。
その右手には堂々とした客殿がありました。


撮影: 2011年2月

この辺りはとても厳格な雰囲気で、立ち入っては
いけなかったのかと不安な気持ちにもなりました。

その本殿の脇を抜けたところに
日蓮上人御廟所がありました。


撮影: 2011年2月

1282年(弘安5年)に亡くなった、
日蓮上人の御骨を収めるお堂です。
ここも厳かな空間でした。

この御廟所も第二次大戦で焼失し、
1979年(昭和54年)に再建されています。


撮影: 2011年2月

ここも、厳かな雰囲気でした。

大堂と本殿との間の道に戻り、西に向かいました。
大堂のある辺りは、台地の端で大坊坂を下りました。

坂道を下ると、多宝塔がありました。


撮影: 2011年2月

この多宝塔は、江戸時代後期の1828年(文政11年)、
日蓮上人の五百五十遠忌に建立されたものです。

多宝塔の建つ場所は、亡くなった日蓮上人を荼毘に
付した場所ですが、赤い多宝塔がとても鮮やかでした。

この一角には江戸時代初期の画家・狩野探幽の父、
狩野孝信のお墓がありました。


撮影: 2011年2月

池上本門寺の多宝塔の西隣には
池上本門寺の塔頭の一つ本行寺があります。


撮影: 2011年2月

本行寺の本堂です。
鎌倉時代に、この地には池上宗仲の邸宅がありました。

日蓮聖人が病を得て身延・久能山から茨城に向かう
途中、亡くなったのはまさにそこの場所です。

身延・久能山の散策記は こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Chubu/Minobu.html

下の写真左が、ご臨終の間です。
そして、右の写真が旅着堂と御灰骨堂です。


撮影: 2011年2月

旅着堂には旅姿の日蓮上人像があり、御灰骨堂には
日蓮上人を火葬した灰が納められているそうです。

本行寺背後の墓地には、播磨・三日月藩の
藩主・森氏の墓地があったようですが、
それは見逃してしまいました。


撮影: 2011年2月

本行寺から池上駅に戻る途中に
同じく塔頭の一つ南之院もありました。

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松濤園
(Shotoen Garden)

本殿を訪れた後、多宝塔に向かう途中、
本殿の東隣にある松濤園に行ってきました。


撮影: 2011年2月

境内図では本殿の近くにありますが、
客殿をぐるりと回り、朗峰会館というお寺の
宿泊施設のような建物を抜けて庭園に入りました。

この松濤園は、旧本坊の奥庭園として築かれた庭園です。
小堀遠州作とされ、江戸時代初期に造られたものでしょうか。


撮影: 2011年2月

松濤園は中央に池を配した池泉回遊式庭園です。
普段、この松濤園は朗峰会館の宿泊者以外は
立ち入り禁止になっているようですが、
訪れた日は一般公開されていました。


撮影: 2011年2月

松濤園は他に訪れている人も無く静かな佇まいでした。
庭園内には梅が綺麗に咲いていました。


撮影: 2011年2月

松濤園では幕末に、西郷隆盛と勝海舟が
江戸無血開城の件で会談をしています。

西郷隆盛と勝海舟の江戸無血開城の会談は
江戸・三田の薩摩藩蔵屋敷で行われたのですが、
1868年(慶応4年)3月12日、13日に行われた会談に
先立ち、勝海舟は江戸に攻め上る西郷隆盛の
宿泊所だった池上本門寺の理境院を訪れ、
この松濤園での会談になったようです。

東京・高輪の三田駅前にある薩摩藩
蔵屋敷跡の様子は こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Takanawa.html

松濤園にある鈍庵です。


撮影: 2011年2月

松濤園にはいくつか茶室がありますが、
江戸時代からの園内の建物は、すべて
第二次大戦の戦禍で失われたそうです。

会談が行われたという四阿も今はなく、
その跡地に碑が立っているそうですが、
写真を撮り忘れてしまいました。

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