京都・洛北
Northside of Kyoto, Japan



京都の北部には比叡山近くの詩仙堂や、
賀茂川沿いの下鴨神社、その西の
大徳寺や金閣寺(鹿苑寺)と幾つもの
見所が広がっています。

そして、京都の市街を取り囲む山々の奥には
大原や鞍馬の山々へと続いています。

比叡山の様子はこちらです。
鞍馬の様子はこちらです。

洛北というと今の京都市北区の
あたりを指すのでしょうか?
今まで訪れた見所を紹介しようと思います。



上賀茂神社
(Yasaka Shurine.)


上賀茂地区
(Kamigamo Area)


大徳寺
(Daitokuji Temple)


金閣寺(鹿苑寺)
(Golden Pavilion)
Sep. 16, '08


国際会館界隈
(Kyoto International Conference Center)
Sep. 16, '08


一乗寺下り松
(Ichijyo Ji Temple.)
Mar. 08, '12

詩仙堂
(Shisendo.)
Mar. 11, '12

下鴨神社
(Shimogamo Shrine)
Sep. 16, '08




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金閣 (鹿苑寺)


金閣で知られる鹿苑寺は、
元々は藤原公経(西園寺公経)が
所有する山荘だったところです。

鎌倉幕府滅亡直後に、西園寺公経は
後醍醐天皇暗殺の嫌疑をかけられ処刑され
この地も没収になったようです。

1397年(応永4年)、足利義満は
自分の領地と引き換えにこの地を譲り受け、
「北山殿」と呼ばれる、大邸宅を建てました。

この邸宅は御所にも匹敵する規模だったそうです。
この邸宅の舎利殿が金閣です。


総門、そして唐門を抜けると、
目の前に鏡湖池が広がり、
その向こうに金閣が輝いていました。



金閣は一層目が寝殿造り、二層目が武家造り、
三層目は仏殿風と、各階の作りが異なる
特異な形態をしているようです。

しかし、怪しい程の金の輝きで
目が釘付けになってしまいます。

金閣は1950年(昭和25年)に放火に遭い焼失し、
1955年(昭和30年)に復元されています。
また金閣のある庭園は、池泉回遊式庭園で
国の特別史跡・特別名勝に指定されています。


金閣の右手には江戸時代中期に
建てられたという方丈がありました。
この方丈の北側に船のような形をした松があります。



この松は「陸舟(りくしゅう)の松 」といい、
足利義満お手植えの松と言われているそうです。

金閣の後ろの階段を上っていくと
一段高いところにも池がありました。



池の中央に島もあり、白蛇の塚もありました。

この白蛇の塚の先には夕佳亭
(せっかてい)という茶室がありました。



一見すると粗末な小屋のようですが、
戦国時代の風流人・金森宗和が
好んだとされる茶室のようです。

この先には緋毛氈を敷いたお茶席がありました。



金閣は訪れる人が多く、賑わっていましたが
ここでお茶を飲んでゆっくりしていると
心が落ち着いてきました。

そして不動堂に至ります。



弘法大師が作ったとされる
石不動明王が祀られています。
この不動堂の前にも観光客の姿が
絶えることはありませんでした。


煌びやかな鹿苑寺金閣。
世界遺産にも指定されていて
やはりここは日本有数の史跡です。

鹿苑寺の境内を出ると、
送り火の大文字が見えていました。



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国際会館界隈


京都国際会館は京都市街の北、
左京区宝ヶ池にある国立の会議場です。

多くの国際会議がここで開催され、
地球温暖化対策の第一歩となった
京都議定書もここで採択されています。

周囲には山が丘陵が続き、
広い敷地に会議棟が建ち、
さすがに環境のいいところです。



国際会館の南西には
宝ヶ池が広がっていました。

国際会館から眺める比叡山です。



比叡山の様子はこちらです。

比叡山が思ったよりも近くに
聳えていて、びっくりしました。

夕方、会議を終えて外に出たときの空です。



綺麗な夕暮れ空でした。

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一乗寺下り松


銀閣寺から白川通を北に2km程行くと
一乗寺という地名があります。




鞍馬電鉄の一乗寺駅から500m程東、
比叡山に連なる山の麓から少し上った辺り
一乗寺下り松があります。


この鳥居の近くに一乗寺下り松と
二つの石碑が建っていました。



石碑は剣豪・宮本武蔵と吉岡一門との
決闘跡の碑と「大楠公戦陣蹟」の碑です。

こちらは、宮本武蔵と吉岡一門との決闘跡の碑です。



二刀流で有名な宮本武蔵ですが、その半生は謎が多く、
佐々木小次郎との決闘で広く世に知られた巌流島の戦いも
真実はどうであったのか、はっきりしていないようです。

この一乗寺での吉岡一門との決闘も1604年(慶長9年)と
伝わりますが、はっきりとした資料は残っていないようです。

言い伝えでは、宮本武蔵と吉岡氏との間で2度決闘があり、
2度目の決闘で吉岡伝七郎が斃され、それを遺恨に
吉岡一門が数十人(一説には数百人)で武蔵を襲ったものの、
宮本武蔵は見事にこれを破ったというものです。

