静岡市は東西に細長い静岡県のほぼ中央に
位置する静岡県の県庁所在都市です。
静岡の街は、戦国時代に今川氏の居館が置かれ
その居館跡に築かれた駿府城の城下町が
府中宿として栄えて以来、発展してきました。
東海道53次の府中宿の地が「静岡」という
地名になったのは明治以降です。
静岡という名前の由来は市街の北西にある
賎機山から付いたとそうです。
2003年4月には隣の清水市と合併し、
2005年には政令指定都市になっています。
そのいくつかを2009年2月に訪れました。
その時の様子を紹介します。
静岡の街を抱え込むような賎機山の周囲には
静岡の歴史を作ってきたいくつかの
古刹や神社がありました。
そのうちの一つが臨済寺です。
臨済寺は、元々は今川氏7代・氏親が出家した子の
栴岳承芳(後の今川義元)の為に建立した
善徳院がその前身だったようです。
享禄年間(1528〜1531年)の頃だそうです。
今川義元の兄・今川氏輝が若くして亡くなった際、
この寺に葬られ、その際に義元の軍師だった太原雪斎が
師の大体禅師を京から招き臨済寺と改称しています。
駿府城を訪れた後、雨も酷くなり
タクシーで臨済寺へと向かいました。
タクシーを降り、参道を歩くと緑深い賎機山に
抱かれたような臨済寺の仁王門が見えてきました。
臨済寺の仁王門です。
「大龍山」と書かれた扁額は
徳川慶喜公の直筆だそうです。
堂々として歴史を感じさせる門ですが、
明治に再建され、近くの浅間神社の
仁王門がここに安置されています。
この仁王門をくぐると目の前に
山の中腹の方丈へと階段が続いていました。
山の中腹へと真っ直ぐ延びる鬼階段。
折からの雨脚が激しくなり、
方丈は水煙に霞むようでした。
鬼階段の途中で振り返って
眺めた仁王門の様子です。
鬼階段を上って辿り着いた方丈、
座禅堂(護国道場)と鐘楼です。
正面の方丈は国の重要文化財に、
方丈の裏、賎機山に斜面に築かれた
庭園は名勝に指定されています。
臨済寺は修行道場のお寺で、
多くの雲水が修行しており
一般の拝観は認められていません。
建物の入り口に掲げられた
「拝観謝絶」「寺内静寂」の立札。
俗世間におもねる事をしない、といった
凛とした空気が伝わってきました。
臨済寺は、今川氏に人質になっていた徳川家康が
8歳の時の1549年(天文18年)から12年もの間、
太原雪斎に学問を学んだ手習いの部屋もあります。
拝観謝絶なので、特別公開の日以外は
方丈の内部も庭園も、手習いの部屋も
見る事は出来ないのが残念です。
方丈から鬼階段を下り、仁王門の
左手にある新仏殿を巡って、
山の中腹の墓地に向かいました。
この墓地の奥に太原雪斎のお墓があります。
太原雪斎の墓地へと向かう途中に
見下ろした新仏殿と静岡の街の様子です。
今では臨済寺の門前は家で埋め尽くされていますが
明治初期の写真では、この門前には田圃が広がっており、
臨済寺はごく近年まで人里離れた所にあったようです。
臨済寺の墓地の上に、歴史上の
人物のお墓がいくつかありました。
こちらは、豊臣秀吉の子飼いの大名、
中村一氏公のお墓です。
中村一氏は北条征伐の際に、
箱根の山中城攻略で手柄を挙げ、
1590年(天正18年)に駿府城主になっています。
今川氏輝は今川氏8代当主です。
今川氏輝は1536年(天文5年)に弟の彦五郎と
同じ日に亡くなっており、その死後、今川家では
跡取り相続に関わる乱が生じ、出家した
栴岳承芳(後の今川義元)が
今川氏の当主となります。
その今川義元を補佐した
太原雪斎の墓がこちらです。
太原雪斎は、僧でありながら、義元の
名代となり三河に攻め込んだ事もあり、
今川氏の興隆を支えた人です。
その太原雪斎が、今川氏の支配を勝ち取り、
人質とした三河の豪族・松平氏の後継者に
何故、熱心な教育を施していたのでしょうか。
この臨済寺を訪れて以来のこの疑問は
いまだに答えが出ないままです。
太原雪斎が亡くなったのは1555年(弘治元年)、
今川義元が桶狭間で斃れる5年前の事です。
太原雪斎の死後、駿河・遠江・三河を支配した
今川氏の勢力は急速に衰えたのでした。
臨済寺から南に向かい、
静岡浅間神社を訪れました。
賎機山の南端の麓に位置する浅間神社は
古くから信仰を集めてきた神社です。
折からの雨がいよいよ激しくなってきました。
