西尾市は、愛知県三河地方の都市です。
矢作川の河口に近い街で、近年では
自動車産業とともにお茶の生産高が
日本一で知られる街です。
1764年に大給松平氏が6万石で入封し、
西尾城の城下町として栄えてきました。
尚古荘は江戸時代の庭園と思っていたのですが、
米穀商の大黒屋岩崎明三郎氏によって
昭和初期に作られたものだそうです。
江戸時代にはこの辺りは、
西尾城東の丸で、尚古荘の庭園は
当時の土塁等を生かして造られているそうです。
庭園には水琴窟も造られ、
落ち着いた雰囲気でした。
尚古荘を後に、西尾の市街地を
南北に貫く中町通りを北に向かいました。
途中、西尾城三の丸の
大手門跡の碑を見つけました。
西尾城の正門にあたる大手門界隈の様子です。
当時は約10m四方の空き地を持つ外枡形の門で、
高さ約3mの石垣の上に楼門が聳えていたそうです。
今は、当時の面影もなく
家が建ちこめています。
大手門跡を北に向かうと聖運寺の
堂々とした山門が見えてきました。
浄土真宗のお寺で、境内には
大きなイブキの大木がありました。
聖運寺から更に北に向かい、
中町通りから一本東側の肴町通りに入り、
途中で右手の路地に入りました。
この路地が唯法寺の路地と呼ばれるところで
狭い路地の両側にお寺の塀が続き、
江戸の風情が漂っています。
趣のある小路を抜けた北側には
伊文神社がありました。
由緒によると、文徳天皇(827〜858年)の皇子八篠宮が
渥美郡の伊川津から転住された際に、
移した社ということです。
伊文神社の立派な神殿です。
江戸時代には西尾の産土神として
崇敬を集めていたそうです。
境内には古い蔵が建っていました。
この蔵は1857年(安政4年)に建てられた義倉蔵で、
幕末の頃に頻発した災害・凶作・飢饉に備え
西尾藩の御用達商人や町民からの寄付米、
藩からの借用米を蓄えたものだそうです。
この蔵に蓄えられた米のおかげで、
幕末から明治・大正・昭和にかけて生じた
災害で、西尾市民の生活が保たれたそうです。
伊文神社から細い路地に入り込み、
道がわからなくなってしまいましたが、
なんとか、大給町の武家屋敷と呼ばれる
一角に行くことが出来ました。
当時この辺りは、100石から150石程度の
中級武士が住んでいたそうで、
侍屋敷の長屋門が残っているようでした。
大給町の武家屋敷から西に向かい、
中町通りを横切り、盛厳寺を訪れました。
この盛厳寺は西尾藩主の
大給松平家の菩提寺だったお寺です。
この盛厳寺には大給松平家14代の
松平乗全公と奥様のお墓がありました。
松平乗全公は1843年(弘化2年)から
安政2年(1855年)に老中を勤め、
一旦幕政から離れた後、1858年(安政5年)に
再び、老中職に就いています。
2度目の老中職の際に、桜田門外の変が生じ、
その責を負って、老中を辞したそうです。
山に入ったところに思いがけず、
立派なお堂がありました。
東向寺は奈良時代後期、貞観年代(859〜864年)に
慈覚大師が開創したそうです。
東向寺の第四世徳順上人は今川義元の
伯父で、義元はこのお寺に深く帰依し、
領地を与えたりしていたそうです。
東向寺を訪れた際、寄り合いが開かれていて、
丁度庭に出てきた人に尋ねてみると、この裏山に
義元公の首塚があるとのことでした。
裏山に上り始めてすぐのところに
古びた、小さな石塔がありました。
花が活けられ、綺麗に整備されています。
桶狭間の戦いで、織田信長の軍勢に討たれた
今川義元の首は、須ヶ口で晒されていたそうですが、
それを義元の武将で鳴海城主だった岡部五郎兵元信の
元に返され、元信は主君の首を駿府に戻る途中、
このお寺に葬ったと伝わっているそうです。
この首塚は確定されたものではありませんが、
大切にされている石塔を見ていると、この地に、
義元の首級が葬られていると信じたくなってきました。
今川義元の胴は、敗走する今川軍によって駿河に運ばれますが、
その途中で腐敗が進み今の豊川市牛久保に葬られたとされています。