足利学校
(Ashikaga Historical School)
足利学校の創設は、奈良時代とも
平安時代とも言われています。
歴史にその存在が明らかになるのは、
関東管領・上杉憲実が1432年(永享4年)に
鎌倉から円覚寺の禅僧快元を招いたり、
経典を寄進して学校を整備した事です。
鎌倉の散策記はこちらです。
一時は学生が3000人を数えたという足利学校は
安土桃山時代にはフランシスコ・ザビエルによって
「日本国中最も大にして最も有名な有名な坂東のアカデミー」
と紹介されているそうです。
江戸時代にも徳川幕府の庇護の下に存続しましたが、
明治維新後の1872年(明治5年)に廃校になっています。
足利学校は足利駅の北東500m程に位置しています。
元々はここから約1km南東の国府野にあったそうですが、
1467年(応仁元年)に現在地に移されているそうです。
明治の廃校後、足利学校の敷地に
小学校が建てられたりしていたそうですが、
1990年(平成元年)に移転した小学校跡に
方丈等が復元され、現在では江戸時代の
足利学校の様子が復元されているそうです。
方丈の西隣に建つ孔子廟は、
現存する日本最古の孔子廟です。
入徳門から孔子廟
JR足利駅北側を東西に走る国道87号線を
西に向かうと「あしかが遊学館」の角に
孔子像と足利学校遺跡の碑が建っていました。
ここから北に延びる整備された
石畳の道が足利学校への道です。
この道を歩いていくと入徳門がありました。
1668年(寛文8年)に建てられた
足利学校の入り口の門です。
この先、正面遠くに学校門が見えています。
右手に受付があり、ここで入場料を払います。
左手には大きな孔子像がありました。
孔子像があるのは、江戸時代に
朱子学を教えていたからでしょうか。
この先で、右手に堀と裏門が見えますが、
真っ直ぐ歩いていくと学校門です。
この学校門は足利学校をお寺に
見立てると中門にあたる門です。
門には「学校」の額が飾られていました。
この学校門から先が江戸時代からの
現存および復元された一画です。
大学門をくぐると、湯島聖堂楷樹と
案内板に書かれた木もありました。
湯島聖堂から植樹されたのでしょうか。
左手に遺蹟図書館がありました。
明治になって足利学校が廃校になった後に、
学校に残された文書類が散逸しないように
収蔵するために造られたそうです。
今の建物は1915年(大正4年)に建てられたものです。
そして、3つ目の杏壇門が見えてきました。
入徳門、学校門そして杏壇門は
足利学校の三門と呼ばれています。
この杏壇門も1668年(寛文8年)、
4代将軍家綱公の時に建てられています。
この杏壇門の先は孔子廟です。
築地塀に囲まれた中に建つ
孔子像を祀る大成殿です。
1668年(寛文8年)に建てられています。
大成殿の中央に祀られている孔子像です。
この像は1535年(天文4年)に造られています。
頭巾を被り、儒服を着た姿は「行教像」と言われています。
その右側には小野篁
(おののたかむら)
像がありました。
小野篁は平安時代の公家であり歌人だった人で、
江戸時代にはこの小野篁が足利学校の創建者
という説が採られていたようです。
大成殿から杏壇門を通し、
大学門と入徳門を眺めた様子です。
この孔子廟は大学の敷地というよりも
儒教のお寺のような佇まいでした。
この孔子廟の裏には足利学校の
歴代の庠主
(しょうしゅ)
の墓所がありました。
庠主は足利学校の学長のことで、
関東管領・上杉憲実が招いた
禅僧・快元が初代の庠主です。
明治に足利学校が廃校になるまで
23代続いたそうですが、そのうち
17基のお墓が残っているそうです。
写真右の石塀に囲まれたお墓は
足利学校の代官を務めた
茂木家累代のお墓もありました。
裏門から方丈
孔子廟の一角は江戸時代から残っていますが
その東側は足利学校が廃校になった後に
足利小学校が置かれていました。
その一画も1990年(平成元年)に復元されています。
その復元された裏門の辺りには
堀が巡られています。
裏門は学生や一般の人達の
通用門として使われていたようです。
この裏門の東側にも堀が続いています。
堀は、足利学校跡の東半分、
1990年(平成元年)に復元された
部分を囲んでいます。
堀の先には土塁が築かれ、
その先に方丈や庫裡、書院などの
復元建築物が見えていました。
