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三岐鉄道三岐線は、JR関西本線の富田と
西藤原を結ぶ26.5kmの路線です。
東藤原からのセメント輸送と、三重県四日市市と
岐阜県関ケ原町を結ぶ事を目的とした路線で、
1931年(昭和6年)に全線が開業しています。
1952年から1964年までは、三岐鉄道の列車は当時の国鉄
関西本線の富田駅から四日市駅まで乗り入れていましたが、
富田から近鉄富田駅に乗り換える乗客が多かったようで、
1970年に朝明信号場から、近鉄富田への連絡線が開業し、
現在は全ての旅客列車が近鉄富田まで乗り入れています。
JR関西本線の乗車記は こちらです。
三岐鉄道三岐線には2011年8月に北勢線に乗車した後、
伊勢治田まで歩き、再乗する機会がありました。
その時の様子を紹介します。
北勢線の終着駅・阿下喜から南に25分程歩くと
三岐線の伊勢治田駅に辿り着きます。
北勢線の乗車記は こちらです。
伊勢治田駅の駅舎は、阿下喜方面からは
踏切を渡った先にあります。
側線が幾つも判れた伊勢治田駅の様子です。
丁度、近鉄富田行の列車が到着しました。
こじんまりとして伊勢治田の駅舎です。
駅の周辺には集落が広がっていますが、
一日の乗車客は180人程です。
三岐線の終点・西藤原行の列車も、到着しましたが、
それを見送り、30分程待って16:22の列車に乗車しました。
日中は一時間に2本の列車が設定されていて、
利便性は確保されています。
伊勢治田の駅構内には貨物列車や、
古い電車が留置されていました。
到着した3両編成の列車は、殆ど無人の状態で
青いロングシートの座席が寂しく続いています。
伊勢治田からは住宅の点在する中を走って行きました。
進行方向には、鈴鹿山脈の藤原岳が見えています。
伊勢治田から4分程で、次の東藤原に到着しました。
東藤原は、三岐鉄道の筆頭株主である太平洋セメントの
工場があり、ここから運び出されるセメントの輸送が
三岐鉄道の主要な収入源になっています。
ホームの反対側には、貨物列車が停車していました。
武骨な貨物用機関車は他の鉄道ではなかなか出会えません。
ちなみに現在、旅客と貨物の両方の輸送を行う鉄道は、
秩父鉄道や大井川鉄道など、数える程です。
東藤原を発車すると、貨物用の側線が続き、
前方に高炉のようなタワーが見えてきました。
このタワーがあるところが、太平洋セメントの工場です。
三岐線の線路は、いくつものコンベアーが設置されている
工場内を走って行きました。
セメントの詰め込みを終え、発車間近の貨物列車も見かけました。
東藤原からは集落はなくなり、木々の間を走りました。
木々を抜けると、車窓右手には
広々とした景色が広がります。
員弁川が作る平地ですが、この景色の先に
北勢線の終着・阿下喜駅があると思います。
この先で、西野尻駅に到着しました。
周囲を木々に囲まれた高原にある駅の趣です。
西野尻から1.2kmで、終点の西藤原に到着しました。
西藤原は鈴鹿山脈の藤原岳の麓に位置しています。
到着したホームの反対側には古い機関車や
蒸気機関車が置かれていました。
西藤原駅の駅舎の様子です。
蒸気機関車が貨物を牽引しているデザインになっています。
西藤原駅には、ミニチュア鉄道もありました。
2001年から2015年まで「ウィステリア鉄道」
として運営されていましたが、その後2017年から
ボランティアの方が不定期運行しているそうです。
西藤原には、5分程滞在し、16:37の
近鉄富田行の列車で折り返しました。
先ほど乗車した道を引き返し、
伊勢治田駅に到着しました。
この伊勢治田から先は久しぶりの乗車となります。
伊勢治田 - 保々
伊勢治田を発車し、勾配を下り、切通を
抜けると、員弁川支流の青川を渡りました。
青川を渡ると、田圃が広がり、進行右手に
鈴鹿山脈の山が逆光を浴びて聳えていました。
次の丹生川で下り列車と行き違いしました。
乗車した際には知らなかったのですが、この
丹生川駅近くには貨物鉄道博物館があるそうです。
貨物鉄道博物館には貨物列車に関する資料だけでなく
鉄道模型の大ジオラマも展示されているそうです。
貨物鉄道博物館のサイトは こちらです。
丹生川から再び田圃の向こうに
鈴鹿山脈を眺めながら南に進みます。
山脈が神々しく連なっていました。
先頭から進行方向を眺めた様子です。
線路際の道を歩く子供たちを見かけましたが、
