豊川
Toyokawa, Japan








豊川は、三河山間部から流れ出し、
三河湾に注ぐ豊川の下流近くに
発達した街です。

豊川は豊川稲荷で知られていますが、
ここは古くから三河の中心だった地で
国府や国分寺、国分尼寺、三河一宮は
すべて今の豊川の市域にあります。





戦国時代も半ば以降を過ぎると
今川氏の勢力が及ぶようになりますが
西三河で興った松平氏が勢力を伸ばすに連れ
この地も戦いに巻き込まれます。

桶狭間の戦いで敗れた今川義元の胴塚は
この豊川にあり、また武田信玄の軍師だったとされる
山本官勘助は、豊川・牛久保が出生の地と伝わります。

そんな豊川の史跡を紹介します。




赤坂宿
(Akasaka Posting Station)
June 23, '12


御油宿
(Goyu Posting Station)
June 25, '12


三河国府跡
(Ruin of Mikawa Kokuhu)
Mar. 18, '14


三河国分寺
(Ruin of Mikawa Kokubun-Ji Temple)
Mar. 24, '14


三河国分尼寺跡
(Ruin of Mikawa Kokubun-Niji Temple)
Mar. 29, '14


西明寺
(Saimyo-Ji Temple)
Apr. 04, '14


財賀寺
(Zaika-Ji Temple)
NEW ! Apr. 11, '17


善住禅寺
(Zenjyuzen-Ji Temple)
Nov. 15, '14


牛久保界隈
(Ushikubo)
June 08, '14


豊川稲荷
(Toyokawa Inari Temple)


三明寺
(Sanmyo-Ji Temple)
June 22, '14


砥鹿神社
(Toga Shrine)




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赤坂宿
(Akasaka Posting Station)








吉田宿(現在の豊橋市)から岡崎へと向かう
旧東海道は、今の名鉄名古屋本線や
国道一号線に沿う様に伸びていました。

このルートでは、三河山地と蒲郡と岡崎の間にある
五井山・遠望根山との間の山間部を抜ける事になります。



この山間部は交通の隘路で、現在も東名高速道路、
国道一号線や名古屋鉄道(名鉄) 名古屋本線が
狭い谷間に折り重なるように走っています。

名鉄の乗車記は
こちらです。


岡崎から東に向かい、この隘路を過ぎ、
豊川流域の平野に差し掛かった辺りに、
江戸時代には赤坂宿と御油宿の二つの宿場がありました。

当時は宿場と宿場の間はおおよそ2里(8km)程
離れているケースが多かったのですが、
この赤坂と御油の間は僅か16丁(1.6km)程しかなく、
二つの宿場間では旅人の争奪も激しかったようです。


