長篠・設楽原古戦場
Shitaragahara, Japan






長篠・設楽原(したらがはら)の戦い。

武田信玄亡き後、武田家を継いだ武田勝頼が
徳川家康の拠点の城、長篠城を攻めたことから、
織田・徳川連合軍と武田軍との全面戦争になった戦いです。

歴史の教科書にも出ていたかと思いますが、
信長が三千挺もの鉄砲を三段構えで撃ち、
武田の騎馬隊を打ち破った戦いとして知られています。


2007年1月23日に野田城を訪れた後、
この長篠・設楽原合戦の跡を訪れました。

野田城の様子はこちらです。

まず戦いの発端となった、長篠城の様子
次に、主戦場となった設楽原、そして
武田勝頼の本陣のあった医王寺をはじめ、
長篠城周辺の史跡を紹介します。



長篠城
(Nagashino Castle)

Aug. 28, '07


設楽原周辺 (Shitaragahara Area)
Sep. 02, '07


長篠城周辺 (Area of Nagashino Castle)
NEW! Sep. 05, '07





図中、青色は織田・徳川連合軍、赤色は武田軍を示しています。

織田・徳川連合軍
武田軍
@ 織田信長本陣
A 徳川家康
B 佐久間信盛
C 岡崎信康
D 羽柴秀吉
E 織田信忠
@ 武田勝頼本陣
A 馬場信房
B 内藤昌豊
C 山県昌景



図中、真ん中やや左に点線で示されているのは
連吾川沿いに連合軍が築いた馬防柵です。



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設楽原周辺
(Shitaragahara Area)






設楽原古戦場。
静岡県境に近い愛知県東部を流れる
山間から流れ出た豊川の谷が広がり、
平地が現れだした辺りが設楽原(したらがはら)です。

豊川は河岸段丘を作り、豊川に向かって
北から南に支流がいくつも流れ込んでいます。

その小川の周囲には田圃が広がり、
隣の小川の間には丘陵地が延びています。

この小川の一つが連吾川で、その川を挟んで
織田・徳川連合軍と武田軍の壮絶な戦いが
繰り広げられたのでした。

1575年(天正3年)5月のことです。


野田城を訪れた後、151号線を北上し、
新城の街を抜けた「富永新地」の交差点で
左折しました。

設楽原古戦場の詳しい様子が
判っていたわけではなかったので、
当てずっぽうで車を走らせていたのですが、
やがて「岡崎信康本陣跡」の標識が見えてみました。



岡崎信康は、家康の長男です。
本陣の背後には小高い丘が続いていました。

丘の手前には、1月の終わりと
いうのに梅の花が咲いていました。



近くに木の剪定をしている地元の方が見えました。

この方に、設楽ヶ原の古戦場の跡地を訪ねると、
信長や家康の本陣跡、設楽原歴史資料館の場所など
とても詳しく教えて頂きました。

数多くの史跡を廻る事が出来たのですが、
それはこのひとえに農家の方の教えです。

岡崎信康の本陣は連吾川の一つ南を
流れる大宮川の平地の南端にあります。
大宮川に向かって田圃が広がり、
その向こうに小高い丘がみえています。



田圃に咲いている菜の花畑の、
その向こうの丘が家康の本陣跡です。

家康の本陣跡は後で行く事にして、
まずは織田信長の本陣跡に向かう事にしました。

岡崎信康の本陣跡から、道路一本西に戻って、
その北にある茶臼山に信長の本陣跡がありました。



高い山の手前に見える丘が茶臼山です。
車を走らせていくと、丘に差し掛かったところで
道が細くなり、そこに車を停めて
歩いて本陣跡に向かいました。

雑木林の中の狭く急な坂道を上っていくと
急に開けた空き地に辿り着くと、
そこが織田信長の本陣跡でした。

信長はこの南1km程の極楽寺で軍事会議を開き、
合戦時にここに移動したようです。



周囲には木が生い茂って、
展望が開けていないのですが、
当時は木が切られ、設楽原の合戦の
様子が良く眺められた事と思います。

本陣跡には、信長の句碑と
小さな神社がありました。



"きつねなく 声もうれしく聞こゆなり
松風清き 茶臼山かな
"

