田原
Tahara, Japan







豊橋鉄道の終点、三河田原駅から
田原の町を散策してみました。

豊橋鉄道の様子はこちらです。


駅でレンタサイクルがあったので、駅員さんに聞いてみると
不思議な事に、「町は小さいですから歩いて回れますよ。」
との事で、歩いて町歩きする事にしました。


まずは、主目的の田原城を目指します。
駅前通を真っ直ぐに進み、
ショッピングセンターを過ぎたところを
右に折れてお城を目指しました。

街角で、立派な土塀のお屋敷がありました。



古いお屋敷の残る町なのかなと思っていると
確か、伊能忠敬が測量の為全国行脚している時に
泊まった屋敷という看板が立っていました。


このお屋敷を過ぎ、しばらく歩くと
田原城の総門跡に出ます。

総門跡は碑が建っているだけですが、
その脇に「田原市報民倉」という
白壁の建物が建っていました。



「報民倉」は1835年、田原藩士・渡辺崋山の指導で
飢饉に備える為の穀物倉庫だったようです。
領民も一体となって作った「報民倉」のおかげで
天保の大飢饉の時には、田原藩では一人の
餓死者も出さなかったと言われています。

総門あとから中学校の脇を抜けて歩くと
田原城に着きました。



お堀の向こうに櫓門、石垣と土塀が続いています。
丁度満開の桜と、お城との組み合わせがとても綺麗です。



田原城は1480年頃、戸田宗光が築城したものです。
戸田氏は戦国時代になると松平氏に、
その後今川氏に属していたそうです。

1547年、松平竹千代(後の徳川家康)が
今川義元の下に人質として送られる為、
この田原城に入ったのですが、
時の田原城主・戸田康光が織田側に寝返り、
家康は織田信秀(信長の父)に送られたそうです。

下の写真は、櫓門の桜門です。



その名の通り、桜に囲まれています。

桜門をくぐり城郭に入り、右手に三の丸跡を
見ながら進むと二重の櫓が見えてきます。
三の丸では、お花見を楽しむ人達が沢山いました。



これが復元された二の丸櫓で、
天守の無かった田原城で、天守代わりの
シンボルとして存在していた櫓です。

二の丸跡には博物館があり、
田原城や田原藩の歴史について学ぶ事が出来ます。

桶狭間の合戦の後は家康に攻略され、
家康の関東移封の後は、吉田城主
池田輝政の持ち城となっています。

江戸時代に入ると一万石ながら徳川譜代の居城となり、
1664年に城主となった三宅氏が
明治までこの地を治めたそうです。

二の丸の先には、巴江神社の境内です。
この巴江神社は本丸跡にあります。



ここも桜の花が綺麗に咲いていて
お花見の人達が盛り上がっていました。


田原城址の訪問を終え、次に崋山神社に向かいました。



崋山神社は、幕末の田原藩家老・渡辺崋山を祭った神社です。
渡辺崋山は領民救済を優先させる政治を行い、
また当時の日本が世界の水準よりも遅れていることを憂い、
蘭学研究の結社を作ったりしたようです。

このような動きが幕府保守派に睨まれるところとなり
蛮社の獄で罪を得、蟄居生活を余儀なくされました。
ところが蟄居の身ながら絵を売っていた事が問題となり、
自らの命を絶ったのです。

その崋山が蟄居していたのが、崋山神社の
西側にある池ノ原公園にある幽居跡です。



濡れ衣の様な罪で、この建物に蟄居していた
崋山はどのような思いをしていた事でしょうか。

その脇にある渡邉崋山の像です。




この池ノ原公園を訪れた後は、
田原のお寺を廻って駅に戻る事にしました。
まずは南に向かい、5分ほどの霊厳寺を目指します。

霊厳時に向かう途中に見かけた桜の木。



ピンク色の濃い桜の花が印象駅でした。

霊厳寺はこの桜の木の先にありました。
霊厳寺は藩主・三宅家の菩提寺です。



お寺は通りからかなり入ったところにあり、
ひっそりとしていました。

霊厳寺の次には、寺下通りに向かいます。
三河田原駅のすぐ西にあるこの通りには、
龍門寺、龍泉寺と4つほどのお寺が並んでいます。

一説には戦いのときにお寺を
防御拠点として活用する為なのだそうです。



この写真は、龍門寺です。
この隣の龍泉寺には、芭蕉の句碑も
あるそうですが、見逃してしまいました。

そして、下の写真は城宝寺の山門です。



城宝寺は、渡辺崋山の菩提寺で、
お墓も残っています。


あまり予備知識もなく訪れた田原の町ですが、
お城を中心に色々な見所があり、
ゆっくり観て回ることが出来ました。



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