東京 / 高輪界隈
Takanawa Area in Tokyo




高輪という地名は、地方に住む僕にとっては
あまり馴染みのある地名ではありませんでした。

高輪は江戸時代には「高輪が原」と称して、
白金台や品川台、大井村の辺りを含む
地域の総称だったようです。




泉岳寺


今、高輪と聞いて、まず思い浮かぶのが泉岳寺です。
江戸城松之廊下の刃傷事件で切腹させられた
浅野内匠頭長矩と、その仇討ちを果たした
赤穂四十七士が葬られています。


地下鉄浅草線の泉岳寺駅で下車し、
大通りから坂道を上っていくと
泉岳寺の中門が見えて来ました。




『それまではただの寺なり泉岳寺』

という川柳も当時詠まれたそうですが、
泉岳寺は、徳川家康が桶狭間の戦いで命を落とした
今川義元の菩提を弔う為に開かせた由緒あるお寺です。

創建は1612年(慶長17年)、霞ヶ関辺りに建てられたそうです。
その後、1641年(寛永18年)の寛永の大火によって焼失し、
今の高輪の地に移転したそうです。

曹洞宗の江戸三か寺の一つにもなっている大寺で、
高輪での再建に係わった毛利・浅野・朽木・丹羽
そして水谷の五大名の菩提寺になっていたそうです。

この縁で浅野内匠頭が泉岳寺は葬られました。
仇討ちを果たした赤穂義士も泉岳寺に眠る
主君の墓に吉良上野介の首級をささげ、
さらに切腹を賜った赤穂義士もここに葬られました。

こちらは山門です。



1832年(天保3年)に再建されたものだそうです。

山門をくぐった所にある本堂です。



赤穂藩主・浅野内匠頭長矩と
赤穂義士四十七名、そして討ち入りの密約を
守るために自害した萱野三平を合わせて
48名のお墓はこの本堂の左手にあります。

その墓所に向かう途中「主税の梅」
という梅の木がありました。



仇討ちを果たした四十七士のうち
三田の松平隠岐守邸に預けられた
大石内蔵助他9名はこの梅の木の
下で切腹したそうです。

その近くにあるのは「血染めの石」です。



刃傷事件を起こしたその当日、
切腹の命を受けた浅野内匠頭は
武士としての扱いを受けず、
田村邸の庭先で自刃したそうです。
この石はその内匠頭の自刃の場に
あった石ということです。

そしてこちらは首洗井戸です。



大石内蔵助は吉良上野介の首を
この池で洗い、その後、主君の
お墓に供えたそうです。

300年前の歴史の証人達が、松之廊下での
刃傷事件と赤穂義士の吉良邸討ち入りが
決してお芝居の世界ではなく、現実に
起こった事だと言う重い事実を
改めて認識させてくれました。

浅野内匠頭と赤穂義士のお墓は
階段を昇ったところにあります。



これは浅野内匠頭のお墓です。
墓所の一番入り口近くにあり、その前に
浅野内匠頭夫人・瑶泉院のお墓もありました。

赤穂義士のお墓はその奥にあります。
事件後に預けられた細川家、松平家
毛利家そして水野家の四家に預けられたのですが、
その各家毎にまとまってお墓が並んでいます。


こちらは細川家に預けられた17名のお墓。
屋根のついたのが大石内蔵助のお墓です。



こちらが松平家に預けられた10名のお墓。



一番奥の屋根の付いた碑は十三回忌碑。
そしてその二つ手前が高田の馬場の
仇討ちで有名な堀部安衛兵のお墓です。

堀部安衛兵の故郷、新発田の旅行記はこちらです。




高輪大木戸跡


泉岳寺を訪れた後、泉岳寺駅の北側にある
高輪大木戸跡を訪れました。

大木戸は当時の主要街道沿いに
江戸の町の入り口に作られた検問所の様なもので、
この高輪の大木戸は1710年(宝永7年)に築かれ
1724年(享保9年)に今の場所に移されたそうです。



東海道の両脇に石垣を築き、
夜には門を閉じたそうです。

古い石垣のすぐ横を山手線や
京浜東北線の電車が走っていますが、
車窓からは全く気が付きませんでした。

当時、この高輪大木戸は海岸沿いにあったそうです。
今の山手線や東海道本線は当時の海の中。

日本最初の鉄道が新橋から桜木町まで
開業したときには、海岸線沿った築堤の上を
蒸気機関車の牽く列車が走っていたそうですが、
そんな当時の様子は全く想像出来ませんでした。


高輪周辺には幕末にイギリス公使館と
なっていた東禅寺もあります。
またの機会にこの辺りを歩いてみたいと思います。




三田・薩摩藩蔵屋敷跡


JR田町駅の西口に降り立ちと、
旧東海道の国道15号線が走り、
周囲をオフィスビルが取り囲んでいます。



この辺り、ビルが建ち並んでいる現在の光景からは
想像も出来ませんが江戸時代には浜辺に面していて、
薩摩藩の蔵屋敷がありました。



薩摩藩蔵屋敷があったのは、三田駅北隣の
三菱自動車工業の本社の辺りです。




薩摩藩は国許から送られた米などを
ここで陸揚げし、蔵に収めていました。


ここには西郷隆盛の直筆の
旧薩摩藩邸跡の碑がありました。



この薩摩藩蔵屋敷で、1968年(慶応4年) 3月14日に
西郷隆盛と勝海舟の会談が行われています。

新政府軍の大総督府下参謀という立場で東上し、
徳川慶喜の切腹と旧幕府勢の排除、そして
江戸城の廃却を目論む西郷を勝海舟は説得し、
江戸城の無血開城に結びつけたと言われています。



この碑には会談を行っている二人の姿を
描いた石版のリレーフもありました。

この会談の結果で、今も江戸城の遺構を
眺めることが出来るかと思うと感無量です。

江戸城の様子は
こちらです。


すぐ近くにNECの本社ビルが建っていますが、
そこは薩摩藩上屋敷の跡地だそうです。



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