赤坂宿は東海道五十三次の宿場町です。
36番目の宿場町、江戸・日本橋から
82里程(=約320km)の距離にありました。





御油宿からは16丁(約1.6km)、
藤川宿から2里9丁(約8.9km)の距離です。


岡崎から国道一号線を東に向かい
本宿を過ぎた山間を抜けると
小さな集落に分け入る小道が現れます。



本宿の様子はこちらです。


この小道が旧東海道で、家々の間からは
山の麓に田圃が広がっていました。



それまでの、車の騒音で溢れる国道一号線の
無味乾燥なアスファルトやガードレールの
景色とは一変したのどかな光景でした。

旧東海道に沿って古い民家と
常夜灯がありました。



かつてはあちらこちらで見られた常夜灯ですが、
今ではあまり見かけなくなっています。

この常夜灯は江戸時代から道行く旅人を
見守ってきたのでしょうか。

傍らには小さな祠もありました。

旧東海道を東に下ると、
音羽川の流れが見えました。



音羽川と並走しながら更に東に向かうと
一里塚跡の碑がたっていました。



当時はこんもりとした塚が築かれていた筈ですが、
その跡は全く見られませんでした。

この近くには旧東海道に沿って
長沢小学校がありました。



この小学校は、戦国時代の長沢城跡です。
校舎の裏に石垣が残っていました。

長沢城跡の登城記はこちらです。

この先で、右手から山が迫り、
小高い丘の上に小さな祠がありました。



しばらく東に進むと、集落が増えてきました。
その中に昔の旅籠を模した建物がありました。

「よらまいかん」という、三河弁で
"立ち寄りましょう"という意味の休憩所です。



当時の赤坂宿の旅籠の様子を描いた
歌川広重の浮世絵もありましたが、
何人もの飯盛女が描かれています。

飯盛女といっても、彼女らの仕事は
食事の給仕ではなく、近くにあった赤坂宿と
御油宿の客引き合戦故だと思います。



この「よらまいかん」の近くには
道端に高札場跡の碑もありました。


この近くにあった旅籠・大橋屋です。

大橋屋は今も現役の宿屋で、
旧屋号は「伊右エ門鯉屋」というそうです。



1716年(正徳6年)に建てられたそうです。

1733年(享保18年)には赤坂宿には400軒の
家屋敷があり、そのうち83軒が旅籠だったそうです。

こちらは本陣跡です。



1711年(宝永8年)には赤坂宿には
4軒の本陣があったそうです。

4軒の本陣や80軒を超える旅籠を有する宿場は
東海道筋でも大きな方だったのではないでしょうか。


赤坂宿本陣近くにあった正法寺です。



この正法寺にはいくつかの仏像がの他に
聖徳太子立像や源範頼守り本尊の観音立像、
徳川家康から寄進された袈裟や団扇などの
文化財が数多くあるようです。


赤坂の町並みを抜けた辺りに
大きなクスノキが茂る関川神社がありました。



関川神社の創建は1001年(長保3年)と伝わり、
このクスノキの樹齢は800年にもなるそうです。

本殿横には立派な芭蕉の句碑もありました。

"夏の月 御油より出でて 赤坂や"

夏の夜の短さを、御油宿と赤坂宿間の
距離の短さを詠ったものです。



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御油宿
(Goyu Posting Station)



御油宿は東海道五十三次の
35番目の宿場町です。
江戸・日本橋から81里3丁程
(=約318.5km)の距離にありました。





赤坂宿から東に向かうと松並木が見えてきました。
赤坂宿と御油宿の間に残る旧東海道の松並木です。



1609年(慶長9年)に整備されたもので、
旧東海道の姿を、最も良く今に残している
松並木として国の天然記念物に指定されています。



当時は600本もの松が並び、夏の陽射しや
冬の北風を旅人から守っていたそうです。
その数は少なくなっているそうですが、
今でも当時の様子を彷彿とさせてくれます。



この松並木が途絶えると御油の宿場に入りました。
赤坂宿から1.6kmなので、自転車ではあっという間です。

御油宿に入ると古い家並みが旧東海道に沿っています。



民家の様な十王堂です。
十王は死者を冥界で裁く裁判官のような
役割の10人の王で、その裁きによって、
次に生まれる所が定まると考えられていました。



古い町並みの途中に東林寺がありました。
この東林寺は室町時代の永享年間
(1429〜1441年)に創建されたお寺です。



ご本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の仏像とされ
源義経と契りを結んだ浄瑠璃姫の
念持仏と言われています。

浄瑠璃姫の住んでいた岡崎・矢作の様子はこちらです。
浄瑠璃姫が身を投げた浄瑠璃ヶ淵の様子はこちらです。


東林寺の西側、イチビキの工場の
辺りに本陣跡の碑がありました。



当時、御油の宿場には
本陣が最大で4軒あったそうです。

その近くの問屋場跡です。



問屋場は公用の荷物や人の継ぎ送りに
必要な人馬を提供していた所です。

御油松並木資料館の所にあった歌川広重の
東海道五十三次・御油宿の浮世絵です。



旅籠の飯盛女が往来の旅人を
店に引き込もうとしている図柄です。

"御油や赤坂、吉田がなけりゃ
なんのよしみで江戸通い"


