旧東海道・関宿、三重県
Seki Post Town, Mie

関は、旧東海道47番目の宿場町です。
関西本線関駅の500m程北を東西に旧東海道が通っていて、
その両脇に、1.8kmにもわたって古い集落が続いています。

JR西日本の関西本線の乗車記はこちらです。

関宿の西には古来、日本三関に数えられた鈴鹿の
関があり、関の名前も鈴鹿の関から付いています。

旧東海道に沿って作られた国道一号線は、関の集落を
迂回するように通った為、関の町並みは残されました。
200軒を超える古い建物が残り、1984年(昭和59年)に
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

この関宿には2012年1月に訪れました。

中町・北裏

関宿の散策は、集落のやや西寄りの
地蔵院からスタートしました。


撮影: 2012年1月

関の地蔵院は741年(天平13年)に東大寺の僧・行基が
天然痘から人々を護る為に、地蔵菩薩を安置したのが
始まりとされ、日本で最も古い地蔵院と言われています。

本堂・鐘楼・愛染堂が国の重要文化財に指定されています。

ここから東西に延びる関宿を東に向かいました。
古い建物が旧東海道の両脇に並んでいます。
地蔵院の東側は中町と呼ばれています。


撮影: 2012年1月

歩き出してすぐ左手に入った所に福蔵寺があります。


撮影: 2012年1月

福蔵寺は、織田信長の三男・織田信孝の菩提寺として
1583年(天正11年)に建立されています。

織田信孝の母は、北伊勢の豪族の娘とされています。
信孝は、織田家後継ぎとなった三法師の後見人として
岐阜城を居城としていましたが、1583年11月、柴田勝家が
賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた後、秀吉と組んだ兄・信勝に
居城の岐阜城が囲まれると、開城します。

この後、信孝は愛知県知多半島の野間で自害しています。
この時、検視役だった大塚俄左衛門が福蔵寺に
持ち帰り篤く葬ったと伝えられています。

野間の散策記はこちらです。


撮影: 2012年1月

福蔵寺の本堂と観音堂(上左の写真)と地蔵堂です。
境内には関の小万の墓もありました(下写真)。


撮影: 2012年1月

小万は久留米藩家臣・牧藤左衛門の遺子でした。
小万の母は、夫の仇・小林軍太夫を討とうと、身重の
身体で関までたどり着いたところで、小万を出産します。

関の宿主は、小万の母の遺志を汲み、小万を育て、
亀山の道場で武芸を習わせ、仇討ちの機会を伺いました。
そして、1781年(天明3年)に小万は仇討ちを果たしたそうです。