彼らはどこからどこへ向かっているのでしょうか。
田圃道をかなりの距離歩いているのは違いありません。
三里駅に到着しました。
数分停車し、下りの貨物列車と行き違いしました。
旅客列車の運行は、一時間に2本ですが、
それ以外にも貨物列車が頻繁に走っており
行き違い停車の頻度が多くなっています。
沿線は田園風景が続いていますが、
周囲の集落は増えています。
次の大安駅到着の様子です。
市町村合併しいなべ市になる以前の大安町時代に
町の中心駅で、図書館も併設されています。
読み方は「だいあん」ですが、縁起のいい駅名
という事で、記念に切符を買う人もいるそうです。
大安から再び、広大な田園風景の中を走りました。
次の梅戸井駅に到着しました。
ここも上下列車の行き違い設備があり、
下り列車が停車していました。
大安を発車した後の進行前方の景色です。
遠くに見える丘陵地帯の手前に集落が見えますが
そこまでは広大な田圃が広がっています。
その集落に入った所で北勢中央公園口駅に停車しました。
片面ホームの小さな駅です。
1997年に大長駅から改名していますが、駅名となった
北勢中央公園は、ここから徒歩で20分程離れています。
北勢中央公園口を発車し、朝明川を渡りました。
田畑にの中に集落が広がる景色の
中を走ると保々に到着しました。
保々には車両基地が置かれ、三岐線では中枢の駅です。
駅構内には多くの電車や貨物用機関車が停まっていました。
下り列車との行き違いはありませんでしたが、
しばらく保々に停車していました。
保々を発車すると再び、のどかな田園風景となりました。
次の山城に到着しました。
ここも行き違い設備が整っています。
山城を発車してからも長閑な景色が続きます。
進行方向に見える丘の上に高校や中学があり、
その丘陵地の麓に暁学園前駅がありました。
平日の朝夕は学生で賑わう駅と思いますが、この日は
夏休み期間だったので、ひっそりしていました。
暁学園前を出ても、のどかな田園風景です。
もうそろそろ終点の近鉄富田も近いのですが
以外にもこうして長閑な田園風景が続きます。
次の平津を過ぎると、ようやく沿線にも
住宅が立ち込め、大矢知に停車しました。
大矢知は近鉄富田の一つ手前の駅です。
周囲は住宅地の間に田畑が点在する集落です。
大矢知にはこの1年後に訪れる機会がありました。
大矢知駅の駅舎です。
ホームに入って暫くすると貨物用機関車が入ってきました。
普段であればセメント運搬用の貨物を繋いでいたのかも
知れませんが、この日はお盆休みの時期だったので、
工場が休みで運ぶべき貨物が無かったのでしょうか。
重連の機関車でしたが、武骨な貨物用機関車が
間近に見られて良かったです。
機関車の写真を撮っているうちに
西藤原行の電車も到着しました。
暑い夏の昼下がり、毎日こうして淡々と
しかし、着実に列車が運行されている事に
不思議な感慨を覚えます。
大矢知を発車し、住宅地の間を抜けて行きました。
ようやく人口の多い地域を走っていると実感します。
しばらく走ると築堤を登り、JR関西本線を
オーバークロスし、線路が二手に分かれました。
この線路の分岐点が三岐朝明信号場で、左手の
線路がJR関西本線に向かう三岐線の本線です。
かつては全ての列車がこの線路を走っていましたが、
国鉄時代の関西本線は運転本数も少なく、四日市や
名古屋に向かう三岐線の乗客にとっては便利な
近鉄へ乗り換える乗客が多かったため、1970年に
朝明信号場から近鉄富田への連絡線が建設されました。
近鉄富田に向かう旅客列車は、右側の近鉄連絡線を進み、
カーブを切り、再びJR関西本線をオーバークロスします。
左下にJRの富田駅手前で関西本線に合流する
三岐線の本線が見えていました。
JR関西本線の乗車記は こちらです。
この後、進行方向左手からJR関西本線を
オーバークロスして近づいてきた近鉄名古屋線の
複線の線路と並走して近鉄富田駅に向かいました。
近鉄名古屋線を走る「アーバンライナー」の
複線の近鉄名古屋線は軌間が1435mmの広軌です。
三岐線はJRと同じ1067mmの狭軌となっており、
その違いが上の写真からも判ります。
こうして西藤原からの26.6kmを
45分程かけて近鉄富田に到着しました。
近鉄富田駅の三岐線ホームは近鉄名古屋線の
名古屋方面のホームの反対側にあります。
多くの乗客はここで近鉄に乗り換えます。
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