信長の句はとても珍しいとの事です。
この茶臼山の本陣から、武田軍に大勝した様子を眺め
「天下布武」の大望が確実なものになったと思ったことでしょう。


信長の本陣を訪れた後、先ほど岡崎信康の
本陣から眺めた徳川家康の本陣に向かいました。



家康は東郷中学校のすぐ北側の
弾正山に布陣したようです。

ここは決戦の場となった連吾川から
僅か300mしか離れておらず、
家康の本陣まさに最前線にありました。

上の写真の右手に見えている丘を
越えると連吾川の谷間に出ます。


車で丘を越えて、合戦の主戦場だった
連吾川沿いの谷に出てみました。



500m程の幅で田畑が南北に広がっています。
その西側に馬防柵が復元されていました。

この馬防柵は、当時最強と言われた武田の
騎馬隊を防ぐ為に設けられたのですが、
連吾川に沿い、南北2kmに渡り3重に築かれ、
更に家康の本陣のあった大宮川沿いにも
予備に1重の馬防柵が築かれていたようです。



連吾川を自然の堀と見立てると、馬防柵の
防御性はかなり高かったように思います。


馬防柵脇に建てられた設楽原の合戦碑です。


織田・徳川連合軍がこの設楽ヶ原に
布陣したのは1575年(天正3年)5月18日。
合戦が行われたのは5月21日なので、
僅か2日間でこの馬防柵を設けた事になります。

合戦の時に築かれた馬防柵に用いられた
木材は7000本と推定されているそうですが、
織田信長は戦いに先立って、この柵を設ける
作戦を練り、かなり早い段階で
その準備をしていた事を示しています。

長篠・設楽原の戦いは、3000挺もの鉄砲により
武田騎馬隊を倒した事で知られていますが、
この馬防柵を見ていると、長篠・設楽原の戦いにおける
織田・徳川連合軍の勝利の真の理由は
この用意周到な作戦にあった様に思いました。

馬防柵の傍らに『土屋右衛門尉昌次
戦死の地』の碑がありました。


土屋昌次は武田信玄の「奥近習六人衆」の
一人で、武田家では重臣だった人です。
驚く事に昌次は一つ目の馬防柵を突破したのですが、
2重目の馬防柵に取り付き、大声を上げているところを
鉄砲隊に撃たれて落命したそうです。


馬防柵から連吾川の方に行って見ました。
写真、右手奥が馬防柵のあったところです。



連吾川はどこの田舎にもあるような小川で、
この、のどかな景色を眺めていると
ここで戦が行われた事が俄には信じられません。

連吾川に沿って北に歩いていくと
丸山・大宮前激戦地の碑がありました。



写真右手の小山が丸山で、
馬防柵の前方に布陣した佐久間信盛の軍と
武田軍右翼の馬場信房の軍が戦ったところです。

馬場信房はここで佐久間信盛軍を破って
この丸山を占領したそうです。


馬防柵から再び車を走らせ、
設楽原歴史資料館に向かいました。

連吾川を渡ったところに柳田前激戦地の碑と
甘利郷左衛門尉信康の碑がありました。



甘利信康は武田信虎時代の重臣・甘利虎泰の次男で、
当時は甘利氏の家督を継ぎ、この戦いに参戦していました。

山県昌景と共に戦い、馬防柵を突破する
働きを見せたそうですが、戦況が傾き
武田軍の敗勢がはっきりすると、
この地で無念の切腹を行ったそうです。

設楽原歴史資料館は連吾川の
北側の丘の上にありました。



この辺りは天王山といい、
内藤昌豊が陣を敷いた辺りです。

歴史資料館の南には長篠・設楽原の合戦の
死者を弔う信玄塚がありました。



この戦いでは武田軍10,000人、
連合軍6,000人もの死者が出たそうです。

長篠・設楽ヶ原の戦いは快晴の5月21日、
早朝から始まった戦いは昼過ぎには
大勢が決していたという事です。

僅か半日で、とても多くの人が亡くなってしまいました。
特に武田軍は、多くの重臣が命を落としています。
この周囲にも内藤昌豊、山縣昌景、
原昌胤らの碑があるそうです。

この碑を訪れにまたこの地に
来てみたいと思いました。


この後、長篠城に向かいました。
長篠城の様子は
こちらです。

その途中で首洗池という小さな池がありました。



この池で戦死者の首を洗ったそうです。
合戦の壮絶な様子が、頭をよぎりました。

多くの人がこの地で戦で命を落としたという
事実が胸に迫ってきました。



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長篠城周辺
(Area of Nagashino Castle)





鳥居強右衛門磔死跡之碑



設楽原古戦場跡を訪れた後、長篠城を訪れ、
その後長篠城周辺の史跡を訪れました。

まず訪れたのは、武田勝頼の本陣となった医王寺です。
勝頼は、長篠城攻略戦の際にこの医王寺を本陣とし、
設楽ヶ原での合戦の際には、南に
2km程のところに本陣を移しましています。

長篠城を訪れた後、医王寺を目指しました。
長篠城の様子はこちらです。

地元のおばさんに聞くと、「ちょっと先の角を
右に曲がって」という説明だったので、
長篠城の駐車場に車を置いて歩き出したのですが、
医王寺に辿り着くまでは1km以上の道のりでした。

