関は、旧東海道47番目の宿場町です。
関宿の西には古来、日本三関に数えられた鈴鹿の
旧東海道に沿って作られた国道一号線は、関の集落を
この関宿には2012年1月に訪れました。
関宿の散策は、集落のやや西寄りの
関の地蔵院は741年(天平13年)に東大寺の僧・行基が
本堂・鐘楼・愛染堂が国の重要文化財に指定されています。
ここから東西に延びる関宿を東に向かいました。
歩き出してすぐ左手に入った所に福蔵寺があります。
福蔵寺は、織田信長の三男・織田信孝の菩提寺として
織田信孝の母は、北伊勢の豪族の娘とされています。
この後、信孝は愛知県知多半島の野間で自害しています。
福蔵寺の本堂と観音堂(上左の写真)と地蔵堂です。
小万は久留米藩家臣・牧藤左衛門の遺子でした。
関の宿主は、小万の母の遺志を汲み、小万を育て、
福蔵寺から旧東海道に戻り東に向かいました。
家々には卯建
関宿の建物の中には、白壁の建物も見かけました。
上左の写真は旅籠玉屋です。
店の入り口は開放的な造りで、店の間と呼ばれています。
店の間の奥に宿泊客用の部屋が続きます。
旅籠玉屋歴史博物館の隣の建物は
この先も、ずっと古い建物が続いています。
この建物の裏側は階段になっていて、
甍が続く宿場の様子をこうして眺める機会は
眺関亭の東側から眺めた様子です。
この先も古い建物が続きます。
関まちなみ資料館は、江戸時代末期に
江戸時代の日常品など、暮らしぶりが分かる展示と共に、
関まちなみ資料館から少し東に行った先の
瑞光寺(下左写真)は、1371年(応安4年)に創建されています。
瑞光寺の道を挟んだ東隣には延命寺があります(上右)。
ちなみに、福蔵寺や瑞光寺そして延命寺など
延命寺の後、三度旧東海道に戻りました。
地元の百五銀行も、白壁の町屋風の建物になっていました。
百五銀行からもさらに古い町並みが続きます。
関宿では、観光客用のお土産物屋さんや食べ物屋さん
道幅は、車が一台通れるほどの幅です。
当時、行き来が多い時は、人をかき分けて
この先に、広い道幅の側道との交差点がありました。
ここは、江戸時代に御馳走場と呼ばれていました。
御馳走場から東が木崎地区になります。
このしばらく先で、旧東海道は緩やかな下り坂になりました。
関宿の中心部は、小高い台地に上にあることが分かります。
このなだらかな下り坂の先には鳥居が建っていました。
この鳥居は、伊勢神宮の式年遷宮の際に、
この鳥居を抜ける道は伊勢街道で、伊勢神宮参拝の
関宿の東端の東追分から、散策を始めた地蔵院に戻りました。
地蔵堂の目の前の旧東海道の様子です。
ここから西に向かいました。
旧東海道の両脇の家々の間からは
時折、地蔵院の西側でも白壁の建物も見かけました。
家の"平"側が通りに面した蔵造りの建物で、
関宿の西側も宿場の外れに近づくと下り坂になりました。
旧東海道は関の西側で、鈴鹿峠を越える旧東海道と、
旧東海道・関宿、三重県
Seki Post Town, Mie
関西本線関駅の500m程北を東西に旧東海道が通っていて、
その両脇に、1.8kmにもわたって古い集落が続いています。
関があり、関の名前も鈴鹿の関から付いています。
迂回するように通った為、関の町並みは残されました。
200軒を超える古い建物が残り、1984年(昭和59年)に
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
地蔵院からスタートしました。
撮影: 2012年1月
天然痘から人々を護る為に、地蔵菩薩を安置したのが
始まりとされ、日本で最も古い地蔵院と言われています。
古い建物が旧東海道の両脇に並んでいます。
地蔵院の東側は中町と呼ばれています。
撮影: 2012年1月
撮影: 2012年1月
1583年(天正11年)に建立されています。
信孝は、織田家後継ぎとなった三法師の後見人として
岐阜城を居城としていましたが、1583年11月、柴田勝家が
賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた後、秀吉と組んだ兄・信勝に