当時は、御油や赤坂の宿場は
この様に言われていたようです。

活気もあり、妖しい雰囲気の宿場町だったことでしょう。


旧東海道は御油松並木資料館の所から南に折れ
次の門でまた左に折れて、とクランク状に進みます。

2度目の曲がり角のところに
高札場跡がありました。



高札場があったところは今は空き地になっていますが
当時はここにも旅籠があったのでしょうか。

当時、御油宿には最盛期には4つの本陣と
62軒の旅籠があったそうです。

高札場近くの街道の様子です。



ここから東に行くと音羽川に架かる橋を渡りますが
そこが御油宿の東の端だったそうです。

その更に東側には、旧東海道と
姫街道との追分がありました。



ここが、多分その追分に建つ常夜灯です。

姫街道は、浜名湖の北側を大きく迂回する脇街道で
新居宿にあった関所や浜名湖のを避け、
女の人が多く通った事から
その名前が付いたそうです。



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三河国府跡
(Ruin of Mikawa Kokuhu)



名古屋鉄道本線の豊橋寄りに「国府」という駅があります。

名古屋鉄道本線の乗車記は
こちらです。


「国府」と書いて「こう」と読むのですが、
この国府駅の東側に、三河の国府がありました。



国府は奈良時代に全国60余箇所に置かれた国の政庁です。
近くには国分寺や国分尼寺も建てられ、
この辺りは奈良時代には三河の中心でした。


三河と言えば、愛知県の東側、豊橋から岡崎、
豊田そして刈谷辺りまでの地域を示します。

その三河は、三河山地によって隔てられ、豊川水系の
東三河と、矢作川水系の西三河に大きく分けられます。

矢作川が造る岡崎平野の方が豊川が造る
豊川平野よりも流域面積は大きく、今は
人口も多いのですが、奈良時代に東三河に
国府が置かれたというのは興味深いです。




その国府は今は跡形もなく、その跡地には
三河総社という神社が建っています。



三河総社は杜に囲まれ、
その前に鳥居が建っていました。

鳥居をくぐり杜を抜け眺めた本殿です。



奈良時代には、ここに国の政庁が
あったとは、思うべくもありません。

地図を見ると、国府跡には曹源寺も
建っているようで、そちらにも向かってみました。

こちらがその曹源寺です。



門もなく、畑が広がる様子は、農家の佇まいです。
奥の普通の家屋に見える建物がどうやら本堂で、
軒下に小さく「曹源寺」と書いた板が貼られていました。

この本堂の所に正殿があったそうです。


三河国府は、当時の面影は何もなくなっていました。
少々物足りないので、すぐ近くにある
船山古墳まで足を伸ばしました。

国府駅近くから東に向かう姫街道沿いの
こんもりとした杜が船山古墳です。



船山古墳は、古墳時代の中期の
5世紀に築かれたものとされています。

全長は94mの前方後円墳で、
東三河地方では最大の古墳との事です。

道路沿いの鳥居をくぐり、古墳に上ってみました。
古墳が上宿神社の境内になっているようです。

後円部の頂上には、棺が納められていた
と思われるような、石組がありました。



前方部にあった祠です。



こちらはコンクリートの基部に載ったものでした。

この船山古墳は発掘調査が行われており、
古墳の周囲に円筒埴輪が40基、
高さ3mの所からは28基の埴輪が
確認されているそうです。



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三河国分寺
(Ruin of Mikawa Kokubun-Ji Temple)



