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長野電鉄は長野県の善光寺盆地に3つの路線、
70.5kmの営業キロを有する私鉄です。
線路の戸籍にあたる『鉄道要覧』によると
しなの鉄道の屋代駅から千曲川の東を北上し、
木島までの河東線50.4kmと、
河東線の須坂から長野に到る長野線12.5km、
信州中野から志賀高原の入り口、湯田中に
到る山の内線7.6kmとなっています。
以前は上野発の国鉄の直通急行が
屋代から長野電鉄に乗り入れ、
湯田中や木島に乗り入れており、
河東線の重要度も高かったのですが、
現在の運転形態は長野と湯田中間を
結ぶ路線が本線にあたり、
途中の須坂、信州中野から屋代・木島に
向かう支線が出ているといった感じです。
長野電鉄のホームページでも
この運行形態に合わせて、
長野 - 湯田中間を「本線」、
須坂 - 屋代間を「屋代線」、
信州中野 - 木島間を「木島線」としています。
ここでも、この路線名に従って紹介します。
本線
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本線
(長野 - 須坂 - 信州中野 - 湯田中)
Nagano, The Main Line
(Nagono - Yudanaka)
乗車日:Dec. 29, 2001
長野から須坂、信州中野を経て湯田中に到る
路線は、長野電鉄のメインルートです。
この区間の営業キロは33.2kmです。
日中はこの区間を特急が走り、
47分で結んでいます。
新幹線を降り、まだ新しい駅構内を抜けた
西口広場の北側が長野電鉄の乗り場です。
長野市内の区間は地下化されており、
階段を下りて地下駅に向かいました。
改札を抜け更に階段を下りたところが、
長野電鉄、長野駅のホームです。
二つのホームの中央・左右と
3つの発着番線がありました。
その中央にクリームと赤い塗色の、
9時20分発の特急が停車していました。
2000系と呼ばれる長野電鉄の
オリジナルの特急専用車両です。
車内はクロスシートが並んでいます。
平日の朝に郊外に向かう列車の故なのか、
年の瀬とはいえ、車内は空いていました。
発車してしばらく地下区間を走った後、
地上に出ると、住宅地の間から
雪を被った飯綱山が見えていました。
信越本線や北陸新幹線の延伸区間と
交差するあたりから住宅地の間に
リンゴの木が見られるようになりました。
左手に戸隠や黒姫の山々が見えるようになり、
やがて千曲川を渡ります。
この橋は国道406号線との平用橋で、
同じトラスの中を列車と自動車が
並んで走る姿はどこかユーモラスです。
何度か鉄道雑誌にも取り上げられています。
村山橋を渡ると、須坂です。
須坂は多くの豪商・豪農を輩出した街で、
今でも蔵造りの建物が沢山残されていて、
往時の反映の様子を残しています。
この須坂で一旦下車し街並みを散策しました。
須坂の街歩きの様子はこちらです。
須坂駅を発車し湯田中に向かう2000系特急
駅の構内は古びていたのですが、
屋代線が分岐する長野電鉄の主要駅の一つで、
構内は広く、何本かの電車も停留していました。
街歩きの後、再び長野電鉄の旅を続けました。
須坂を出るとリンゴ畑が広がり、
雪を被った山々が見えてきました。
写真は飯綱、戸隠、黒姫そして妙高です。
この右手少し離れたところに、斑尾山も聳え、
これらの山々が北信五山と呼ばれています。
この日は良く澄み渡った晴れた日で、
遠く北アルプスの山々も見えました。
北信五山の山々を左手に見ながら、
リンゴ畑の中を進んでいきます。
雪野原のなかにリンゴの木が
アクセントとなっています。
小布施を過ぎると、リンゴ畑が尽き、
広々と田圃が広がりました。
正面左手の山は別名高井富士と
呼ばれている高社山です。
進行右手は雪を抱いた里山が続いています。
降り積もった白い雪と針葉樹の深い緑が、
山水画の様な濃淡を作り出していました。
須坂から17分程で、信州中野に到着です。
ここから車掌が入れ替わりました。
発車してすぐ右にカーブし、
木島線と分かれ勾配を登っていきます。
雪を被った高井富士の姿が大きく見えます。
右に左にカーブを切りながら勾配を登り、
夜間瀬川を渡りました。
夜間瀬川は志賀高原に源を発し、
千曲川に流れ込む唯一の川です。
春先には雪解け水が押し寄せるのか、
川の流れに比べ、広々と河原が続いています。
その河原の向こうに、遠く横手山や白根山に
連なる山々が陽の光を浴びて輝いていました。
山頂付近にはスキー場のロープウェーの
終着駅の建物も見えています。
夜間瀬川を渡ると勾配が急になりました。
扇状地を登って行きます。
周囲にリンゴ畑が広がり、車窓左手の
高井富士がパノラマの様に迫って来ました。
>