神部神社、浅間神社そして大歳御祖
(おおとしみおや)神社の3つの神社の総称です。
最も古い神部神社は2100年前というので
紀元前からの歴史を持っているそうです。
大歳御祖神社は1700年前、浅間神社は
1100年前と、長い歴史を有しています。
街道沿いの総門を抜けると回廊に
囲まれた楼門が見えてきました。
静岡浅間神社は鎌倉将軍家をはじめ、
今川氏や武田氏の庇護を受けてきました。
今川氏に人質になっていた家康はこの浅間神社で
元服をし、その後も篤く信仰したそうです。
それ以来、江戸時代には歴代将軍の
祈願所になっていたそうです。
静岡浅間神社の御神水井戸です。
この静岡浅間神社の社殿は、三代将軍・
徳川家光公が造営していますが火災に遭い、
1804年(文化元年)から60年の歳月を
かけて再建されているそうです。
楼門の内側にある舞殿とその奥の大拝殿です。
珍しい二階建の大拝殿は浅間造りと呼ばれ
国の重要文化財に指定されているようです。
生憎の雨で、拝殿から滴り落ちる大粒の雨粒が
傘を突き破るかのような勢いで落ちてきました。
この大拝殿の奥、階段を上ったところに
浅間神社と神部神社の本殿が並んでいるそうです。
大雨の中で満足な参拝も出来ずに
大歳御祖神社に向かいました。
大歳御祖神社は273年(応神天皇2年)に
創建されたと伝わっているそうです。
写真は、赤鳥居と神門です。
この神門と拝殿は、第二次大戦で焼失し
鉄筋コンクリートの再建ですが、この奥の
本殿は1836年(天保7年)に竣工し、
国の重要文化財に指定されています。
この頃には、大雨でカメラの内部に
湿気が入ってしまったのか、レンズが
内側から曇ってしまいました。。。
門を入ったところに
「しぐれ塚」がありました。
石造りの柵の中に卵型の
碑が置かれています。
この碑には「芭蕉排青居士」と芭蕉の命日の
元禄七年十月十二日と刻まれていたそうです。
芭蕉の次の句から「しぐれ塚」と
呼ばれているそうです。
"今日ばかり 人も年よれ 初しぐれ"
この碑には句らしいものは
刻まれていませんでした。
近くに別の石碑がたっていたので
そちらが句碑だったのかもです。
この瑞龍寺でも、墓地に行ってみました。
墓地の上に朝日(旭)姫の供養塔があります。
朝日姫は秀吉の異父妹です。
尾張中村の地で、佐治日向守に嫁いでいました。
小牧長久手の戦いで、家康に敗れた秀吉は
家康を従わせようと、朝日姫を佐治日向守と
離別させ家康に嫁がせます。
朝日姫43歳の時、1586年(天正14年)でした。
秀吉は更に、生母までを家康に人質に出し
家康を服従させますが、夫と離別させられた
朝日姫は、家康に嫁いで4年後の
1590年(天正18年)に亡くなっています。
朝日姫と佐治日向守は仲睦まじい夫婦であったそうで
佐治日向守は離別させられた後に
憤りのあまり自刃したと伝わっています。
秀吉は天下を手に入れると朝鮮半島に攻め込み、
国土を疲弊させ、その権力は15年と続きませんでした。
自分の親や妹までも売り、権力を手にした秀吉。
彼の目指したものは、何だったのでしょうか。
賎機山の南端西側にある瑞龍寺から
バスで静岡駅前まで戻り、静岡鉄道に乗り換え
静岡市中心部東側の清水寺に向かいました。
音羽町で下車し、清水寺に向かいました。
清水寺の門前に立つ松です。
家康下乗松という名前が付いています。
家康は、清水寺の堂宇を寄進しているので
ここを訪れた際に、ここで馬を下りたのでしょうか。
下乗松の脇の、清水寺の門です。
奉納と書かれた赤い提灯の絵が並ぶ
看板が掲げられ、他のお寺の門とは
趣が異なります。
この門をくぐり、左側の階段を上っていきました。
雨は小降りになりましたが、空は依然として暗く
濡れた参道は陰々とした雰囲気でした。
ここにも芭蕉の句碑がありました。
"駿河路や はなたちばなも 茶のにおい"
この句は1694年(元禄7年)、芭蕉の生涯最後の旅となる
「後の旅」の途上、大井川増水で足止めをうけた
島田宿で詠んだ句だそうです。
この句碑は1770年(明和7年)に建てられています。
この句碑の上に鐘楼がありました。
清水寺の梵鐘は最後の将軍・徳川慶喜公と
徳川家達公の揮毫があったそうです。
この鐘は第二次大戦中に供出させられたものを
1950年(昭和25年)に復元したものだそうです。