国分寺は741年(天平13年)の聖武天皇の詔によって
日本全国に建てられたお寺です。

三河の地では、現在の豊川市西部に建てられました。




北に小山を背負い、南には遠く三河湾を
見下ろす景勝の地だったと思われます。



当時の寺の大きさは、東西・南北とも
180mの広大なものだったようです。

南大門、中門、金堂や講堂が一直線上に並び
中門から金堂には回廊が巡らされていたようです。



官制の国分寺も平安時代末には廃れていたようです。
その国分寺も1505年(永正2年)に、近くの西明寺の
機外和尚の尽力で復興したそうです。

2009年10月、その国分寺に行ってきました。



ご本尊の薬師瑠璃光如来と書かれた赤い幟が
参道に続き、青空によく映えていました。

その幟の列の先に本堂が建っていました。



丁度、奈良時代の国分寺の
金堂跡に建っているようです。

本堂に入る手前には、参道の
左右に石仏が並んでいました。



奈良時代の国分寺は官立の寺で、鎮護国家を
願う寺院でしたが、室町時代に復興されて以来、
庶民が安堵を求めるお寺になっていたようです。

国分寺の梵鐘です。



奈良時代に国分寺が建立された当時からのもの
とも言われ、国の重要文化財に指定されています。

しかし、鐘を吊り下げる部分の竜頭や、
その下にある乳の形状などから平安時代に
造られたものと考えられているようです。


この国分寺の周囲は、文化財保護用地と記した
看板が立ち、広い範囲に亘って空き地となっていました。



国分寺跡は発掘調査も行われた様子で
この跡地を史跡として整備する計画が
あるのではないでしょうか。

国分寺の西側の竹林の前には、
塔跡の碑も立っていました。



竹林の中には塔の芯礎の跡も記されていました。



この旧国分寺跡の西側には八幡宮があります。
八幡宮の境内の境に築かれた石垣です。



この八幡宮は、7世紀、天武天皇の頃に
宇佐八幡宮より分祀したものだそうです。
三河国分寺内に祀られていたとも言われています。

本殿は、室町時代の1477年(文明9年)に
建立されたとされる八幡宮の本殿です。



戦国時代の前から、この立派な本殿が
ここに建っていたとは驚きました。



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三河国分尼寺跡
(Ruin of Mikawa Kokubun-Niji Temple)



三河国分寺から東に少し行ったところに
三河国分尼寺跡があります。





ここは、史跡公園として整備され、すぐ隣には
三河天平の里資料館も建っています。



この三河国分尼寺は、国分寺と共に、
奈良時代に聖武天皇の命で建てられています。

当時は150m四方の敷地に、金堂や講堂、
そして経蔵や鐘楼などが建ち、それらの
建物の周囲を回廊が巡っていたようです。


三河国分尼寺では、中門が復元されていました。



発掘調査の結果と法隆寺の門を
参考に建てられたようです。

中門の前には南大門の跡が
地面に記されていました。



中門の左右からは回廊が伸びていたようです。
その回廊の南西角の様子です。



礎石の跡が示されています。
左の写真に見えるお寺は清光寺です。
当時の国分尼寺の境内は、清光寺を
含んだ範囲まで広がっていたようです。


回廊に囲まれた中央部分には
一段高くなった基壇が設けられています。



この基壇は東西26.1m(柱間7間)、南北13.7m(柱間4間)あり、
国分尼寺としては最大級の大きさを誇るようです。



この基壇の中央部からは仏像を
安置した須弥壇も発見されています。

金堂の北側には、西に鐘楼、
東に経蔵がありました。



上の写真は鐘楼跡越しに
講堂跡を眺めた様子です。

そして下の写真が講堂跡の基壇です。



回廊はこの講堂に繋がっていたようです。

講堂の北側には尼房堂や建物跡、そして
掘立柱の塀跡も発掘されているようです。



この国分尼寺はよく整備されているだけあって
当時の様子に思いを馳せる事が出来ました。



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西明寺
(Saimyo-Ji Temple)



国分寺から西に向かうと西明寺がありました。
西明寺の門構はとても堂々しており、
思わず足を止めて訪れる事にしました。



堂々とした赤門です。
扁額には「大寶山」と記されています。

門の脇にある白壁には葵の御門が記されていました。




西明寺は曹洞宗のお寺です。

西明寺のホームページによると、10世紀末に、
三河国守の大江定基公が在任中に最愛の妻を亡くし、
世の儚さを憂い、この地に庵を結んだのが始まりの様です。
その当時は、天台宗の寺院で六光寺と称していました。
鎌倉時代に執権北条時頼公がここを訪れた際に
不動明王像を残され、最明寺としたようです。

その後、曹洞宗に改宗し、1562年(永禄5年)に松平家康が
鷺坂合戦で今川軍と戦った際に、快翁龍喜和尚が
家康の軍に粥を届け、その戦に勝利を納めた家康は
1603年(慶長8年)に御朱印状を与え、西明寺と改称したそうです。



