亀山市は三重県の中北部にある人口5万人程の街です。
江戸時代には亀山藩が置かれ、中世からの亀山城が
また、城下を東海道が通り、東海道46番目の
明治以降は、関西本線と紀勢本線の接続駅として
亀山の街は、2012年1月に散策しています。
亀山城は本丸の東側に三之丸、南西に西之丸が置かれていました。
亀山駅の北口から真っすぐ北に向かう道を通ると、亀山城の
旧東海道を東に向かうと、家々が立ち並ぶ中、
古い家には屋号が貼ってあり、
遍照寺の創建はいつか判っていないそうですが、
旧東海道から参道が南に延び、
この本堂は、亀山城二之丸御殿の式台と
遍照寺から先、旧東海道を更に上ります。
ここが亀山城三之丸の東南の端になります。
大手門跡から東へは商店街が続いています。
この辺りは、東西に延びる高台の上にあり、商店街の
この商店街の北側には福泉寺がありました。
福泉寺は創建年が分かっていないそうですが、元々は
そして、福泉寺から70m程東には江戸口門跡がありました。
案内板がなければ、通り過ぎてしまいそうな
旧東海道は、亀山城下を東西に走り、
亀山駅前から北に向かう道との交差点に
亀山宿には「亀山領内東海道分間絵図」という
亀山宿の碑の先のちょっとした坂道を上ると、
上写真右の「かどや」と書かれた建物は、江戸時代の
飯沼慾斎生家跡から南に下ると本久寺があります。
お寺には、歴代藩主の位牌など縁の品々があるようですが、
本久寺から飯沼慾斎生家跡前に戻る一本手前の
善道寺も亀山藩ゆかりのお寺で、亀山藩2代藩主
善道寺から道一本北側に旧東海道が通り、
この旧舘家住宅は、内部が公開されていました。
板の間の部屋から眺める蔵の様子が印象的でした。
東海道を行き交う人たちで、繁盛したお店だった事でしょう。
旧東海道を東に戻り、飯沼慾斎生家跡の角を北に折れました。
ここが亀山城大手門跡になります。
城下に入ると、町家ではなく侍屋敷(武家屋敷)が
下の写真は、旧加藤家跡です。
母屋は、亀山城藩主御殿が火災で焼失した際に、
加藤家屋敷跡から、再び旧東海道に戻り
この下り坂の途中に梅厳寺があり、その門前に
今でも、京口門跡は亀山の市街地の外れで
亀山城下町、旧東海道・亀山宿、三重県
Kameyama Castle Town, Mie
2002年にシャープの亀山工場が建てられ、2012年にかけて
「世界の亀山モデル」として名を馳せた町です。
改修され、亀山藩の藩庁が置かれていました。
宿である亀山宿が置かれていました。
機関区も置かれ、鉄道の要衝の町でした。
その際の様子を中心にお伝えします。
三之丸と西之丸の南を東海道が通り、亀山の東西を結んでいました。
三之丸の東側が現在の東町で、西之丸が西町となっています。
撮影: 2012年1月
堀跡の池の手前で、東西に横切る道との交差点があります。
この東西の道が旧東海道になります。
左右に曲がりながら坂道を上っていきます。
撮影: 2012年1月
当時は町屋が続いていたと思います。
その途中に、遍照寺がありました。
撮影: 2012年1月
江戸時代初めには存在していたようです。
鐘楼を兼ねた山門を抜けると、参道は
下り坂となり、その先に本堂がありました。
撮影: 2012年1月
書院を移築したものだそうです。
折れ曲がった旧東海道が高台に行きつくと、
そこが亀山城の大手門跡になっています。
撮影: 2012年1月
旧東海道はここで南から東へ90度向きを変えます。
撮影: 2012年1月
江戸時代にも、東海道に沿って町屋が続いていた事でしょう。
一角からは、遠く鈴鹿山脈の山々を見下ろす事が出来ました。
撮影: 2012年1月
撮影: 2012年1月
天台宗のお寺だったそうで、歴史の古いお寺だと思います。
撮影: 2012年1月
街中の一角ですが、江戸時代はここが
亀山城の東の端だったところです。
大手門跡から坂道を南に下っていきます。
亀山駅前から北に向かう道と交差した後、
坂道を登って西之丸の南側へと繋がっています。
撮影: 2012年1月
亀山宿の石碑がありました。
地図が残されているそうで、縮尺 1/ 1800、6巻
22.5mもの大作で、亀山宿の碑の辺りの絵図が、
掲示されていました。
西之丸の南側だった辺りに出ました。
この辺りも古い町家風の建物が残っています。
撮影: 2012年1月
本草学者・飯沼慾斎
今は、この建物は残念ながら取り壊されているようです。
撮影: 2012年1月
法華宗陣門流の寺院で、亀山藩主石川家の菩提寺です。
茶室半鐘と呼ばれる小振りな半鐘があるようです。
道を西に向かうと善道寺がありました。
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撮影: 2012年1月
板倉勝澄寄進の石灯篭が門前にありました。
板倉勝澄は、亀山藩二代目藩主でしたが、病がちで、
幕府から、東海道の要衝の地、亀山を治めることは
出来ないと判断され、備中松山に移封されています。
その角に旧舘家住宅がありました。
昔ながらの商家の建物で、てっきり江戸時代からの建物と
思っていましたが、1876年(明治6年)に建てられたそうです。
撮影: 2012年1月
玄関を入ったところの板の間の部屋は、
奥にある蔵と繋がっていました。
撮影: 2012年1月
下の写真は、書斎と2階の様子です。
撮影: 2012年1月
亀山に鉄道が開通したのは1889年(明治29年)の事です。
それ以降、人の流れは大きく変わってしまったと思われます。
JR西日本の関西本線の乗車記はこちらです。
古い住宅地の中の道が、クランク状に折れ曲がっています。
撮影: 2012年1月
クランクした道は、大手門の桝形の跡です。
この大手門から北側が、当時は亀山城下でした。
並んでいたはずで、今でもその趣を残す建物が残っています。
加藤家は1744年(延喜元年)に備中高松から、
城主・石川総慶と共に移住した、亀山藩家老職の家でした。
撮影: 2012年1月
仮御殿として使われたほど立派な建物だったそうですが
今は、長屋門と土蔵そして土塀が残るのみとなっています。
東に向かうと、東海道は坂道を下るようになります。
京口門跡の案内板がありました。
撮影: 2012年1月
門跡からは、切れ込んだ小川の流れが見えていました。