(安祥城址) |
(本證寺) |
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道の両脇に続く松並木が目印です。
国道一号線から分かれてしばらく走ると
道の両側に家並みが続くようになりました。
旧東海道を西に向かうと
やがて熊野神社がありました。
境内は広く、木々の向こうに
神殿がありました。
この熊野神社の鳥居の所には、
いくつかの史跡がありました。
その一つは予科練の碑です。
この辺り、安城市の北部から岡崎市、
豊田市の3市にまたがる地域に
戦時中は第一岡崎海軍航空隊の
基地があったそうです。
今ではその跡地の一部は、
三菱自動車の工場になっていてりして
当時の面影は全くありませんが、
こうした碑を見ると、当時は戦争が
とても身近なものであったと感じます。
そして、ここには一里塚跡もありました。
この一里塚跡も、松の木が数本残るだけで
当時の面影は残っていません。
またここは、鎌倉街道も通っていたようです。
旧東海道を更に西に向かうと
永安寺に辿り着きました。
この永安寺は、この近くの庄屋・
柴田助太夫の霊を祀るお寺との事です。
柴田助太夫は、この辺りの村人の助郷役を
免除するように訴えて刑死させられたそうです。
1677年(延宝5年)の事だそうです。
このお寺には見事な雲竜の松がありました。
枝が地を這い、あるいは立ち上がる
様子はまさに龍そのものでした。
この永安寺からほど近いところに
明治川神社がありました。
安城はかつて日本のデンマークと呼ばれ、
三河平野の中にある農業先進地域でしたが、
この辺りは高さ数メートル程の洪積台地で
江戸時代までは、水が乏しく
稲作には向いていませんでした。
そこで、矢作川の水をこの台地に牽こうと
尽力したのが都築弥厚で,、時は
1808年(文化5年)頃の事だそうです。
都築弥厚の意思は明治になって叶い、
明治用水として、この地域の
農業の発展に大きく貢献しています。
明治川神社は、その都築弥厚を祀る神社です。
明治川神社の神殿もとても立派で
都築弥厚の遺徳が偲ばれます。
その集落の100m程東の、一段低い
田圃の中にこの二子古墳はありました。
古墳のすぐ横を新幹線の高架橋が通っています。
この二子古墳は、3世紀後半から
4世紀初頭に築かれたものだそうです。
卑弥呼の墓とされる箸墓古墳が
3世紀中ごろとされているので、
それよりは年代は下っていますが
比較的古い時代の古墳と思います。
全長は68m、前方部の幅約30m、
後方部幅36mとこじんまりとしていますが、
矢作川流域では2番目に大きな古墳で、
国の史跡にも指定されています。
二子古墳には立ち入る事が出来、
墳丘に登ることが出来ました。
一番高いところで標高7m。
なだらかな坂道が続いて
子供たちの格好の遊び場になりそうです。
墳丘の一番高いところには、
桜井天神社古跡の碑が立っていました。
この墳丘にたつと、すぐ近くを走る
新幹線がよく見えました。
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本證寺は1206年(建永元年)頃に親鸞の
門侶の慶円により創建されたお寺です。
上宮寺、勝鬘寺と並んで三河一向宗の3ヵ寺として
寺勢を伸ばし、1549年(天文18年)の門徒連判状には
武士門徒だけで115名が署名しているそうです。
立派な門構えの前にはお堀、
そして櫓のような建物もありました。
お寺というよりもお城そのものの構えです。
お堀には、菖蒲の花が咲いていました。
山門をくぐり境内にはいると、
境内の中にも内堀が広がり、
その向こうに伽藍が建っていました。
このような伽藍を城郭伽藍というそうですが、
この本證寺ほどその様子が
残っているのも珍しいそうです。
そして境内の真ん中にどっしりとした
本堂が建っています。
本證寺は三河一向一揆の小川の戦いで敗れ、
破却追放の憂き目にあっていますが、
その約20年後の1585年(天正13年)には
復興が許されたそうです。
その後、本堂も再建され、本堂廻縁の勾欄に
寛文3年(1663年)と記されているようです。
本堂の奥に足を進めると、
そこにも外堀と思しき堀がありました。
四方を掘りに囲まれ、本證寺は
まさにお城そのものといったお寺でした。
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安城市の南西部に和泉という地名があります。
岡崎平野の矢作川西岸一帯に広がる
洪積台地のほぼ南の端に位置しています。
少しばかり起伏のある一帯に集落が広がっています。
この和泉の集落には石川丈山や都築弥厚といった
歴史上の人物が生まれたところです。
和泉の集落の北東に和泉八剣神社がありました。
日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とし、
1711年から1715年の正徳年間に本殿が、