碑の脇の「下り松」は、宮本武蔵の
戦いの際に生えていた松の四代目です。


こちらは大楠公戦陣蹟の碑です。



1336年(建武3年)に、足利尊氏が京都に攻め入った際、
楠正成らはここに陣を敷き、新田義貞や
奥州から駆けつけた北畠顕家らと共に戦い
足利尊氏軍に勝利したと伝わっています。

一乗寺下り松の宮本武蔵と吉岡一門の
決闘の事は知っていましたが、
同じ場所で足利尊氏と楠正成の
戦があったとは知りませんでした。


この近くに八大神社の鳥居がありました。



この八大神社には一乗寺下り松の
初代の木があるというので、行ってみました。

一乗寺下り松から八大神社に
向かう途中の様子です。



住宅地の中に古い土蔵もありました。
京都というよりも、どこか地方の
古い町の佇まいを感じました。


東に向かい坂道を上り、詩仙堂の先に
八大神社の二の鳥居が見えてきました。



この八大神社は、吉岡一門との戦い前に
宮本武蔵が立ち寄ったと伝えられています。

八大神社の境内には、宮本武蔵の
映画のポスターが沢山貼ってありました。



2003年のNHK大河ドラマで宮本武蔵が
取り上げられた際に、整備されたのでしょうか。

八大神社の本殿です。



この神社に立ち寄った宮本武蔵ですが、
神社で神に祈る事をしなかったそうです。
「我、神仏を尊んで神仏を恃まず」
という言葉を遺しています。



本殿の脇には宮本武蔵の像があり、
初代の「下り松」が祀られていました。

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詩仙堂


八大神社の隣に詩仙堂がありました。



詩仙堂は、石川丈山が築いた住処で
正しくは凹凸カ(穴かんむりに果)というそうです。

石川丈山は戦国末期から江戸初期のにかけての文人で、
三河国碧海郡泉郷(今の愛知県安城市)の出身です。

石川丈山の出生地・安城の様子はこちらです。

石川家は代々松平氏に仕え、丈山も家康に仕官し、
1614年(慶長19年)の大坂夏の陣に参戦し、
一番槍の功を挙げますが先陣争いを禁止していた
軍規違反を咎められ蟄居の罪を得、仏門に入りました。


小有洞と呼ばれる小さな門をくぐり
竹林の間の石段を上って行きます。



数歩進んだけで、周囲の住宅地とは
隔絶された幽玄な雰囲気が広がります。

石段を上りつめると詩仙堂の建物が現れました。



侘びを感じさせる落ち着いた建物です。


その後、石川丈山は藤原惺窩に師事した後
紀州・浅野家、芸州・浅野家に仕官します。

丈山が詩仙堂を造り始めたのは、芸州・浅野家を
辞した5年後、1641年(寛永18年)との事です。


玄関を抜けるとこじんまりとした
庭園が目の前に広がりました。



6月に入りツツジの花も終わりかけでしたが
満開の頃はさぞ綺麗だったろうと思います。

玄関の右手の小さな部屋が
この建物の代名詞になっている詩仙堂で
石川丈山が選んだ三十六歌仙の
肖像が掲げられています。

座敷から眺める庭園です。




写真で見る限りでは、人里離れて隠居した
丈山の結んだ庵には静寂が漂っています。

しかし、この時、二人連れの中年夫人が居り、
声高に世間話を繰り広げていました…

丈山があまりに静かな詩仙堂での暮らしを
慰める為に造ったとされる僧都の音も
かき消され、折角の"空間"が台無しでした。


静かになるのを諦めて庭園の散策に向かいました。
(ちなみに上の二つの写真は、
庭の散策から戻った後に撮っています)


庭から眺めた詩仙堂の建物です。



一段高い建物は月を眺め詩を
吟じたという嘯月楼です。

詩仙堂を出て山の斜面を下ると
小さな庵がありました。



この日は入場者も少なく、庭園は
ひっそりと静まり返っていました。

池のほとりには咲く花が綺麗でした。



詩仙堂の庭園は、石川丈山が暮らしていた
以降に整備された部分も多いそうですが、
緑豊かで、とても市街地に近いところとは
思えない光景にも出会いました。



400年前、丈山がこの庵を結んだ頃の
情景がそのまま残っているようでした。

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下鴨神社 (賀茂御祖神社)


下鴨神社は京都を南北に連ねて流れる賀茂川と
高野川の合流地点に程近いところにあります。

下鴨神社の歴史は古く、創建は紀元前だそうです。
上賀茂神社と対で賀茂神社と総称され、
元々は賀茂氏の氏神を祭る神社だったそうです。

奈良時代以前に、葵祭りに多くの人が押し寄せて
居た事が続日本紀に記されているようです。

平安の世になると朝廷からの崇敬は高まり、
807年(大同2年)には全国の神社で最も高い
正一位の神階を授かったそうです。


下鴨神社は、叡山電鉄の始発駅、
出町柳駅から歩いてすぐのところにあります。

叡山電鉄の乗車記はこちらです。

賀茂川と高野川の合流地点に
架かる橋からの眺めです。



この写真奥の緑の森の辺りが下鴨神社です。
実は、まだ下鴨神社の境内に入った事がないので
いつか訪れてみたいと思っています。

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