この先にあった観音堂です。
1603年(慶長7年)に徳川家康が建立したものです。
家康は自分の持念仏である
千手観世音菩薩を収めたそうです。
境内には石仏や句碑が
あちこちに見られました。
まるい碑は、山村月巣の句碑です。
"名月や 心一つの 置きどころ"
他に訪れる人のいない清水寺を辞して
街中にある華陽院を目指しました。
清水寺を訪れた後に、再び静岡鉄道に乗り
今度は一駅、新静岡寄りの日吉町で下車しました。
日吉町駅から向かった先は
華陽院(けよういん)です。
華陽院は、家康の祖母・源応尼の菩提寺です。
元々は知源院という名のお寺でしたが、後に
源応尼の法名から華陽院と改められました。
源応尼は三河・刈谷城の城主・水野忠政の
妻で、家康の生母・於大の方の母であり、
徳川家康の祖父・松平清康の後妻だった人です。
源応尼は、今川義元に人質となった
徳川家康の養育の為に岡崎から呼ばれ、
知源院(現・華陽院)近くの庵に住んだという事です。
家康は 1551年(天文20年)から桶狭間の戦いに
出かける1560年(永禄3年)までの間、
駿府の地で、源応尼に育てられました。
日吉町駅から華陽院へ向かいました。
旧東海道の宿場町あたりを歩きますが
目指す華陽院はなかなか見当たりませんでした。
古い大きな敷地のお寺を思い浮かべ、
何度も同じところを行ったり来たりして
やっと華陽院を見つけました。
1940年(昭和15年)の大火に遭った華陽院は
意外にも山門もなく近代的な本堂でした。
境内には家康お手植えの
蜜柑の木がありました。
家康は、源応尼が近くに住む知源院
(現・華陽院)によく遊びに来ていたそうで、
住職の知短は家康に学問を教えたそうです。
源応尼は、家康が1560年(永禄3年)に
今川軍の先鋒として尾張へ攻め込む
途上(桶狭間の戦い)、亡くなったそうです。
源応尼のお墓です。
家康は、1609年(慶長14年)に大御所として
駿府の地に戻った際に、源応尼(華陽院)の
50回忌に壮大な法要を営み、寺の名を
華陽院と改めたそうです。
華陽院には7歳で亡くなった家康の
5女・市松姫のお墓もありました。
この近くには、家康の側室だった
お久の方のお墓もあったのですが、
見逃してしまいました。
お久の方は、1590年(天正18年)に落城した
山中城の副将・間宮豊前守康俊の娘で、
お久の方の懇願をもとに、時の華陽院住職が
間宮豊前守康俊と弟・間宮監物、城将松田康長を
弔う為、宗閑寺を建立しています。
残念ながら伽藍には昔の面影は残っていませんが
この地で、幼い家康が祖母に見守られながら
育っていたと思うと、感慨も深くなりました。
この伝馬通りが旧東海道です。
静岡市の繁華街に近く、
ビルが建ち並んでいます。
当時の面影を残す建物はみかけませんが
この近くに本陣・脇本陣跡の碑がありました。
その碑の脇にあった当時の
駿府城下、府中宿の様子です。
府中宿は東海道の宿場町でも
1,2を争う程、賑わっていたそうです。
府中宿の東の入り口は清水寺の南の横田。
ここから駿府城の南を通り、安倍川の畔まで
27の町が続いていたそうです。
本陣・脇本陣も下伝馬と上伝馬の二ヶ所あり、
1843年(天保14年)の人口は1万4071人もあったそうです。
伝馬町通りから一旦北に向かい、
静岡鉄道の線路を渡ります。
向かった先は、一加番稲荷神社です。
元々は静岡駅西側辺りの紺屋町にあったそうですが
1651年(慶安4年)の由比正雪の乱の後に
この地に移されたそうです。
駿府城の周囲には、この一加番屋敷跡の他に
二加番、三加番屋敷跡の稲荷神社が残っています。
設立当時の一加番屋敷は3000坪以上もあったそうですが、
一加番稲荷神社は、雑居ビルの建ち並ぶ中
小さな境内の、どこにでもあるような神社でした。
一加番稲荷神社から再び静岡鉄道の線路を渡り、
静岡駅に向かう途中で、西郷隆盛と
山岡鉄舟の会談跡の碑を見つけました。
西郷隆盛と山岡鉄舟の会談は
江戸に攻め上る官軍に対し、
徳川慶喜の処遇や江戸城明渡などに
ついて話されたものだそうです。
江戸無血開城については、東京・三田にあった
薩摩藩蔵屋敷での西郷隆盛と勝海舟との会談が
知られていますが、この駿府での会談は
その予備会談だったようです。
今は、大きな商業施設のビルになっていて
静岡の中心街に位置しています。