1766年(明和3年)に拝殿が建てられたそうです。
境内には古墳もあり、静かでひっそりとしていましたが
境内にはいくつもの社があり、歴史の古さを感じました。
この和泉八剣神社から南に向かうと
丈山苑(じょうざんえん)があります。
江戸時代初めの文化人石川丈山の
邸跡に建てられた庭園や庵です。
石川丈山は名を重之といい、戦国末期の
1583年(天正11年)に、安城・和泉の地に
代々松平家(後の徳川家)に仕えた
三河武士の家に生まれました。
16歳で家康の近習として取り立てられ、
数々の手柄を立てたそうです。
ところが1620年(慶長20年)の大坂夏の陣で
軍令違反を咎められ、蟄居の身となり、
これを機に武士を辞め、儒学者としての道を求め
藤原惺窩に師事したそうです。
その後、漢詩の代表的な人物と知られ、
書道、茶道や庭園設計にも優れていたようです。
晩年は京都一乗谷に詩仙堂を開き、ここで
風雅を楽しむ暮らしを送ったと言われています。
詩泉閣の内部の様子です。
落ち着いた部屋ではお茶を頂くことも可能です。
京都を思わせるような竹林です。
そして、回遊式池泉庭園は京都・東本願寺の
渉成園を模した造りになっているそうです。
渉成園も石川丈山が造ったと言われています。
丈山苑を出て、西にある本龍寺に向かいました。
このお寺には江戸末期にこの地で生まれた
豪農・都築弥厚のお墓があります。
当時は安城のある洪積台地では水が不足し、
稲作を行うことが出来なかったそうです。
都築弥厚はこの不毛の洪積台地に
矢作川の水を引き入れることを計画した人です。
彼はその夢を達成する前に世を去っていますが、
彼の計画は引き継がれ、明治になって
その用水が完成しています。
この明治用水は別の項で
取り上げようと思っています。
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明治用水は、愛知県のほぼ中央に位置する岡崎平野への
灌漑用に矢作川の水を流す為に築かれた用水です。
7つの水門を持つ堰が造られています。
明治用水の水で潤される安城南部の
碧海台地まで20km以上も離れた所です。
豊田市の水源公園がその場所です。
4月には桜が咲き、多くの花見客が訪れます。
明治時代に造られた取水口は、
現在の堰から2kmも上流だったようです。
その後、1901年(明治3年)には300m上流に
石造りの堰堤が築かれたそうです。
矢作川左岸のこの石組がその堰堤跡と思います。
現在の矢作川の取水堰です。
堰の上は自動車が1台通れるだけの細い道しかなく
おまけに柵の高さも低いので足が竦みます。
矢作川の右岸には明治用水へと
導かれる水路がありました。
取水堰も大規模な構造物でしたが、
この取水口も想像以上に規模が大きいものでした。
ここから明治用水の本流がスタートします。
この本流に沿って下っていきましょう。
上の写真の左手に明治用水が流れています。
伊勢湾岸道路の高架橋をくぐり、
暫く行ったところの様子です。
水量豊富な明治用水の流れがよく判ります。
この先で制水門という水量調整の水門がありました。
この場所には明治用水の水を
矢作川に戻す水路もあるようです。
この先で、伊勢湾岸道路の
豊田東ICの中を通ります。
その先で、明治用水は暗渠となりました。
漏水や蒸発対策で暗渠化されたようです。
暗渠の脇には向日葵の花が咲いていました。
この後、再び明治用水の流れが見えるようになりました。
東名高速道路をくぐると愛知環状鉄道の
永覚駅近くに至ります。
この辺りの地形は意外に起伏もあるのですが
明治用水は自然の川をオーバークロスする様に
流れたり、かなり大掛かりな工事だったと思います。
田圃も見えますが、これらの田圃は
明治用水の恩恵で出来ているのでしょう。
永覚駅の様子です。
この先、明治用水はトヨタ自動車の
上郷センターの西側を流れ、そして
西井筋や中井筋が分流していきます。
この先で、明治用水の流れに接したのは
安城市北部の明治川神社です。
明治川神社は都築弥厚を祀る神社です。
この神社の前を流れる明治用水は
暗渠になってしまっていましたが、
用水の水を引き入れる神池もありました。
明治川神社前では明治用水は暗渠を流れていました。
明治川神社の南側では、暗渠の上は
サイクリングロードになっていました。
この先で、名古屋鉄道本線の下を流れて行きました。
この豊かな田圃こそ、明治用水の恵みです。
明治用水によって耕作地の増えた安城は、
一時期、日本のデンマークと呼ばれました。
安城はその後、自動車部品工業が栄え、
その言葉は死語になっていますが、今から
100年以上前に、この用水の重要性に気付き、
私財をなげうって立案した都築弥厚の
先見性に思わず頭が下がります。
この先も、サイクリングロードになっている
明治用水に沿って行きました。
サイクリングロードは名古屋鉄道西尾線沿いの
総合運動公園へと続いていました。
ここでも明治用水は分流しているようでした。