いくつかカーブを繰り返すうち、
進行方向が南に変わりました。
今まで進行左手に見えていた
北信五山の山々が右手に移動しました。
リンゴ畑の向うに善光寺平が広がり、
その先に北信五山の山々が聳えています。
いよいよ山が近づき温泉の建物が現れると、
最後のカーブを曲がり、一旦バックして
志賀高原の玄関口、湯田中に到着しました。
>
駅前には志賀高原行きのバスが
乗り継ぎ客を待っていました。
この日は既にお正月休みが始まった会社も
多い筈なのですが、乗り継ぎ客は僅かでした。
>
ホームのすぐ先は踏み切りになっています。
到着の直前に一旦バックしたのは、
急斜面にへばり付くように発達した
湯田中温泉には駅を作る充分な平地が
残っていなかった為のようです。
「木島線」
(信州中野 - 木島)
Kijima Line
(Sinshuh Nakano - Kijima)
乗車日:Dec. 29, 2001
「木島線」は信州中野から
木島までの12.9kmの路線です。
正式には屋代から千曲川の右岸を南北に走る
河東線50.4kmの一部区間にあたります。
終点木島は、野沢温泉の玄関口にあたり、
また千曲川の対岸の飯山への
アクセスとしても機能していました。
昔は旧国鉄の直通急行が上野から乗り入れたり、
長野から直通の特急が走ったりして、
「木島線」も賑っていました。
しかし、モータリゼーションの波に押され、
また、千曲川の対岸を走る飯山線が
国鉄民営化後に運転本数を増やしたり、
運賃値上げを控えたりして利便性が向上すると、
「木島線」の利用客も減少し、
ついに、2002年3月31日をもって廃止
という決定が下されてしまいました。
その木島線に、廃止4ヶ月程前の
2001年12月29日に乗車しました。
長野から湯田中まで往復し、信州中野に戻り、
信州中野の街中を駆け足で散策した後、
いよいよ木島行きの電車に乗り込みました。
信州中野の街歩きの様子はこちらです。
木島線の電車は1番線に停まっていました。
2両編成のステンレス・カーです。
以前は営団地下鉄の日比谷線に
使われていた車両です。
都落ちと言った感じでロングシートの
車両には数える程の乗客しか座っていません。
かつて自動で開いていたドアも改造され、
開ける時は手で開けなければなりませんでした。
14:10、定刻に発車しました。
発車してすぐに湯田中への路線が
カーブを切って分かれて行くのを
見ながら直進していて行きました。
一般に鉄道の路線の力関係は、
分岐でカーブする方が後輩にあたります。
信州中野のこの路線配置は木島線の
歴史と昔日の栄華を偲ばせています。
発車すると再びリンゴ畑の中を走りました。
リンゴ畑の間の雪の中をレールが
真っ直ぐに延びていました。
車窓左手遠くに北信五山の黒姫、妙高
そして斑尾山が見えています。
車窓右手には高社山が近くに見えています。
リンゴ畑の向うに聳える高社山の姿は
とっても絵になる景色でした。
リンゴ畑の中を走るうちに、夜間瀬川を渡りました。
夜間瀬川は志賀高原から千曲川に注ぐ川です。
広い河原を電車は淡々と進んで行くのですが、
廃止の理由の一つにこの夜間瀬川の鉄橋の
維持・補修費の問題もあったようです。
赤池・柳沢とのどかな小駅を過ぎると、
山が近くに迫り、千曲川のほとりを走りました。
ゆるやかに流れる千曲川。
この対岸にJR飯山線が走っています。
千曲川の堤防には国道が走っていて、
車が行き交っています。
廃止を目前にして、木島線を廃止に追いやった
自動車の行き交う姿をみていたら、
少し複雑な気持ちになりました。
再び車窓左手に平地が広がりました。
雪が深く、一面の銀世界です。
その向うに針葉樹の里山が見えています。
普段はきっと何でもない景色と思うのですが、
雪の中では、とっても綺麗な景色です。
そんな景色を景色を眺めるうちに、
終着木島に着きました。
信州中野から20分の所要時間でした。
下車した乗客は10人にも満たない程でした。
しかも何人かは僕と同じ目的で訪れた人たちで、
普段の木島線の利用が如何に少ないか想像出来ます。
木島駅は昔懐かしい木造の駅舎でした。
既に何年か前に無人化されていて、
窓口は閉鎖されていました。
駅前は閑散としていました。
何もない駅前広場にバスが一台、
列車からの乗客を待ってエンジンを
唸らせて停まっています。
そのバスが発車してしまうと、
駅は静まり返ってしまいました。
「屋代線」
(屋代 - 須坂)
Yashiro Line
(Yashiro - Suzaka)
乗車日:Aug. 04, 2004 & Oct. 11, 2011
「屋代線」は、しなの鉄道の屋代駅から
須坂までの24.4kmの路線です。
屋代から信州中野までの河東線の一部区間ですが、
この区間が、長野電鉄の路線としては
最も早く、1922年に開業した区間です。