居城の岐阜城が囲まれると、開城します。
この時、検視役だった大塚俄左衛門が福蔵寺に
持ち帰り篤く葬ったと伝えられています。
撮影: 2012年1月
境内には関の小万の墓もありました(下写真)。
撮影: 2012年1月
小万の母は、夫の仇・小林軍太夫を討とうと、身重の
身体で関までたどり着いたところで、小万を出産します。
亀山の道場で武芸を習わせ、仇討ちの機会を伺いました。
そして、1781年(天明3年)に小万は仇討ちを果たしたそうです。
ずっと古い町並みが続いています。
撮影: 2012年1月
この先には高札場があり、当時の札が
いくつか掲げられています。
撮影: 2012年1月
虫篭窓のある建物も見かけます。
撮影: 2012年1月
関で泊まるなら鶴屋か霊屋と言われた
関宿を代表する旅籠だったようです。
歴史博物館として内部が公開されています。
当時は店の主人が宿泊代の管理などをしていたのでしょうか。
撮影: 2012年1月
中庭の向こうには離れがありました。
撮影: 2012年1月
現役の宿屋さんがありました。
博物館の部屋と同じような部屋で
泊まることが出来るのではないでしょうか。
途中に旧伊藤本陣跡の碑がありました。
その先に、眺関亭という建物がありました。
撮影: 2012年1月
関の宿場の様子を眺めることが出来ます。
撮影: 2012年1月
なかなか無く、貴重な経験でした。
撮影: 2012年1月
下左の建物は、先ほどの玉屋と共に名を馳せた鶴屋です。
そして、下右の写真は関まちなみ資料館です。
撮影: 2012年1月
建てられた旧別所邸の町屋を公開しているものです。
撮影: 2012年1月
当時の旅籠の様子を再現したと思われる一角もありました。
角を左に曲がり少し行くと瑞光寺があります。
徳川家康と親交のあった豊屋永隆和尚が中興しています。
1615年(元和元年)というので、大坂の陣の時でしょうか、
家康がこの地に来た際に、瑞光寺を訪れた際に、寺の柿を
食したそうで、それ以降権現柿と呼ばれているそうです。
撮影: 2012年1月
延命寺の山門は、川北本陣の屋敷門だったそうです。
川北本陣は、江戸初期の慶長年代から1870年
(明治3年)まで続いたそうです。
旧東海道の北にあるお寺は北裏という地区にあります。
更に東へ向かいますが、この辺りも古い建物が続きます。
撮影: 2012年1月
も少なく、普段通りの暮らしが、古い町並みに
息づいているといった感じがします。
撮影: 2012年1月
現在は、東から西への一方通行です。
歩くような事もあったのではないでしょうか。
交差点には松が生え、風情のある景色でした。
撮影: 2012年1月
御馳走場は、身分の高い武士や公家が、関宿に出入りした
際に、宿場の役人が出迎えや見送りを行った場所だそうです。
中町から引き続いて古い町並みが
旧東海道に沿って続いていました。
しっとりと、落ち着いた街並みです。
撮影: 2012年1月
撮影: 2012年1月
この辺りには、昭和に建てられたような民家が建っていました。
ここが東追分で、当時の関宿の東端にあたります。
そして伊勢街道との分岐点だったところです。
撮影: 2012年1月
古い鳥居を移しているのだそうです。
際は、この鳥居をくぐって旅を続けたことになります。
重要文化財に指定されている本堂・鐘楼・愛染堂の様子です。
撮影: 2012年1月
この辺りには、食べ物屋さんが軒を連ねています。
撮影: 2012年1月
地蔵院の西側は新所と呼ばれていました。
新所も街道の両脇に古い町並みが続いています。
撮影: 2012年1月
鈴鹿の山が見えてきています。
撮影: 2012年1月
撮影: 2012年1月
当時は店として用いられていたものと思います。
この様な蔵造りの建物は見世蔵と呼ばれています。
この先、坂道を下った所には西の追分がありました。
撮影: 2012年1月
加太越えで奈良に向かう街道が分かれていました。
その分かれ目が西の追分でした。