16世紀初頭には、西明寺が荒廃していた国分寺を
復興しているので、戦国時代から江戸時代に
かけて隆盛を保っていたのでしょう。

三河国分寺の様子はこちらです。


西明寺の本堂です。



こちらは衆寮です。



ここには三河国守の大江定基公が
正室・力寿姫の菩提を弔う為に祀った
愛染明王尊像が祀られているそうです。

この西明寺には武田信玄の軍師だった
山本勘助の兄の子孫が追善供養で
立てた勘助のお墓もあったようです。



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財賀寺
(Zaika-Ji Temple)

財賀寺は聖武天皇の勅願で建立された古刹です。
創建は724年(神亀元年)、行基によると言われています。

財賀寺は豊川の北側、三河高原の山の中にあります。

山の麓に仁王門が聳えていました。


撮影: 2010年11月

15世紀後半の室町時代に建てられたものと言われ、
国の重要文化財に指定されています。

仁王門の金剛力士像はとても力強い像でした。


撮影: 2010年11月

金剛力士像も仁王門と同じく国の
重要文化財に指定されています。

仁王門からは石段が続いていました。
手すりなどはなく、江戸時代か、
室町時代のままの様子に思います。


撮影: 2010年11月

どこまで続くともわからない石段でしたが
ここを上っていきました。


撮影: 2010年11月

暫く石段を上ると、参道は平坦となり、
林の中に続いていました。

参道の先はまだ見えていませんでしたが、
左手に本坊とその両脇に文殊堂と
慈晃堂がありました。


撮影: 2010年11月

慈晃堂の前には弘法大師像がありました。
財賀寺は、813年(弘仁4年)に空海が
中興したと言われています。


撮影: 2010年11月

財賀寺の本堂は、本坊から更に上ったところにあります。


撮影: 2010年11月

再び、野趣に富んだ石段を登っていきます。
本坊までは車で上がれるので、ここの
石段には手摺が付いていました。

この石段を登ったところに本堂がありました。


撮影: 2010年11月

源氏復興を願った源頼朝が、この財賀寺に
祈願し、征夷大将軍となり願いがかなった為、
本堂を再建し、1300石を寄進しています。

1192年(建久3年)の事だそうです。


撮影: 2010年11月

現在の本堂は、江戸時代末の1823年
(文政6年)に建立されています。

財賀寺は、戦国時代に入っても、
この地の領地となった牧野氏、今川氏
そして松平氏からの庇護が篤かったそうです。


撮影: 2010年11月

本堂の近くには四国三十三観音がありました。

豊川の山の奥に、これほど歴史ある
お寺があるとは知りませんでした。




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善住禅寺
(Zenjyuzen-Ji Temple)



交通量の多い国道1号線から、名電赤坂駅のところで
北に入ってしばらく行くと、のどかな山里の景色になります。

ここは戦国時代に奥平氏が治めた萩の集落ですが、
ここに善住禅寺があります。





この善住禅寺は8世紀初め頃に、僧・行基が自作した
馬頭観音菩薩像を納める草堂として開かれたそうです。
1384年の至徳年間になり、奥平氏がこの萩の地に
進出するにあたって、菩提寺としたそうです。

戦国時代末期に戦火によって堂宇が焼失したそうですが
江戸時代に入った元和年間(1615年)頃に
復興したと伝わるそうです。



お寺の手前の集落の中に建てられた
大きな石碑に誘われ、善住禅寺を訪れました。


善住禅寺の入り口は綺麗に整備され
立派な階段の先に堂々とした山門が聳えていました。



山門を抜け眺める本堂です。



行基作と伝わる馬頭観音菩薩像が
今でも残されているそうです。

本堂の右手には樹齢350年の
山桃の木がありました。



善住禅寺が復興された頃に植えられたものだそうです。
現地の案内板には、山桃の木は成長が遅く
東三河地方的な植物と書かれていました。

この山桃の木は豊川市の天然記念物になっています。
善住禅寺はこの山桃の他、春には
コバノミツバツツジ、秋には萩の花で有名です。


この善住禅寺の境内の東側の
小高い丘の上に墓地があります。
この墓地に行ってみました。



墓地から眺める善住禅寺の堂宇の様子です。
墓地の入り口近くには地蔵像もありました。



この墓地には、萩城主・奥平周防守家の墓がありました。



奥平氏は元々は今の群馬県甘楽郡を基盤とする豪族でしたが
天授年間(1375〜1381年頃)に三河作手の地に移ります。

運が開けたのは徳川家康の家臣となった奥平貞昌が
わずか500の兵で、1万5千の武田勝頼軍が攻める
長篠城を守り抜き、長篠・設楽原の合戦で
織田・徳川連合軍が大勝利した事です。