国鉄時代には上野からの直通急行も走っていましたが、
その直通列車の運行もなくなり、一日に14往復の程度の
普通電車が運行されていましたが、利用客が低迷し、
2012年4月1日に廃止されてしまいました。
この屋代線には、2004年と2011年の2度乗車しています。
この2回の様子を織り交ぜて紹介します。
しなの鉄道の電車を下り、煤けた跨線橋を渡り、
長野電鉄のホームに向いました。
ホームの片面に、長野電鉄の
電車がひっそりと停まっていました。
線路も草が生えていて、その昔国鉄の幹線だった
しなの鉄道のレールに比べると見劣りがしてしまいます。
ホームの柱も古びた木製で、年代を感じさせるものでした。
13:22、僅かな乗客を乗せ、定刻で発車しました。
2011年10月に乗車した際の車内の様子です。
この時は屋代線の廃線が既に伝えられていて、
私と同じように最後の乗車をしている
同好の士の姿がありました。
しばらく、しなの鉄道の立派な線路と併走します。
やがて新幹線をアンダークロスするあたりで、
左に、しなの鉄道のレールが別れていくと、
車窓には、広々とした田圃が広がりました。
青空が広がり、気持ちいい鉄道旅行です。
前方の山に突き当たると、右にカーブを切り、
千曲川に沿い、短いトンネルに入りました。
この山は妻女山で、川中島の戦いの時に
上杉謙信が陣を敷いたところだそうです。
妻女山の麓にあった岩野駅の小さな待合所です。
千曲川と離れ、少し離れた山を眺めるうち、
平地が広がってきました。
車窓に、松代城址の復元遺構が見えてきました。
松代の町に近づいて来たようです。
屋代から12分程で松代に到着しました。
松代駅に到着した屋代線の電車です。
この写真は、松代を発車した長野電鉄の電車です。
写真を撮っている間に、下車した数人の乗客は
三々五々駅舎を離れ、駅舎の中はひっそりとしていました。
松代駅の駅舎の様子です。
この後、松代の散策に出掛けています。
松代は、真田10万石の城下町で、松代城址や
真田屋敷がある歴史豊かな町です。
松代の街歩きの様子はこちらです。 松代 - 須坂
2011年10月には、松代駅でレンタサイクルし、
4時間ほど川中島の古戦場や松代の史跡を
訪れた後、再び長野電鉄に乗りました。
松代を15:26発の須坂行に乗りましたが、
日が西に傾き、夕方のような佇まいでした。
定刻に到着した須坂行の電車です。
撮影: 2011年10月
松代からも、車窓右手には
撮影: 2011年10月
少し離れて山を見ながら進みます。
沿線には葡萄畑が目立ちました。
線路沿いに細長い川の様な池が見えてきました。
撮影: 2011年10月
これは、金井池といい、以前は千曲川が流れて
程なく金井山駅に到着しました。
撮影: 2011年10月
いたところが川の流れが変わり、池として
取り残された跡ともいわれています。
2時間ほど前に散策していた真田信之の菩提寺・
金井山駅からも車窓から葡萄畑が見られました。
撮影: 2011年10月
大鋒寺がこの金井山駅のすぐ西にありました。
千曲川の堤防も近くに見えています。
松代から3駅目の信濃川田駅に到着しました。
撮影: 2011年10月
立派な駅舎が屋代線の歴史を感じさせます。
撮影: 2011年10月
信濃川田からは広々とした田圃が広がっています。
この時、廃線の時期が近付いていた屋代線ですが、
松代は、江戸時代は10万石の城下町だったのですが、
人の流れと、屋代線の線路の通る地域が一致しておらず、
撮影: 2011年10月
乗客は少なく、のどかな車窓風景が、
少ない乗客の車窓に広がっていました。
今は、長野市に含まれていて、県庁所在地の長野へは
距離の近いバスを使う人が多いようです。
この様な寂しい車内の状態になってしまったのでしょう。
誰もいないロングシートの向こうに、
信濃川田から2駅目の綿内駅に到着しました。
撮影: 2011年10月
のどかな景色が広がっています。
ここで屋代行の普通電車とすれ違いました。
信濃川田からも田圃や葡萄畑の景色が続きました。
撮影: 2011年10月
葡萄畑の向こうに、遠くに
撮影: 2011年10月
うっすらと見えるのは飯縄山です。
松代から25分弱で、終点の須坂です。
撮影: 2011年10月
須坂の手前で長野電鉄本線と合流しました。
いつもながらに思いますが、のどかな景色を
撮影: 2011年10月
しばらく眺めた後に、こうした光景を見ると
かなり都会に来たような錯覚を覚えます。
こうして、屋代線の旅を終えました。
撮影: 2011年10月
屋代線は、乗車した半年後に廃線になっています。
この乗車は屋代線へのレクイエムになりました。
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