でも、この散策は気持ちのいいものでした。



医王寺はこの写真の右手奥の方向にあります。
長篠城址から15分程で医王寺に着きました。



堂々とした山門です。
門には「長篠山」と記されていました。



山門をくぐり本堂へと向かいます。



医王寺は1514年(永正11年)に
創立された曹洞宗のお寺です。

武田勝頼は1575年(天正3年)5月8日から、
織田・徳川軍が設楽ヶ原に布陣を敷いた
18日までこの医王寺に本陣を置いたと思います。

この医王寺の山門の左手に弥陀が池という
小さな池があります。
この池に生えていた葦が勝頼の設楽ヶ原進軍を諌め、
勝頼に切りつけられ、片葉になったそうです。

実際、信玄以来の重臣達は、信長が参戦した事を知り
戦いを避け、退くことを進言したそうです。
しかし、この進言は聞き入れられず、
死を覚悟した武田の重臣達は、今生の別れの
水盃を交わして戦に臨んだそうです。

医王寺を訪れた後、長篠城に戻る時、
道端に山縣三郎兵衛(昌景)息継ぎの井戸
と伝わる小さな窪みを見つけました。



山縣昌景は設楽ヶ原で戦死しているので
医王寺から戦場に向かう途中、ここで
喉の渇きを潤したのでしょうか。


医王寺の次に、長篠城近くにある
馬場美濃守信房のお墓を訪れました。



設楽ヶ原の合戦で敗れた勝頼は
旗本に守られ信濃へと落ち延びて行くのですが、
その殿(しんがり)軍を務めたのが馬場信房でした。

殿は、軍が退却する時に一番後方で
追撃してくる相手を防ぐという役割で、
最も犠牲者が多く出ると言われています。

設楽ヶ原でも激戦を戦った馬場信房の隊は、
寒狭川に辿り着く頃には、僅か
数騎の供回りしかいなかったそうです。

武田勝頼が落ち延びていくのを確認した馬場信房は、
織田軍に反転し、名乗りをあげ「首を刎ねて手柄とせい」と
叫び、敵に討たれ最期を遂げたそうです。。
享年61歳。

「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と
信長公記にも記された馬場信房。
信玄以来の重臣をまた一人失っていまいました。


最後に、鳥居強右衛門磔の地に行きました。
その途中にも武田の武将達のお墓がありました。



左が、伝小山田五郎兵衛昌晟のお墓、
右が横田十郎兵衛康景のお墓です。

こうして、設楽ヶ原や長篠城周辺に散在している
武田の武将達のお墓を見ていると、
胸に迫ってくるものがあります。

武田は、多くの武将を失いすぎました・・・
勝頼は何故、設楽ヶ原の合戦を決意したのでしょうか。
何故、織田・徳川連合軍が馬防柵を築いて
いるのをそのまま見過ごしていたのでしょうか。
何故、快晴の5月21日に合戦を行ったのでしょうか。

色々な思いが頭を過ぎりますが、
歴史が変わる事はありません。

この戦いで大損害を蒙った武田家が
天目山の戦いで滅亡するのは、これより
7年後の1582年(天正10年)の事です。



小山田昌晟、横田康景のお墓の少し東に
入ったところに鳥居強右衛門磔の地があります。

途中、新昌寺に鳥居強右衛門のお墓がありました。



長篠・設楽ヶ原で命を落とした武田の武将達の
お墓とは比べ物にならない程、立派なお墓です。


武田軍が長篠城を取り囲み落城の危機に瀕した時、
鳥居強右衛門は岡崎城にいる徳川家康に
援軍を乞いに長篠城を脱出します。

その後、鳥居強右衛門は援軍の知らせを伝える為に
長篠城に引き返す際に武田軍に捕まってしまいます。

武田勝頼に、「援軍は来ない」と寒狭川の川原から
城兵に伝えるように命令されますが、
鳥居強右衛門はその命令に反し、
援軍来る事を告げ、逆さ磔にされてしまいます。



逆さ磔にされた鳥居強右衛門の絵です。

命を賭して長篠城を救った鳥居強右衛門は
この長篠・設楽ヶ原の戦いの最大の功労者でしょう。

鳥居強右衛門の事は
長篠城のページでも触れています。
長篠城の様子はこちらです。


雑木林を抜けると、鳥居強右衛門
磔死跡の碑が見えてきました。



のどかな茶畑の端にある磔死跡の碑。



周囲ののどかな景色が、より一層
当時の凄惨な戦いとの対比を
なしているようでした。



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