長篠城の様子はこちらです。
長篠・設楽原古戦場の様子はこちらです。


萩奥平氏は、二代目・奥平貞久の
四男・奥平主馬允が分家したものです。
16世紀初め頃と思われます。

この墓地からの眺めです。



萩の地は山の狭間の狭い土地で、
萩奥平氏は、戦国時代の激動のなか
この地を守っていたのでしょう。



善住禅寺から近くにあるという萩城を目指しました。
この時は、萩城の場所を見つけられませんでしたが、
周囲にはとてものどかな景色が広がっていました。



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牛久保界隈
(Ushikubo)



豊川市牛久保は、豊川の市街地の南西、
JR飯田線牛久保駅周辺に広がる集落です。

JR飯田線の乗車記はこちらです。


1529年(享禄2年)に、牧野成勝が築いた
牛久保城がその名の始まりの様です。

この牧野氏が後に松平氏に下った事で運が開け、
その一族は長岡藩主になりました。

長岡城の登城記はこちらです。




この牛久保の集落の北西に
牧野成定公廟がありました。



車の往来の激しい通り沿いに、何気なく
廟所があったので、ちょっと驚きました。



牧野成定は三代牛久保城主だった人です。

戦国後期の東三河は牧野氏一族が治める地だった
ようですが、東の今川氏の力が三河の地に及ぶと、
西の松平氏の勢力争いに巻き込まれていきます。

この地域の国人だった牧野氏は、牧野成勝の代に
徳川家康の祖父・松平清康の配下に付きますが、
清康が守山城で急死すると今川氏の配下となります。

1560年(永禄3年)、今川義元が桶狭間で戦死すると、
東三河は再び松平と今川両氏の勢力争いに巻き込まれます。
牧野成定は桶狭間の戦い以降も今川氏に付いていましたが
1565年(永禄8年)頃に家康に下ったようです。

桶狭間の散策記はこちらです。


牧野成定廟所から南に少し行くと
集落の中に光輝院というお寺がありました。



このお寺が牧野成定の菩提寺で、彼の廟所の
場所も以前は光輝院の境内だったそうです。


光輝院のすぐ東には長谷寺がありました。



この長谷寺にはあの山本勘助のお墓があります。



山本勘助は、武田信玄の軍師ですが、
生まれは今の豊橋市だそうです。
15歳の時に、牧野家家臣・大林勘左衛門の養子となり
26歳までの12年程を、この牛久保で過ごしたそうです。

長谷寺の本堂です。



勘助は、26歳の時に諸国へ武者修行の旅に出ますが、
この長谷寺の念宗和尚とは親交が深く、
勘助が川中島の戦いで戦死すると、念宗和尚が
遺髪を納めた五輪の塔を建てて供養したそうです。



山本勘助を葬った五輪の塔です。
この長谷寺には勘助の襟掛本尊の
摩利支天像も安置されているそうです。


長谷寺から更に南東に向かうと東勝寺があります。



この東勝寺の界隈が、山本勘助が養子に入った
大林勘左衛門の屋敷があった辺りといいます。

屋敷跡の碑も立っているようですが、
見つける事は出来ませんでした。


ここから東に向かうと八幡社がありました。



創建は奈良時代と伝わる古い神社です。



一色城主・牧野成時(古白)が、この八幡社に詣でた際、
今川氏親から馬見塚城の築城の命が下り、
これを喜んだ牧野成時が家臣らにお神酒を振る舞い
これが若葉祭と呼ばれる祭りの発端になったようです。