城下町・亀山の散策記はこちらです。

福蔵寺から旧東海道に戻り東に向かいました。
ずっと古い町並みが続いています。


撮影: 2012年1月

家々には卯建(うだつ)が挙がっています。
この先には高札場があり、当時の札が
いくつか掲げられています。


撮影: 2012年1月

関宿の建物の中には、白壁の建物も見かけました。
虫篭窓のある建物も見かけます。


撮影: 2012年1月

上左の写真は旅籠玉屋です。
関で泊まるなら鶴屋か霊屋と言われた
関宿を代表する旅籠だったようです。
歴史博物館として内部が公開されています。

店の入り口は開放的な造りで、店の間と呼ばれています。
当時は店の主人が宿泊代の管理などをしていたのでしょうか。


撮影: 2012年1月

店の間の奥に宿泊客用の部屋が続きます。
中庭の向こうには離れがありました。


撮影: 2012年1月

旅籠玉屋歴史博物館の隣の建物は
現役の宿屋さんがありました。
博物館の部屋と同じような部屋で
泊まることが出来るのではないでしょうか。

この先も、ずっと古い建物が続いています。
途中に旧伊藤本陣跡の碑がありました。
その先に、眺関亭という建物がありました。


撮影: 2012年1月

この建物の裏側は階段になっていて、
関の宿場の様子を眺めることが出来ます。


撮影: 2012年1月

甍が続く宿場の様子をこうして眺める機会は
なかなか無く、貴重な経験でした。

眺関亭の東側から眺めた様子です。


撮影: 2012年1月

この先も古い建物が続きます。
下左の建物は、先ほどの玉屋と共に名を馳せた鶴屋です。
そして、下右の写真は関まちなみ資料館です。

 
撮影: 2012年1月

関まちなみ資料館は、江戸時代末期に
建てられた旧別所邸の町屋を公開しているものです。


撮影: 2012年1月

江戸時代の日常品など、暮らしぶりが分かる展示と共に、
当時の旅籠の様子を再現したと思われる一角もありました。

関まちなみ資料館から少し東に行った先の
角を左に曲がり少し行くと瑞光寺があります。

瑞光寺(下左写真)は、1371年(応安4年)に創建されています。
徳川家康と親交のあった豊屋永隆和尚が中興しています。
1615年(元和元年)というので、大坂の陣の時でしょうか、
家康がこの地に来た際に、瑞光寺を訪れた際に、寺の柿を
食したそうで、それ以降権現柿と呼ばれているそうです。


撮影: 2012年1月

瑞光寺の道を挟んだ東隣には延命寺があります(上右)。
延命寺の山門は、川北本陣の屋敷門だったそうです。
川北本陣は、江戸初期の慶長年代から1870年
(明治3年)まで続いたそうです。

ちなみに、福蔵寺や瑞光寺そして延命寺など
旧東海道の北にあるお寺は北裏という地区にあります。

延命寺の後、三度旧東海道に戻りました。
更に東へ向かいますが、この辺りも古い建物が続きます。


撮影: 2012年1月

地元の百五銀行も、白壁の町屋風の建物になっていました。

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木崎・東追分

百五銀行からもさらに古い町並みが続きます。

関宿では、観光客用のお土産物屋さんや食べ物屋さん
も少なく、普段通りの暮らしが、古い町並みに
息づいているといった感じがします。


撮影: 2012年1月

道幅は、車が一台通れるほどの幅です。
現在は、東から西への一方通行です。

当時、行き来が多い時は、人をかき分けて
歩くような事もあったのではないでしょうか。

この先に、広い道幅の側道との交差点がありました。
交差点には松が生え、風情のある景色でした。


撮影: 2012年1月

ここは、江戸時代に御馳走場と呼ばれていました。
御馳走場は、身分の高い武士や公家が、関宿に出入りした
際に、宿場の役人が出迎えや見送りを行った場所だそうです。

御馳走場から東が木崎地区になります。
中町から引き続いて古い町並みが
旧東海道に沿って続いていました。
しっとりと、落ち着いた街並みです。


撮影: 2012年1月

このしばらく先で、旧東海道は緩やかな下り坂になりました。


撮影: 2012年1月

関宿の中心部は、小高い台地に上にあることが分かります。
この辺りには、昭和に建てられたような民家が建っていました。

このなだらかな下り坂の先には鳥居が建っていました。
ここが東追分で、当時の関宿の東端にあたります。
そして伊勢街道との分岐点だったところです。


撮影: 2012年1月

この鳥居は、伊勢神宮の式年遷宮の際に、
古い鳥居を移しているのだそうです。

この鳥居を抜ける道は伊勢街道で、伊勢神宮参拝の
際は、この鳥居をくぐって旅を続けたことになります。

伊勢神宮の散策記は こちら です。

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新所・西追分

関宿の東端の東追分から、散策を始めた地蔵院に戻りました。
重要文化財に指定されている本堂・鐘楼・愛染堂の様子です。


撮影: 2012年1月

地蔵堂の目の前の旧東海道の様子です。
この辺りには、食べ物屋さんが軒を連ねています。


撮影: 2012年1月

ここから西に向かいました。
地蔵院の西側は新所と呼ばれていました。
新所も街道の両脇に古い町並みが続いています。


撮影: 2012年1月

旧東海道の両脇の家々の間からは
鈴鹿の山が見えてきています。


撮影: 2012年1月

時折、地蔵院の西側でも白壁の建物も見かけました。


撮影: 2012年1月

家の"平"側が通りに面した蔵造りの建物で、
当時は店として用いられていたものと思います。
この様な蔵造りの建物は見世蔵と呼ばれています。

関宿の西側も宿場の外れに近づくと下り坂になりました。
この先、坂道を下った所には西の追分がありました。


撮影: 2012年1月

旧東海道は関の西側で、鈴鹿峠を越える旧東海道と、
加太越えで奈良に向かう街道が分かれていました。
その分かれ目が西の追分でした。

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