亀山城下町、旧東海道・亀山宿、三重県
Kameyama Castle Town, Mie

亀山市は三重県の中北部にある人口5万人程の街です。
2002年にシャープの亀山工場が建てられ、2012年にかけて
「世界の亀山モデル」として名を馳せた町です。

江戸時代には亀山藩が置かれ、中世からの亀山城が
改修され、亀山藩の藩庁が置かれていました。

亀山城の登城記はこちらです。

また、城下を東海道が通り、東海道46番目の
宿である亀山宿が置かれていました。

明治以降は、関西本線と紀勢本線の接続駅として
機関区も置かれ、鉄道の要衝の町でした。

JR西日本の関西本線の乗車記はこちらです。

亀山の街は、2012年1月に散策しています。
その際の様子を中心にお伝えします。

東町

亀山城は本丸の東側に三之丸、南西に西之丸が置かれていました。
三之丸と西之丸の南を東海道が通り、亀山の東西を結んでいました。
三之丸の東側が現在の東町で、西之丸が西町となっています。

亀山城の登城記はこちらです。


撮影: 2012年1月

亀山駅の北口から真っすぐ北に向かう道を通ると、亀山城の
堀跡の池の手前で、東西に横切る道との交差点があります。
この東西の道が旧東海道になります。

旧東海道を東に向かうと、家々が立ち並ぶ中、
左右に曲がりながら坂道を上っていきます。


撮影: 2012年1月

古い家には屋号が貼ってあり、
当時は町屋が続いていたと思います。
その途中に、遍照寺がありました。


撮影: 2012年1月

遍照寺の創建はいつか判っていないそうですが、
江戸時代初めには存在していたようです。

旧東海道から参道が南に延び、
鐘楼を兼ねた山門を抜けると、参道は
下り坂となり、その先に本堂がありました。


撮影: 2012年1月

この本堂は、亀山城二之丸御殿の式台と
書院を移築したものだそうです。

遍照寺から先、旧東海道を更に上ります。
折れ曲がった旧東海道が高台に行きつくと、
そこが亀山城の大手門跡になっています。


撮影: 2012年1月

ここが亀山城三之丸の東南の端になります。
旧東海道はここで南から東へ90度向きを変えます。


撮影: 2012年1月

大手門跡から東へは商店街が続いています。
江戸時代にも、東海道に沿って町屋が続いていた事でしょう。

この辺りは、東西に延びる高台の上にあり、商店街の
一角からは、遠く鈴鹿山脈の山々を見下ろす事が出来ました。


撮影: 2012年1月

この商店街の北側には福泉寺がありました。


撮影: 2012年1月

福泉寺は創建年が分かっていないそうですが、元々は
天台宗のお寺だったそうで、歴史の古いお寺だと思います。

そして、福泉寺から70m程東には江戸口門跡がありました。


撮影: 2012年1月

案内板がなければ、通り過ぎてしまいそうな
街中の一角ですが、江戸時代はここが
亀山城の東の端だったところです。

西町、西丸町

旧東海道は、亀山城下を東西に走り、
大手門跡から坂道を南に下っていきます。
亀山駅前から北に向かう道と交差した後、
坂道を登って西之丸の南側へと繋がっています。


撮影: 2012年1月

亀山駅前から北に向かう道との交差点に
亀山宿の石碑がありました。

亀山宿には「亀山領内東海道分間絵図」という
地図が残されているそうで、縮尺 1/ 1800、6巻
22.5mもの大作で、亀山宿の碑の辺りの絵図が、
掲示されていました。

亀山宿の碑の先のちょっとした坂道を上ると、
西之丸の南側だった辺りに出ました。
この辺りも古い町家風の建物が残っています。


撮影: 2012年1月

上写真右の「かどや」と書かれた建物は、江戸時代の
本草学者・飯沼慾斎
(いいぬまよくさい)の生家でした。
今は、この建物は残念ながら取り壊されているようです。


撮影: 2012年1月

飯沼慾斎生家跡から南に下ると本久寺があります。
法華宗陣門流の寺院で、亀山藩主石川家の菩提寺です。

お寺には、歴代藩主の位牌など縁の品々があるようですが、
茶室半鐘と呼ばれる小振りな半鐘があるようです。

本久寺から飯沼慾斎生家跡前に戻る一本手前の
道を西に向かうと善道寺がありました。


撮影: 2012年1月

善道寺も亀山藩ゆかりのお寺で、亀山藩2代藩主
板倉勝澄寄進の石灯篭が門前にありました。
板倉勝澄は、亀山藩二代目藩主でしたが、病がちで、
幕府から、東海道の要衝の地、亀山を治めることは
出来ないと判断され、備中松山に移封されています。

善道寺から道一本北側に旧東海道が通り、
その角に旧舘家住宅がありました。
昔ながらの商家の建物で、てっきり江戸時代からの建物と
思っていましたが、1876年(明治6年)に建てられたそうです。


撮影: 2012年1月

この旧舘家住宅は、内部が公開されていました。
玄関を入ったところの板の間の部屋は、
奥にある蔵と繋がっていました。


撮影: 2012年1月

板の間の部屋から眺める蔵の様子が印象的でした。
下の写真は、書斎と2階の様子です。


撮影: 2012年1月

東海道を行き交う人たちで、繁盛したお店だった事でしょう。
亀山に鉄道が開通したのは1889年(明治29年)の事です。
それ以降、人の流れは大きく変わってしまったと思われます。

JR東海の関西本線の乗車記はこちらです。
JR西日本の関西本線の乗車記は
こちらです。

旧東海道を東に戻り、飯沼慾斎生家跡の角を北に折れました。
古い住宅地の中の道が、クランク状に折れ曲がっています。


撮影: 2012年1月

ここが亀山城大手門跡になります。
クランクした道は、大手門の桝形の跡です。
この大手門から北側が、当時は亀山城下でした。

亀山城の登城記はこちらです。

城下に入ると、町家ではなく侍屋敷(武家屋敷)が
並んでいたはずで、今でもその趣を残す建物が残っています。

下の写真は、旧加藤家跡です。
加藤家は1744年(延喜元年)に備中高松から、
城主・石川総慶と共に移住した、亀山藩家老職の家でした。

 
撮影: 2012年1月

母屋は、亀山城藩主御殿が火災で焼失した際に、
仮御殿として使われたほど立派な建物だったそうですが
今は、長屋門と土蔵そして土塀が残るのみとなっています。

加藤家屋敷跡から、再び旧東海道に戻り
東に向かうと、東海道は坂道を下るようになります。

この下り坂の途中に梅厳寺があり、その門前に
京口門跡の案内板がありました。


撮影: 2012年1月

今でも、京口門跡は亀山の市街地の外れで
門跡からは、切れ込んだ小川の流れが見えていました。

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