青空に茅葺の屋根が映えて綺麗でした。
復元された区画には、
学校門から入ることが出来ました。
南庭園越しに望む方丈と庫裡の様子です。
冬の穏やかな陽を浴びて、方丈の縁側で
日向ぼっこしている人の姿が目につきました。
写真左の方丈が講義が行われていた所です。
奥に孔子廟が見えています。
右側の庫裡は学校の台所にあたります。
方丈の内部の様子です。
足利学校で学んでいたのは
全国各地から集まった僧侶達でした。
この広い方丈に、多くの学生が朝早くから
勉学にいそしんでいたことでしょう。
その方丈から眺めた南庭園です。
のどかな景色でした。
当時の学生も勉強の合間に
庭を眺めていたのでしょうか。
方丈や庫裡、そして庫裡の奥にある
書院を訪れ、北庭園へと向かいました。
北庭園から眺めた書院や大成殿の様子です。
渡辺崋山や吉田松陰もこの
足利学校を訪れているそうです。
渡辺崋山が晩年を過ごした田原の散策記はこちらです。
吉田松陰の出生地・萩の散策記はこちらです。
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鑁阿寺 (足利氏館)
(BannaJi Temple)
鑁阿
(ばんな)
寺は足利氏第二代の足利義兼公が
1196年(建久7年)に創建したお寺です。
正式名称は真言宗金剛山鑁阿寺。
この鑁阿寺は源義家の子の源義国、
その子で初代足利氏の足利義康が
築いた足利氏邸の跡地に建てたものです。
鑁阿寺の周囲には堀が巡らされています。
これは中世城館の遺構を残すもので
この為に鑁阿寺は国の史跡に指定され、
近年は日本100名城にもなっています。
鑁阿寺は、足利学校のすぐ北東隣にありました。
鑁阿寺には鎌倉時代から残る本堂や鐘楼、
室町時代の一切経堂、山門など
多くの建物が残っています。
ここでは、お寺としての鑁阿寺を主に紹介し、
中世城館としての遺構の堀や門、
そして足利氏にまつわる建物等は、
足利氏館として別ページで紹介しようと思います。
足利氏館のページはこちらです。
足利学校から鑁阿寺へ向かうと、
お堀に架かる反り橋と仁王門が見えていました。
仁王門は開基・足利義兼公が
1196年(建久7年)に創建したものですが、
室町時代に兵火に遭って焼失し、
1564年(永禄7年)に再建されています。
仁王門の詰組がとても立派でした。
仁王門の仁王像は鎌倉時代に
運慶によるものと言われているそうです。
また反橋は幕末の安政年間(1850年代)に
再建、修復されているようです。
仁王門をくぐると、参道の
正面に本堂が見えています。
本堂に向かう左手には多宝塔がありました。
この多宝塔は5代将軍徳川綱吉の生母・
桂昌院が1692年(元禄5年)造営したものです。
多宝塔の右手の大銀杏は、足利義兼公
お手植えとも言われていますが、
樹齢550年程ということです。
そして右手には創建当時から
建つ鐘楼がありました。
梵鐘は元禄時代に再鋳されたものだそうです。
左右に多宝塔と鐘楼を眺めながら進むと
本堂に辿り着きます。
本堂は1299年(正安元年)に建てられ、
重要文化財に指定されています。
ご本尊は大日如来です。
本堂から仁王門を眺めた様子です。
逆光の中、参道が輝く様子が印象的でした。
この本堂の西隣に不動堂がありました。
この不動堂は千葉の成田山から
勧請された不動明王を祀るお堂です。
別名は中御堂で、1592年(文禄元年)に
再建・修復されているそうです。
不動堂の隣にあるのが経堂です。
鑁阿寺を開いた足利義兼公が
この経堂も建てたそうですが、
現在の建物は1407年(応永14年)に
関東管領・足利満兼公が建てたものだそうです。
本堂から不動堂そして経堂は
鑁阿寺のほぼ中央に位置していますが、
これらの堂宇の北側は、広いスペースが広がり
そして、敷地の北の端に御霊屋や
大酉堂などの建物があります。
御霊屋は源氏の祖や足利15代将軍、
大酉堂は足利尊氏を祀っているようです。
これらの建物の様子は、
足利氏館のページをご参照ください。
足利氏館のページはこちらです。
御霊屋から眺める経堂(右)と
本堂(左)の様子です。
二つのお堂の間に多宝塔も見えていて
当時からの様子がよく残っていました。
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