四日市
Yokkaichi Japan

四日市は三重県の北部に位置しています。
人口は30万人を超え、県都の津を抑え、
三重県で最も多くの人口を誇る市です。

四日市は室町時代の後期に、伊勢商人や
近江商人の行き来が増え、毎月4日に
市が開かれた事に由来しています。

四日市というと、言わずと知れたコンビナートからの
大気汚染で発生したぜんそくの公害で知られています。

1960年代から海岸に多くの石油化学工場が
進出した為ですが、今では排ガス処理の技術も進み
大気の汚染状態は随分改善されています。

四日市市の位置は下の地図を参照下さい。

そんな四日市ですが、北側の富田地区や
大矢知地区は古くからの歴史もあり、
また鈴鹿山脈を望み風光明媚な所です。

富田地区 (Tomida Area)

大矢知地区 (Oyachi Area)
NEW ! Apr. 28, '15

中央地区 (Central Area)

関西地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る

大矢知地区
(Ohyachi)

四日市の大矢知地区は四日市市の北部、
富田地区の西側にあります。

伊勢湾へと続く平野から西になだからな丘陵が広がり
その丘陵地の麓に広がる集落が大矢知です。


撮影: 2011年5月

江戸時代に四日市は天領になっていましたが
この大矢知地区は忍藩の領地になっていました。

忍城の登城記はこちらです。

この大矢知地区は古墳や天武天皇所縁の
地などもあり、歴史の薫り高いところです。

天武天皇迹太川御遥拝所跡
(てんむてんのう とおがわ ごようはいしょあと)

大矢知の集落の住宅地の一角に
天武天皇迹太川御遥拝所跡があります。

日本書紀には天武天皇は672年(天武天皇元年)に
壬申の乱に臨み、吉野から美濃に向かう途中、
朝明郡迹太川(あさけぐんとおがわ)の畔で、
天照大神に戦勝祈願したと記されています。

この日本書紀に記された戦勝祈願したのが
この四日市大矢知の地とされています。


撮影: 2010年4月

この地には「天武天皇のろし松」と伝わる古い松があり
その伝承によってその場所と確定されたそうです。

その松は、2002年に枯れてしまいましたが
2006年に槇が植えられています。

ここは住宅地の一角にあります。
周囲の景色を眺めていると、1400年前に
ここに実際に天武天皇が立ち寄ったとは
俄かに想像も出来ません。

伊賀留我(いかるが)神社

天武天皇迹太川御遥拝所跡の
近くに伊賀留我神社があります。

約1300年前の延喜式神名帖にも記載されている
この地方では最も古い神社だそうです。


撮影: 2010年4月

住宅地の脇に続く参道です。


撮影: 2010年4月

ちなみに、伊賀留我神社のある
この地は鵤(いかるが)という地名です。
奈良の斑鳩と同じ地名で、この地は聖徳太子の
御料地という言い伝えもあるそうです。

この伊賀留我神社は別名を
斎宮(いつきのみや)と言うそうです。

斎宮は伊勢神宮の斎宮との事で、
伊勢神宮との繋がりもありそうとの事です。


撮影: 2010年4月

歴史の古い神社ですが、地元の氏神様の様な
神社で境内は、ひっそりとしたものでした。

この伊賀留我神社から南に向かい
片側2車線の立派な県道を渡ると、
もう一つ別の伊賀留我神社があります。


撮影: 2010年4月

江戸時代初期の寛永年間(1624年〜1643年)に
鵤の地が南北に分かれ、それによって
伊賀留我神社が分社したそうです。


撮影: 2010年4月

杜に囲まれた社殿です。


撮影: 2010年4月

どちらの神社が元々あった神社なのかは
判りませんが、どちらも厳かな雰囲気でした。

こちらの伊賀留我神社の境内には
宮城遥拝所や神宮遥拝所の碑がありました。


撮影: 2010年4月

皇居と伊勢神宮を拝む場所と思いますが、
三河の国の神社にはこうした場所を見た事はなく
伊勢神宮に近い三重県ならではと思いました。

この鵤の地からは遠くに四日市のコンビナートが見えました。


撮影: 2010年4月

遥か遠い時代から、この様な耕作地が広がり
多くの人の生活を支えていたものと思います。

垂坂観音寺

天武天皇迹太川御遥拝所跡から西に向かい
丘陵地を超えていくと垂坂観音寺があります。

このお寺は慈恵大師が928年(延長6年)に建立し、
7年間修業を行った寺院です。
慈恵大師、15歳の事です。


撮影: 2012年8月

慈恵大師は、12歳で比叡山に登り修学し、
966年(康保3年)に天台宗で最も高い地位、
天台座主となり、天台宗中興の祖と言われています。

正月3日に亡くなられているので、
元三大師との尊称でも呼ばれています。

また日本各地の色々なお寺を訪ね歩くと
ちょくちょくその名前を聞く方です。

上野の両大師や深大寺元三大師堂、
川越・喜多院の慈恵堂などです。

上野の様子はこちらです。
深大寺の様子はこちらです。
川越・喜多院の様子はこちらです。

この垂坂観音寺を訪れたのは2012年8月16日。
暑い日でした。


撮影: 2012年8月

短い石段を上ると立派な山門がありました。

この垂坂観音寺は、往事はここを中心に10km程の範囲に
24もの坊(別寺)が建立された大寺だったそうです。

その垂坂寺も、1575年(天正3年)に信長が
伊勢に攻め込んだ際に戦火に遭ってしまいました。

その後1691年(元禄4年)に、桑名藩主・松平定重が
奥の院跡に伽藍を再建したそうです。


山門は松平定重が再建した時のものとの事ですが
本堂は、残念ながら鉄筋コンクリート製でした。


撮影: 2012年8月

この垂坂観音寺には、重要文化財に指定されてる
慈恵大師座像が安置されているという事です。

当時の様子は思うべきもなく小さな境内ですが
その傍らに芭蕉の句碑がありました。


撮影: 2012年8月

三日月の 地はおぼろなり 雪見草

垂坂観音寺の周囲には丘陵地の間に
田圃が広がっていました。


撮影: 2012年8月

夏、まさに本番といった景色でした。

長倉神社

長倉神社は大矢知の集落のすぐ南側にある神社です。

この長倉神社の創建時期については記録が
残っていないようですが、延喜式にも記され、
この界隈の朝明郡24座の一つとなっている事から、
いずれにしても古い歴史を持つ神社のようです。


撮影: 2014年1月

神社の入り口に赤い鳥居が連なっています。
この鳥居をくぐっていくと別宮の
豊栄大神の社に辿り着きます。

この長倉神社を訪れたのは2014年1月2日の事です。


撮影: 2014年1月

参道の石段の手前の低い位置に
しめ縄が架かっていました。

長倉神社のある大矢知地区は、江戸時代には
忍藩の領地で、400m程北には陣屋もありました。


撮影: 2014年1月

藩主はこの長倉神社に、武運長久
御陣屋繁栄、領内安全を祈ったそうです。

この長倉神社にも宮城遥拝所や
神宮遥拝所の碑がありました。


撮影: 2014年1月

こうした遥拝所は三重県では一般的なのでしょうか。

四日市のページのTOPに戻る

関西地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る