この界隈は、寺町という地名もあるように
数多くの寺院が存在しています。

牛久保ではもう一箇所、お寺に立ち寄りました。
八幡社から更に南東に向かいました。



集落の東側を走るJR飯田線の線路です。

JR飯田線の乗車記はこちらです。


JR飯田線の線路沿いの牛久保駅に近い
大聖寺がその目的のお寺です。



大聖寺の入り口と本堂です。



寂れたお寺の佇まいなのですが、
この大聖寺には今川義元のお墓があります。

お墓と言っても胴塚ですが、この地に日本の近世史に
大きな影響を与えた今川義元のお墓があるとは驚きです。

桶狭間で戦死した今川義元はその首を刎ねられます。
彼の胴は家臣に背負われ、駿府へと向かいますが
湿度の高い梅雨の時期で、遺体の傷みは早く
この地で葬る事になったようです。

今川義元の胴塚です。



敗走する今川軍には義元を丁重に葬る時間の
余裕はなかったようで、手水鉢を横に倒し、
それを目印にして駿河に帰ったそうです。

桶狭間の敗戦から3年後、今川氏真は
この地を訪れ、義元の三回忌を営んだそうです。
塚の一番下は、その時の手水鉢がそのまま使われています。

因みに、今川義元の首は須ヶ口で晒された後に、
鳴海城主だった岡部五郎兵元信の元に返され、
元信は主君の首を駿府に戻る途中、
西尾の東向寺に葬ったと伝わっています。

西尾・東向寺の義元首塚はこちらです。


今川義元の胴塚の左手には
一色刑部少輔時家のお墓もありました。



一色時家は関東公方・足利持氏に仕えた武将で、
1438年(永享10年)に起こった永享の乱で敗れ
関東から三河の地に移ったようです。

この大聖寺のある地に一色城を築いたのですが
1477年(文明9年)、豪族・波多野全慶に殺害されたそうです。

今では小さな境内の大聖寺ですが、
色々な歴史の舞台になったようです。

一色城のページはこちらです。


このすぐ近くには、牛久保城もありました。



牛久保城は1529年(享禄2年)に、一色城主・牧野成勝が
吉田城主・牧野信成の命を受けて築城したお城です。

牛久保城のページはこちらです。





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三明寺
(Sanmyo-Ji Temple)



牛久保の集落から、一色城、牛久保城
そして瀬木城、牧野城と戦国時代にこの地域を
本拠地とした豪族・牧野氏所縁のお城を巡った後、
豊川駅に向かう途中にこの三明寺を見つけました。

一色城のページはこちらです。
牛久保城のページはこちらです。
瀬木城のページはこちらです。
牧野城のページはこちらです。






三明寺は奈良時代の702年(大宝2年)に創建されたお寺です。

平安時代後期に源範頼の兵火により焼失し荒廃したそうですが、
応永年間(1394 - 1428)に後醍醐天皇の皇子・禅僧・無文元遷が
遠州方広寺に向かう際に三明寺を訪れ、荒廃した様子を嘆き
諸堂を再興したそうです。


三明寺の本堂です。



この本堂は江戸時代の1712年(正徳2年)に再建されました。
本堂には本尊の弁財天を安置する宮殿もありました。



この宮殿は室町時代末期の
1554年(天文23年)に築かれたものです。


境内には赤い帽子を被った石仏もありました。



三明寺は、たまたま近くを通り掛かって見つけたお寺で、
豊川駅からも近く、周囲も区画整理が進んで、
新しい街並みになっていますが、なかなか
歴史と趣のあるお寺です。


境内にあった宝飯の聖泉です。



この泉の近くにあった石碑には702年(大宝2年)に
創建された当時の経緯が記されていました。

それによると、この年、文武天皇が
この地を訪れた際に病を得たようです。
その際、宝飯の主神の妙音智辯広財天女が現れ
病気を完治させたそうです。

ちなみに宝飯(ほい)というのは、この地域の郡名で
大昔にこの地域にあった穂の国から来ていると思います。


三明寺の境内には立派な三重塔もありました。



1531年(享禄4年)に建立されたものです。
これは、一色城主・牧野成勝が
牛久保城を築いて2年後の事になります。

この頃、この東三河の戦国時代の状況も、
少し落ち着いて来ていたのでしょうか。



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